はてなキーワード: 一切皆苦とは
釈迦(ブッダ)は、諸行無常・一切皆苦・諸法無我を喝破し、輪廻そのものを「苦のバリエーション」に過ぎないと断じた。六道のいずれに生まれようと、天界の神々でさえ天人五衰の恐怖に襲われ、再び堕落する。
ブッダは、死体を穢れとし、僧侶が葬送に深く関わることを避けさせた。遺骨を塔に納めることすら、在家信者の世俗的習慣に過ぎなかった。死後の「マシな世界」を求める俗人の欲望に、決して迎合しなかった。
釈迦入滅後500年経って、大乗仏教が現れるや否や、事態は一変した。
これは原始仏教には一切存在しない、明らかな後付けである。方便(upāya)の名の下に、民衆の「死後の安寧を求める弱い心」に迎合した結果に他ならない。
極楽浄土は確かに「悟りへの通過点」と理論上は位置づけられるが、実際の民衆信仰では「死ねば安らげる」安寧の場として理解され、原始の「一切皆苦」の洞察は骨抜きにされた。方便の名を借りて、ブッダの厳しい実践を希薄化させた典型である。
中国に伝わると、祖先崇拝や民間信仰と結びつき、死後の世界を「安寧」と見なす俗人の欲求にさらに深く迎合した。唐代の善導らが体系化した浄土教は、現世の苦しみと末法の不安を前に、「他力一本」で救済を約束する甘美な教えとして広がった。
日本では鎌倉時代に法然・親鸞がこれを継承し、江戸時代の檀家制度で決定的に俗習化した。幕府の統制道具として寺院が葬儀を独占し、戒名授与・読経・高額布施をセットで「極楽往生」を売るビジネスが成立した。ここに至って、ブッダの教えは完全に裏切られた。
死体を防腐し、化粧を施し、数日間安置し、重い棺を霊柩車で運び、骨を割り折って壺に納める煩雑な儀式――これを「極楽への送り」と称するなど、ブッダは激しく非難するだろう。
原始仏教では僧侶が金銭を受け取ること自体が律蔵で固く禁じられていた。金銀は「毒蛇のごとし」。
極楽浄土という方便は、方便の域を超えて、仏教を「葬式屋」へと堕落させる最大の原因となった。
ブッダの見地から見ると、極楽浄土の導入とそれに伴う死後の安寧信仰は、俗人の弱さに迎合した明らかな堕落である。輪廻からの完全脱出を理想とした教えを、「死ねば極楽」という安易な安心にすり替えた。結果、仏教は祖先崇拝と金銭取引の道具と化した。現代の葬式仏教は、ブッダの教えから最も遠く離れた姿と言わざるを得ない。
紀元前5世紀、クシナーラーの沙羅双樹の下。80歳を迎えた釈迦(ブッダ)は、右脇を下にした「ライオンの臥姿」で静かに横たわっていた。弟子のアーナンダが悲しみに暮れる中、ブッダは最後の言葉を残した。
これがブッダの入滅(パリニルヴァーナ)のシーンである。火が完全に消えるように、欲望と無明の炎が尽き、輪廻の連鎖が断たれた瞬間だった。死後、遺体は7日間、在家のマッラ族の人々によって花と香で供養されたが、それはあくまで簡素なもの。特殊な防腐処理も、死化粧も、豪華な棺も、念仏の繰り返しもなかった。在家の人々が香木で火葬(荼毘)を行い、遺骨(舎利)は8つに分けられ、ストゥーパ(記念塔)に納められた。僧侶(比丘)たちは遺体の供養に煩わされず、ただ修行に励むよう指示された。これが、原始仏教における「死」の扱い方である。
一方、今日の日本で「仏教式」と呼ばれる葬儀は、まったく異なる様相を呈する。
死後すぐ、遺体には防腐処理(ドライアイスやエンバーミング)が施され、死化粧で生前より整えられる。棺に納められ、通夜・葬儀の間、数日間安置される。僧侶による念仏や読経が繰り返され、家族・親族が交代で付き添う。儀式が終わると、重い棺を男手で担ぎ、霊柩車という特別に装飾された車に詰め込む。火葬後、骨が残る。骨壺に入りきらない大きな骨は、骨折りと呼ばれる作業で割り、小さくして納める。
原始仏教の視点から見れば、これは明らかな矛盾である。ブッダは「諸行無常・一切皆苦・諸法無我」を喝破した。
長期間保存し、化粧を施し、特別な車で運び、骨を丁寧に折って壺に納める行為は、むしろ「死への執着」を増幅させる。ブッダ自身は入滅後、弟子たちに「私の遺体にこだわるな。法(教え)を守れ」と諭した。火葬も、在家信者が行う世俗の習慣に過ぎず、僧侶が主導する儀式ではなかった。
大乗仏教の「方便」が日本独自の家制度・祖先崇拝と結びつき、江戸時代の檀家制度で「葬式仏教」が完成した結果である。
釈迦(ブッダ)はバラモン教の階級制度・有料儀式・神々への依存を徹底的に喝破した。
金銭で功徳を買う行為など、想像すらしていなかったはずだ。それが特に日本では、死後の戒名授与や高額お布施を伴う「葬式仏教」として定着した。なぜ、輪廻からの完全脱出を理想とした教えが、死者供養のビジネスに変貌したのか。原始仏教の思想と大乗仏教の展開、そして日本独自の歴史的必然を、独立した視点で整理する。
紀元前5世紀頃のインドで、釈迦は当時の宗教界を根本から批判した。バラモン教は祭祀・呪術・金銭による功徳取引を基盤とし、永遠の魂(アートマン)を前提に輪廻を語っていた。これに対し、釈迦は諸行無常・一切皆苦・諸法無我の四法印を掲げた。世界は瞬間ごとに生滅し、固定の実体(我)はなく、生老病死は避けられない苦である。
出家者(比丘)に対する戒律は厳格だった。律蔵(Vinaya Pitaka)では、金銀の授受を明確に禁じている。「比丘よ、金銀を受け取ってはならない。他人に受け取らせてはならない。これを破れば捨堕の罪である」(Nissaggiya Pācittiya 18)。布施は自発的な喜捨でなければならず、対価としての儀式販売は許されなかった。葬儀自体も、僧侶の直接関与を避ける傾向が強かった。死体は「穢れ」とされ、修行の妨げになるとされたからだ。
「完全な消滅」(無余涅槃)が理想で、永遠の魂を前提とする常住論も、すべてが無になるとする断滅論も、ともに「中道」から逸脱した邪見とされた。
神頼み・儀式依存・金で救済を買う商売を、毒矢の譬え(矢が刺さったまま原因を詮索する無益さ)で一蹴した。目的は個人の解脱であり、組織化された宗教団体すら、釈迦自身は最小限に留めた。
釈迦没後約500年後、インド北部で大乗仏教が興った。「小乗」(上座部)と自らを区別し、「大いなる乗り物」として一切衆生の救済を掲げた点が決定的だった。原始仏教の個人解脱に対し、大乗は菩薩道を理想とする。菩薩は自らの涅槃を遅らせ、衆生を救うためにあえて苦行を続ける。
衆生の能力や文化に合わせて教えを柔軟に変容させる手段だ。これにより、厳格な出家戒律や無神論的性格が緩和された。
中国に伝わった大乗は、現地の祖先崇拝や道教的儀礼と融合。死後供養・功徳回向が積極的に取り入れられ、在家信者向けの浄土信仰(阿弥陀仏による救済)が拡大した。戒律も大乗戒(梵網経など)として再解釈され、菩薩の利他行を優先するようになった。
この方便は、仏教の「生存戦略」でもあった。民衆に広まるためには、現地文化に適応せざるを得なかった。しかし同時に、原始の精神を薄め、儀式・供養・経済的布施への依存を許す土壌を生んだ。インド・中国ではまだ「死後ビジネス」までは発展しなかったが、日本への伝播で決定的な変化が起きる。
仏教は6世紀に日本へ伝来したが、当初は国家鎮護・貴族の氏寺として機能した。飛鳥・奈良時代、僧侶は葬儀に直接関わらなかった。死の「穢れ」を嫌う神道的な観念が強く、官僧(国家公認の僧)は死体に近づくことを避けた。
転機は鎌倉時代だった。遁世僧(とんせいそう)と呼ばれる民間僧が現れ、死の不安に苛まれる庶民のために葬儀・供養を積極的に担った。
1630年代、幕府はキリスト教禁制のため寺請制度(檀家制度)を全国に施行した。全庶民をどこかの寺院の檀家に強制登録させ、寺が戸籍(宗旨人別改帳)を管理。出生・死亡・婚姻の証明を発行し、死体検分まで行った。結果、葬儀・法事・戒名授与が寺の独占業務となった。戒名(死後与えられる仏弟子の名)は、元々出家者の生前名だったが、日本では位階付き(信士・居士・院号など)で一般化し、「長い戒名=高額お布施」という金銭取引が生まれた。
荘園崩壊後の寺院経営危機も、檀家からの継続的布施を必要とした。こうして、原始仏教の「金銀は毒蛇のごとし」という戒律は、遠い過去のものとなった。
江戸幕府は仏教をキリシタン摘発の道具に利用した。信仰の自由などなく、寺檀関係は義務だった。
大乗の方便が、日本古来の祖先崇拝・家制度と結びついた。死後の供養は「家」の存続を象徴し、戒名は家名を仏教的に昇華させる手段となった。
少子化以前から、寺院は布施に頼らざるを得なかった。方便の名の下に、原始の喝破精神は置き去りにされた。
浄土真宗のように法名を簡素化・生前授与する宗派もあるが、多数派は戒名料を伴う葬儀中心だ。
今日、寺離れ・直葬(火葬のみ)の増加は、この歴史的矛盾を浮き彫りにしている。原始仏教の視点から見れば、戒名料や葬儀独占はブッダの教えに明確に反する。金で徳を買う行為は、貪欲を増長させるだけで、涅槃の道ではない。
大乗の方便は、仏教を世界に広めた功績がある。しかし、少子高齢化で檀家減少が進む今、僧侶自身が「生活仏教」への転換を模索している。生前からのつながり、戒名なしの俗名供養、原始の喝破精神への回帰―これが、本来の仏教が「葬式屋」から脱却するための道かもしれない。
アンチ宗教の精神を忘れたとき、仏教は単なる葬儀屋となる。2000年の歴史を振り返り、私たちは再び「中道」を問う時を迎えている。
原始仏教(パーリ経典・律蔵)では、こうした商業化された「功徳取引」は一切認められていません。以下に、ブッダの直接的な言葉を引用しながら、論理的に評価します。
律蔵(Vinaya Pitaka)のNissaggiya Pācittiya 18(捨堕法第18条)で、ブッダはこう喝破しています:
さらに、Saṃyutta Nikāya 42.10(比丘と在家信者との対話)で、ブッダは頭首(在家指導者)に対してこう明言します:
また、同様の文脈で:
戒名授与や葬儀での「謝金(お布施名目)」は、僧侶が金銭を直接・間接に受け取る行為です。これは律蔵違反そのもの。ブッダは「金銀は毒蛇のごとし」とまで戒め、托鉢(最低限の食のみ)で生きる純粋な出家生活を定めました。金で「戒名(仏弟子の証)」や「功徳」を売るのは、僧侶が世俗の商売人になることを意味し、ブッダの教えの根幹を崩します。免罪符も同様で、「罪の免除」を金で買うのは、バラモン教の有料祭祀(ブッダが激しく批判したもの)と全く同じです。
ブッダは布施を最高の徳の一つと讃えますが、それは期待や対価を伴わない純粋な generosityでなければ意味がないと繰り返します。Dhammapada 354(法句経):
また、Sappurisa Dāna Sutta(善人の布施経)では、布施の正しいあり方を5つ挙げています:
• 敬意をもって与える
• 適切な時に与える
• 慈悲の心で与える
これに対し、金銭で「戒名を買う」「功徳を買う」は、対価を前提とした取引です。ブッダはこれを「貪欲の汚れ」と見なし、SN 16.3(月のような経)でこう警告します:
戒名料は「長い名前=高額」「位階付き=高額」という明確な価格表があり、功徳を「買う」商業行為です。これは布施の本質(無私の喜捨)を汚し、僧侶・信者双方の貪欲を育てます。ブッダがバラモン教の「有料祈祷・供犠」を喝破した理由もここにあります。免罪符も「金で罪を帳消しにする」という同じ論理で、ブッダなら「無益な戯論(無意味な議論)」と一蹴したでしょう。
ブッダの核心は諸行無常・一切皆苦・諸法無我。輪廻からの脱出(涅槃)は、貪欲・執着を断つことによってのみ得られます。金で徳を買おうとする行為は、執着を強化するだけで、苦の根源(渇愛)を断ちません。むしろ「金さえ出せば救われる」という幻想を生み、悟りを遠ざけます。
ブッダはĀdiya Sutta(AN 5.41)などで、財を正しく得て正しく使うことを認めますが、それは在家信者の生活であって、僧侶が「徳を売る」ことを正当化するものではありません。僧侶が金銭に手を染めると「沙門の道に非ず」と断じています。
原始仏教の立場から、戒名料や免罪符のような行為はブッダの戒律・教えに明確に反する。それは大乗の「方便」や日本独自の檀家制度で後から生まれた慣習で、原始の精神から逸脱しています。ブッダ自身が生きていたら、「金で仏弟子の名を買うなど、愚か者のすることだ」と痛烈に批判したでしょう。真の布施は「心の喜捨」であり、金で買えるものではありません。
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。
・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。
・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。
・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているものに過ぎない。私という存在もまた、諸行無常であり、ゆえに諸法無我。
・普通の人間が諸行無常な世界に在って一切皆苦と感じるのは、『私』に強く執着しているから。世界も私も変化し続けているものだから、『私』の思い通りになるとは限らない。それなのに、思い通りにならないとそのたびに苦しい。
・一切皆苦と感じる原因が『私』に対する強い執着であるなら、その執着を薄め、消し去ればいい。この世界は諸行無常であり諸法無我であることを、知識としてではなく、感得することができたなら、『私』への強いこだわりは霧散し、世界を一切皆苦とは感じなくなるし、副産物として利己性も消える。これが悟りの境地。
・この世界が諸行無常であり諸法無我であることを感得するには、感得するトレーニングを繰り返して感得する認知能力を高める必要がある。自転車に乗れるようになりたいなら自転車に乗るしかないのと同じ。このトレーニングが仏教の修行の中核。昨今では「ヴィパッサナー瞑想」とか「マインドフルネス」とか呼ばれている。ヴィパッサナー瞑想で得られる認知能力を「智慧」あるいは単に「慧」と呼ぶ。
・『私』に対する強い執着を薄める方法はヴィパッサナー瞑想以外にもう一つのアプローチがある。「慈悲」つまり、利他的な心を育てる瞑想や利他的な実践を繰り返すこと。
・ヴィパッサナー瞑想だけしていれば悟れるかというと、そうでもない。「戒」:瞑想に集中するための環境や習慣を整え、「定」:ヴィパッサナー瞑想に必要な集中力を高めるための瞑想も行う。これらをヴィパッサナー瞑想と合わせて「戒定慧」と呼ぶ。仏教の実践は基本的にこの三つ。もう少し詳しくは「八正道」と言う。
というのが、私の理解。もっと詳しく知りたければ「」でくくった単語を検索して一つずつ調べるか、書籍なら仏教思想のゼロポイントをおすすめ。
思想史的な観点をちょっとだけ補足。仏教は教祖である釈迦の没後、スリランカやミャンマーあたりに伝わったものが初期のノウハウを比較的色濃く伝えている。これは上座部仏教、南伝仏教、小乗仏教とか呼ばれてる。一方、中央アジア等を経由して中国に至るうちにかなりの変貌を遂げたのが、北伝仏教、大乗仏教とか呼ばれてる。日本の仏教は中国経由で伝わったもので、基本的に大乗仏教。輪廻転生は仏教のオリジナルのアイデアではなくて、インドやネパールあたりにもっと昔から根付いていたアイデア(輪廻転生だの神や悪魔だのの有無は、今生きているあなたが苦から逃れるために重要なことではないですよ、肝心なのは八正道の実践、ってのが仏教のスタンス)。天国地獄のアイデアはおそらく中央アジアあたりで仏教に混淆した。先祖の供養が大事みたいなアイデアはたぶん中国で混ざった。
毎日幸せに生きてる反出生主義者ですが、何故か誰からも理解されない。なんで?
私は都内の大学を卒業し、小学生でも名前を知っている大企業の幹部候補として働いている。日系大企業の採用は未だルッキズムの傾向が強いため、容姿は知らんが並程度にはあるはず。最近英語と専門スキルをかけ合わせたそれなりに難易度の高い資格試験に合格したし、ヲタク趣味も充実しており超ハッピー。二次元っていいよね!まぁつまり特に珍しくもないどこにでもよくいる人間です。
強いて周りと違う点を挙げれば、かなり反出生主義の思想が強い。大学では授業を通してアンチナタリズムやべネターの思想、仏教の一切皆苦について積極的に学んでいた。しかし、この思想だけは大学で「反出生主義」なんぞという言葉を知る前の中学生の頃から変わらずにある。
つまり、「私は生まれてきたくなかったし、全ての人間は子供を作るべきではない」と子供の頃から常に思い続けていたのだ。仮に自分自身が幸せだったとしても、当然子供はどうなるか分からない。そもそも生まれなければ幸せになる必要はなく、そのために努力という苦痛に耐える必要もない。人生には必ず苦痛が存在し、病や怪我や事故や事件等の避けられない不幸は山ほどある。幸福は不幸を打ち消すものではないため、不幸の総量は減らせない。そんなことを中学生の頃から考え続けてきた。
しかし、私自身が幸せに生きており、当然自殺なんて考えずにアンチナタリストをやっていると言うと理解不能な反応をされる。まずネットで反出生主義について話すと、決まって「お前は社会的地位が低く、不幸だからそう思うだけだろう」「子供を作らないのではなく、作れないだけだろう」という反論(ですらない中傷)が返ってくる。で、上記に書いたことを説明すると理解不能なモンスターにでも遭遇したかのような反応をされる。それはリアルでも同じ。
「自分自身が幸せに生きている」・「社会的地位が高い」ことと「生まれてきたくなかった」「子供を作るべきではない」という思いは両立するし矛盾はないと思う。それなのに周りから理解されないのは何故なのだろう?教えて!ますだの皆さん!!
俺はまったく同意した覚えがないのに勝手に出産されたんですけど、これって訴えられますか?
・当時俺は非常に若く(0歳)、分別がなかった
・事後にも同意していない
これどう考えても、俺、レイプされたのと同じやろ
生まれたくなかったのに勝手に生まれたんですけど、ガチで泣き寝入りするしかないの……?
正直、これを放置してんのに「同意が大事だ」つってる子持ちリベラルのみなさんのことは全く理解できん
俺はセックス中に彼女が「イヤ」系の声を出すたびに行為を中断して「大丈夫…?」といい、不興を買っています(全ギレ)
同意のとれないことをするな
胎児は存在してねえので人権はない、なので何やってもOK!と思っているんですか?
思っているんだろうな
実際、その態度で来られると俺はちょっと言い返せねえ
そうなんだよな 人間はマンコから出た瞬間に突如人権を獲得するのであり、その前はガチでなんの権利ももってない、ミカンとかけむしとかと同等の存在なんだよな
ミカンは食われることに同意したのか?!?!つってんのと同じじゃ、キチガイ!と言われると、フーム……という感じになるしかないことは否定できない
いや、そうかなあ?!
ミカンが意思能力をもつ可能性って無視できるほど低いけど、出産した結果生まれる人間は、キホン的には思考力のある人間になるわけじゃん
将来的には意志を持つことがほぼ確実な人間を生み出す行為をやっている、っていうのは厳然とした事実なのに、そこで突然「胎児に意識はありませーん!人権はありませーん!だからセーフ!」っていうのは、どうもズルい気がしてならないんだよな
罪と向き合えって話なんだよなあ!
罪と向き合ってんのか?実際……
人生がマジでずーっと楽しくてしゃあない、一切皆苦なんて1秒も思ったことない、生まれてきてよかったと思い続けている!って人が子供をつくるのは、まあある程度わかるっつうか、しゃあない感がある
でも、人生ってつらいですよね、ということにある程度気がついている人間が、罪人の顔をせずに子供を作って、その子供が働きたくないなんて言ったときに、「甘えるな!人生をなめるな!」みたいなことを言うのは、どうしても納得がいかない
お前だろ お前お前お前
お前、他人の苦しみを勝手に始めておいて、責任取る気ぜんぜんねえのかよ?!
ガキンチョ以下なんだよな実際
ホントにどうにかしてほしいよ
経産婦には特別に敬意を持っている
ホー…そんな世界観が……
子供が欲しい!って思って自分の体の中に宿せるって女性のいいところだと思うけどな。望んだ子供と受精卵の時から一緒にいられるんだから。
怖すぎる
今は新しい人間を作れた誇りも感じてる
好奇心のために生命を創り出すの完全にマッド・サイエンティストじゃん
私も今年3☓歳でとっとと二人目妊娠しなきゃいけない
怖すぎて逆に気持ち良くなってきた
自分の快不快>子供の人生という生殖人間に共通する行動理念がいい方向に働いた心温まる例!出産がキツくてよかった……
赤さんにおっぱいあげるとオキシトシンが分泌されて女の特権だなあって思うくらい幸せだけど、きっと誤魔化されてるだけだよなと思う
誤魔化されてるって何???何から??どうなってたら公正なの???一切の苦痛を背負うことなく他人の人生を勝手に開始させられるようになりたいってこと?正直でよろしい!
子供のことを考えてくれよ〜
勉強勉強勉強就活就活労働労働労働労働労働労働労働労働労働労働労働労働労働労働労働労働老化老化老化痴呆痴呆死、じゃん
そら「常に苦しくて一切の楽しみはない」ってことはないけど、相当いい環境にいいスペックで生まれない限りけっこうな苦しみがありませんこと?
俺の知り合い、ほとんど皆一回くらいは「死にたい」とか「働きたくない」みたいなこと言ってるのを見たことがある
人生楽しすぎる!絶対死にたくない!生まれてこれてよかった、両親に感謝!なんて言ってるやつ、一人しか知らねえんだよな(超いいやつ)
でもその彼にしたって結構落ち込んでることはある やっぱキツいねん人生
そのTDLの一日チケットが当たって、それを何らかの理由で誰かにプレゼントするとして、相手になんの確認もしないでいきなり押し付けるってことはないじゃん
あの人ディズニー好きかな、テーマパーク嫌いじゃないかな、行く時間あるかな、いきなり押し付けられて気持ち悪くないかな、とそういうことを考え、リサーチしたり距離感を測ったりした末にプレゼントすんじゃん
「楽しく調整された人工的な夢の国に1日だけ入るためのチケット(使わないこともできる)」をプレゼントするのに迷うことができる想像力があるんだからさあ!
「一切皆苦なんて言葉もあるくらいキツく、理不尽が多い上に80年もの長さがあり、始まってしまったらやめるのには絶大な意思力がいる、人生」を意思確認もできねえ相手に押し付けんなよ!
知能がねえから文句言えない赤ん坊に人生を押し付け、勝手に育てて恩も押し付け、育ってこの世に絶望した子供が「産んでくれなんて言ってない」っていうぐうの音も出ない正論を言ってきたら悲しんだりキレたりするんでしょ?意味わからんねん そんなヤベー言動して頭おかしくならないのか?
「いのちのバトンを次の世代に繋ぐのは、生き物として当然のこと!」「いのちが生まれるのって、素晴らしい!」
このへんの価値観、古いんすわ もう
出産、子に対するゴリゴリのハラスメント(っていうレベルじゃない)だし、絶対やめたほうがいいですよ
時代は変わったんだよ
こないだ、増田見てたら「私は悟った」みたいなことを言っていた人がいた。
単純に、非常に失礼だが、「馬鹿だな」と思った。
悪いけど、悟るなんてことはない。悟りを開くとか、生きて仏になるとか、そんな人はいない。
それは単に、仏教思想というか古代の仏教思想の説いたことを誤って理解してしまったがためにそんな解釈を生んでしまったのだろうと思っている。
根本的に誤っているのは、原始仏教が生まれた背景をものの見事にみんな無視するからである。
考え方がまるで逆で、当時の世間に流布していた思想からの脱却を、悟りを開いたとか、覚ったとか、多分そんな風に言ったのであろう。
要するに「輪廻転生」に象徴される、人は定まった運命の中でしか生きられないという、あの現代にも続くインドカースト的な考え方からの脱却に他ならなかっだ。
一切は空なりとは、つまり、輪廻転生であるとか、そんな迷妄な考え方・思想には実体などない、そういう意味なのである。
そんなの言ってたら、永久に人は苦しみから逃れられないと言っているようなものじゃないか、とゴータマは覚ったのである。これこそがほんとの悟り・覚りなのだ。
だから、釈迦牟尼世尊の超絶的な苦行の話が逸話として出てくるのである、そうした苦行には意味がないのである。
ところが、馬鹿で無知な民衆は、あの四苦、すなわち生老病死の「生」を「生きる苦しみ」と解釈してしまったのである。あるいは一切皆苦という言葉をこの世には苦しみしかない、などと全くの誤解をしてしまったのだ。
生老病死は、これは「死」は別なのである。これは四つではなく三つの苦しみ説く言葉であり、生・老・病の三つとも解決不能な苦しみのことを例としてあげたのである。
この言葉は、人は、生まれてはすぐ死に、病んではすぐ死に、老いてはすぐ死ぬ、ということを意味する。
考えてみたらわかる。原始仏教は今から2500年前の劣悪環境のインドで生じた思想である。人は生まれたら大半がすぐ死んだのである。乳児死亡率は今とは比較にならない。病んだって、その多くは治療方法すらなく死んでしまうし、老いたって病院や介護など期待できる世の中ではなかったのだ。
ブッダ達が言ったのは、古代インド思想の輪廻転生などのそれ以前の問題として、解決不能の苦しみ(生老病死)があるってみんな知ってるじゃないか、だったらせめて解決可能な苦しみをどうにか解決していこうではないか、というコロンブス的な発想の大転換だったのである。
このように考えれば、仏教はアホほど簡単なことしか言っていないことがわかる。
一切皆苦とは、修行者らに対するテーマのようなものである。現実の問題のみを解決していこうという超現実志向を表す言葉である。
一切皆空とは、この世には実体みたいな、どうにも出来ないものなどないと見よ、という極めて強い教えなのである。
諸行無常とは、輪廻転生みたいな、永久に変わらぬ事柄などない、という希望を与える言葉なのである。
諸法無我とは、神のような存在の意思に頼るのではなく、物事に対する法を見出し、その法に従って問題を解決していこうじゃないかという、当たり前のことなのである。
みんな世の中に出て、例えば大人は仕事という問題解決にあたっているはずであろう。
例え、どうにもならん問題があっても、ストレス発散くらいするはずだ。
少なくとも人権主義思想は、すべての人にとって平等な社会の実現の根本的思想になっている。
そして、私たちは、法律であったり、科学であれば法則であったり、マナーだったり、様々なルールだったり、あらゆる物事に対して法を実際に使っている。
つまり、とっくの昔に、仏教など不要の社会になってしまっているのだ。
私たちにとって、仏教は本当に単なる当たり前のことを言っていただけなのである、2500年も前に、だ。
だから、悟った・覚ったとか無意味なことを言っても何の意味もないのである。
ソース:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66301
別の増田で言及されてたこれ、なんとなく分かってたが改めてグラフ出されるとキツイものがある。
他人にどう思われるかとか気にしないで、ガンガン異性にアプローチするマインドを獲得する努力をすればよかった。イケメンでなくても数撃てば当たるはずなんだ、お互い人間なんだから。ハロウィンなんて行ってナンパでもすりゃいいんだよ、チクショウ。もう終わっちゃったじゃん。
「女に媚びるとかダサい」とか下らない言い訳して異性獲得に関しては普通以下のコミュニケーションを「俺は人とは違う」なんて考えたりして、ほんとアホだ。ボーナスタイムは終わり、もう手遅れ。
色んな女性とヤりたい、この気持ちがこれほど精神を蝕むとは想定外だった。本能をなめていた。衣食住にとりあえず困らないこの環境で、次に来るのはこれだと分かり切っているのに。
なんて苦しいんだ。しかし爆発するような苦しさではない。別のことがあれば忘れることもできる、でもずっとそこにある。「世界はこの感情を否定することが正義になりつつある」なんて被害妄想まで出てくる。この世には何十億人も人間がいるってのによ。100万人集まってたって%どころか‰未満だっつーのにな。
全て俺のせいだ、自業自得。一切皆苦。言うほど無視できるか?クソったれ、自我なんてない方がいいんじゃないか。
ただ俺にだって正義はある。人様にひどい迷惑をかけない。生きている以上お互い様、恐れてはならないが、非倫理的になれば良かったというからといって、全部逆振りするのは間違いであることは知っている。世の中は極論でなく「程度」というファクターが非常に大事で、その程度の線引きで人々は争っている。争いに疲れて「極論」がもてはやされるが、これが愚であることは身に刻まれている。
こんなとこですら何て言われるか気にしちまう、終わってるわ。俺が終わってんだよ。