名寄市北山
名寄市北山(平成19年4月30日・平成22年5月3日・平成24年1月29日探訪)
北山の開拓は智恵文村周辺地域より遅れた大正12(1923)年、道有地の貸付によって始まった。
当初は40戸ほどを数え、学童も30名前後に達していたが当時は智恵文尋常高等小学校に属していたので遠距離通学だった。
大正15年7月、北山特別教授場が設置された。これが北山小学校の開校年でもある。
昭和4年、北山尋常小学校。昭和16年 北山国民学校。昭和22年に北山小学校と変遷を辿る。
本格的な入植は戦後になってからである。所謂「戦後開拓」として入地した事。隣接の地域(旭地区)にも入植者が現れたことである。
しかし急傾斜面や、農作物の不振により昭和30年代頃より離農が相次ぎ、昭和52年3月31日に閉校となった。
北山の主要作物はバレイショ、ハッカ、豆や麦であったがそれ以外に、炭鉱も操業していた。炭鉱は戦中の一時でこの時は炭鉱長屋(鉱員住宅)が建ち並んでいたが、短命に終わってしまった。
北山にまつわるエピソードとして、ある方よりお便りを頂戴した。
その方の父親が教員で、38歳の時に校長職に昇任し、最初の勤務地が北山尋常小学校であった。
その頃は母の手助けを受けながら、在籍していた60名余りの生徒を一つの教室で教えていた…としたためられていた。
その他、北星駅周辺に住まわれている方の聞き取りの結果「昭和48~49年頃、北山小学校で運動会が催されたときに見物にいった」と話してくれた。
子供たちは智恵文小学校に通学しており、その方の住まわれている場所より3軒奥の家が、通学の境界であった。
様々な思い出を秘めた北山は、現在、無人集落(廃村)となってしまった。
北星駅を降り、北山小学校跡へと行く。
この辺りから北山集落に入る。
北山の開拓25周年を記念、並びに先人の功績を讃え昭和24年10月に建立された開拓記念碑。
やがて、道が二股に分かれる。
この先へ進めば北山小学校跡地へ行くことができる。
左は戦後に開拓された「旭」地区へ行くことができる。
旭は現在、養豚場の施設が1軒あるだけである。以前は名寄市の「智恵文ひまわり畑」として脚光を浴びていた。
旭への道のり。
この先に集落があったのか?と心細くなる。
旭集落跡。
養豚の施設のみあった。
古い小屋があるが、旭の開拓当時のものだろうか?
小さい橋。恐らく、旭集落当時からのものだろう。
橋の先は薮と木々に覆われていた。
それでは先ほどの分岐点まで戻り、今度は学校跡地へ。
写真に見える廃屋は北山で唯一、原形を留めた家屋である。
道をもう少し進むと二股に分かれる道がある。
左へ進むと、北山小学校校舎跡がある。
北山小学校跡の記念碑
この記念碑のある場所が、当時の学校玄関であった。
北山小学校には「校歌」が無かったが「応援歌」があった。
応援歌碑は平成18年建立された。
校舎跡地の隣接地に教員住宅があった。この煙突は教員住宅のものである。
教員住宅と校舎を繋いでいた廊下の一部?と思われる。
校舎の近くにあった「北山神社」跡と思われる場所。
ここだけ幹の太い「マツ」の木があったので、神社の跡かと思ったが確証は持てない。
神社跡と思われる場所より奥の風景。
この奥にも、人々の営みがあったが自然に還ってしまっていた。
平成24年5月 北山を再訪した。
この時期は草木もそんなに伸びていないので、思わぬ発見がある。
北山に唯一残っていた家屋が解体されていた。
解体されて、本当に間もないようである。
その先へ進むと、養豚場?の一部が残されていた。
北山小学校閉校記念碑と応援歌碑。
傍には子供たちの遊具である「タイヤ」があった。
記念碑の裏側には便槽と、便器の残骸が残されていた。
校舎の後方部に便所棟があった。
教員住宅の全景。今回は、基礎もはっきり確認できた。
教員住宅と校舎とを繋いでいた「渡り廊下」
以前、この地に住まわれていた方の記憶によると「教員住宅と校舎とを結ぶ渡り廊下は、幅が広かった。また、夜間の巡回中、渡り廊下で野生のシカと遭遇して非常に驚いた」と仰っていた。
学校の傍にあった「北山神社」跡地。
笹藪の中に、神社に必ずある「手洗い場」があった。
植わっていた草を取り除いてみる。
側面には「紀元二千六百年」(昭和15年)の文字が彫られている。
手洗い場の傍に、石垣が辛うじて残されていた。
手洗い場より神社へのアプローチ。
笹藪をこがないと、たどり着けない。
校舎の隣接する山に「半鐘」があった。話によると「山の上の方に半鐘があり、半鐘を管理していた方のお宅に泊りに行っては、櫓に登らせて貰った」とのことであるが…。
薮を進むと植林風景が広がっていた。
しかし、何故か「サクラ」の樹が植わっていた。
サクラの木の傍に、石垣らしき石の塊があった。
ここに半鐘を管理していた方のお宅があったのだろうか…?
今回の証言は昭和10年代前半の思い出話なので、面影を見つけ出すのは難しかった。
北山の開拓は智恵文村周辺地域より遅れた大正12(1923)年、道有地の貸付によって始まった。
当初は40戸ほどを数え、学童も30名前後に達していたが当時は智恵文尋常高等小学校に属していたので遠距離通学だった。
大正15年7月、北山特別教授場が設置された。これが北山小学校の開校年でもある。
昭和4年、北山尋常小学校。昭和16年 北山国民学校。昭和22年に北山小学校と変遷を辿る。
本格的な入植は戦後になってからである。所謂「戦後開拓」として入地した事。隣接の地域(旭地区)にも入植者が現れたことである。
しかし急傾斜面や、農作物の不振により昭和30年代頃より離農が相次ぎ、昭和52年3月31日に閉校となった。
北山の主要作物はバレイショ、ハッカ、豆や麦であったがそれ以外に、炭鉱も操業していた。炭鉱は戦中の一時でこの時は炭鉱長屋(鉱員住宅)が建ち並んでいたが、短命に終わってしまった。
北山にまつわるエピソードとして、ある方よりお便りを頂戴した。
その方の父親が教員で、38歳の時に校長職に昇任し、最初の勤務地が北山尋常小学校であった。
その頃は母の手助けを受けながら、在籍していた60名余りの生徒を一つの教室で教えていた…としたためられていた。
その他、北星駅周辺に住まわれている方の聞き取りの結果「昭和48~49年頃、北山小学校で運動会が催されたときに見物にいった」と話してくれた。
子供たちは智恵文小学校に通学しており、その方の住まわれている場所より3軒奥の家が、通学の境界であった。
様々な思い出を秘めた北山は、現在、無人集落(廃村)となってしまった。
北星駅を降り、北山小学校跡へと行く。
この辺りから北山集落に入る。
北山の開拓25周年を記念、並びに先人の功績を讃え昭和24年10月に建立された開拓記念碑。
やがて、道が二股に分かれる。
この先へ進めば北山小学校跡地へ行くことができる。
左は戦後に開拓された「旭」地区へ行くことができる。
旭は現在、養豚場の施設が1軒あるだけである。以前は名寄市の「智恵文ひまわり畑」として脚光を浴びていた。
旭への道のり。
この先に集落があったのか?と心細くなる。
旭集落跡。
養豚の施設のみあった。
古い小屋があるが、旭の開拓当時のものだろうか?
小さい橋。恐らく、旭集落当時からのものだろう。
橋の先は薮と木々に覆われていた。
それでは先ほどの分岐点まで戻り、今度は学校跡地へ。
写真に見える廃屋は北山で唯一、原形を留めた家屋である。
道をもう少し進むと二股に分かれる道がある。
左へ進むと、北山小学校校舎跡がある。
北山小学校跡の記念碑
この記念碑のある場所が、当時の学校玄関であった。
北山小学校には「校歌」が無かったが「応援歌」があった。
応援歌碑は平成18年建立された。
校舎跡地の隣接地に教員住宅があった。この煙突は教員住宅のものである。
教員住宅と校舎を繋いでいた廊下の一部?と思われる。
校舎の近くにあった「北山神社」跡と思われる場所。
ここだけ幹の太い「マツ」の木があったので、神社の跡かと思ったが確証は持てない。
神社跡と思われる場所より奥の風景。
この奥にも、人々の営みがあったが自然に還ってしまっていた。
平成24年5月 北山を再訪した。
この時期は草木もそんなに伸びていないので、思わぬ発見がある。
北山に唯一残っていた家屋が解体されていた。
解体されて、本当に間もないようである。
その先へ進むと、養豚場?の一部が残されていた。
北山小学校閉校記念碑と応援歌碑。
傍には子供たちの遊具である「タイヤ」があった。
記念碑の裏側には便槽と、便器の残骸が残されていた。
校舎の後方部に便所棟があった。
教員住宅の全景。今回は、基礎もはっきり確認できた。
教員住宅と校舎とを繋いでいた「渡り廊下」
以前、この地に住まわれていた方の記憶によると「教員住宅と校舎とを結ぶ渡り廊下は、幅が広かった。また、夜間の巡回中、渡り廊下で野生のシカと遭遇して非常に驚いた」と仰っていた。
学校の傍にあった「北山神社」跡地。
笹藪の中に、神社に必ずある「手洗い場」があった。
植わっていた草を取り除いてみる。
側面には「紀元二千六百年」(昭和15年)の文字が彫られている。
手洗い場の傍に、石垣が辛うじて残されていた。
手洗い場より神社へのアプローチ。
笹藪をこがないと、たどり着けない。
校舎の隣接する山に「半鐘」があった。話によると「山の上の方に半鐘があり、半鐘を管理していた方のお宅に泊りに行っては、櫓に登らせて貰った」とのことであるが…。
薮を進むと植林風景が広がっていた。
しかし、何故か「サクラ」の樹が植わっていた。
サクラの木の傍に、石垣らしき石の塊があった。
ここに半鐘を管理していた方のお宅があったのだろうか…?
今回の証言は昭和10年代前半の思い出話なので、面影を見つけ出すのは難しかった。