はてなキーワード: ゴシップとは
主に「ドーパミンへの依存」「アイデンティティの喪失と虚無感」「コミュニティの変容」といった要因が挙げられます。
具体的な理由は以下の通りです。
一方で、プラモデル製作やスポーツ、創作活動など、「消費」するだけでなく、自分のスキルが向上したり何かを作り出したりする趣味を持っている人は、性欲が減退しても虚無に陥りにくく、過激化しにくいという意見も出されています。
南丹の事件では、言及そのものが殺人事件のゴシップ的消費!!!とか怒ってる人がめちゃくちゃ多かったけど
でも裁判で黒白が確定する前に、したり顔で分析しちゃう事例っていくらでもあるよね
それに別にゴシップ的消費ではなくて、本気の善意や正義感、義憤でコメントしたりする人も大勢いるよね
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20260424-T4XDXW3CYRM4TEBYIQIXHLFCXY/
直近ではこのお茶を飲ませてもらえなかった小学生が熱中症になった件での地裁判決
もちろん高裁と最高裁が残っており、児童の保護者側が控訴するってんだから事実関係はまだ未確定だよね
これらの人々がゴシップ的消費しているというならそのとおりだし、
どっちかにしようよ
ダブスタがこの世で一番醜いよ
ある音楽家が、これまでのリリース作品がすべてAIベースの制作環境で作られていたことを、その環境を商品として販売開始することで明かした。
この記事は、それを告発するものではない。むしろ、その製品が宣伝通り機能した場合にこそ私たちが直面する問い——「感動していた曲は、何によって作られていたのか」「作曲がプロンプト設計に移るとき、聴き手は何を聴いているのか」——について、ひとりの聴き手/作り手として考えたことを書いておく。
1~4節はその商品の分析がメインなので、ゴシップ的な話に興味のない人は5~7節だけ読めば十分。
Twitterで、気にかけていたアカウントがあった。フォロワーは二千人規模だが、Hyperpop以降の日本のシーンで頭角を現している一人、という認識が自分の中にあった。界隈の主要な音楽家たちからもフォローされている、といえば規模感が伝わるだろうか。リリースされる曲には、たんに「いい音楽」と片付けるのは難しい構成の巧妙さと音選びの新しさがあって、追ってはいないまでも名前は頭にあった。
そのアカウントが最近、自分の制作環境を商品として販売し始めた。価格は14,900円、「AI音楽制作環境」として売り出されていて、製品ページの宣伝文句はこうなっている——「『気持ちよくて驚きのある曲を作って』——そのくらいの指示から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプトまで一貫して出力します。」さらに、既発のアルバムとEPは「全てこれを軸に制作されている」とも明記されていた。
最初に湧いた感情は、「ああ、そういう工程で作られていたのか」という、ある種の冷めの感情だった。AIを使っていることそのものへの反発ではない。SunoのようなAI音楽生成ツールの進化については以前から耳にしていた。出力自体のクオリティを否定するつもりもない。そうではなく、「何に対して感心していたのか」という、自分の受け取り方の根元が揺らぐ感覚、とでも言えばいいだろうか。
この感覚を、個人的ながっかりエピソードとして飲み込んで済ませてもよかった。けれど製品ページを読み進めるうちに、これは自分一人の話ではなく、いま音楽を聴く/作る側に共通してくる問題になっていくだろうと思い直した。以下はその整理になる。
製品ページから読み取れる範囲で、何が売られているのかをまず整理しておく。評価は後回しにする。
製品としての訴求は、おおむね三層からなる——(a)独自の音楽生成エンジンであること、(b)感覚的な指示から完成物が自動生成されること、(c)学習ツールとしても機能すること。
実際に買って触ったわけではないので、以下は推測の域を出ない。ただ、製品説明を読み解くと、構造的にいくつかの疑問が浮かぶ。
まず、''「Python疑似コード」という語の含意''について。「疑似コード」はPythonの形で書かれていても実行されないテキスト、つまり構造化されたプロンプト/参照資料のことを指すのが通例だ。Claudeプロジェクトに.zipをアップロードする形式である以上、これはClaudeが読み込むルール文書群であって、独立して走る独自エンジンではない可能性が高い。MIDI出力部分などは実行可能コードだろうが、「コードを選ぶ」「歌詞を書く」といった音楽的判断のコアは、Claude本体の自然言語推論能力が上限になる。これ自体は悪いことではない。よく練られたプロンプトパックは、Claudeの出力の一貫性と専門性を上げる。ただし「独自エンジン」という響きが含意するものとはかなりの距離がある。
次に、''Sunoへの依存度''について。製品の主要アウトプットのひとつが「Sunoプロンプト」である以上、最終的に音として鳴る部分——音色の質感、ミックスのバランス、演奏のニュアンス——を生成しているのは、この製品ではなくSunoのほうということになる。つまり、この製品の価値の相当部分は「Sunoを上手く使うためのプロンプト設計の職人技をパッケージしたもの」であって、Sunoが進化すればその層の価値は急速に目減りする。
三つ目に、''「all built by hand」の含意''について。86,000行という規模が、本当に人間が手で書いたものなのかは、製品説明からは判別できない。ジャンル研究ノートやStyle語彙データベースといった文書は、AIに「このジャンルについて詳細なルール文書を書いて」と指示すれば相当量が出てくる種類のものである。骨格は人間が作っていたとしても、肉付けをAIに任せている可能性は十分ある(そしてその場合、「手作業で書いた」という説明の重みはかなり変わってくる)。
繰り返すが、これらは推測にすぎない。実際に買って開ければ印象が変わる可能性は十分ある。ただ製品ページの記述だけを根拠に判断する限り、「独自の音楽生成エンジン」「作編曲の学習ツール」という訴求は、実態を控えめに言っても過剰包装しているように見える。
この製品に対する考えられる反応は、「宣伝通りに動くのか?」という疑問だろう。
しかし、立ち止まって考えると、本当に問うべきは逆側であることがわかる。
仮にこの製品が宣伝通りに機能するなら——「気持ちよくて驚きのある曲を作って」という指示一行から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプト・MIDI・MP3まで一貫して出力されるなら——自分が感心していた曲は、その程度の指示から出てきたものだった、ということになる。下準備としての疑似コード整備や、出力に対する微調整は当然あるにしても、一曲一曲の制作工程の中心がそこにあったのなら、感心の源は作り手の耳ではなく、ツールの出力分布の中にあったことになる。たしかに創作物は優れていたかもしれないが、「それが優れていたのは上手くSunoを使いこなしていたから」という、エンジニアリングの問題だったということになる。
機能しないなら誇大広告の問題で済む。機能するならば、「聴き手は何を聴いていたのか」という、より根本的な問いが立ち上がる。皮肉なことに、製品としての完成度が高いほど、この問いは重くなる。
ここで思い出しておきたい話がある。2023年のゲンロンのイベントで、音楽家のtofubeatsが、Spotifyのサジェストで流れてきた曲に心を動かされ、作曲者を調べたらAI生成曲だと知って深いショックを受けた、という経験を語っていた。彼自身がオートチューンで声を加工し、歌声から人間性を排して作曲するタイプの作家でありながら、である。「非人間的な曲が、本当に人間によって作られていないこと」が判明したときの空虚さを、彼は正直に語っていた。
この空虚さが何から来るものなのかは、6節でもう少し踏み込んで考えてみたい。ただ先に言っておくと、それは「AIは音楽を作ってはいけない」という種類の話ではない。むしろ、「聴くとき、自分は何と対面していたつもりだったのか」という自己認識の問題になる。そしてそれは、作り手が工程を開示しないまま商品を売り始めた瞬間、聴き手の側で解決することが不可能になる種類の問いでもある。
誤解されたくないので、はっきり書いておく。この文章は、AIで音楽を作ることへの全面的な否定ではない。
作曲の歴史は、すべてを人間が設計し人間が作る歴史だけではなかった。偶然性、システム、自動化、外部の力を取り込む試みは、ジョン・ケージから、ブライアン・イーノ、アルゴリズミック・コンポジションまで、20世紀以降の音楽史の重要な部分を形作ってきた。AIの導入はその系譜の延長にあって、それ自体を否定するのは筋が悪い。
近年の例で言えば、菊地成孔は自身が主宰するギルド「新音楽制作工房」でAIを活用していることを早くから公言している。NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』の劇伴ではMaxを用いたAI生成による弦楽四重奏が使われており、菊地本人が「作曲者のクレジットもないし、著作権のありかがわからない」という問題をNHK出版経由でJASRACと協議し、「新音楽制作工房」名義のクレジットで処理することで決着させた、という経緯まで公にしている。つまり、どう使い、どう扱い、誰の名のもとに出すかを、彼は工程ごと開示している。
ここでの違いは、「AIを使うか使わないか」ではなく、「どう使い、どう開示し、何を自分の名のもとに出すか」にある。「AIの使用は隠していない」という表明と、「どの工程をAIに委ねたかを開示する」こととの間には、大きな距離がある。
そしてもうひとつ、避けて通れない論点がある。Sunoを含む音楽生成AIが、何を学習データにしているかという問題だ。2024年6月、RIAA(全米レコード協会)はSony Music・Universal・Warner Musicを代表してSunoとUdioを著作権侵害で提訴した。Suno側は、レコード会社の著作権で保護された録音物を使用したことを概ね認めた上で、フェアユースを主張している。2025年末にはWarner MusicとSunoがライセンス提携で和解したが、訴訟全体はまだ決着していない。
つまり、いまSunoで曲を作って発表することは、その学習データが何で、どのような経緯で集められたかが法的に争われている状態のモデルを使うことを意味する。これは「使ってはいけない」と言いたいのではなく、「自分の作品がどういう供給ラインの上に立っているか」を無自覚なままにはできない、ということだ。そして、そのモデルを使って生成した曲で「作曲者」を名乗り、その制作環境を商品化して収益化する、という連鎖の倫理性は、まだ業界全体として合意が取れていない。
この記事の射程は、その倫理そのものを裁くところまでは届かない。ただ、「いい曲さえできれば制作過程はなんでもいい」という論法に、即座に頷くことはできない、という姿勢だけは明示しておきたい。
ここで、4節の末尾で保留にした問い——tofubeatsが味わった空虚さは何から来るのか——に戻ってくる。
創作物を聴く側は、作り手の工程をつねに見ているわけではない。それでも、作品を受け取るときには「制作への真摯さと、出来上がった作品のクオリティは、どこかで結びついている」という、いわば感覚的な信頼をもって聴いている。これは創作と鑑賞の間に長く存在してきた暗黙の契約のようなもので、あるシンガーソングライターが書いていた通り、手間暇掛けようが掛けまいが最後には一緒くたに扱われる時代でも、違いの分かる人はいるはずだと信じて丁寧に拵える——という姿勢を、作り手と受け手の双方が(明示的ではないにせよ)共有してきたから、音楽は単なる音の配列ではなく、作り手の痕跡を伴うものとして聴かれてきた。
AIが生成した音楽そのものにも、それ独自の良さがある。これは繰り返し強調しておく。作品としての良さは、工程とは独立に成立し得る。ただし、AI生成された曲を「ひとりの作家が作った作品」として提示し、その仮構された人格のもとに人気を集めることは、この暗黙の契約を根元から破壊する。聴き手が「これを作った人は、たぶんこういう感受性の持ち主なのだろう」と想像しながら聴いていた対象が、実は大部分がプロンプトから生成された出力だったとしたら、その想像は宙に浮いてしまう。作品が悪かったわけではない。悪かったのは、作品と作り手の人格の間にあったはずの関係について、聴き手が抱いていた前提が、工程を開示されないまま利用されていたことにある。
tofubeatsが味わった空虚さは、たぶんこれに近い。「AIが作ったから価値がない」ではなく、「自分は作品を通して誰かの感受性と向き合っていたつもりだったが、その『誰か』が自分が想像していたものとは違っていた」という、受け手側の文脈の宙吊り。この宙吊りは、作り手の側がAIの使用を大まかに表明するだけでは解消されない。「何を自分の判断で選び、何をツールに委ねたか」という工程の粒度での開示があってはじめて、聴き手は自分の感心の行き先を再設定できる。
この視点から見ると、今回の製品販売で起きたことの構造が少しはっきりする。14,900円という価格や、買った人にとっての有用性の問題はもちろんある。ただ、それ以上に大きかったのは、制作環境を商品化するという行為が、既発の作品群を「この環境の実例」として遡行的に位置づけ直してしまうことにある。以前から作品を聴いていた側から見れば、聴き手と作り手の間に結んでいたはずの暗黙の契約の内実が、後出しで書き換えられる感覚がある。
制作工程の開示は、法的義務ではない。ただ、制作環境を商品として売り始めた瞬間、この暗黙の契約を自分から前景化させたことになる。「この環境でこれだけの作品が作れる」という実例として既発のリリースが参照されているのなら、それぞれの作品がどの程度この環境の出力そのものなのか、どの程度は人間の介入によるものなのかは、買う人にとっても、これから聴く人にとっても、重要な情報になる。
最後に、聴き手として、作り手として、これからどうするかを書いておきたい。
聴き手としては、tofubeatsが味わった種類の空虚さを、できれば避けたいと思うひとが大半だろう。しかしtofubeatsがAI生成だと気づくことができたのはクレジットにそう明記されていたからに他ならない。今回の私のケースのように、AI生成であることが明かされていなかったり、将来的に(遡及的に)AI生成であることが明かされるようなパターンはますます増えていくだろう。私たちは、匿名性を保ったままクオリティで勝負して有名になっていくという同人音楽シーンの時代の終焉を目の当たりにしているのかもしれない。作り手と受け取り手の信頼関係が壊れていくなかで、聴き手側からできることはあまりにも少ない。界隈で有名なコンポーザーの多くも今回のアカウントをフォローしていたことも考えれば、制作過程の情報開示を積極的に求めていくこと、プロセスを明らかにしたうえでよいものを作っているひとを評価していくこと等も、その限界は大きいだろう。
作り手としては、自分がやりたいのは、プロンプト一行から出てくるものを受け取る側ではなく、一音ずつ選ぶ側である、とあらためて確認した。それはAIを使わないという意味ではなく、AIを使うにしても、どこで自分の判断を通すかを意識的に設計したい、ということになる。菊地成孔のやり方に近いと言えば近い。作編曲に限らず、これまであらゆるアートと呼ばれる領域について、過程を見せないことは作家の神秘性を増すための重要な要素だった。しかし上にも書いたように、その限界はもうすでに見えてきているように思う。過程を明らかにしたうえで、自身の武器がすべて明らかであるのにそれでも真似できない創造性を見せること。もちろん、あらゆる出力結果は機械学習の餌食になりうるという状況においてこれは綺麗事かもしれないが、成果物がいわゆるAIに食われうるのは変わらないのだとしたら、いかに自身の制作においては透明性を保ったうえでクオリティで受け手を納得させるか、こそが大事になってくるだろう。こうしたムードを作り手の側からも作っていくことが、今後の大きな課題になるのではないかと思う。
「AIがもっといいものを作れるのになぜあなたが作る必要があるのか?」は、「プロの作家がすでにこの世に五万と存在するのに、なぜあなたは作品をつくろうと、その道を志したのか?」という問いと本質的には何も変わらない。作りたいから、作る。伝えたいから、それを形にする。そうした初期衝動が、欲望が、「創造性」という言葉の本質であり、AIに模倣することのできない、あなただけの、私だけの創作物につながるのだから。
駅のホームで電車を待っているとき、気になることがある。2列で並ぶように案内がある真横で、1列のまま並んでいる大人たち。しかも後ろはかなり混んでいるのに、前に詰める人もいない。そのせいで列が無駄に長くなり、通路が邪魔になっているのに気づいていない。
周りの見えない幼稚な大人たち。
スマホばかり見る大人たち。(低俗なゴシップ記事やまとめサイト、くだらないショート動画)小さな画面に集中していると、自分が今どんな列の並び方をしているのかとか、後ろがどれくらい混んでいるのか気がつかないのでしょうか。
その姿、側から見るととても醜いです。
彼らは、人の流れにただそのまま合わせてしまうという理由もあるのかもしれない。最初に誰かが1列で並んでしまうと、その後ろの人も「まあいいか」と思って同じように並び続けてしまう。結果として、本当は2列にできるスペースがあるのに、ずっと1列のままになってしまっている。自分の頭で考えられないのだろう。行動できないのだろう。
僕はこんな、大人にはなりたくないです。
日本では文系知識人というのは「これからは◯◯だ」「◯◯はもう終わり」と週刊誌でキャンペーンを張って予言者ぶるタイミングを競っているだけの穀潰しにすぎないが(東浩紀や平野啓一郎など)、最近は「理系」(自称…と言いたいが、実際学位を持っていても)もそんな程度の奴ばかりが台頭するようになってしまった。
「理系」が発見も発明もせず、業界通ぶるゴシップ論壇で名を競い合っている時点で国の衰退を物語っているようなものだが、それを客観的に感じ取ることすらもはや誰もできないくらい日本という文明は終わっている。
セルフ・サービング・バイアス: 特集記事がヒットすれば「編集部の洞察力の勝利」、部数が減れば「国民のリテラシー低下」のせいにする。
行為者-観察者バイアス: 自社の誤報は「情報源の混乱」という状況のせいにし、政治家の言い間違いは「隠れた本音」という性格のせいにする。
透明性の錯覚: スタジオの「お通夜状態」な空気感が、日本中のリビングに共有されていると確信する。
基本的な帰属のエラー: 行政のミスをシステムの欠陥ではなく、担当大臣の「冷酷なキャラクター」に帰結させる。
バーナム効果: 「格差社会に不安を持つあなたへ」という、全人類共通の悩みを自分たちだけの専売特許のように語る。
ハロー効果: 著名なノーベル賞学者が専門外の憲法論を語っても、あたかも「絶対的真理」であるかのようにトップニュースで扱う。
外集団同質性効果: ネット上で批判してくる人々を、一人一人の背景を見ず「冷笑系」という一言で片づける。
内集団バイアス: 自社主催のイベントや、思想の近いNGOの活動は、宣伝に近いレベルで手厚く報じる。
楽観性バイアス: 「これほど正義を訴えている我々が、視聴者に完全に見捨てられるはずがない」という根拠なき自信。
知識の呪縛: 官僚用語や左派系専門用語を多用し、一般市民が理解できないのは「勉強不足」だと切り捨てる。
平均以上効果: 「我々報道局員は、SNSの有象無象よりも公正で、正確で、知的な存在だ」と内面で信じ切る。
第三者効果: 「一般人は週刊誌のゴシップに流されるが、我々インテリ層は本質を見抜いている」と傲慢に構える。
ダニング=クルーガー効果: 社会部記者が、数日の取材で「防衛政策のすべてを理解した」つもりになり、専門家を論破しようとする。
貢献度の過大視: 「我々が連日報じたからこそ、この法案は修正された」と、実際には無関係な要因まで自社の手柄にする。
ナイーブ・リアリズム: 「我々の編集方針こそが『中立』であり、これに異を唱える者はすべて右翼的偏向である」という信念。
ナイーブ・シニシズム: 政府の子供家庭庁創設を、子供のためではなく「天下り先確保だ」と最初から悪意を前提に分析する。
スポットライト効果: 番組内の一言への批判ツイートが数件あっただけで、「全国的な不買運動が起きる」と過剰に怯える。
フォールス・コンセンサス: スタジオのコメンテーター全員が同じ意見なのに「これが国民の総意です」と締めくくる。
被害者非難: (リベラル的正義に反する場合)不法滞在で摘発された者を支援する際、法を守る側の住民を「不寛容だ」と責める。
敵意的メディア認知: 公共放送が少しでも政府統計を肯定的に報じると、「放送法違反の政権広報だ」と牙を剥く。
システム正当化: 部数減少に喘いでも「紙の新聞こそが知の砦」という、自分たちの既存システムを絶対視する。
ステレオタイプ: 「若者は政治に無関心で、利己的な消費しかしない」という前提で企画を立てる。
アンビバレント・ステレオタイプ: 専業主婦を「家庭を守る尊い存在だが、社会的には無力(好ましいが無能)」とテンプレート化する。
ピグマリオン効果: 「庶民派」とレッテルを貼った野党候補者が、期待通りに食堂でカレーを食べるシーンを熱心に撮る。
予言の自己成就: 「今年の冬は電力不足になる」と煽ることで買いだめや過度な節電を招き、経済を停滞させる。
非対称な洞察の錯覚: 「我々は権力者の嘘を見抜いているが、権力者は我々のジャーナリズムの深淵を分かっていない」。
モラル・ライセンシング: 「平和憲法を守る」という大義名分があるから、反対派への強引な街頭インタビューも許される。
権威バイアス: 「ノーベル賞受賞者」のコメントを、政治・経済・人生相談すべての領域で「正解」として採用する。
文脈効果: 与党の減税は「選挙対策」、野党の減税案は「国民への寄り添い」というテロップを出す。
利用可能性ヒューリスティック: 街で起きた一例のヘイトスピーチを連日報じ、「日本中に差別が蔓延している」と印象づける。
アンカリング: 最初に「100兆円の無駄」という巨額の数字を提示し、その後の微細な予算修正を無意味に感じさせる。
現状維持バイアス: デジタル化による合理化よりも、「手書きの取材メモと紙の編集」という伝統に固執する。
フレーミング効果: 「成功率90%の医療改革」を、「10%が失敗する危険な改革」と報じて不安を煽る。
確証バイアス: 「地球温暖化で冬がなくなる」という仮説に合う、局地的な猛暑ニュースだけを収集する。
真実性の錯覚: 「アベノミクスは失敗だった」と全番組で毎日繰り返すことで、検証なしにそれを「真実」として定着させる。
計画錯誤: 新番組の準備期間を短く見積もり、結局過去の映像の使い回しで番組を構成する。
代表性ヒューリスティック: 「眼鏡をかけた大人しい青年」が事件を起こすと、すぐに「アニメやゲームの影響」と決めつける。
基準率の無視: 副反応の確率が極めて低いワクチンに対し、一件の重症例だけを大きく報じて「危険な薬」と断じる。
利用可能性カスケード: 一人の芸能人の不倫を全メディアが追うことで、それが国家存亡の危機より重要な問題だという空気を醸成する。
シミュレーション・ヒューリスティック: 「もしあの時、別の政権だったら」という、あり得たかもしれない理想をリアリティを持って語る。
サンプルサイズの無視: 渋谷の若者3人へのインタビューだけで「今の若者はこう考えている」と結論づける。
保有効果: 自分たちの「新聞記者」という肩書きの社会的価値を、世間一般の評価よりも遥かに高く見積もる。
ギャンブラー錯誤: 「これだけ政権批判を続けたのだから、次は必ず支持率が下がるはずだ」と期待する。
不作為バイアス: 改革によるリスクを報じて「何もしないこと(不作為)」を推奨し、社会の停滞を正当化する。
インパクト・バイアス: 「この法案が通れば日本は終わりだ」と、将来の不幸を過大に予言する。
回帰の誤謬: 経済が自然に持ち直しただけなのに、「我々の批判報道で政府が動いた結果だ」と解釈する。
正常性バイアス: 若者のテレビ離れが致命的なレベルに達しても「まだうちはブランドがあるから大丈夫」と平然とする。
曖昧さ回避: 複雑で結論の出ない議論を避け、「どちらが悪いか」がはっきりした単純な二項対立のニュースを好む。
サンクコスト効果: 視聴率の取れない老舗討論番組を、「伝統があるから」と赤字を出しながら継続する。
現在志向バイアス: 10年後のメディアのあり方を考えるより、明日の朝のワイドショーのネタ選びを優先する。
損失回避: 「新しい自由」を得ることのメリットより、「古い特権」を失うことの恐怖を強調して報じる。
誤帰属: 取材対象への個人的な好意を、「国民的な人気」だと勘違いして報じる。
コントロールの錯覚: 街頭アンケートの結果を操作的な質問で誘導し、世論を自分たちがコントロールしていると感じる。
バックファイア効果: 「偏向報道だ」という視聴者の声に対し、反省するどころか「表現の自由への弾圧だ」と反発し、さらに偏向を強める。
バンドワゴン効果: 「今、このスイーツが大流行!」と捏造に近い流行を作り出し、行列を演出する。
おとり効果: 極端な右派の意見を「おとり」として紹介し、自分たちの偏った意見を「中立で妥当なもの」に見せる。
合理化: 誤報を出した後、「あれは権力への警鐘として必要なプロセスだった」と後付けで正当化する。
対比効果: 非常に高圧的な政治家を映した後に、穏やかに話す野党議員を映すことで、後者を聖人のように見せる。
デフォルト効果: 記者クラブから提供されたレクチャー資料を、そのまま記事の構成(デフォルト)として採用する。
ホーソン効果: カメラが入っている時だけ、熱心に活動する政治家の姿を「日常の風景」として映す。
連言錯誤: 「環境活動家」よりも「環境活動家で、かつベジタリアンで、政府を批判している女性」の方が、いかにも存在しそうだと報じる。
フォーカシング・イリュージョン: 「消費税さえ上がらなければ、国民は幸せになれる」と、一点の要素を強調しすぎる。
機能的固着: スマートフォンを「SNSによる分断の道具」としてしか見られず、新しい民主主義の可能性を無視する。
身元のわかる犠牲者効果: 震災の数万人の犠牲者数よりも、一匹の「飼い主を待つ犬」の物語に番組の半分を割く。
区別バイアス: A案とB案の微差を「決定的な思想の違い」として、必要以上に激しく対立させる。
信念バイアス: どんなに論理的な経済学者の意見でも、それが「増税容認」であれば、最初から間違っていると断じる。
妥当性の錯覚: 取材で得た数人の「いい話」を、日本社会全体の妥当な姿だと確信する。
リスク補償: 放送倫理規定が厳しくなると、逆に「倫理の範囲内なら何をしてもいい」と過激な演出に走る。
偽薬効果: 「この薬(政策)は毒だ」と報じ続けることで、実際に国民に心理的な不調(ノセボ効果)を引き起こす。
単純接触効果: 特定のタレントを毎日ワイドショーに出すことで、視聴者に無意識の親近感を抱かせ、選挙で有利にする。
確実性効果: 99%成功する未来の投資より、100%維持される現在の少額の年金を死守するよう高齢者を煽る。
ゼロサム・バイアス: 「富裕層が儲けることは、貧困層から奪うことだ」という構図で、常に経済を語る。
単位バイアス: 「1日あたりわずか100円の負担増」という表現を、政府批判の際は「年間3万6千円もの重税」と言い換える。
ナンセンスな数式効果: 内容はスカスカでも、画面に複雑な「シミュレーションのグラフ」を出すことで、情報の信憑性を演出する。
心理的リアクタンス: 政府が「国民の皆さん、協力してください」と言うと、反射的に「自由への侵害だ」と反発を煽る。
選択肢過多効果: 複雑な年金プランをすべて紹介し、「結局どれも分かりにくい、政府が悪い」と結論づける。
希少性バイアス: 「独自入手」「スクープ」というラベルを貼り、他社が報じないような瑣末な情報を重要視させる。
イケア効果: 苦労して1年かけた調査報道が、実はネットの二番煎じであっても、自分たちの苦労ゆえに「最高傑作」と呼ぶ。
オーストリッチ効果: 自社の部数激減や、若者の新聞離れを示すデータが出ても、それを見なかったことにして「紙の未来」を語る。
メンタル・アカウンティング: 「復興予算」なら1兆円の無駄を許すが、「議員の出張費」の1万円の無駄は執拗に叩く。
虚記憶: 「昭和の日本は、誰もが隣人を助け合う理想郷だった」という、実在しなかった記憶をノスタルジーとして捏造する。
気分一致効果: 政権支持率が落ちている時期は、街の風景まで暗く見えるようなカメラワークにする。
事後情報効果: 事件の翌日に出た憶測情報を、さも「事件当夜から知っていた」かのように上書きして解説する。
一貫性バイアス: かつて自分たちが賛成していた政策でも、今は反対なら「我々は昔から一貫して反対していた」と思い込む。
バラ色の回顧: 「昔のテレビはもっと自由で、活気があった」と、当時の不祥事や低俗さを忘れて美化する。
ツァイガルニック効果: 結論の出ないスキャンダルを「疑惑は深まった」と未完のまま引き伸ばし、視聴者の関心を繋ぎ止める。
後知恵バイアス: 災害が起きた後、「我々は以前からこの危険性を指摘していた(実際は一行触れただけ)」と主張する。
イマジネーション膨張: 「もし核戦争が起きたら」という空想を繰り返すうちに、明日にもそれが起きるかのような恐怖に支配される。
有名性効果: 昔の名前が売れているだけの政治家を、「重鎮」として重要局面で必ずコメントを求める。
ピーク・エンドの法則: 2時間の特別番組が退屈でも、最後の5分で感動的な音楽とポエムを流せば「名番組」だったと記憶される。
ネガティビティ・バイアス: 99人が幸福でも、1人の不満の声を「社会の断末魔」としてトップで報じる。
錯誤相関: 「サンマが獲れないのは地球温暖化のせいだ(実際は海流や漁獲規制の問題)」と、何でも環境問題に結びつける。
レミニセンス・バンプ: 編集幹部が青春を過ごした「1970年代の学生運動」の価値観を、現代のニュースの判断基準にし続ける。
ラベリング効果: 「改革派」とラベルを貼った市長が、強権的な手法をとっても「スピード感ある決断」と好意的に解釈する。
自己関連付け効果: 自社が過去に関わった事件や裁判を、あたかも日本史の最重要転換点であるかのように毎年特集する。
皮肉なリバウンド効果: 「特定の政党を利してはいけない」と意識するあまり、逆にその政党のネガティブな話題ばかりが頭に浮かび、報じてしまう。
圧縮効果: 10年前の自民党の不祥事を、まるで昨日のことのように持ち出して「体質は変わっていない」と攻める。
グーグル効果: 「ネットで調べれば済む」情報をニュースで流し、記者が自ら現場で一次情報を確認する足腰を失う。
お互い特に支持政党はないが、政治関連のニュースについて話すことが多い。
真面目に政治について話すこともあるし、タマキンの不倫のような、下らない政治家のゴシップで盛り上がることもある。
選挙があったら選挙関連のニュースは見るし、開票速報も夫婦一緒に絶対見る。あれは良い酒の肴だ。あーだこーだ言いながら楽しむのだ。
そんな我々夫婦だが、今回の衆院選の投票日数日前あたりからたまたま、子ども関係のことなど、家庭内のストレスが増大し、お互いにギクシャクして、喧嘩とまではいかないが冷戦状態、不仲な感じになっていた。何も話さないわけではないが、必要事項の伝達しか行わないモードに入った。
投票日当日、配偶者はいつもと変わらず開票速報を見ていたが、何となく距離を置きたかった私は、開票速報を見ずに寝室に行って先に寝た。そんなことは結婚して以来初めてである。
投票日翌日も、その翌日も、自民党の歴史的大勝など、語れる話題がたくさんあったのに、私たちは一切政治の話をしなかった。こんなことは異常事態だ。
何だか面白くなってきた私は、相手から切り出されるまで政治の話を一切しないと決めた。話したいことはたくさんあったが、我慢我慢。話さないと決めたら、意外と話さずにいけるものだ。
そんな我慢を続けていたが、ついに昨日、配偶者から、政治の話題を切り出された。
思えば、一昨日ぐらいから、少しずつ仲直り?な感じになってきていたな。
今回の選挙で初めて分かったが、政治の話をするかどうかが、私達の夫婦仲のバロメーターになっているらしい。
高市さん、気付かせてくれてアリガト★