はてなキーワード: 美男とは
ビッグタイトルは10周年とか迎えてるけど、それに追従していた作品たちは一通り死に絶えて新規も生まれんくなった。
最近はAIから出てきたオリジナルテンプレ美男美女ばかりやん。
一昔前の偉人擬人化ゲーで作品ごとの共通点を探すのとか好きだったんだけどなあ。
なんなら存命もさ。
なんでだ?
ユンゲラーみたいに本人が怒鳴り込みに来た?
■スタート
・美男美女であることと、高学歴高収入、結婚して子供と家と車と持つのがステータス
・見た目が悪い人、病気のある人、障害のある人、浮いてる人、友達いない人、結婚してない人、変な人は村八分
美男美女であることと、高学歴高収入、結婚して子供と家と車と持つのはいいことだけどマイノリティもマジョリティと同じ人間なんだよ。お互い争わないで認め合おうね
■途中経過
■今
他人に迷惑をかけるタイプのヤバいやつ「わいの多様性認めない人は悪」VSやばいヤバいやつアンチ「こういう奴は社会に出るな」
既婚子持ち「未婚子なしとか人生終わてるw」VS子なし独身「なんやとコラもっぺん言ってみろやカス」
ブス?「美人は性格終わってるwこの世から消えろ」美人?「んだとコラ可愛いは正義」
?「変なやつ目障りなやつはまじで存在自体迷惑」??「それはまじでそう」
幸せな人「頑張ったからor周りに恵まれたからお金もそこそこある。友達もいる。家庭を持った。幸せ」
なんだこれ
よくこれを週刊で描いて完結させたなあ
と楽しんだんだけど、とても不思議なことがあった
主要キャラでイケオジ、カッコイイおじいちゃんはたくさん出てくるのだが
卯ノ花さんは京楽&浮竹隊長より元柳斎に近いくらいだろうけど、見た目は30代ってかんじ
ある年齢から女性の加齢が描かれない、ブスもキモも外見不良もないってとても不自然
男性は描かれるのに(大前田希千代、見た目はアレだけど好き)女性はいない
でもそれ=幼少~若見え(見た目のいい)女性以外のデブ・キモ・外見不良女性が目に入らない男性目線がメジャーって、異常なんだけど、とてもなるほどって感じがある
作者も悪気は全然ないと思う
少年誌、青年誌だけじゃなく、一般的フィクションではかなり普通のこと
まれにおばあさんやおばさんやブスキモが出てきても、主要人物の身内や希少種でしかない
でもそのナチュラルな、女=男が見たい女&身内だけでよくてあとは消していい世界、というのが怖いと思う
現実にはおじいさんやおじさんやデブハゲの男性と同じく、おばあさんやおばさんやデブハゲの女性はいる
女性のバリエーションがとっても少ない世界を描いて、それが沢山の人に見られ受け入れられる
じゃあ美男美女だけのフィクションはブサイクを軽んじて疎外して差別するものじゃないですか?
それはそう
女性向けはだいたいそれ
エロコンテンツも、女性向けは男女とも美形、男性向けは女は美形、男はそうでもない(美形だと見る男性が嫉妬するかららしい)のが標準
CMや司会をするのに、美形でもない中高年男と若い美女がペアなのもそう
で、悪いけど、現実で女性は小奇麗だしかわいい子が多いけど、男性は清潔感もない、美形いない、といわれちゃうのも、そういうところだと思う
努力しなくてもいいと思わせる
見たい女だけが女だと思わせる
女性にもそういうものだと思わせる(ルッキズムは女性向けコンテンツの悪影響が大きいと思う)
都内で電車乗ったり街を歩いてる時、すれ違う赤ん坊連れって、小綺麗でそれなりに値段の張る服装をした細身の女性と、それと同等の男性なんよね
父親である男性もパリッとしていて、くたびれたスウェットとか着てないし汚いスニーカーとか履いてない
郊外はまた違うのかもしれんけど、都内で子育てをするというのはそういう事なんだな
子どもは就学前くらいだと年相応にバカで公共交通機関や店の中で騒いだりしてるが、いいとこの制服着てランドセル背負ってる子なんかは私よりマナーも教養もありそうだ
インターナショナルスクールの近くでは見た目は日本生まれ日本育ちの男子の集団が英語で会話しながら歩いてたりもする
東京では競争を勝ち抜いた、一定レベル以上の経済力のある美男美女が番い、子どもを育てるんだな
上京してからの方が長くなり、地方の事情はどうなのかもうわからんけども、都会よりはまだ勝者と敗者の差は緩やかなんだろうか
親子揃ってパリッとした格好をしていて、子どもがすぐにサイズアウトするであろう真新しいVansのキッズサイズなんか履いてるのを見ると、自分が子どもの頃に着ていたただでさえ安い化繊を洗い倒してヨレヨレになった服、ノーブランドというかスーパーの靴コーナーで売ってるようなキッズ靴を思い出し、少しみじめになる
そういえば、色気づいた頃、「私が着てるTシャツ、襟がみんなと違ってヨレヨレで恥ずかしい!ハンガーにかける時首から突っ込むのやめて!」と母親に言っていた時期があったなあ(自分が家族の分の洗濯物を干すことも多く、自分でやる時はそうしていたが、母が勝手に洗って勝手に干すことも多かった)
当時、地元でやや偏差値の高い公立高校で友人になった裕福な家庭の子は、ユナイテッドアローズとかで服を買っていたので、洗濯以前にそもそも品質が違っていたのだったが
私は服をイオンやダイエー以外で買ったことがなく、自分の着ているボーダーのシャツが、友人が着ているセントジェームスのパクリということさえ知らなかった
自分の家庭を貧しいと思ったことはなかったが、「良いものを着る」という文化や、余裕はなかったんだろうし、親はずっと忙しく働いていて、子どもに時間をかけるという意味での余裕もなく、割と雑に育てられてきた
それが田舎ではおそらく標準でもあったんだが
ピエール・エルメの紙袋を手土産に持ち、モンクレールのダウンを着て北欧製のベビーカーを押して出かける女と、仕事のために長女に赤子(私)の面倒を見させ、ゴム長靴に割烹着で農場で働いていた女
投稿してから思い出したが、実家の経済レベルが違う友人とは割とすぐに疎遠になった
「偏差値の高い私立高校」という選択肢が存在してない地方の公立高校というのは、生徒の実家の太さがピンキリなのだが、今思うとつるんでいる同士の実家の太さ、育ちというのは最終的に同じようなレベルで落ち着いていたように思う
なんか嫌な話だが
回転寿司を出た僕は、目的もなく街をさまよった。胃袋は満たされているのに、どうしようもない惨めさが胸にへばりついて離れない。まるで、体中に膿を溜めた皮膚のように、内側から熱を持って疼いている。
気がつけば、僕は一軒の喫茶店の前に立っていた。店全体が毒々しいピンク色に塗られている。外から見ても、妙にファンシーで、明るすぎる内装が透けて見えた。こんな店に入るのは、性的魅力に溢れたカップルか、若い女性のグループだろう。僕のような醜い男が入るには、あまりにも場違いだ。
しかし、その場違いさが、今の僕にはむしろ心地よかった。一番惨めな場所で、一番惨めな自分を晒す。そうすれば、これ以上傷つくことはないだろうという、ひねくれた諦めだ。
自動ドアが開き、中に入る。店員は、つけまつげが異様に長く、ネイルアートを施した若い女性だった。彼女は僕の顔を見て、一瞬、戸惑いの表情を浮かべたように見えた。だが、すぐに作り物の笑顔に戻る。
「いらっしゃいませ!」
僕は店の隅にある、壁際の二人掛けの席に座った。周囲を見渡せば、案の定、女子高生や大学生らしき可愛らしい顔の女性たちが、楽しそうにキャッキャと笑い合っている。彼女たちの会話の内容は、全て「誰が誰と付き合った」「あの服が可愛い」といった、性的魅力と直結する話題ばかりだ。
メニューを開き、僕は迷わず、最も贅沢で、最も華やかな二品を注文した。
なぜか、今日はお金を気にしない。どうせ金持ちの親に依存しているのだ。どうせ醜いのだ。せめて、甘さだけでも、この空っぽの魂を満たしてくれ。
しばらくして、先にプリンアラモードが運ばれてきた。銀の皿の上に、ツヤツヤしたプリン、色とりどりのフルーツ、ホイップクリーム。完璧な造形美だ。醜い僕の肌とは正反対の、触れがたい美しさ。スプーンでそれを崩していく行為は、僕の心の平衡を保つための儀式のようだった。
そして、ついに特製パフェが運ばれてきた。背の高いグラスにアイスクリーム、チョコレート、フルーツ、クリームが幾層にも積み重ねられている。そして、その頂点には、細い棒に括りつけられた小さな花火が刺さっていた。
火薬が弾ける音と共に、銀色の火花がパフェの周囲に飛び散る。わずか数秒の、しかし強烈な光と音のショー。それは、周囲の可愛らしい女性たちの「わー、すごい!」という黄色い歓声を浴びて、儚く燃え尽きた。
僕の目の前には、火花が消えた後の、焦げた匂いを微かに残したパフェが鎮座している。その、一瞬の輝きと、その後の虚無が、僕の心の奥底を鋭く貫いた。
花火は僕だ。
醜く、誰にも相手にされず、性的魅力という武器を持たない僕は、この世で一度も輝いたことがない。隣の部屋の美男美女のように、愛し合い、火花を散らすことすら許されない。僕がもし、あのパフェに刺さった花火のように、一瞬でも鮮烈に輝けたなら。もし、母親が僕をもう少し美しく産んでくれていれば。
「ううっ……あぁ……」
込み上げる感情は、もはや抑えられなかった。それは怒りでも、嫉妬でもなく、ただただ救いようのない自己憐憫だった。
僕は顔を両手で覆い、パフェの前で声を上げて哭き始めた。
嗚咽が喉の奥で詰まり、醜い音が店内に響く。楽しそうに笑っていた周囲の客が一斉に静まり返り、好奇の視線が僕に突き刺さるのがわかった。
「あの人、どうしたの?」 「怖っ」
そんな囁き声が聞こえる。店員が慌てた様子で近づいてくる気配がした。
僕は泣き続けた。パフェの冷たさも、プリンの甘さも、火薬の匂いも、もう何も感じない。ただ、醜い自分が、このピンク色の空間で、ひたすらに嗚咽を漏らしていた。
空腹だった。猫と戯れていても、アトピーの男と弁当を食べていても、心の底から満たされることはない。そして、その空腹は胃袋だけでなく、魂の奥底から来るものだということもわかっていた。
「とりあえず、何か食うか」
独り言のように呟き、僕はスマートフォンで最寄りの回転寿司店を検索した。
店に入ると、威勢のいい声が響き渡る。店内は明るく、家族連れやカップルで賑わっていた。誰もが幸せそうに見える。いや、彼らは顔が良く、金があり、性的魅力という武器を持っているから、その結果として幸せそうに見えるのだ、と僕は内心毒づいた。
カウンター席に通され、僕は流れてくる寿司の皿を一瞥した。マグロ、サーモン、ハマチ。どれもこれも、僕にとっては手の届かない美しさの象徴のように感じられた。新鮮な魚介類は、容姿の良い人間が享受する特権階級の食べ物だ。性的な魅力がない僕には、それに釣り合うだけの価値がない。
「よし」
最初に来たのは、フライドポテトの小皿だった。揚げたての黄金色。塩気が効いていて、妙に安心感がある。僕の荒れた肌とは対照的な、完璧なキツネ色だ。これを口に運びながら、僕は思い出した。隣の部屋の美男美女も、軽自動車も、赤ん坊の鳴き声も、全ては僕とは無関係の世界だ。このポテトだけが、今の僕を支える現実だ。
次に注文したのは、鶏の唐揚げ。甘辛いタレがかかった、見るからにジャンキーな一品。
「これでいいんだ」
僕は自分に言い聞かせた。寿司を食べなくても、腹は満たせる。魚がなくても、食事は成立する。性的魅力という美がなくても、この世で生きることはできる。この唐揚げの皿の上には、容姿の優劣や金銭的な格差は存在しない。あるのはただ、カリッとした衣とジューシーな肉の食感だけだ。
ポテトと唐揚げを平らげた後、僕は最後の締めにうどんを注文した。シンプルないりこの出汁が効いた、温かい一杯だ。胃袋がじんわりと温まる。
流れてくる皿の上には、今日も艶やかな寿司が乗っている。しかし、僕の目の前にあるのは、魚介類を一切含まない、僕だけの非・寿司メニューの残骸だ。
唐揚げの皿を下げに来た店員が、僕の顔を見て一瞬目を逸らしたように見えたが、気のせいだろう。あるいは、僕の勝手な被害妄想だ。彼らにとっては、僕はただの客の一人。醜い顔も、汚い肌も、どうでもいい。
うどんをすすりながら、僕は考える。この世界では、性的魅力が八割かもしれない。美人が楽をしているのも事実だろう。だが、この回転寿司で、僕は魚ではないもので腹を満たした。それは、僕がこの世界で、性的魅力以外の何かで生き残る方法を見つけられるかもしれない、というかすかな希望にも似ていた。
会計を済ませ、店を出る。外はもう完全に暗くなっていた。胃は満たされた。しかし、魂の空腹はまだ残っている。
「次は、パフェでも食うか」
そう呟き、僕は醜い自分の影を引きずりながら、雑踏の中へと消えていった。
俺はよくいろんな地方へ旅に出るが、なんやかんやその土地で文化系/サブカル/陰キャ/芋系/オタク女子を見るのが大好きなんだろう。
だって新卒の時に配属された人口数万の地方都市(一応ショボい大学はあるんだけど)ではそういう女子を見かけないからね。これは人口比だけじゃ説明出来ない。「都会には文化がある」かはさておき「かわいい陰キャ女子」ならたくさんいるってことくらいは言ってもよかろう。
高校入学の頃に一軍女子の癒し枠的なヤツにベタ惚れしていたこともあって、人生で唯一俺に告ってきたクラスの嫌われ者オタク女を好きになれなかった後悔(損した感)からそういう女子をどうにか好きになろうと自らを"調教"してきた節はある。
でもそれとは別に昔からAKBやらの美人顔の区別がまるでつかなかったし(嵐は多少いける)、大体同じだろとしか思わない。最近なんか顔面加工写真ばっかりでさらに似たり寄ったりだからワケがわからんし、写真どころか写される身体の方を弄るヤツも増えた。
きっとそれは地方都市に住みつつ国内地方旅行を繰り返す自分の趣向とも似て、商品として磨かれていないものを敢えて楽しむ趣向と自分の前にある陰キャ女子を楽しむ趣向が共通していないはずがない。
(ほら、よくマンガの話で「美男美女の方がブスよりも無個性的で描きやすい」ってあるじゃん?)
そして、俺は陰キャ女子を見る時に自分にも陽キャ的価値観に膝を屈することなく女と楽しく付き合っていける(例えば「たのピク」のように)可能性がある(あった)ことを"確認"しているわけだが、「文化がある」都会で陰キャ女子を見るということはそこそこの確率で男連れシーンを見ることを通じての"確認"にもなりえる。
別に陰キャ女子が俺みたいな陰キャ男子と付き合ってる分にはやきもち妬くだけだからいいんだけど、陰キャ女子が消費社会の頂点(そんなものがあるとして)に繋がるアルファオスの部類にメロついてるのを見た日にゃ「裏切りだ!」としか思えない。
ちなみに新左翼系の文献を読むようになってからは(竹内洋的造語癖か小山晃弘的マルキシズム趣味かもしれないが)「階級的裏切り」と呼ぶことにした。
俺はなるべく誠実でありたい。
俺は中学生の頃インターネットの「リア充爆発しろ!」的なノリに(別に面白いとは思わなかったけど)期待していて、非モテ連帯を信じて革命的非モテ同盟のクリスマス粉砕デモの隊列に加わろうとしていたが、どうも連中が「ネタ」でやっているらしく失望した。
何よりも許し難いのは常日頃「リア充爆発しろ」とか宣っておきながら恋人を作ると見せつけたら匂わせたりする連中のことで、そりゃあ「リア充〜」は恋人が欲しい気持ちの裏返しなんだから恋人を作ること自体は認められるべきだが、それにしても見せつけるのは「階級的裏切り」じゃないか?というか、自分が吐いた唾に対して不誠実じゃないの?
せめて俺は階級的に誠実でありたい。
この場合、誠実であることの証明は"やせ我慢"でするのがいいだろう。
(それも性的魅力に溢れる)から求愛されても断固断るべきなのだ。
年齢的な理由もあって非処女もイケるようになった俺がそれでも陰キャ女子が雑にセックスした話を嫌うように、いつか俺を好きになる陰キャ女子に「コイツ本当は陽キャ女子が好きなのに妥協しているのか?」と疑われるような過去を持たないように生きていたい。
(誠実でありたいので言うが俺は童貞は捨てた)
モテないからチョロそうな陰キャ女子を狙ってんだろ?とお思いの読者もいると思うが、現に陰キャ女子とも付き合えてないんだから、それは虚しい「努力」でしかない。
そしてギャルと付き合っていない現状が"主義"を貫いた(例えば冷戦期の日共党員だったかがわざわざ東欧のショボいおもちゃを子供に買い与えていたような)ためであるという証明は不可能だ。
読者は皆それは単なる非モテの結果だろうと冷笑するだろうし、俺もそう思う。
デジタル回路が「0」と「1」のどちらを示すかによってデータを表現することが主流な現代において「0」であり続けることに積極的意義だとか「強度」を見出すことは難しい。
だからこそ浅羽通明はゼロ年代に出した『昭和三十年代主義』で「確かに清貧は積極的に選び取られた価値観ではないが、だからこそいいんだ」(曖昧)と書きゼロ年代の昭和ブームに期待してみせたのだろう。
そして俺もまた「0」か「1」の世界で「1」であり続けなきゃならない圧に膝をちょっと曲げ「ギャルと付き合わない」主義を自嘲し、内実はともかくとりあえず「1」ではあるところの国内地方旅行(動いている)で美人などとは違い「0」では言い表せないほど多様な陰キャ女子を見かけて(見つけている)喜ぶしかない日々を送っている。
以下は、ジェンダーについて、あくまでも(イケメンではない)男性からの視点で考えた文章です。
男女どちらの方がつらいといった意見ではありませんのであらかじめご了承ください。
「イケメンじゃない男性の恋愛社会における生きづらさ」を始点に。
原因の1つは、男女平等が叫ばれて何十年もたつが、いまだに男が女を率いるもの、という価値観がまかり通っていること。バレンタインデーがあって逆バレンタインデーが無いのは、男が女に好意を伝えるのは「当たり前」だから(ホワイトデーはバレンタインデーのお返しをする日である)。
これを強化するのが、ルッキズムは生物学的に(おそらく)自然なことであるのに対し、ルッキズムはダメなことで顔の良し悪しじゃないよという意見が支配的で、しかし実際はテレビに出ている人の整い方は異常であり、完全に矛盾しているということ。例えば、テレビドラマのメインキャストは美男美女しかいないが、これは多くの人が美男美女が好きということの証左である。ちなみにテレビに出ている不細工タレントは本当の不細工ではなく、不細工だとしても身なりやメイクが整っていて漂白されている。これは自然界で起きにくいのは、単純に身なりを(タレント級に)整えるのはお金がかかるからだと思っている。これにブーストをかけるのが昨今のショート動画の流行。
で、なぜイケメンでない男性が生きづらいのかと言うと、特に日本の告白文化だと、告白をするまで女性の本当の意思を確認することができない(男が女に告白して、女に「友達だと思っていた」とフラれる事象があるのは、そういうこと)。で、イケメンなら多くの人が好きなはずであるから、成功確率が高いと事前に分かった上で告白することができる。しかし、イケメンでなければ、よほど特別に近い関係にあって親密さを確認できる環境が整わない限り、告白が成功する確率は著しく不明瞭で、おそらく低い。これが未婚率の増加を物語っているのではないかなあと思いました。あと、告白する前の段階であっても、イケメンでない男性は、特にファーストコンタクト(や浅い関係性)で女性に近づいて拒絶されるか否かは、イケメンに比べて拒絶される確率が高い(内面もよく知られていないから)。だから、親密にもなりにくい。
「イケメンじゃない男性でも美人の彼女がいたり結婚していたりする」という反論に関しては、その男性が「そういう人」(生まれもった性質などでリスク許容性が高い)というだけで、一部の男性に限られた現象ではないかと考える。そうでなければ生涯未婚率が増加している説明はつかない。
ということで、伝統的なジェンダーにおける男性性、つらいよね。ということです。着想した段階では、なぜちゃんみなが人気なのか、という考えがありました。ちゃんみなをビジュアルよりも「強い女性」として人気である、と仮定して考えると、それは生まれもったビジュアルではなく強さ、すなわち「現世で変えられる」ところに希望を感じたからなのではないかと。「理想」は可愛い、きれいな美人かもしれないけど、現実的な折り合いとして「強い女性」が人気になるのではないかと(CHAIの"NEO KAWAII"という考え方は好きですが、生物学的にルッキズムを負かすのは非常に困難で、外見以外を切り口にした方が現実的かもしれません)。それならば女性が強くて男性がそれに預かる、みたいな関係性が魅力になってもいいのではないか、というか、それでしか現代の人間の未来はないんじゃないかなあ、などと考えたり。