紋別市志文
紋別市志文(平成30年10月21日・令和元年5月26日探訪)
紋別市志文は農村集落である。
明治43年シュブノツナイ原野区画測定がなされた直後に関口権作、三沢金作、岩松安治、金内亀造らの入植が始まりである。大正3年開削道路が新設されてからシュブノツナイ川流域よりも農耕適地であることや、金山の発見(沼の上鉱山)により入植者が急増した。
学校は大正3年11月15日、紋別尋常小学校所属志文特別教授場として開校した。
戦後、沼の上鉱山の閉山(昭和34年)や離農により昭和57年の閉校時点で12戸であった。
地元の方からいただいた情報で、令和元年6月時点で志文の戸数は5戸である。
学校の沿革は以下の通りである。
大正3年 紋別尋常小学校所属志文特別教授場として開校(11月)
大正4年 暴風雨により校舎倒壊。9月校舎再建
大正10年 小向尋常小学校所属志文特別教授場と改称
大正11年 沼の上尋常小学校所属志文特別教授場と改称
昭和3年 校舎新築
昭和6年 志文尋常小学校と改称
昭和16年 志文国民学校と改称(4月)
昭和22年 紋別市立志文小学校と改称(4月)
昭和57年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する。
辺地校の灯また消える 紋別・志文小 寂しい卒業、閉校式
「【紋別】また一つ、辺地の学校の灯が消えた。68年の歴史を持つ志文小(山口繁校長)で18日、最後の卒業式と閉校式が行われ、本州から駆けつけたOBを含めた約100人が、懐かしの母校との別れを惜しんだ。
同校は大正3年(1914年)紋別尋常小学校志文特別教授場として開校、昭和22年に志文小学校と改称してこれまでに404人の卒業生を送り出して来た。炭焼きに始まって製材、鉱山の開発と人口が増えた同地区で、一時は児童が100人近くを数えたこともあったが40年代から離農や鉱山の閉山などで戸数が12戸に減り、56年度の児童数はわずか4人。このうち2人がこの春卒業して、新入生がいないため、2人の児童だけでは効果的な授業ができないことなどを理由に、隣の沼ノ上小への統合が決まった。
午前10時からの卒業式では、山口校長の式辞のあと、6年生の伊藤健君と菅原学君に卒業証書、3年生で伊藤君の弟の仁君、菅原君の弟の智君に修了証書が渡された。
このあと6年生、3年生の2組の兄弟が別れのあいさつを交わし、在校生が「親切にしてくれて本当にありがとう」、卒業生が「入学したころにたくさんいた友達が次々と去っていくのはさびしかったが、思い出はいつまでも尽きません」と語りかけると、出席した父兄の間にハンカチで目頭を押さえる姿が目立った。
続いて山形県、函館市などの遠隔地からやって来たOBを含め、約100人が参加して閉校式が行われ、今は楽しかった思い出だけが胸に残る懐かしの校舎に別れを告げた。」(北海道新聞網走北見版 昭和57年3月20日)
平成30年10月、K.T氏と訪れた。
学校周辺には人家が点在している。
閉校後、校舎は一度も使われないまま朽ちようとしていた。
学校の隣には神社がある。
翌年5月、HEYANEKO氏らと再訪したが校舎の傷みは一層進んでいた。
鳥居の先には祠があった。
隣には昭和8年10月建立の馬頭観世音があった。
参考文献
紋別市史編纂委員会1960『紋別市史』紋別市
北海道新聞網走北見版1982「辺地校の灯また消える 紋別・志文小 寂しい卒業、閉校式」『北海道新聞昭和57年3月20日』
紋別市志文は農村集落である。
明治43年シュブノツナイ原野区画測定がなされた直後に関口権作、三沢金作、岩松安治、金内亀造らの入植が始まりである。大正3年開削道路が新設されてからシュブノツナイ川流域よりも農耕適地であることや、金山の発見(沼の上鉱山)により入植者が急増した。
学校は大正3年11月15日、紋別尋常小学校所属志文特別教授場として開校した。
戦後、沼の上鉱山の閉山(昭和34年)や離農により昭和57年の閉校時点で12戸であった。
地元の方からいただいた情報で、令和元年6月時点で志文の戸数は5戸である。
学校の沿革は以下の通りである。
大正3年 紋別尋常小学校所属志文特別教授場として開校(11月)
大正4年 暴風雨により校舎倒壊。9月校舎再建
大正10年 小向尋常小学校所属志文特別教授場と改称
大正11年 沼の上尋常小学校所属志文特別教授場と改称
昭和3年 校舎新築
昭和6年 志文尋常小学校と改称
昭和16年 志文国民学校と改称(4月)
昭和22年 紋別市立志文小学校と改称(4月)
昭和57年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する。
辺地校の灯また消える 紋別・志文小 寂しい卒業、閉校式
「【紋別】また一つ、辺地の学校の灯が消えた。68年の歴史を持つ志文小(山口繁校長)で18日、最後の卒業式と閉校式が行われ、本州から駆けつけたOBを含めた約100人が、懐かしの母校との別れを惜しんだ。
同校は大正3年(1914年)紋別尋常小学校志文特別教授場として開校、昭和22年に志文小学校と改称してこれまでに404人の卒業生を送り出して来た。炭焼きに始まって製材、鉱山の開発と人口が増えた同地区で、一時は児童が100人近くを数えたこともあったが40年代から離農や鉱山の閉山などで戸数が12戸に減り、56年度の児童数はわずか4人。このうち2人がこの春卒業して、新入生がいないため、2人の児童だけでは効果的な授業ができないことなどを理由に、隣の沼ノ上小への統合が決まった。
午前10時からの卒業式では、山口校長の式辞のあと、6年生の伊藤健君と菅原学君に卒業証書、3年生で伊藤君の弟の仁君、菅原君の弟の智君に修了証書が渡された。
このあと6年生、3年生の2組の兄弟が別れのあいさつを交わし、在校生が「親切にしてくれて本当にありがとう」、卒業生が「入学したころにたくさんいた友達が次々と去っていくのはさびしかったが、思い出はいつまでも尽きません」と語りかけると、出席した父兄の間にハンカチで目頭を押さえる姿が目立った。
続いて山形県、函館市などの遠隔地からやって来たOBを含め、約100人が参加して閉校式が行われ、今は楽しかった思い出だけが胸に残る懐かしの校舎に別れを告げた。」(北海道新聞網走北見版 昭和57年3月20日)
平成30年10月、K.T氏と訪れた。
学校周辺には人家が点在している。
閉校後、校舎は一度も使われないまま朽ちようとしていた。
学校の隣には神社がある。
翌年5月、HEYANEKO氏らと再訪したが校舎の傷みは一層進んでいた。
鳥居の先には祠があった。
隣には昭和8年10月建立の馬頭観世音があった。
参考文献
紋別市史編纂委員会1960『紋別市史』紋別市
北海道新聞網走北見版1982「辺地校の灯また消える 紋別・志文小 寂しい卒業、閉校式」『北海道新聞昭和57年3月20日』
コメントの投稿
屋体さ屋根ちょっと低そうで、バレーボールとかやりづらそうなのだ
「みなさんようこそ」なんて垂れ幕があったりすると、
閉校後、何らかの形で学校校舎の施設が使われたのかなぁって…(宿泊施設とか)。
それとも「(僻地複式等の)研究発表会」などで参加者が来たとき使ったのかなぁ…って。
・・・農業施設や牧草ロール収納には使ったのかも…はじめっち
内容には直接は関わらないのかもしれないっすけど、
あるTwitterさんが3年位前に「志文小学校」と「東社名渕小学校(若松の学校)」の現状について
報告?していたのっすが、若松の学校も荒れ方がひどいっす。
志文のほうは結構取り上げられることも多くって、徐々に自然に帰っていく様が確認できるので、
「これはしょうがないことなんすねぇ」と思えるんですが…。
若松の学校は完全に撤去されてしまったんすね。10年前の時も近くの家屋含め残ってたんすが…。
・・・貴Twitter見たっすゆたか
志文小も沼ノ上鉱山(上志文小)も三吉小も行ったことはなくって、ましてや三吉の存在は知らず、
鉱山は緑陰と同じく、コワくって、入っていけず…(弘道はあるんですが…)。
・・・弘道は比較的しっかり残ってるんですねみならいかのん
あたいはむずかしいことはよくわかんないけども、
この学校さ写真見る限りじゃ、けっこう大きかった学校に見えるのだ。
もしかして併置校だった…と思ったのだ。(調べたら違ったのだ)。
上志文小学校ってば、なんか岩見沢にあった学校みたいなのだ。
・・・もしかして道内に「上志文小(または中)」がまだあったりするかもなのだつるみん
閉校後、何らかの形で学校校舎の施設が使われたのかなぁって…(宿泊施設とか)。
それとも「(僻地複式等の)研究発表会」などで参加者が来たとき使ったのかなぁ…って。
・・・農業施設や牧草ロール収納には使ったのかも…はじめっち
内容には直接は関わらないのかもしれないっすけど、
あるTwitterさんが3年位前に「志文小学校」と「東社名渕小学校(若松の学校)」の現状について
報告?していたのっすが、若松の学校も荒れ方がひどいっす。
志文のほうは結構取り上げられることも多くって、徐々に自然に帰っていく様が確認できるので、
「これはしょうがないことなんすねぇ」と思えるんですが…。
若松の学校は完全に撤去されてしまったんすね。10年前の時も近くの家屋含め残ってたんすが…。
・・・貴Twitter見たっすゆたか
志文小も沼ノ上鉱山(上志文小)も三吉小も行ったことはなくって、ましてや三吉の存在は知らず、
鉱山は緑陰と同じく、コワくって、入っていけず…(弘道はあるんですが…)。
・・・弘道は比較的しっかり残ってるんですねみならいかのん
あたいはむずかしいことはよくわかんないけども、
この学校さ写真見る限りじゃ、けっこう大きかった学校に見えるのだ。
もしかして併置校だった…と思ったのだ。(調べたら違ったのだ)。
上志文小学校ってば、なんか岩見沢にあった学校みたいなのだ。
・・・もしかして道内に「上志文小(または中)」がまだあったりするかもなのだつるみん
Re: 屋体さ屋根ちょっと低そうで、バレーボールとかやりづらそうなのだ
はじめっち&ゆたか&みならいかのん&つるみんさま
お返事有難うございました。
志文の校舎は閉校後、転用されないまま朽ちましたのでくだんの看板は恐らく、研究発表等の行事で使われたのかもしれまはせん。
Twitterでは他愛ないことばかりツイートしていますが、少しずつ調べています。
三吉も行ってきました。次回、公開しようと思います。
岩見沢にある上志文小学校跡は現在コンビニが建っており、敷地の一角に記念碑と二宮像があります。
お返事有難うございました。
志文の校舎は閉校後、転用されないまま朽ちましたのでくだんの看板は恐らく、研究発表等の行事で使われたのかもしれまはせん。
Twitterでは他愛ないことばかりツイートしていますが、少しずつ調べています。
三吉も行ってきました。次回、公開しようと思います。
岩見沢にある上志文小学校跡は現在コンビニが建っており、敷地の一角に記念碑と二宮像があります。
No title
実は閉校直後ぐらいに小学校の行事で二年連続で志文小学校で宿泊したことがあります
その頃はまだすべての建物が健在でグラウンドもまだ草に覆われてませんでした
その頃はまだすべての建物が健在でグラウンドもまだ草に覆われてませんでした
管理人のみ閲覧できます
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Re: No title
情報有難うございます。閉校直後ならまだまだしっかりしています。貴重な体験ですね。