八雲町二股
八雲町二股(平成26年10月12日探訪)
八雲町二股は、戦後開拓の集落である。
戦後、落部上の湯地区の国有地が開放され、入植者が入地していった。
入植したものの、二股地区は子供たちの教育問題を抱えていた。
当時は上の湯小学校へ通学させていたが、通学距離が8~10kmであったため、低学年の通学は体力的にも無理で、冬期間は不就学児童も出るという状況であった。
昭和30年7月29日付の北海道新聞 渡島檜山版には「学校まで二里も歩く 何とかしたい二股開拓部落の子供たち」とある。
「終戦後開拓者として入地した落部村開拓部落の入植者約十戸はいままで子弟を上ノ湯小学校に通学させていたが、同校の校舎増築をきっかけに是非この際分教場を部落に設置してほしいと冬期間、遠いところは二里もの雪道を全校一、二年の幼い学童が通学している実情を訴え」とある。
一方で、上ノ湯小学校は「本校所在地の上ノ湯部落が分教場設置に反対して児童を寄宿舎に入れ本校に通わせる案を出し」とある。
「二股開拓部落民の言分としては冬期間吹雪の中を一里も二里も幼い子供を本校まで通わせるのは親としてみるにしのびない。(中略)上ノ湯側の主張する冬期間学童を寄宿舎に入れるということになれbな、まだ食うだけやっとの開拓者では食費その他の経費負担に耐え切れないと教育の機会不均等を訴えており(以下略)」とある。
二股32番地に入植した松田兼松も住宅(ブロック造)建築後、まもなく離農し、その後に入植するものもなく空き家となっていた。
住民は、この住宅を仮校舎として分校を設置するよう村に要請した。
これにより昭和31年10月に認可を受けた。
昭和32年1月22日から「上の湯小学校二股分校」として、10名の児童によって開校した。
学校開校当時のことを、北海道新聞 渡島檜山版 昭和32年1月26日付の記事にこう出ている。
「〝もう欠席しません〟 下二股に分教場できる」
「落部市街地から六里の山奥にある下二股部落では終戦直後入植した十八戸のうち九戸が定住 部落の学童は中学生九人、小学生二十一人に達し往復六里近い道を上の湯小、中学校まで通学、冬期は積雪が深いため低学年の生徒は通学不能となり(中略)同教委は元開拓者のいた住宅十六坪を校舎に一年―三年まで低学年の生徒十二人を対象として二十二日開校、上の湯校から寺沢先生が着任した。」とある。
「部落では父兄が小さな学校に集まり紅白のパンと冷酒で念願かなった喜びにひたりながら開校式を祝ったが、生徒も父兄もこれからは〝休みません〟と誓い合った。」
しかし、学校が開校して月日も経たぬうちから離農が始まっていった。
北海道新聞 昭和35年12月22日付の記事で「しわすの風に泣く不振開拓部落 八雲町下二股の人たち」とある。
『「ワシはなんのためにここに入植したのかわからない。家族を苦労させるのにこんなにムダ道を十数年も歩き続けてきたのだろうか、借金と不幸の連続がワシの体から離れようとしないのだ」 部落のひとり矢口次郎さん(39)は吹き抜けるすき間風にふるえながら、こう語った。』
『下二股開拓地は函館本線の落部駅から約二十四キロの山奥、いまだに電気を知らない。渡島管内一の〝不振〟のレッテルをはられ、そこに住む九戸は〝絶望〟の二字を背負って生きている。』
『二十一年から二十五年までに入植した十六戸のうち七戸はすでに去った。戦後の食糧難で、土地さえあれば食べられると入植した人たちにとって、はじめは適地にみえたものの、クワをいれてみると、二メートル以上もあるササヤブ、その下はデコボコの荒地だった。』
『「生まれてはじめてササ刈りガマを手にし、三年くらいは毎年一ヘクタールていど開墾した。しかしその間になけなしの金を全部食いつぶし、畑の収入といってもスズメの涙ほど。これでは生きて行けないと、四年目からは造材の出かせぎをはじめたんですが…」と矢口さんはいう。(中略)』
『他の人たちも矢口さんと同じだ。ジャガイモ、豆、ヒエがおもな作物だが、収穫は少なく、若い働き手が土地を離れてゆくため、わずかな耕地も年々縮小している。家畜は部落中合わせて子ウシ一頭、ウマ四頭、ニワトリ若干。』
『「ここから出たい気持ちはいっぱいです。だが出るにしても当座をしのぐ金がない。いまの借金を返すアテすらありません」とみんな絶望的だ。八雲町役場では『もう私たちの手ではどうにもならない。根本的な国の施策が必要だ』とサジを投げており、渡島支庁でも『いまの状態ではどうしようもない。立地条件が悪いのだが、来年は生産意欲をもり立ててやりたい』といってはいるが、これといった名案はないようだ。」
「開拓不振」というレッテルを貼られた二股でああるが、明るいニュースもある。
北海道新聞 昭和39年7月31日付の記事で「辺地校の子ら大喜び 渡島道職員の贈り物届く」
『渡島支庁では二十九日、八雲町の辺地校四校に愛の贈り物を届け、学校や子どもたちは思いがけないプレゼントに大喜びだった。』
『渡島支庁は四年前から、〝辺地の子らと手をつなぐ運動〟のひとつとして子どもたちに愛の贈り物を続けてきたが、ことしは各支庁のトップを切って六月ごろから道南の道職員に呼びかけ、職員一人当たり百円を集めて文化の光に恵まれぬ各校に希望の品物を贈ったもの(中略)』
『(前略)午後一時すぎ八雲町にはいり、出迎えの石垣町教育長らといっしょに上の湯小中校の二股分校に到着。キャンプ用テントひと張りと知事からの贈り物「偉人全集」十巻を贈った。』
『同校は一年から四年まで生徒数わずか五人。松橋先生といっしょにキャンプにいくのを楽しみにしていただけに、さっそく包みを広げて〝やあ、すごく大きいなあ〟と大はしゃぎ。(以下略)』
しかし、それでも離農の流れには逆らえず、住民らは転出していった。
「八雲教育」第4号 「学校紹介 南から④ 上の湯小・中学校」の手記で二股分校は、こう記されている。
「(前略)二股分校は、離農という流れのきびしさのなかに、現在只一名の児童を収容している状態に立ち至っているが、子どもだけは、すこやかに伸ばしたいものである。(後略)」
また、「八雲教育」第8号 「座談会 へき地の子と共に-きびしさも、よろこびも-」の席上で、上の湯小・中学校 校長夫人 長谷部ヨシは「数年前、隣の分校の先生で、手おくれのために、死なせてしまった例がありました。」と発言している。
この「分校」は二股分校のことを指している。
二股分校は昭和42年3月末をもって、廃校になった。
「八雲教育」第9号では、こう記されている。
「鉛川小学校並に二股分校の廃校と、富咲分校の本校昇格。」
「(前略)離農のため教師の子一人だけとなった二股分校が廃校となりました。(後略)」
まずは本校である上の湯小学校。
校舎は閉校後、陶芸家のアトリエとして活用されていたが、既に閉鎖されている。
閉鎖されて久しく、老朽化が著しい。
これより分校のあった場所へ行く。
下二股林道の出発地点である。
林道の案内板に、その名前が記されている。
林道を進んで間もなく、砂防ダムの傍に魚道が設けられていた。
魚道を見下ろすが、結構な高さである。
魚道が見える場所より先の風景。
まだまだ進む。
道中、道が一部崩れかかっていた。
なかには車幅ギリギリのところもある。
やがて、大きく開けた場所に出た。
ラオウ氏の話によると、近年までこの場所にサイロが残されていたらしいが、植林のため解体されてしまったとのことである。
振り返って来た道を望む。
開拓の痕跡は全く残されていない。
さらに進む。
学校跡地はもうすぐだが、単独での探訪は勇気がいる。
橋を渡り、先へ進むと、右手に「国旗掲揚塔」があった。
国旗掲揚塔は折れていた。
その先に、記念碑があった。
ここに、分校があった。
驚きと興奮によりピンボケとなってしまい、失礼。
基礎が残っている。
傍には、仮校舎として活用された松田兼松宅の家屋も、外壁だけ残されている。
階段と思われる基礎。
奥には、学校の防風林と思われる樹木が野生化していた。
学校跡地より振り返った風景。
戦後に開拓された集落は植林され、面影を失っていた。
参考・引用文献
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和30年7月29日付「学校まで二里も歩く 何とかしたい二股開拓部落の子供たち」
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和32年1月26日付「〝もう欠席しません〟下二股に分教場できる」
北海道新聞 昭和35年12月22日付「しわすの風に泣く不振開拓部落 生産意欲失いがち」
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和39年7月31日付「辺地校の子ら大喜び 渡島道職員の贈り物届く」
八雲教育 第4号 昭和42年1月1日発行 「学校紹介 南から④ 上の湯小・中学校」
八雲教育 第8号 昭和42年10月5日発行「座談会 へき地の子と共に-きびしさも、よろこびも-」
八雲教育 第9号 昭和42年12月1日発行「昭和四十二年 八雲町教育十大ニュース」
八雲町二股は、戦後開拓の集落である。
戦後、落部上の湯地区の国有地が開放され、入植者が入地していった。
入植したものの、二股地区は子供たちの教育問題を抱えていた。
当時は上の湯小学校へ通学させていたが、通学距離が8~10kmであったため、低学年の通学は体力的にも無理で、冬期間は不就学児童も出るという状況であった。
昭和30年7月29日付の北海道新聞 渡島檜山版には「学校まで二里も歩く 何とかしたい二股開拓部落の子供たち」とある。
「終戦後開拓者として入地した落部村開拓部落の入植者約十戸はいままで子弟を上ノ湯小学校に通学させていたが、同校の校舎増築をきっかけに是非この際分教場を部落に設置してほしいと冬期間、遠いところは二里もの雪道を全校一、二年の幼い学童が通学している実情を訴え」とある。
一方で、上ノ湯小学校は「本校所在地の上ノ湯部落が分教場設置に反対して児童を寄宿舎に入れ本校に通わせる案を出し」とある。
「二股開拓部落民の言分としては冬期間吹雪の中を一里も二里も幼い子供を本校まで通わせるのは親としてみるにしのびない。(中略)上ノ湯側の主張する冬期間学童を寄宿舎に入れるということになれbな、まだ食うだけやっとの開拓者では食費その他の経費負担に耐え切れないと教育の機会不均等を訴えており(以下略)」とある。
二股32番地に入植した松田兼松も住宅(ブロック造)建築後、まもなく離農し、その後に入植するものもなく空き家となっていた。
住民は、この住宅を仮校舎として分校を設置するよう村に要請した。
これにより昭和31年10月に認可を受けた。
昭和32年1月22日から「上の湯小学校二股分校」として、10名の児童によって開校した。
学校開校当時のことを、北海道新聞 渡島檜山版 昭和32年1月26日付の記事にこう出ている。
「〝もう欠席しません〟 下二股に分教場できる」
「落部市街地から六里の山奥にある下二股部落では終戦直後入植した十八戸のうち九戸が定住 部落の学童は中学生九人、小学生二十一人に達し往復六里近い道を上の湯小、中学校まで通学、冬期は積雪が深いため低学年の生徒は通学不能となり(中略)同教委は元開拓者のいた住宅十六坪を校舎に一年―三年まで低学年の生徒十二人を対象として二十二日開校、上の湯校から寺沢先生が着任した。」とある。
「部落では父兄が小さな学校に集まり紅白のパンと冷酒で念願かなった喜びにひたりながら開校式を祝ったが、生徒も父兄もこれからは〝休みません〟と誓い合った。」
しかし、学校が開校して月日も経たぬうちから離農が始まっていった。
北海道新聞 昭和35年12月22日付の記事で「しわすの風に泣く不振開拓部落 八雲町下二股の人たち」とある。
『「ワシはなんのためにここに入植したのかわからない。家族を苦労させるのにこんなにムダ道を十数年も歩き続けてきたのだろうか、借金と不幸の連続がワシの体から離れようとしないのだ」 部落のひとり矢口次郎さん(39)は吹き抜けるすき間風にふるえながら、こう語った。』
『下二股開拓地は函館本線の落部駅から約二十四キロの山奥、いまだに電気を知らない。渡島管内一の〝不振〟のレッテルをはられ、そこに住む九戸は〝絶望〟の二字を背負って生きている。』
『二十一年から二十五年までに入植した十六戸のうち七戸はすでに去った。戦後の食糧難で、土地さえあれば食べられると入植した人たちにとって、はじめは適地にみえたものの、クワをいれてみると、二メートル以上もあるササヤブ、その下はデコボコの荒地だった。』
『「生まれてはじめてササ刈りガマを手にし、三年くらいは毎年一ヘクタールていど開墾した。しかしその間になけなしの金を全部食いつぶし、畑の収入といってもスズメの涙ほど。これでは生きて行けないと、四年目からは造材の出かせぎをはじめたんですが…」と矢口さんはいう。(中略)』
『他の人たちも矢口さんと同じだ。ジャガイモ、豆、ヒエがおもな作物だが、収穫は少なく、若い働き手が土地を離れてゆくため、わずかな耕地も年々縮小している。家畜は部落中合わせて子ウシ一頭、ウマ四頭、ニワトリ若干。』
『「ここから出たい気持ちはいっぱいです。だが出るにしても当座をしのぐ金がない。いまの借金を返すアテすらありません」とみんな絶望的だ。八雲町役場では『もう私たちの手ではどうにもならない。根本的な国の施策が必要だ』とサジを投げており、渡島支庁でも『いまの状態ではどうしようもない。立地条件が悪いのだが、来年は生産意欲をもり立ててやりたい』といってはいるが、これといった名案はないようだ。」
「開拓不振」というレッテルを貼られた二股でああるが、明るいニュースもある。
北海道新聞 昭和39年7月31日付の記事で「辺地校の子ら大喜び 渡島道職員の贈り物届く」
『渡島支庁では二十九日、八雲町の辺地校四校に愛の贈り物を届け、学校や子どもたちは思いがけないプレゼントに大喜びだった。』
『渡島支庁は四年前から、〝辺地の子らと手をつなぐ運動〟のひとつとして子どもたちに愛の贈り物を続けてきたが、ことしは各支庁のトップを切って六月ごろから道南の道職員に呼びかけ、職員一人当たり百円を集めて文化の光に恵まれぬ各校に希望の品物を贈ったもの(中略)』
『(前略)午後一時すぎ八雲町にはいり、出迎えの石垣町教育長らといっしょに上の湯小中校の二股分校に到着。キャンプ用テントひと張りと知事からの贈り物「偉人全集」十巻を贈った。』
『同校は一年から四年まで生徒数わずか五人。松橋先生といっしょにキャンプにいくのを楽しみにしていただけに、さっそく包みを広げて〝やあ、すごく大きいなあ〟と大はしゃぎ。(以下略)』
しかし、それでも離農の流れには逆らえず、住民らは転出していった。
「八雲教育」第4号 「学校紹介 南から④ 上の湯小・中学校」の手記で二股分校は、こう記されている。
「(前略)二股分校は、離農という流れのきびしさのなかに、現在只一名の児童を収容している状態に立ち至っているが、子どもだけは、すこやかに伸ばしたいものである。(後略)」
また、「八雲教育」第8号 「座談会 へき地の子と共に-きびしさも、よろこびも-」の席上で、上の湯小・中学校 校長夫人 長谷部ヨシは「数年前、隣の分校の先生で、手おくれのために、死なせてしまった例がありました。」と発言している。
この「分校」は二股分校のことを指している。
二股分校は昭和42年3月末をもって、廃校になった。
「八雲教育」第9号では、こう記されている。
「鉛川小学校並に二股分校の廃校と、富咲分校の本校昇格。」
「(前略)離農のため教師の子一人だけとなった二股分校が廃校となりました。(後略)」
まずは本校である上の湯小学校。
校舎は閉校後、陶芸家のアトリエとして活用されていたが、既に閉鎖されている。
閉鎖されて久しく、老朽化が著しい。
これより分校のあった場所へ行く。
下二股林道の出発地点である。
林道の案内板に、その名前が記されている。
林道を進んで間もなく、砂防ダムの傍に魚道が設けられていた。
魚道を見下ろすが、結構な高さである。
魚道が見える場所より先の風景。
まだまだ進む。
道中、道が一部崩れかかっていた。
なかには車幅ギリギリのところもある。
やがて、大きく開けた場所に出た。
ラオウ氏の話によると、近年までこの場所にサイロが残されていたらしいが、植林のため解体されてしまったとのことである。
振り返って来た道を望む。
開拓の痕跡は全く残されていない。
さらに進む。
学校跡地はもうすぐだが、単独での探訪は勇気がいる。
橋を渡り、先へ進むと、右手に「国旗掲揚塔」があった。
国旗掲揚塔は折れていた。
その先に、記念碑があった。
ここに、分校があった。
驚きと興奮によりピンボケとなってしまい、失礼。
基礎が残っている。
傍には、仮校舎として活用された松田兼松宅の家屋も、外壁だけ残されている。
階段と思われる基礎。
奥には、学校の防風林と思われる樹木が野生化していた。
学校跡地より振り返った風景。
戦後に開拓された集落は植林され、面影を失っていた。
参考・引用文献
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和30年7月29日付「学校まで二里も歩く 何とかしたい二股開拓部落の子供たち」
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和32年1月26日付「〝もう欠席しません〟下二股に分教場できる」
北海道新聞 昭和35年12月22日付「しわすの風に泣く不振開拓部落 生産意欲失いがち」
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和39年7月31日付「辺地校の子ら大喜び 渡島道職員の贈り物届く」
八雲教育 第4号 昭和42年1月1日発行 「学校紹介 南から④ 上の湯小・中学校」
八雲教育 第8号 昭和42年10月5日発行「座談会 へき地の子と共に-きびしさも、よろこびも-」
八雲教育 第9号 昭和42年12月1日発行「昭和四十二年 八雲町教育十大ニュース」