■ トップクラスの才能日本サッカー史上でもトップクラスの才能を持っているディフェンダーの1人と評されるのが、横浜FマリノスのDF松田直樹である。
マリノス一筋でJ1で366試合に出場。1993年のU-17世界大会、1995年のU-20世界大会、1996年のアトランタ五輪、2000年のシドニー五輪、2002年の日韓ワールドカップに出場。この5大会全てで、同じ学年となるMF中田英寿との共演を果たしている。さらに、MF中田英寿が達成することがなかった「アジアチャンピオンの称号」も得ている。
国際Aマッチ出場は40試合。実に素晴らしいキャリアを歩んできているが、その一方で、常に、その精神的に未熟な部分も指摘されてきた。プロになってからも、燃え尽き症候群的な不安定な状態になったことも少なくはなかったようである。10代の頃から注目を集め、これだけのキャリアを積み重ねながらも、「そのポテンシャルを考えると、もっと出来たのでは?」と思わせる実に不思議な選手である。
■ 止まったキャリア10代の頃から順調に日本代表でのキャリアを積み重ねてきたDF松田であったが、彼の代表でのキャリアは2005年3月で止まったままである。2003年、2004年と、岡田武史監督の下で、横浜FMはリーグ2連覇を達成。2003年は精神面で安定せずにチームの好成績とは裏腹に不本意なシーズンだったDF松田であるが、2004年の優勝には大きく貢献。リーグトップのチームのセンターバックを無視できるはずもなく、DF松田は2004年のアジアカップの直前に日本代表に復帰する。しかし・・・。
2005年3月30日に行われたドイツ・ワールドカップのアジア最終予選のバーレーン戦。ベンチ入りメンバーから外れた松田直樹は、スタンドで試合を観戦することなく、スタジアムからチームを離れてしまった。当然のように、その後、ジーコ監督から日本代表召集の声がかかることは無かった。28歳での出来事である。
DF松田が勝手に代表チームを離れたのは初めてではない。1999年にも当時のトルシエ監督の方針に反発し、ドイツで行われる五輪代表のキャンプに参加せず、日本に帰る道を選択している。2005年3月の出来事から、少し時間が経過した後、「もし今度、自分が代表に選ばれるなら、チームのために何でもしたいと思っています。」という手紙をジーコ監督に送っている。
■ サブ組の思いドイツ・ワールドカップで1分け2敗に終わった日本代表。その結果や内容以前に、大きな舞台でチームがチームではなかったことに失望した人が多かった。
DF松田の行動は決して褒められたことではないが、2004年の中国のアジアカップでも、「スタメン組」と「控え組」との格差が問題になりかけていた。このときは、ベテランのMF藤田俊哉、MF三浦淳宏、中国の反日サポーターのおかげで事なきを得たが、根本的な問題は解決していなかった。
最悪なことに、同じようなことを本番のドイツ大会でも繰り返すことになった。それは、ジーコ氏が元スーパースターでありサブ組の心情を考えることが出来なかったこと、そして、監督として経験が浅かったことが原因と考えられるが、今でも悔やまれることである。
■ ドイツ・ワールドカップの忘れ物ジーコ監督が率いた日本代表チームは中盤に才能のある選手を並べた「ドリームチーム」だった。スター選手を並べた攻撃陣は、ときに、魅力的な攻撃的なサッカーを見せた。これだけの選手が集まったら、いったいどんな日本代表チームが出来あがるのだろうか?とワクワクした。が、ワールドカップのような真剣勝負の舞台に臨むには、準備と経験が不足していたのは明らかだった。
大会終了後になって、再び、表に出てきたスタメン組とサブ組の乖離。アジアの舞台では、バラバラなチーム状態であっても、タレント力で頂点をつかむことが出来たが、アジアが限界だった。世界はそんなに甘くは無かった。本大会の1年と3ヶ月前に松田が代表のキャリアの終焉と引き換えに身をもって提示した問題は、結局、解決することは無かった。
中盤にタレントの多い日本代表チームが、その中盤にタレントを並べて世界の舞台に挑むことが、果たして正解なのかどうか?残念なことに、ドイツの地では、あまりにも、「ピッチ上」と「ピッチ外」での問題が多過ぎて、確認することは出来なかった。それは、改めて、日本サッカーにとって、大きな損失であったと思う。
もし、4年前の大会で、「中盤のタレント力に頼るサッカーでは世界に通用しない。」と、はっきりとした答えが得られていたら、その後の4年間で、違う道を探し求めることも出来たはずであるが、ドイツ大会では、はっきりとした回答は得られなかった。だからか、「日本には、あれだけの選手が中盤にいるのだから、そういったサッカーでも世界に十分に通じるのではないか?」という思いは、実は、いまだに捨てきれない。
イビチャ・オシム前監督は、MF鈴木啓太、MF山岸智、FW巻誠一郎といったハードワークの出来る選手を代表に抜擢し、「水を運ぶタイプ」を重視したように思えるが、2007年のアジアカップで採用したのは、MF中村俊輔、MF中村憲剛、MF遠藤保仁という3人のプレーメーカーを共存させる策であった。その後を受け継いだ岡田武史監督も、横浜Fマリノス時代のような現実的なサッカーを見せるのかと思われたが、実際に採用したのは、守備的なボランチを外して、MF長谷部誠を起用。時には、MF中村俊輔、MF中村憲剛、MF遠藤保仁、MF長谷部誠の4人を中盤に並べる贅沢な中盤であった。
今年の6月に行われる南アフリカ・ワールドカップ。まずは、ドイツ・ワールドカップの忘れ物で探すことが、1つの使命となる。
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