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紋別市沼の上鉱山

紋別市沼の上鉱山(令和元年5月26日探訪)

紋別市沼の上鉱山は鉱山集落である。
大正5年、白楊丸太材の伐り出し運搬作業で入山していた関口権作、黒川辰三、小野寺清助、三沢仁太郎、井辻吉五郎、土谷久太郎らの発見によるもので沼の上金山と名付けられた。
当初は函館の栖原鉱業所が経営していたが、昭和3年三菱鉱業の経営に移った。
学校は約6キロ先の志文特別教授場へ通学していたが、悪路であることや冬の吹雪きで数日間人馬の往来が止まることもあった。このため、鉱山所長高橋逸作が奔走し、鉱山家庭教授所開設の認可を得て昭和4年9月28日、三菱沼の上鉱山の経営する私塾として開設した。昭和12年、監督官庁の強い勧告や鉱山側の努力により2月に公立に移管し、志文尋常小学校所属となった。
昭和34年9月に沼の上鉱山は閉山し、従業員は下川鉱山へ配置転換となり、学校は昭和34年12月に閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。

昭和4年  私塾として開設(9月)
昭和12年 志文尋常小学校所属上志文特別教授場と改称
昭和23年 上志文小学校と改称(10月)
昭和34年 閉校(12月)

閉山の記事を掲載する。
三菱沼ノ上鑛業所閉山 31年の歴史に終止符
「三菱鉱業沼ノ上鑛山が開鉱以来31年の歴史に終止符を打ち9月末で閉鉱することになった。
 閉鉱の理由は将来性がなくなったため、つまり新鉱床が再三の探鉱にもかかわらず新鉱床が発見されず、この鉱山の埋蔵量がつきたものと見られたためである。
 同鉱は所長以下従業員43人で製練は行わず鉱石を系統工場に送っていた。
 三菱従業員は、下川鉱業所に抱かれるので閉山に起る労仂騒動は心配ない。
 同鉱山は大正6年(原文ママ)附近の農民が鉱石を発見、鉱山業今堀喜三郎さんが31鉱区の試掘願いを出しその後大正12年当時凾館の人栖原角衛さんの手に移り昭和3年三菱が買受けて開鉱し今に至っている。この鉱山閉鉱により市では一つの産業機関を失うことになり、年間市税その他の減収は約80万円になるというが教育関係費用の持出しが少なくすむことにより相殺すると約50万円程度の減収となる。」(「北海民友新聞昭和34年9月29日」)

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令和元年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
志文小学校探訪後、沼の上鉱山へ向かう。

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沼の上鉱山集落跡付近へ到達した。

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川の水が赤茶色に染まっている。

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集落を散策する。

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スイセンを見つけた。
人為的に植えたスイセンが野性化して残っていた。
集落はここで間違いない。

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学校は何処に在ったのだろうか。

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旧版地形図をみると、この辺りに家屋が集中しているが、今は植林された林となっていた。

P1130881.jpg
「入山禁止」の看板に三菱金属鉱山の名前があった。
鉱山時代の唯一の名残であった。

参考文献
北海民友新聞1959「三菱沼ノ上鑛業所閉山 31年の歴史に終止符」『北海民友新聞』
紋別市史編纂委員会1960『紋別市史』紋別市
紋別市史編さん委員会1983『新紋別市史』紋別市

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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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