鹿部町雨鱒川
鹿部町雨鱒川(平成30年9月23日探訪)
雨鱒川は鉱山集落(硫黄鉱山)であった。
明治28年 七飯村の斉藤虎松らが雨鱒川上流の山中で焚火をして石灰が燃えたことから硫黄鉱山が発見された。
斉藤は大木長蔵らと共同で採掘許可を得、翌年に山本巳之助が加わったがこの時は鉱床を発見できなかった。
その後、川の東方山腹に鉱床を発見し開坑採掘に着手。
明治33年に規模を拡張し「山本鉱山」と呼んだ。明治41年渡島鉱業株式会社の経営に移り「鹿部鉱山」と改称した。
大正5年、函館の末富孝治郎に経営が移り、大正7年から富岡鉱業株式会社と変更した。
のち磯村利水へ、昭和13年から鹿部鉱業株式会社の経営に移行し昭和17年から日本硫鉄株式会社に買収され雨鱒川鉱山と改称した。
昭和34年12月に雨鱒川鉱山は閉山した。
学校は明治36年9月に山本巳之助が木造柾葺平屋37坪を新築して鹿部村に寄附し、11月10日雨鱒川簡易教育所が開校したのが始まりである。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治36年 雨鱒川簡易教育所として開校(9月)
昭和16年 雨鱒川国民学校と改称(4月)
昭和22年 雨鱒川小学校と改称(4月)
昭和36年 閉校(3月)
※雨鱒川簡易教育所から尋常小学校に改称した年は分からなかったが、大正7年度『北海道教育関係職員録』には雨鱒川尋校長名の記載があることから、大正7年には既に雨鱒川尋常小学校に改称している。
中学校
昭和31年 雨鱒川中学校開校(4月)
昭和36年 閉校(3月)
平成30年9月、道南の廃校探訪でラオウ氏とA.D.1600氏と訪ねた。
舗装道路を歩く。
歩き始めて暫く経つと舗装道路から砂利道に切り替わる。
地形図で神社跡付近と思われるポイントに着いた。
道から一段下がった場所は平坦な土地が広がっている。
鉱山の名に由来する雨鱒川。
古い排水溝を見つけた。
言い換えれば、この辺りに建物があった証拠である。
続いて神社跡付近を入念に調べる。
オンコ(イチイ)の木が3本。この山中で野生化したオンコの木はまず見られない。
人為的に植樹されたものである。
オンコの木があるのは『神社』『学校』の割合が高い。
A.D.1600氏が言う。
「足元にレンガがあります。」
レンガである。さらに「足元に穴があります。」と云う。
草で見づらいがここだけ窪んでいる。
その穴の傍に角型スコップがあった。
雨鱒川集落で間違いない。
一番印象深いオンコの木。
社殿の基礎などは確認できなかった。
神社跡付近より周辺の風景。
雨鱒川小・中学校は何処にあったのだろうか。
参考文献
北海道連合教育会1918『北海道教育関係職員録 大正7年12月調査』北海道連合教育会
北海道連合教育会1941『北海道教育関係職員録 昭和16年7月調査』北海道連合教育会
北海道庁1947『北海道教育関係職員録 昭和22年9月1日現在』北方民生協会
北海道教職員組合1956『北海道教育関係職員録 昭和31年度』北海教育評論社
鹿部町史編集室1994『鹿部町史』鹿部町
雨鱒川は鉱山集落(硫黄鉱山)であった。
明治28年 七飯村の斉藤虎松らが雨鱒川上流の山中で焚火をして石灰が燃えたことから硫黄鉱山が発見された。
斉藤は大木長蔵らと共同で採掘許可を得、翌年に山本巳之助が加わったがこの時は鉱床を発見できなかった。
その後、川の東方山腹に鉱床を発見し開坑採掘に着手。
明治33年に規模を拡張し「山本鉱山」と呼んだ。明治41年渡島鉱業株式会社の経営に移り「鹿部鉱山」と改称した。
大正5年、函館の末富孝治郎に経営が移り、大正7年から富岡鉱業株式会社と変更した。
のち磯村利水へ、昭和13年から鹿部鉱業株式会社の経営に移行し昭和17年から日本硫鉄株式会社に買収され雨鱒川鉱山と改称した。
昭和34年12月に雨鱒川鉱山は閉山した。
学校は明治36年9月に山本巳之助が木造柾葺平屋37坪を新築して鹿部村に寄附し、11月10日雨鱒川簡易教育所が開校したのが始まりである。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治36年 雨鱒川簡易教育所として開校(9月)
昭和16年 雨鱒川国民学校と改称(4月)
昭和22年 雨鱒川小学校と改称(4月)
昭和36年 閉校(3月)
※雨鱒川簡易教育所から尋常小学校に改称した年は分からなかったが、大正7年度『北海道教育関係職員録』には雨鱒川尋校長名の記載があることから、大正7年には既に雨鱒川尋常小学校に改称している。
中学校
昭和31年 雨鱒川中学校開校(4月)
昭和36年 閉校(3月)
平成30年9月、道南の廃校探訪でラオウ氏とA.D.1600氏と訪ねた。
舗装道路を歩く。
歩き始めて暫く経つと舗装道路から砂利道に切り替わる。
地形図で神社跡付近と思われるポイントに着いた。
道から一段下がった場所は平坦な土地が広がっている。
鉱山の名に由来する雨鱒川。
古い排水溝を見つけた。
言い換えれば、この辺りに建物があった証拠である。
続いて神社跡付近を入念に調べる。
オンコ(イチイ)の木が3本。この山中で野生化したオンコの木はまず見られない。
人為的に植樹されたものである。
オンコの木があるのは『神社』『学校』の割合が高い。
A.D.1600氏が言う。
「足元にレンガがあります。」
レンガである。さらに「足元に穴があります。」と云う。
草で見づらいがここだけ窪んでいる。
その穴の傍に角型スコップがあった。
雨鱒川集落で間違いない。
一番印象深いオンコの木。
社殿の基礎などは確認できなかった。
神社跡付近より周辺の風景。
雨鱒川小・中学校は何処にあったのだろうか。
参考文献
北海道連合教育会1918『北海道教育関係職員録 大正7年12月調査』北海道連合教育会
北海道連合教育会1941『北海道教育関係職員録 昭和16年7月調査』北海道連合教育会
北海道庁1947『北海道教育関係職員録 昭和22年9月1日現在』北方民生協会
北海道教職員組合1956『北海道教育関係職員録 昭和31年度』北海教育評論社
鹿部町史編集室1994『鹿部町史』鹿部町