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新十津川町上尾白利加(北美沢・再訪)

新十津川町上尾白利加は既に平成25年10月20日探訪した。
日本の過疎地 新十津川町上尾白利加
今回、「学舎の風景」合同調査の一環として再訪したことをレポートする。

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上尾白利加(後、北美沢と改称)の学校跡地周辺。

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「学校の沢」川が流れている。

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橋の名前は「渡辺橋」である。

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舗装道路を離れ、藪道へ入ると旧道があった。
これは尾白利加ダム方向を望んだものである。

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旧道には道路標識や、写真には写っていないが木製電柱が建ち並んでいた。

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標識の先の風景。
田畑は既に自然に帰り、白樺林と化している。
学校跡はこの先に位置している。

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現「渡辺橋」の手前奥に開けた空間があった。
手前側はグラウンドである。

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防風林が残されている。
写真には収まりきれていないが、「コ」の字型で防風林が残されている。

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グラウンド跡の先、一段高くなった台地に校舎があった。
給食で使う食器も落ちていた。

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学校跡の基礎。
ここに上尾白利加(北美沢)小中学校の校舎があった。

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校舎の隣に、浴槽らしきタイルがあった。
所謂「学校風呂」ではないかと思われる。

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近くには便器もあった。

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校舎の後ろ側には「槽」がある。
探訪当時、用途については分からなかった。

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足元を掘ると、一升瓶が出てきた。
残されたラベルから推測するに、調味料関係と思われる。

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基礎を見ると、通気口も残されていた。

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校舎の正面玄関部分と思われる場所より、校舎のトタン屋根やビール瓶が出てきた。
状態の良いトタン屋根を写し、トタンは元のように埋め戻した。

ここから国領方面に神社があったので、神社跡地も行ってみる。

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神社跡地より学校方面を望む。

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神社前にも家屋があったようだが、何も残されていない。
建物があった場所だけ、草が生えていない。

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神社への道のりはこの笹薮を進む。
神社前も、地形図を見ると家屋があったがすべて笹薮と化している。

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神社へ通じる旧道が残されていたので、登ってみる。

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同じような風景をひたすら登る。

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そうこうするうち、神社跡とと思われる場所を見つけた。
道はこの先、まだまだ続いているが、同行したラオウ氏の話では「地域住民が登って参拝するとしたら、ここしかないだろう」ととのことであった。

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該当箇所(拝殿跡)の風景。
神社に関する遺構は残されていなかった。

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神社跡地から戻り、神社跡地より国領方面の風景。

最後に、ここは旧版地形図では「三橋(三ツ橋)」と表記されている。

しかし、この「三橋」について「新十津川百年史」「新十津川町史」を紐解いてみたが一切記述されていなかったとともに、新十津川町教育委員会にも問い合わせたが「生憎分かりかねます」という返事であった。

もし、上尾白利加の詳細な沿革や、「三橋」の名前の由来などご存知の方がいらっしゃいましたらご一報ください。

追記 (平成26年7月16日)

北美沢の集落移転について「広報しんとつかわ」 昭和43年11月25日号表紙に掲載されていたので紹介する。

「雪の孤島よサヨナラ…/一抹のさびしさを残しながら」

「過疎対策のひとつとして脚光を浴びている〝集落移転〟が11月16・17の両日、自衛隊と町の機動力の応援を得て、北美沢で行われました。」

「移転が行われた十六日は前夜からの降雪で、交通通信がストップしてしまい、早くも〝雪の孤島〟と化していました。そこで町は、自衛隊滝川駐とん部隊に応援を求め、自衛隊の大型車二台と町のダンプカー一台で、ようやく教員四戸と農家一戸の家財道具を積んで、すっかり暗くなった山を降りました。」

「十七日は、再び自衛隊の出動を要請、大型車三台と町のダンプカー二台、マイクロバス一台で体制を整え、残りの四戸と教材などをつんで、やっと部落ぐるみの引越しを終りました。」

新十津川町上尾白利加(北美沢)

新十津川町上尾白利加(平成25年10月20日探訪)

新十津川町上尾白利加は現在「北美沢」という地名に変わっているが、無人集落である。

明治38年 岩手県出身の照井平四郎、谷口源雄、玉置留吉、松実作次郎、金上豊吉ら16戸が入植したのに始まり、明治43年 道庁において区画を施し翌、44年に宮城県出身 水戸開吉ら13戸が入地し、開拓が始まった。

大正2年4月22日 照井平四郎の居宅を借用し、上徳富尋常小学校所属上尾白利加特別教授場として開校し、翌3年、校舎(25坪)が建てられた。

大正15年6月 上尾白利加尋常小学校として独立した。

昭和16年4月1日 上尾白利加国民学校と改称。

昭和22年4月1日 上尾白利加小学校と改称。

昭和24年10月1日 上徳富中学校上尾白利加分校を併置。

昭和28年4月 上尾白利加中学校として独立し、小中併置校となった。

昭和33年 尾白利加川上流に灌漑ダムが建設されることとなり、学校は水没区域内に該当していた。

その為、校舎をさらに奥地へ移転した。
このことについて、元町議の高宮九州夫氏はこう話してくれた。
「奥にはまだ人々が暮らしていた。手前側よりも奥のほうが人がいた…。」

実際、この奥は雨竜町国領という集落が在った。ここも例外なく「学校跡がある廃村」の一つであるが、昭和33年当時は人々の営みがあった。

灌漑ダム建設当時、校下には40戸を数えていたが、ダム建設と冷害常襲区域であるため離農が続出した。

昭和43年4月1日 字名改正により尾白利加から「北美沢」へ変更された。
また、校名も北美沢小中学校と改称した。

しかし過疎化の進行や、冬季間の豪雪により交通が途絶えることから、この年の11月中旬 既存の農家5戸を含め、学校ぐるみ市街地へ移転した。

昭和44年3月22日 新十津川町体育館で閉校式が挙げられた。

閉校式の記事は北海道新聞 空知版 昭和44年3月24日付「さようなら、ぼくらの母校 新十津川の北美沢小中」と掲載されている。

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尾白利加ダム手前の風景。ダム周辺は整備されている。

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この時期は水位も低下しているが、学校が在った頃の風景は失われていた。

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この奥に学校が移転した。
学校より奥は雨竜町国領へとつながり、ひいては雨竜沼湿原や暑寒別岳へと通じている。
それだけ山深いところに開拓が入り、学校があった。

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砂利道と舗装道を繰り返し、進む。
大きな松の木は、人々が暮らしていた名残である。

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やがて、移転後の跡地が見えた。
正面の一本の松の木が、学校跡地である。

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学校前に架かる橋。

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流れている川の名前は「学校の沢川」

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架けられている橋の名前は「渡辺橋」

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学校跡地は開けた空間になっていたが、繁茂していたので基礎を確認できなかった。

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奥には旧道と、先代の「渡辺橋」が残されていた。

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学校跡地より奥の風景。

閉校式当時、最後の児童・生徒7名がリレー形式で朗読した「思い出の詩集」(大西綾子作詩)より。

『学校は悲しみの涙に消えて行く 楽しい思い出悲しい思い出 みんな美しい涙となって消えて行く どうして涙が流れるの もうおそいかしら やぱり永遠に学校は消えてしまうのです もう一度涙をふいて 校舎よ さようなら』

新十津川町北幌加

新十津川町北幌加(平成25年10月20日探訪)

新十津川町北幌加は、学校の跡地が判らなくなってしまった無人集落である。

新十津川町北幌加を含め、幌加の開拓は明治35年 西村直一の四十万坪の土地(北幌加農場)の開拓から始まり、順次吉野団体(徳富川・幌加徳富川合流点付近の両川沿い)、愛媛団体(徳富川右岸)、越後団体(南幌加高台)、宮城団体(南幌加奥)、滋賀団体(南幌加高台)が入植した。

学校については明治40年 区民有志が学校設置を協議し、宮本安吉が発起人となって寄付を集め、校舎建設に着手した。世話人として今北清太郎、湯藤伊平、宮本新太郎、中為一(兼 建築責任者)、芳賀伊右衛門が選ばれ、工事は原田覚次郎が担当した。

敷地は 堤長太郎(学園在住)より三反歩の寄付を受けて起工し、明治41年1月 校舎が完成し同年2月1日 吉野簡易教育所所属幌加特別教授場として開校した。

大正6年6月12日 幌南特別教授場が尋常小学校(後の幌加小学校)に昇格したことに伴い、同校の所属となった。

昭和9年5月14日 幌加尋常小学校として独立。

昭和16年4月1日 幌加国民学校と改称。

昭和22年4月1日 幌加小学校と改称。

昭和43年4月1日 幌南小学校が幌加小学校と改称することに伴い、北幌加小学校と改称した。

北幌加の過疎化は、昭和30年代後半より静かに進行していった。特に、米作の生産を抑制する減反政策で、水田の永年転作化が昭和46年より50年にかけて行なわれた。

永年転作化することで補助金が貰えた事も重なり、人口の流出が激しくなり昭和46年3月31日 閉校になった。

閉校後、校舎は解体され跡地に「西部地区簡易水道浄化場」が建てられた。
昭和50年8月30日より供用が開始され、平成13年まで稼動していた。

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幌加小学校より4キロほど進むと見えてきた。
道路は今も通い作で使われているが、人家が全く無い。

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この右手に廃墟と化した浄水場があるが、ここが北幌加小学校の跡地である。
バリケードされていたので、外観を眺めるに留まった。

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学校跡地の斜め向かいにある「殉公之碑」。

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殉公之碑の裏面。

『昭和四年四月十日當部落道路用砂利採取作業中突如雪盤崩壊左ノ五氏ハ不虞ノ壓死ヲ遂ゲラル其ノ公益事業ノ殉ゼラレタルハ洵ニ敬仰追惜措カサル處ナリ茲ニ區民相圖リ其ノ靈ヲ慰ムルト共ニ功績ヲ後昆ニ傳フ』

『山﨑新吉 三十七才 中川めつい 二十六才 中山正司 十八才 大井トクシ 二十五才 吉原ケイ 三十五才  昭和十五年 第十五區民一同』

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学校(浄水場)跡地の小道を進む。

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かつての水田風景は畑へと変わり、人々が暮らしていた営みは見つけられなかった。

新十津川町盤の沢

新十津川町盤の沢(平成25年6月9日探訪)

新十津川町は元々、奈良県十津川村出身者が移住してきた町であるが、盤の沢は他府県人によって開拓された集落であった。

明治38年 道庁にて区画を施した上で個人貸付地として開拓が始まった。

この時、福井団体10余戸が移住してきた。

明治41年7月 上徳富尋常小学校所属盤の沢特別教授場として開校した。

大正12年9月27日 盤の沢尋常小学校と改称。

大正15年当時の在籍児童数は80名を数えていた。

昭和に入ると集落の人口も増え、昭和10年10月1日時点で121戸 729人の人々が暮らしていた。

昭和16年4月 盤の沢国民学校と改称。

昭和22年4月1日 盤の沢小学校と改称。同年5月1日 上徳富中学校盤の沢分校を併置。中学校分校は昭和28年4月1日に独立した。

昭和36年12月28日 校舎が全面的に改築・落成する。
また、この年に電灯線が架設され、電気が導入された。

昭和37年9月9日 屋内運動場が落成した。

昭和43年4月1日 字名改正により、それまでの「盤の沢」から「美沢」と変更になった。
これに伴い、校名も「美沢小中学校」と変更になった。

しかし、この頃より過疎化が進行していった。

特に昭和46~47年にかけ、減反政策の一環として造林を行なった。

これにより、約40戸が転出していった。

昭和48年4月1日 大和小学校美沢分校と改称し、在籍児童は同日付で雨竜町へ委託となり、休校となった。

それから11年後の昭和59年11月1日 廃校となった。


ところで、ここの盤の沢小中学校の校歌は往年の歌手 安西愛子氏と、地元の俳人の手によって作詞・作曲された。

作詞した土岐錬太郎(本名 金龍慶法)氏は大正9年10月1日 新十津川町で生まれた。

円満寺住職の傍ら、アカシヤ俳句会の設立、北海道新聞俳壇選者、現代俳句協会会員、後に分離した社団法人俳人協会評議員となった。

また、俳人活動以外にも民生委員・保護司・社会教育委員・選挙管理委員・教育委員などを歴任、昭和52年7月14日 57歳で逝去した。

作詞・作曲に至った経緯について、妻である金龍綵子氏はこう手紙に認めた。

「…私の記憶では当時の校長先生の依頼で作らせて頂いたと思います。当時、教育委員もしておりまして校長先生との交流がありました…(中略)…安西先生は遠方でおいで頂けずテープに吹き込んで送って下さいました…。」

「…安西先生が大きな声で「盤之沢小中学校の皆様 さあ元気に歌いましょう」と呼びかけられいいお声で歌って下さいました。私は我が家でそのテープを聞かせて頂きました…。」

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新十津川町より雨竜沼湿原方面へ行く直前、左折し山あいの道を進むと、忽然と体育館が現れた。

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学校より手前の風景。
未舗装の道をひた走る。
通い作で田んぼは維持されているが、家屋が見あたらない。

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学校より奥を望む。
奥にも田園風景が広がっているようだが、定住者は見られない。

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体育館の傍に記念碑がある。
下部には「雪深き 奥の冬道 燦々と 太陽そゝぐ 冬の道 渡りし幾橋 古郷 磐之沢 美津江」と刻まれていた。

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裏面には集落の沿革が刻まれていた。

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体育館を見ると、農機具の倉庫として転用されていた。

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黒板には卒業生の書き込みも見受けられた。

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教室棟は解体されてしまったが、体育館だけでも残されているのは有難い。

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もうひとつ黒板が残されていたが、当時の児童が書き残したものだろうか?

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金龍綵子氏の手紙より。

「…あの山奥に有名な安西愛子先生と、夫の土岐錬太郎の立派な誰がお書きになったかはわかりませんが校歌の額。それこそ世界遺産ならず大きな遺産だと思います…。」

校歌制定年度はわからなかったが、金龍綵子氏の記憶によれば「40年以上前に制定された」とのことである。
「昭和42年3月掲出」と記されているので、字名が改正される僅か1年前に制定されたのだろうか。

過疎化により廃校となり、住民も少なくなってしまったが「大きな遺産」は今も色褪せることなく誇示していた。

新十津川町留久

新十津川町留久(平成24年4月30日・平成27年9月10日探訪)

新十津川町留久は明治37年、奈良県吉野郡の団体移住者のうち46戸が入植し、翌38年には30戸ほどの入植者を迎えて開拓された。アイヌ語の「ルークシュベツ」(道が通っている川、の意)に因み留久(ルーク)と呼ばれるようになった。

明治39年 吉野簡易教育所(後の吉野小学校)が設置されるも通学距離が長く、児童の就学は困難であるとして学校設置を村会に要望したが、この時は認めてもらえなかった。
但し、北幌加に特別教授場(後の北幌加小学校・明治41年2月1日開校、昭和47年3月31日閉校)が設置されたので吉野・北幌加両方の学校から通学上便宜な方へ就学していた。

明治45年 側見鶴太郎・栃谷宗治ら有志60名が連署して村会に要望し、ようやく学校設置が決まり、大正2年3月28日 校舎が落成し4月2日に吉野尋常小学校留久特別教授場となった。
開所当時は単級で28名の児童が在籍していたが、大正9年1月12日 留久尋常小学校に昇格した。

昭和10年8月3日 留久青年学校を付設、昭和16年4月1日 留久国民学校と改称、昭和22年4月1日からは留久小学校と改称した。

昭和25年5月1日 吉野中学校留久分校を併置したが、昭和28年4月1日に留久中学校となった。

昭和43年4月1日 それまでの留久小中学校が校名変更となり、上吉野小中学校と改称した。

昭和45年8月28日 小学校を吉野小学校に移設し、同校へ児童を委託する。

昭和46年3月31日 吉野小学校と統合のため、廃校となった。

留久集落は集落再編事業として、日本で初めて「集落再編モデル事業」の対象となった集落であった。

昭和35年 留久ダムが完成し、集落の一部が湖底に沈むと残る集落はダム奥に孤立する留久小学校周辺のみとなり、ダム沿いは4キロも無人地帯ができてしまった。その後も過疎化が著しく進行した。

昭和42年10月 町村北海道知事に当時の町長 渋川勝石氏が「村落移動」について要請、その後経済企画庁において「集落再編モデル事業」の指定を受け、道も地域振興対策室を設けて援助する「夢の事業」は昭和44~45年に渡り6628万円の事業費をかけて実現した。

吉野市街地の近くに土地を取得し住宅をはじめ集会所、児童遊園、道路、飲料水、焼却炉の完備した団地を造成し、同時に水田の区画整理や暗渠排水を行い、農機具格納庫や共同畜舎を建設した。

昭和45年11月15日 全戸が留久から移転し、集落が再編された。所謂「夏山冬里方式」である。

書籍「廃村をゆく」で井手口征哉氏(北海道旅情報 管理人)はこう記している。

「北海道は30年後には人口が100万人減少すると予測されています。札幌一極集中の流れの下、農山村の集落はかなりの割合で消えていくことになるでしょう。実のところ、そんな地域にはコンパクトシティの概念による新たなる集落形成が必要かもしれません。しかしながら農家が点在し、その中心には学校と神社があり、まわりに郵便局と数軒の商店がある今の風景も大切なものではないかと思うのです…(以下略)」

全国で初めて導入したコンパクトシティ。

「夢の事業」と言われ、再編された吉野地区。

その吉野地区中心部にある吉野小学校も平成21年3月末で廃校となり、地域住民の高齢化も少しずつではあるが進んでいる。

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留久貯水池(留久ダム)を眺める。
この湖底にも、人々の営みがあった。

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傍にある石碑。平成24年の雪により石碑部分が落ちてしまっている。

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今年の雪害は記念碑にまでダメージを与えてしまっている。

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この奥に留久小学校跡地がある。

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途中にある廃屋。
人々の営みは瓦礫と化し、雪に飲み込まれる寸前である。

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人々の営みがあったことを探すのも難しくなってきた。

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途中にある廃屋を後にして、留久小学校跡へと行く。
学校跡は、これよりまだ奥にある。

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学校跡地が見えてきた。
正面の大きな木々がそれである。

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残雪を登る。
カメラを構えているこの場所に、校舎があった。

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学校の奥には崩れかけた家屋がある。
旧版地形図を見ると、崩れかけた家屋の付近に神社があった。
家屋は、神社が建立されていた頃からあるのかは分らなかった。

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学校跡地より周辺の風景。
学び舎の灯も消えて久しく、大きな木々がここに、学校があったことを物語っているように思えた。

平成27年9月10日 集落移転の調査として再訪した。

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留久は今も通い作でソバが栽培されている。
収穫していた方に伺うと、離農した方の土地を買い取ってソバを栽培しているとのことである。

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学校跡地の入口。
夏の廃校調査は、笹薮との戦いでもある。

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笹薮を歩くこと数十分。
学校の基礎を見つけた。

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校舎跡地より学校前を望むも、雑草や笹が生い茂り見渡すことができなかった。

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学校前より奥を望む。
学校より奥にも、ソバ畑が広がっている。

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学校より手前の風景。
畑はあるが、家屋は見られない。

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留久を後にして、集団移転先の上吉野団地を訪れた。
上吉野団地は、吉野地区にある。

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案内板は色褪せているものの、しっかりと判読できる。

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上吉野団地の風景。
山間部の団地も、完成して45年の歳月が流れている。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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