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祖父 成瀬政夫と大夕張

随分昔であるが、筆者が「北海道の建物」という廃墟サイトを運営していた頃「祖父の戦争体験」というコーナーを設けていた。
当時は祖父の戦争体験を断片的に記していたが、今回改めて祖父 成瀬政夫と大夕張(夕張市鹿島)の関係について判明した分だけ紹介していく。

大正14年8月2日 東旭川村で三男として出生
昭和13年3月   東旭川村立第四尋常小学校卒業(注1)
以降、家業である農業に従事しつつ青年学校に入校していたため、週2~3回の軍事教育を受けていた。
また、昭和16年に農業関係で夏季間のみ奉公に行っている。

昭和16年12月8日 大東亜(太平洋)戦争開戦

開戦に伴い石炭の需要が増し、挺身隊が結成され諸橋松太郎(注2)を団長として炭鉱へ出向。
政夫は当時、東旭川挺身隊の一員として大夕張炭鉱(夕張市)へ入山していたが、その時の新聞記事を紹介する。

近郊だより 東旭川 
「◇石炭確保挺身隊出発 東旭川村では去る12日石炭確保挺身隊一行が部落連合会長村役場書記に引率され昭和電工、三菱礦業所竝に大夕張3方面に出発した。」(『北海道新聞旭川版』昭和17年12月15日版)

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感謝状は既に手元にないが、幸いデジカメに撮っていたので掲載することができた。

感謝状の文面にある『挙国石炭確保運動』とは、昭和17年10月3日に発布された運動のことで企画院・商工・内務・農林・逓信・鉄道・厚生及び石炭統制会、産業報国会の共催である。
この運動の特徴として    ①月別の増産目標の設定
              ②企業最高幹部の陣頭指揮を通じての確保
              ③昭和18年度以降の出炭計画の基礎工作を期した ことが挙げられる。
昭和18年3月まで運動が続けられたが、その後も
『挙国石炭確保激励期間』(昭和19年1~3月)
『炭鉱出炭力増進運動』(昭和19年4~9月・10月~20年3月)
『決戦必勝石炭増産運動』(昭和19年10~12月) の3つの運動が行われた。

下山後、祖父の軍歴について北海道保健福祉部福祉局 福祉援護課に照会して貰ったところ、以下の経歴が判明した。

昭和20年2月 1日(二等兵)現役兵として高射砲第141連隊に入営
    ~7月12日 高射砲第141連隊にありて大東亜戦争防衛勤務に従事
     7月 ○日 第91師団防空隊に転属を命ず
     7月13日 転属のため室蘭出発 同日、滝川着
            同日、第6中隊に編入
     7月16日 滝川発 同日、旭川着
     8月 1日 (一等兵)
     8月15日 独立高射砲第68大隊に転属 同日、第2中隊に編入
     9月 3日 復員
     9月 6日 帰休除隊
昭和21年6月 15日 現役満期  

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復員時の集合写真(撮影時期不明・昭和20年9月?)

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戦後、冬山造材に従事する政夫(年代不明・昭和20年代頃?)

戦時中の大夕張関係について、かなり前に山影静子氏に問い合わせをしたことがあったが、そのときは「申し訳ないが、あと10年早かったら聞くことができたのに、当時を知る人が亡くなられてしまい聞くことができなかった…」と云われてしまった。

戦後、家業である農場に従事。
昭和25年春 結婚。
平成12年12月1日 逝去(享年75)

祖父の没後、住んでいた祖父の家を解体するため「欲しいものがあればもっていっていい」と許可を得て上記の感謝状を持って行った。
感謝状は永らく保存していたが、筆者の転居のため手放して某博物館に寄贈した。
今回の調査に当たり、北海道保健福祉部福祉局福祉援護課様に感謝申し上げます。

(注1) 後の旭川市立第四小学校(平成18年3月31日閉校)
(注2) 諸橋松太郎は東旭川村の有力者であった。

参考文献
北海道新聞1942「近郊だより 東旭川◇石炭確保挺身隊出発」『北海道新聞』昭和17年12月15日版
根津知好1958『石炭国家統制史』財団法人日本経済研究所
N・K氏書簡(2007年)
北海道保健福祉部福祉局福祉援護課グループ2016『成瀬政夫様の軍歴』北海道保健福祉部福祉局福祉援護課援護グループ
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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