穂別町大和炭鉱
穂別町大和炭鉱(平成29年5月29日探訪)
穂別町大和は炭鉱集落であった。
昭和32年3月、大和鉱業株式会社が北海道炭砿汽船(北炭)から租鉱権を借り受け、炭鉱の開発を進めたのが始まりである。
昭和33年秋より事務所や社宅の建設がすすめられ、従業員の家族の招致が行われていった。
しかし最寄りの稲里小中学校まで約10キロあることから、当初は炭車に便乗して夕張市立登川小中学校へ通学していた。通学していた児童生徒は90名を超えており、夕張市より委託料(1人当たり2500円・登川小学校増築資金150万円)を請求された。このため、炭鉱及び豊進開拓団の子弟を収容する稲里小中学校大和分校を開設することになった。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和34年 豊進開拓団会館・倉庫の利用、苫小牧林務署造林小屋・厩屋を改造して教室の確保(3月)
同 年 大和鉱業所階上で開校式挙行、暫定校舎で授業開始(4月)
同 年 仮校舎移転完了(9月)
昭和35年 大和小中学校と独立(4月)
昭和37年 新校舎建設着手(11月)
昭和38年 新校舎完成・移転(5月)
昭和43年 閉校(3月)
大和炭鉱はその後、採掘区域の深部移行に伴う維持坑道の増大や運搬方法の複雑化、多額の投資が必要なことから昭和42年10月に閉山した。
閉校時の記事を転載する。
児童会館として利用 今月末廃校の大和小中 将来は「こどもの国」に
「【穂別】穂別町立大和小中学校は、大和工業稲里鉱業所の閉鎖に伴い、3月末で廃校になるが、この建物が、市街地に移され、立派な児童会館として生まれ変わるばかりか、廃校の悲しみを打ち消すようにこの会館を中心として『子供の国』を設ける町の構想が同校関係者を喜ばせている。
1026平方メートルの同校舎は38年6月完成したばかりで、まだいたみも少なく廃校という特殊事情がなければまだまだ利用できた建物。同校関係者は教育の場としてこの校舎がどのような施設に利用されるのか強い関心をもっていたが、同町としても悲しい廃校ということだけに、なんとか教育的なものにしたいと考え、将来も受けるはずだった児童会館計画を早め、北海道百年事業の一環として今年中に町営プール隣、6600平方メートルの用地内に建てる430平方メートルの児童会館に利用することを定めた。
同会館内には集会室2室のほか、図書、調理室も併設、郊外校の子供たちが泊まれる施設にすることになっており、町の単独事業として800万円を新年度予算に計上、融雪とともに工事を始めることになっている。将来はこれに体育館も併設、子供向きの各種施設、設備も集約『子供の国』とする。
こうして大和小中学校は同校関係者が望んでいた教育的施設に立派に生まれ変わるわけで、一代校長だった大沢勘太郎校長(56)も『私が開設し、自ら廃校の式典をしなければならないのはつらいが子供たちのために役立つ施設に改修されることで安心してあけ渡し新任地の苫小牧市立沼の端小学校へ赴任します』と救われたように話していた。児童会館だけでは資材が余るので、狭くなってきた保育所の増築にも一部利用することになっている。」(北海タイムス日胆 1968年3月24日)
平成29年5月、日高管内の廃校廃村調査を終えた道中、大和炭鉱へ立ち寄った。
「学校の記念碑がある」とのことだが、草木が生い茂っておりよく確認できない。
川を渡り対岸を目指す。
目指すは先にある笹薮である。
笹薮の中に記念碑が見えた。
しかし、これでは見えない。
手鎌でササを刈り取り、記念碑が見えるようにした。
ここに学校があった。
校舎跡周辺を歩くが、全く何も残っていなかった。
学校跡から戻り、住宅跡周辺を探す。
地形図によれば、学校の対岸に住宅があった。
住宅跡は自然に帰っていた。
ただ、平坦な土地が続いていたので建物があったことは分かった。
炭鉱の遺構関係は探さず、住宅周辺を歩き回る。
しかし、草木が生い茂りつつあったので深追いしなかった。
炭鉱で栄えた集落は、草木が生い茂り自然に帰っていた。
ただ、平坦な土地と学校跡の記念碑がここに集落があったことを伝えていた。
最後に、開校から閉校まで校長を務めた大沢勘太郎先生の略歴を以下に記す。
ご苦労さま、勇退校長㊤ 多彩な人生経験生かし活躍 大沢勘太郎さん(60)=苫小牧市沼の端小=
「青森県むつ市出身。昭和6年函館師範卒後、夕張市東三川小訓導を経て、日高管内門別町厚賀小に着任したが、14年に旧満州開拓青年義勇隊の一員として渡満、終戦まで満州を舞台に東奔西走したという変わりダネ。無類の正義感の持ち主で、終戦直後、帰国する大阪開拓団約一千人を救うため大活躍した。帰国後は一時木材会社を経営していたが、昭和30年に請われて穂別小教諭、ついで炭鉱の子供たちのために開校した穂別町大和小中校長に就任し43年に沼の端小に移った。大沢校長は『心残りのない教員生活だった。今後は別な角度から苫小牧教育界を見守ってゆきたい』と今なお意気盛んなところをみせている。」(北海道新聞苫小牧版 1972年3月24日)
参考文献
穂別町史編さん委員会1968『穂別町史』穂別町役場
穂別町史編纂委員会1991『新穂別町史』穂別町
北海タイムス1968「児童会館として利用 今月末廃校の大和小中 将来は「こどもの国」に」『北海タイムス日胆』昭和43年3月24日
北海道新聞1972「ご苦労さま、勇退校長㊤ 多彩な人生経験生かし活躍 大沢勘太郎さん(60)=苫小牧市沼の端小=」『北海道新聞苫小牧版』昭和47年3月24日
穂別町大和は炭鉱集落であった。
昭和32年3月、大和鉱業株式会社が北海道炭砿汽船(北炭)から租鉱権を借り受け、炭鉱の開発を進めたのが始まりである。
昭和33年秋より事務所や社宅の建設がすすめられ、従業員の家族の招致が行われていった。
しかし最寄りの稲里小中学校まで約10キロあることから、当初は炭車に便乗して夕張市立登川小中学校へ通学していた。通学していた児童生徒は90名を超えており、夕張市より委託料(1人当たり2500円・登川小学校増築資金150万円)を請求された。このため、炭鉱及び豊進開拓団の子弟を収容する稲里小中学校大和分校を開設することになった。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和34年 豊進開拓団会館・倉庫の利用、苫小牧林務署造林小屋・厩屋を改造して教室の確保(3月)
同 年 大和鉱業所階上で開校式挙行、暫定校舎で授業開始(4月)
同 年 仮校舎移転完了(9月)
昭和35年 大和小中学校と独立(4月)
昭和37年 新校舎建設着手(11月)
昭和38年 新校舎完成・移転(5月)
昭和43年 閉校(3月)
大和炭鉱はその後、採掘区域の深部移行に伴う維持坑道の増大や運搬方法の複雑化、多額の投資が必要なことから昭和42年10月に閉山した。
閉校時の記事を転載する。
児童会館として利用 今月末廃校の大和小中 将来は「こどもの国」に
「【穂別】穂別町立大和小中学校は、大和工業稲里鉱業所の閉鎖に伴い、3月末で廃校になるが、この建物が、市街地に移され、立派な児童会館として生まれ変わるばかりか、廃校の悲しみを打ち消すようにこの会館を中心として『子供の国』を設ける町の構想が同校関係者を喜ばせている。
1026平方メートルの同校舎は38年6月完成したばかりで、まだいたみも少なく廃校という特殊事情がなければまだまだ利用できた建物。同校関係者は教育の場としてこの校舎がどのような施設に利用されるのか強い関心をもっていたが、同町としても悲しい廃校ということだけに、なんとか教育的なものにしたいと考え、将来も受けるはずだった児童会館計画を早め、北海道百年事業の一環として今年中に町営プール隣、6600平方メートルの用地内に建てる430平方メートルの児童会館に利用することを定めた。
同会館内には集会室2室のほか、図書、調理室も併設、郊外校の子供たちが泊まれる施設にすることになっており、町の単独事業として800万円を新年度予算に計上、融雪とともに工事を始めることになっている。将来はこれに体育館も併設、子供向きの各種施設、設備も集約『子供の国』とする。
こうして大和小中学校は同校関係者が望んでいた教育的施設に立派に生まれ変わるわけで、一代校長だった大沢勘太郎校長(56)も『私が開設し、自ら廃校の式典をしなければならないのはつらいが子供たちのために役立つ施設に改修されることで安心してあけ渡し新任地の苫小牧市立沼の端小学校へ赴任します』と救われたように話していた。児童会館だけでは資材が余るので、狭くなってきた保育所の増築にも一部利用することになっている。」(北海タイムス日胆 1968年3月24日)
平成29年5月、日高管内の廃校廃村調査を終えた道中、大和炭鉱へ立ち寄った。
「学校の記念碑がある」とのことだが、草木が生い茂っておりよく確認できない。
川を渡り対岸を目指す。
目指すは先にある笹薮である。
笹薮の中に記念碑が見えた。
しかし、これでは見えない。
手鎌でササを刈り取り、記念碑が見えるようにした。
ここに学校があった。
校舎跡周辺を歩くが、全く何も残っていなかった。
学校跡から戻り、住宅跡周辺を探す。
地形図によれば、学校の対岸に住宅があった。
住宅跡は自然に帰っていた。
ただ、平坦な土地が続いていたので建物があったことは分かった。
炭鉱の遺構関係は探さず、住宅周辺を歩き回る。
しかし、草木が生い茂りつつあったので深追いしなかった。
炭鉱で栄えた集落は、草木が生い茂り自然に帰っていた。
ただ、平坦な土地と学校跡の記念碑がここに集落があったことを伝えていた。
最後に、開校から閉校まで校長を務めた大沢勘太郎先生の略歴を以下に記す。
ご苦労さま、勇退校長㊤ 多彩な人生経験生かし活躍 大沢勘太郎さん(60)=苫小牧市沼の端小=
「青森県むつ市出身。昭和6年函館師範卒後、夕張市東三川小訓導を経て、日高管内門別町厚賀小に着任したが、14年に旧満州開拓青年義勇隊の一員として渡満、終戦まで満州を舞台に東奔西走したという変わりダネ。無類の正義感の持ち主で、終戦直後、帰国する大阪開拓団約一千人を救うため大活躍した。帰国後は一時木材会社を経営していたが、昭和30年に請われて穂別小教諭、ついで炭鉱の子供たちのために開校した穂別町大和小中校長に就任し43年に沼の端小に移った。大沢校長は『心残りのない教員生活だった。今後は別な角度から苫小牧教育界を見守ってゆきたい』と今なお意気盛んなところをみせている。」(北海道新聞苫小牧版 1972年3月24日)
参考文献
穂別町史編さん委員会1968『穂別町史』穂別町役場
穂別町史編纂委員会1991『新穂別町史』穂別町
北海タイムス1968「児童会館として利用 今月末廃校の大和小中 将来は「こどもの国」に」『北海タイムス日胆』昭和43年3月24日
北海道新聞1972「ご苦労さま、勇退校長㊤ 多彩な人生経験生かし活躍 大沢勘太郎さん(60)=苫小牧市沼の端小=」『北海道新聞苫小牧版』昭和47年3月24日
穂別町福山
穂別町福山(平成28年5月30日・平成29年5月29日探訪)
穂別町福山は鉱山・農業で開けた集落である。
元々は居路夫(オロロップ)と呼ばれ、造材とクローム鉱山で明治末期から開けていたが、仕事のために入地したものであり定住者はいなかった。
大正7年和歌山団体(団長 東金蔵)、山形団体(総代 奥山甚四郎)の入植があり、本格的な開拓がすすめられていった。大正9年には官設駅逓所や移住世話所が設けられ以降、岩手団体、滋賀団体、大阪博愛社孤児院団体が移住してくる。
しかし入植した土地が想像していたものと全く異なったものであり、必ずしも良好とは言えなかった。
「オロロップ原野」目指して到着するも、故郷では百花繚乱の季節であるにも関わらずオロロップの山々は白雪に覆われ、満目荒涼たる姿に絶望しただけではなく融雪期の河川の激流、橋どころか舟筏さえない状況に茫然とし郷里に帰る者、他の土地を求めて転出する者もいて最後まで残ったのは数えるほどであった。
それでも人びとは学校の必要性を痛感し、お互いに協力し合って草葺掘立小屋の校舎を建設し、大正10年奥穂別尋常小学校所属居路夫特別教授場として開校した。
昭和期に入ると八田鉱業所岩見鉱山の開鉱(昭和12年)に伴い児童数も急増した。急増に伴い、総工費の2割にあたる766円を集落の住民が負担し、労力奉仕で1教室増築した。
昭和16年に字名改正により居路夫から福山に変更になったのと併せて福山国民学校と改称した。
昭和22年福山小学校と改称と同時に、安住中学校福山分校が開校した。中学校(分校)の建物は旧曹洞宗布教場を教室と教員住宅に利用して授業が開始された。
昭和28年に中学校が独立、小中併置校となり昭和36年新校舎落成(11月)、昭和39年へき地集会室(屋体)の完成(6月)、昭和47年には通学困難な児童生徒を収容する寄宿舎の開設(1月)など、校内外施設は充実していく。
一方で昭和37年頃より木材の不振とクローム鉱山の閉山、離農者が現れ始め過疎化が進み昭和56年3月に福山小学校、昭和57年3月に福山中学校が閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
大正10年 奥穂別尋常小学校所属居路夫特別教授場として開校(5月)
昭和 7年 居路夫尋常小学校と改称(5月)
昭和16年 福山国民学校と改称(4月)
昭和22年 福山小学校と改称(4月)
昭和56年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 安住中学校福山分校開校(5月)
昭和28年 福山中学校と改称(7月)
昭和57年 閉校(3月)
平成28年5月、釧路管内の廃校廃村調査の帰り道、福山へ立ち寄った。
家屋は残っているが人気がない。
味わい深い木造の家屋も残っている。
学校跡地。
何年か前までは校舎や校門も現存していたが、解体されている。
校舎敷地内の一角に記念碑があった。
学校跡をしのばせるものは防風林くらいしか残されていない。
国道274号線沿いにあるので、絶えず車の往来がある。
福山大橋。
交通量は多いが、ここに学校があったことを知る人はどれくらいいるだろうか。
この探訪から1年後、再び福山へ足を運んだ。
交通量は相変わらず多い。
解体された住宅跡と残る住宅。
道道610号占冠穂別線はずっと通行止めである。
今回は福山の神社へ足を運んだ。
神社の拝殿は健在である。
折角なので、参拝した。
「福山」の名がついた案内板は今も残る。
今でこそ国道が開通し交通の要になっているが、開拓当初は想像を絶するなかでの開拓であった。
参考文献
穂別町史編さん委員会1968『穂別町史』穂別町役場
穂別町史編纂委員会1991『新穂別町史』穂別町
穂別町福山は鉱山・農業で開けた集落である。
元々は居路夫(オロロップ)と呼ばれ、造材とクローム鉱山で明治末期から開けていたが、仕事のために入地したものであり定住者はいなかった。
大正7年和歌山団体(団長 東金蔵)、山形団体(総代 奥山甚四郎)の入植があり、本格的な開拓がすすめられていった。大正9年には官設駅逓所や移住世話所が設けられ以降、岩手団体、滋賀団体、大阪博愛社孤児院団体が移住してくる。
しかし入植した土地が想像していたものと全く異なったものであり、必ずしも良好とは言えなかった。
「オロロップ原野」目指して到着するも、故郷では百花繚乱の季節であるにも関わらずオロロップの山々は白雪に覆われ、満目荒涼たる姿に絶望しただけではなく融雪期の河川の激流、橋どころか舟筏さえない状況に茫然とし郷里に帰る者、他の土地を求めて転出する者もいて最後まで残ったのは数えるほどであった。
それでも人びとは学校の必要性を痛感し、お互いに協力し合って草葺掘立小屋の校舎を建設し、大正10年奥穂別尋常小学校所属居路夫特別教授場として開校した。
昭和期に入ると八田鉱業所岩見鉱山の開鉱(昭和12年)に伴い児童数も急増した。急増に伴い、総工費の2割にあたる766円を集落の住民が負担し、労力奉仕で1教室増築した。
昭和16年に字名改正により居路夫から福山に変更になったのと併せて福山国民学校と改称した。
昭和22年福山小学校と改称と同時に、安住中学校福山分校が開校した。中学校(分校)の建物は旧曹洞宗布教場を教室と教員住宅に利用して授業が開始された。
昭和28年に中学校が独立、小中併置校となり昭和36年新校舎落成(11月)、昭和39年へき地集会室(屋体)の完成(6月)、昭和47年には通学困難な児童生徒を収容する寄宿舎の開設(1月)など、校内外施設は充実していく。
一方で昭和37年頃より木材の不振とクローム鉱山の閉山、離農者が現れ始め過疎化が進み昭和56年3月に福山小学校、昭和57年3月に福山中学校が閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
大正10年 奥穂別尋常小学校所属居路夫特別教授場として開校(5月)
昭和 7年 居路夫尋常小学校と改称(5月)
昭和16年 福山国民学校と改称(4月)
昭和22年 福山小学校と改称(4月)
昭和56年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 安住中学校福山分校開校(5月)
昭和28年 福山中学校と改称(7月)
昭和57年 閉校(3月)
平成28年5月、釧路管内の廃校廃村調査の帰り道、福山へ立ち寄った。
家屋は残っているが人気がない。
味わい深い木造の家屋も残っている。
学校跡地。
何年か前までは校舎や校門も現存していたが、解体されている。
校舎敷地内の一角に記念碑があった。
学校跡をしのばせるものは防風林くらいしか残されていない。
国道274号線沿いにあるので、絶えず車の往来がある。
福山大橋。
交通量は多いが、ここに学校があったことを知る人はどれくらいいるだろうか。
この探訪から1年後、再び福山へ足を運んだ。
交通量は相変わらず多い。
解体された住宅跡と残る住宅。
道道610号占冠穂別線はずっと通行止めである。
今回は福山の神社へ足を運んだ。
神社の拝殿は健在である。
折角なので、参拝した。
「福山」の名がついた案内板は今も残る。
今でこそ国道が開通し交通の要になっているが、開拓当初は想像を絶するなかでの開拓であった。
参考文献
穂別町史編さん委員会1968『穂別町史』穂別町役場
穂別町史編纂委員会1991『新穂別町史』穂別町