歌登町ポールンベツ
歌登町(枝幸町)ポールンベツ(ポールン別)(平成23年10月19日・平成29年8月15日探訪)
味わいのある集落名とは裏腹に開拓は大変であった。
明治44年に開拓が始まるが、鬱そうとした山深い集落であったので、入植しても他の集落へ移っていった。
そのため、一時は無人集落の危機を迎えたこともあった。
大正12年になってようやく特別教授場が設けられた。当初の名前は「上幌別尋常小学校付属保留運別特別教授場」である。
昭和14年 歩留運別尋常小学校と改称。
昭和22年 保倫別小学校と改称。
本当は「歩留運別」が正しいのだが、どうして改称したのかは分かりませんでした。
昭和31年 新校舎建築、屋内体育館も併せて建設。
昭和45年 過疎に伴い、児童数激減のため廃校。
校舎も既に無く、学校跡の記念碑のみ建立。
学校周辺の風景。
今は数件の酪農家が点在する集落である。
時は流れ、平成29年8月再訪した。
「ポールンベツ」と書かれた青看板。
この先に学校と神社があった。
ポールンベツ神社跡。
地形図では神社マークが書かれているが、確証を得るために近くで農作業していた方に「すいません。ここ、ポールンベツに神社はありましたでしょうか?」と聞いてみた。
その結果、「俺は詳しく知らんけれど、その小高い丘のてっぺんに神社があったというのは聞いたことがある。その斜面に階段があったらしいけれど…」
神社は既に笹薮に埋もれ、面影を見つけることはできなかった。
追記
閉校時の新聞記事を転載する。
過疎の波寂しい卒業式 47年の歴史に幕 保倫別小
【歌登・小平】過疎の波にのまれて一つの小学校が消えていった。歌登の市街地から13キロ離れた山あいの保倫別(ポウルンベツ)小学校(北川武男校長、小泉実教諭、児童数4人)で10日卒業式のあと閉校式、47年間続いた同校の歴史を閉じた。また鬼鹿高校の卒業式も同日行われたが、来春は廃校の運命。卒業生9人、在校生6人という過疎のわびしい卒業式風景だった。
『38年に着任した当時の在籍児童は46人だったが農家が13戸も減ったため42年には7人になってしまった』と北川保倫別小校長が語るように〝でんぷん凶作〟や酪農転換で、弱体農家は次々と離農、いまはわずか8戸。同校の通学家庭も3戸にすぎず、新学期からは2年生と6年生の2人だけになってしまう。新入学児童もなく、今後10年くらいは見通しも立たない-などの理由から町教委は昨年秋、閉校に踏み切り、2月23日の町議会で正式に決まった。
午前9時半から開かれた第47回卒・終業式では、北川校長から小泉裕之君と滝久美子さんに卒業証書、宮坂幸子さん(5年)と中村幸枝さん(1年)に修了証書が渡され、4人の子供たちの歌う『仰げば尊し』の最後のメロディーが雪深い山あいにも悲しく流れていった。閉校式では野村教育委員長が『学校の歴史は閉じても教育の灯は消えない、学校はなくなっても卒業生の胸に明るく消えることのない灯となって燃えつづけるだろう』と式辞、吉田町議会議長らの激励のことばに対し、平松・保留運別(ホノルンベツ)部落会長を、児童を代表して小泉君がお礼のことばを述べ、60余人の参列者全員の『蛍の光』で式を閉じた。
同校は大正12年4月26日に上幌別尋常小学校付属保留運特別教授場として創立され、保留運尋常小学校として昭和14年に独立、22年に現在の校名に変わった。明治44年3月に誕生した歩留運部落は大正の半ばには33戸まで伸びたが部落の衰微と学校が運命を共にしたわけ。4人の子供たちは4月から3.5キロ離れた本幌別小中学校に移り、193人の卒業生を送り出した校舎が無人のまま暗い春を迎える。(以下略・注1)」(北海道新聞留萌・宗谷版1970年3月12日)
注1 この後は鬼鹿高校(小平町)の記事になるため割愛した。
参考文献
歌登町史編さん委員会1980『歌登町史』歌登町
北海道新聞1970「過疎の波寂しい卒業式47年の歴史に幕」『北海道新聞留萌・宗谷版』昭和45年3月12日
味わいのある集落名とは裏腹に開拓は大変であった。
明治44年に開拓が始まるが、鬱そうとした山深い集落であったので、入植しても他の集落へ移っていった。
そのため、一時は無人集落の危機を迎えたこともあった。
大正12年になってようやく特別教授場が設けられた。当初の名前は「上幌別尋常小学校付属保留運別特別教授場」である。
昭和14年 歩留運別尋常小学校と改称。
昭和22年 保倫別小学校と改称。
本当は「歩留運別」が正しいのだが、どうして改称したのかは分かりませんでした。
昭和31年 新校舎建築、屋内体育館も併せて建設。
昭和45年 過疎に伴い、児童数激減のため廃校。
校舎も既に無く、学校跡の記念碑のみ建立。
学校周辺の風景。
今は数件の酪農家が点在する集落である。
時は流れ、平成29年8月再訪した。
「ポールンベツ」と書かれた青看板。
この先に学校と神社があった。
ポールンベツ神社跡。
地形図では神社マークが書かれているが、確証を得るために近くで農作業していた方に「すいません。ここ、ポールンベツに神社はありましたでしょうか?」と聞いてみた。
その結果、「俺は詳しく知らんけれど、その小高い丘のてっぺんに神社があったというのは聞いたことがある。その斜面に階段があったらしいけれど…」
神社は既に笹薮に埋もれ、面影を見つけることはできなかった。
追記
閉校時の新聞記事を転載する。
過疎の波寂しい卒業式 47年の歴史に幕 保倫別小
【歌登・小平】過疎の波にのまれて一つの小学校が消えていった。歌登の市街地から13キロ離れた山あいの保倫別(ポウルンベツ)小学校(北川武男校長、小泉実教諭、児童数4人)で10日卒業式のあと閉校式、47年間続いた同校の歴史を閉じた。また鬼鹿高校の卒業式も同日行われたが、来春は廃校の運命。卒業生9人、在校生6人という過疎のわびしい卒業式風景だった。
『38年に着任した当時の在籍児童は46人だったが農家が13戸も減ったため42年には7人になってしまった』と北川保倫別小校長が語るように〝でんぷん凶作〟や酪農転換で、弱体農家は次々と離農、いまはわずか8戸。同校の通学家庭も3戸にすぎず、新学期からは2年生と6年生の2人だけになってしまう。新入学児童もなく、今後10年くらいは見通しも立たない-などの理由から町教委は昨年秋、閉校に踏み切り、2月23日の町議会で正式に決まった。
午前9時半から開かれた第47回卒・終業式では、北川校長から小泉裕之君と滝久美子さんに卒業証書、宮坂幸子さん(5年)と中村幸枝さん(1年)に修了証書が渡され、4人の子供たちの歌う『仰げば尊し』の最後のメロディーが雪深い山あいにも悲しく流れていった。閉校式では野村教育委員長が『学校の歴史は閉じても教育の灯は消えない、学校はなくなっても卒業生の胸に明るく消えることのない灯となって燃えつづけるだろう』と式辞、吉田町議会議長らの激励のことばに対し、平松・保留運別(ホノルンベツ)部落会長を、児童を代表して小泉君がお礼のことばを述べ、60余人の参列者全員の『蛍の光』で式を閉じた。
同校は大正12年4月26日に上幌別尋常小学校付属保留運特別教授場として創立され、保留運尋常小学校として昭和14年に独立、22年に現在の校名に変わった。明治44年3月に誕生した歩留運部落は大正の半ばには33戸まで伸びたが部落の衰微と学校が運命を共にしたわけ。4人の子供たちは4月から3.5キロ離れた本幌別小中学校に移り、193人の卒業生を送り出した校舎が無人のまま暗い春を迎える。(以下略・注1)」(北海道新聞留萌・宗谷版1970年3月12日)
注1 この後は鬼鹿高校(小平町)の記事になるため割愛した。
参考文献
歌登町史編さん委員会1980『歌登町史』歌登町
北海道新聞1970「過疎の波寂しい卒業式47年の歴史に幕」『北海道新聞留萌・宗谷版』昭和45年3月12日
歌登町豊沃(タチカラウシュナイ)
歌登町(枝幸町)豊沃(平成19年9月17日・平成23年10月19日探訪)
豊沃の開拓は大正2年、2戸の入植が切っ掛けとなった。当時は「タチカラウシュナイ」と呼ばれ上徳志別(カミトクシベツ)の一部であった。昭和初期には8戸ほどを数えたが、子供たちは上徳志別尋常小学校に通っていた。
豊沃は戦後開拓により人家が急速に増えた。昭和22年に2戸入植したのを皮切りに、昭和26年には23戸入植した。
当然、タチカルウシュナイにも学校の必要性が説かれた。当時、子供たちは上徳志別小学校へ通学していたが遠距離であることから、当時の宗谷支庁拓殖課長 塚越忠雄氏と豊沃の住民の声により昭和28年 タツカラウシュナイ351番地に「上徳志別小学校豊沃分校」として学校が開校した。「豊沃」の名前の由来は近くの橋「豊沃橋」から名づけられたものであった。
昭和36年から38年にかけて教室や廊下、職員室の増築・間切工事や、遊具が設置された。
昭和40年代に入ると教員住宅、校長住宅の新築や校舎の改修工事などが行われていたが、離農や大規模農場開発により児童数も次第に減少する。
昭和53年3月 児童数皆無により閉校式が行われ、廃校となった。
卒業生総数55名。閉校当時、在籍していた児童は3名であった。
そして現在の豊沃は2世帯の方が住まわれている、過疎の集落である。
豊沃は平成19年9月と今回(平成23年10月)訪ね歩いた。
校舎の画像は平成19年、教員住宅は平成23年に訪ね歩いたときのものである。
校舎は既に崩れていた。
倒壊して、そう月日が流れていないような印象を受けた。
少なくとも、倒壊したのは数年前(平成16~19年?)と思われる。
辛うじて校舎の面影が残っていた。
笹藪でなかなか思うように進めない。
中を覗くと「風呂」があった。
市町村史で、僻地の学校記述に時々「学校風呂が設置される」と書かれているのを目にするが、現物を見たのはこの時が初めてであった。
校舎の先には、廃屋となった教員住宅が3棟並んでいたがこの時は、笹藪を見て断念した。
再訪時は教員住宅をメインに探訪した。
笹が生い茂っていたが、何とか行くことができた。
真ん中の教住外観。
笹に足を取られて、撮影も苦労した。
奥の教住。既に倒壊していた。
周囲には、離農した農家の廃屋が点在していた。
校舎も、校庭も自然に還ろうとしていた。
豊沃の開拓は大正2年、2戸の入植が切っ掛けとなった。当時は「タチカラウシュナイ」と呼ばれ上徳志別(カミトクシベツ)の一部であった。昭和初期には8戸ほどを数えたが、子供たちは上徳志別尋常小学校に通っていた。
豊沃は戦後開拓により人家が急速に増えた。昭和22年に2戸入植したのを皮切りに、昭和26年には23戸入植した。
当然、タチカルウシュナイにも学校の必要性が説かれた。当時、子供たちは上徳志別小学校へ通学していたが遠距離であることから、当時の宗谷支庁拓殖課長 塚越忠雄氏と豊沃の住民の声により昭和28年 タツカラウシュナイ351番地に「上徳志別小学校豊沃分校」として学校が開校した。「豊沃」の名前の由来は近くの橋「豊沃橋」から名づけられたものであった。
昭和36年から38年にかけて教室や廊下、職員室の増築・間切工事や、遊具が設置された。
昭和40年代に入ると教員住宅、校長住宅の新築や校舎の改修工事などが行われていたが、離農や大規模農場開発により児童数も次第に減少する。
昭和53年3月 児童数皆無により閉校式が行われ、廃校となった。
卒業生総数55名。閉校当時、在籍していた児童は3名であった。
そして現在の豊沃は2世帯の方が住まわれている、過疎の集落である。
豊沃は平成19年9月と今回(平成23年10月)訪ね歩いた。
校舎の画像は平成19年、教員住宅は平成23年に訪ね歩いたときのものである。
校舎は既に崩れていた。
倒壊して、そう月日が流れていないような印象を受けた。
少なくとも、倒壊したのは数年前(平成16~19年?)と思われる。
辛うじて校舎の面影が残っていた。
笹藪でなかなか思うように進めない。
中を覗くと「風呂」があった。
市町村史で、僻地の学校記述に時々「学校風呂が設置される」と書かれているのを目にするが、現物を見たのはこの時が初めてであった。
校舎の先には、廃屋となった教員住宅が3棟並んでいたがこの時は、笹藪を見て断念した。
再訪時は教員住宅をメインに探訪した。
笹が生い茂っていたが、何とか行くことができた。
真ん中の教住外観。
笹に足を取られて、撮影も苦労した。
奥の教住。既に倒壊していた。
周囲には、離農した農家の廃屋が点在していた。
校舎も、校庭も自然に還ろうとしていた。
歌登町二股
歌登町(枝幸町)二股(平成23年10月19日探訪)
歌登町 本幌別集落より上流川を上流へ進むと二股集落へ行くことができる。
集落名の由来は幌別川の本流、支流により通称 二股と云われていた。
ここは大正7年に山形団体の入植により開拓された。開拓当初、児童は本幌別の学校へ通学していたが悪路のため、学校設置を陳情する。
大正12年 本幌別尋常小学校付属二股特別教授場として開校。当時の児童数23名。
昭和11年 二股尋常小学校と称される。
昭和22年 正和小学校と改称。
何故、「二股小学校」ではなく「正和小学校」と解消したのか、現時点では分かりませんでした。
校舎と記念碑。校舎は昭和29年建築。
校舎は牧草置き場として転用されていた。
内部。床も剥がされており、学校時代の面影を探すことはできなかった。
学校周辺。牧草地が広がるのみであった。
行く途中、数件の酪農家と離農した廃屋がポツンポツンと点在していた。
歌登町 本幌別集落より上流川を上流へ進むと二股集落へ行くことができる。
集落名の由来は幌別川の本流、支流により通称 二股と云われていた。
ここは大正7年に山形団体の入植により開拓された。開拓当初、児童は本幌別の学校へ通学していたが悪路のため、学校設置を陳情する。
大正12年 本幌別尋常小学校付属二股特別教授場として開校。当時の児童数23名。
昭和11年 二股尋常小学校と称される。
昭和22年 正和小学校と改称。
何故、「二股小学校」ではなく「正和小学校」と解消したのか、現時点では分かりませんでした。
校舎と記念碑。校舎は昭和29年建築。
校舎は牧草置き場として転用されていた。
内部。床も剥がされており、学校時代の面影を探すことはできなかった。
学校周辺。牧草地が広がるのみであった。
行く途中、数件の酪農家と離農した廃屋がポツンポツンと点在していた。