北斗市上磯町 湯の沢(盤の沢)
北斗市上磯町 湯の沢(盤の沢)(平成27年5月31日・同年8月29日探訪)
北斗市上磯町湯の沢は、農業を中心に栄えた集落であった。
5万分の1地形図を見ると、湯の沢地区には「戸田」「湯ノ沢」「マナゴ」「二股」と小字が幾つもあるが学校は戸田(戸田の沢)
(注1)にあった。学校の通学区域は戸田を含め、湯ノ沢、マナゴ、二股地区である。
一帯は通称「盤の沢」と呼ばれており、学校名も盤の沢であるがここでは「湯の沢」に統一する。
「茂辺地小学校開校130周年記念誌」によると「1906年(明治39年)茂別村大字茂辺地村戸田・滝ノ沢・馬路地区に対し教育義務を免除」と書かれていたので、明治後期に入植したと考えられる。
しかし、入植時期がいつなのかは「上磯町史」や「茂辺地小学校開校130周年記念誌」に書かれておらず「滝ノ沢」「馬路」も現在の地名でどこに該当するか書かれていなかった。
学校は昭和28年1月 茂辺地小学校市ノ渡分校として開校した。
この頃の集落は11世帯あり、学校の傍にドロマイト(石灰)を採掘する鉱山(平和工業)もあった。
採掘したドロマイトは、町内の峩朗鉱山へ運ばれていった。
昭和29年4月 分校から独立し、市ノ渡小学校と校名変更した。
昭和32年7月 市ノ渡小学校から盤の沢小学校と校名変更した。
昭和34年 ドロマイトの採掘が閉鎖され、戸田の沢で暮らしていた従業員は転出した。
昭和37年頃より、入学する児童がいなくなり、茂辺地へ転出していく家が現れはじめた。
昭和38年の北海道新聞に、盤の沢地区に中学校を設置してほしいという内容の記事があるので引用する。
「中学校が遠く冬季は下宿住まいを余儀なくされる地区が上磯町にあり、同地区では『どんな建て物でもいいから中学校をつくって…』と訴えている。」
「盤の沢小学校通学区域の同町字湯の沢。開拓部落とあって住民の数も少なく、9戸約60人。開拓地といっても純農は2戸だけで他は農業のほか営林署の作業員を兼ねており生活の程度は中クラス、したがって子弟の教育に対する関心は非常に高い。」
「ところが辺地共通の悩みとしてまだ伝統に恵まれず、子供たちは夜間不自由なランプの光をたよりに勉学に励んでいるが、もう一つの悩みの種は中学校が遠いこと。小学校を卒業すると茂辺地中学に通わねばならないが、同中学校に同地区からもっとも近い人で6キロ、ほとんどが10キロ以上歩かなければならない。夏の間はこの“長距離”は克服できるが、秋口にはクマが出たり、冬は雪で通学困難の状況に陥るという。」
「このため冬季には同地区からの通学者は茂辺地市街地の知り合い宅などに下宿せざるを得ず、親元を離れた子供たちの学力は低下しがち-と部落民は訴えている。こうした事情から先月末には『子供の教育のために-』と自分の土地、家を離れて一家族6人が茂辺地に移住、ほかにも移住に傾いている家族が続出しそうな気配。“移住”という現実に突きあたった同小の水沢純二校長や同小PTA会長、鵜飼貞雄さんら部落民は、児童、生徒も一体となって『併設でもよいから中学校を設けて…』とさきごろ町に陳情し、善処を要望したが、具体的な解決策は示されないままに終わっている。冬を迎えて『住みなれた部落は離れたくない。電気はまだがまんできるが学校だけは早くなんとかして』と部落民は悲嘆にくれている。」
湯の沢地区の住民は中学校設置の要望を町に陳情したが、中学校は設置されなかった。
昭和40年3月 盤の沢小学校 閉校。
最後の卒業生は3名であった。
最初に訪れた「みんなの森」。
この時は誰しもがここが「学校跡地」だと思っていた。
公園の一角には「ヒグマ目撃」の看板が立てられている。
「みんなの公園」前より茂辺地方面を望む。
橋の名前は「盤の沢橋」。
何か痕跡がないか、周囲を見渡す。
旧道の橋脚らしき遺構が残されていた。
この写真を撮影直後、パトカーが来て「数日前にクマが出たから、クルマから降りないでほしい」と言われてしまった。
クルマに再び乗り、奥へ行く。
地図上では「二股」付近で、架けられている橋は「東股橋」である。
牧草地が広がっていた。元々は畑だったのかもしれない。
何となく通い作をしているような気配はあるものの、人気はなかった。
後日、私たちが調査した学校跡地は間違いで「みんなの森」よりも手前にあったことが判明した。
学校跡地の情報は、HEYANEKO氏が地形図を見て判断した。
数カ月後の8月29日、卒業論文の資料収集で道南方面へ行った際ラオウ氏とお会いし、再び一緒に学校跡地を訪れた。
盤の沢小学校跡地手前の風景。
学校跡地と知らなければ、分からずに通過してしまう。
学校の防風林も確認できた。
通い作で使用している小屋であるが、背後の松は防風林である。
盤の沢小学校跡地は、水田と化していた。
ラオウ氏の話によると、教育委員会も現地で学校跡地と特定したが記念碑の建立は今のところないそうである。
学校が建てられていた場所は水田と化し、学校の記念碑や学校の基礎も一切見つけられなかった。
「茂辺地歴史散歩」に掲載されていた、盤の沢小学校のエピソードより。
「今は立派なお父さん、お母さんですがいたずらして「この手が悪いんだ」とT先生に手の甲にお灸をすえられたこと、雨の日は廊下でわいわい騒ぎ回って遊んだこと、教室の後ろに置かれていた卓球台(この卓球台は寄贈されたものだそうです)で卓球をしたことなどなつかしく、今でもはっきりと思い出せますと話しています。」
(注1)
地元の人々は「トッタの沢」と呼称していたそうである。
参考文献
「茂辺地歴史散歩」 上磯町立茂辺地小学校 平成9年9月発行
「茂辺地 茂辺地小学校開校130周年記念誌」 茂辺地小学校 2007年7月発行
「僕らの中学校がほしい 上磯町湯の沢地区 秋、冬には通学困難/悩みのクマや雪 家族で転出する人も」
夕刊北海道新聞 昭和38年11月25日
北斗市上磯町湯の沢は、農業を中心に栄えた集落であった。
5万分の1地形図を見ると、湯の沢地区には「戸田」「湯ノ沢」「マナゴ」「二股」と小字が幾つもあるが学校は戸田(戸田の沢)
(注1)にあった。学校の通学区域は戸田を含め、湯ノ沢、マナゴ、二股地区である。
一帯は通称「盤の沢」と呼ばれており、学校名も盤の沢であるがここでは「湯の沢」に統一する。
「茂辺地小学校開校130周年記念誌」によると「1906年(明治39年)茂別村大字茂辺地村戸田・滝ノ沢・馬路地区に対し教育義務を免除」と書かれていたので、明治後期に入植したと考えられる。
しかし、入植時期がいつなのかは「上磯町史」や「茂辺地小学校開校130周年記念誌」に書かれておらず「滝ノ沢」「馬路」も現在の地名でどこに該当するか書かれていなかった。
学校は昭和28年1月 茂辺地小学校市ノ渡分校として開校した。
この頃の集落は11世帯あり、学校の傍にドロマイト(石灰)を採掘する鉱山(平和工業)もあった。
採掘したドロマイトは、町内の峩朗鉱山へ運ばれていった。
昭和29年4月 分校から独立し、市ノ渡小学校と校名変更した。
昭和32年7月 市ノ渡小学校から盤の沢小学校と校名変更した。
昭和34年 ドロマイトの採掘が閉鎖され、戸田の沢で暮らしていた従業員は転出した。
昭和37年頃より、入学する児童がいなくなり、茂辺地へ転出していく家が現れはじめた。
昭和38年の北海道新聞に、盤の沢地区に中学校を設置してほしいという内容の記事があるので引用する。
「中学校が遠く冬季は下宿住まいを余儀なくされる地区が上磯町にあり、同地区では『どんな建て物でもいいから中学校をつくって…』と訴えている。」
「盤の沢小学校通学区域の同町字湯の沢。開拓部落とあって住民の数も少なく、9戸約60人。開拓地といっても純農は2戸だけで他は農業のほか営林署の作業員を兼ねており生活の程度は中クラス、したがって子弟の教育に対する関心は非常に高い。」
「ところが辺地共通の悩みとしてまだ伝統に恵まれず、子供たちは夜間不自由なランプの光をたよりに勉学に励んでいるが、もう一つの悩みの種は中学校が遠いこと。小学校を卒業すると茂辺地中学に通わねばならないが、同中学校に同地区からもっとも近い人で6キロ、ほとんどが10キロ以上歩かなければならない。夏の間はこの“長距離”は克服できるが、秋口にはクマが出たり、冬は雪で通学困難の状況に陥るという。」
「このため冬季には同地区からの通学者は茂辺地市街地の知り合い宅などに下宿せざるを得ず、親元を離れた子供たちの学力は低下しがち-と部落民は訴えている。こうした事情から先月末には『子供の教育のために-』と自分の土地、家を離れて一家族6人が茂辺地に移住、ほかにも移住に傾いている家族が続出しそうな気配。“移住”という現実に突きあたった同小の水沢純二校長や同小PTA会長、鵜飼貞雄さんら部落民は、児童、生徒も一体となって『併設でもよいから中学校を設けて…』とさきごろ町に陳情し、善処を要望したが、具体的な解決策は示されないままに終わっている。冬を迎えて『住みなれた部落は離れたくない。電気はまだがまんできるが学校だけは早くなんとかして』と部落民は悲嘆にくれている。」
湯の沢地区の住民は中学校設置の要望を町に陳情したが、中学校は設置されなかった。
昭和40年3月 盤の沢小学校 閉校。
最後の卒業生は3名であった。
最初に訪れた「みんなの森」。
この時は誰しもがここが「学校跡地」だと思っていた。
公園の一角には「ヒグマ目撃」の看板が立てられている。
「みんなの公園」前より茂辺地方面を望む。
橋の名前は「盤の沢橋」。
何か痕跡がないか、周囲を見渡す。
旧道の橋脚らしき遺構が残されていた。
この写真を撮影直後、パトカーが来て「数日前にクマが出たから、クルマから降りないでほしい」と言われてしまった。
クルマに再び乗り、奥へ行く。
地図上では「二股」付近で、架けられている橋は「東股橋」である。
牧草地が広がっていた。元々は畑だったのかもしれない。
何となく通い作をしているような気配はあるものの、人気はなかった。
後日、私たちが調査した学校跡地は間違いで「みんなの森」よりも手前にあったことが判明した。
学校跡地の情報は、HEYANEKO氏が地形図を見て判断した。
数カ月後の8月29日、卒業論文の資料収集で道南方面へ行った際ラオウ氏とお会いし、再び一緒に学校跡地を訪れた。
盤の沢小学校跡地手前の風景。
学校跡地と知らなければ、分からずに通過してしまう。
学校の防風林も確認できた。
通い作で使用している小屋であるが、背後の松は防風林である。
盤の沢小学校跡地は、水田と化していた。
ラオウ氏の話によると、教育委員会も現地で学校跡地と特定したが記念碑の建立は今のところないそうである。
学校が建てられていた場所は水田と化し、学校の記念碑や学校の基礎も一切見つけられなかった。
「茂辺地歴史散歩」に掲載されていた、盤の沢小学校のエピソードより。
「今は立派なお父さん、お母さんですがいたずらして「この手が悪いんだ」とT先生に手の甲にお灸をすえられたこと、雨の日は廊下でわいわい騒ぎ回って遊んだこと、教室の後ろに置かれていた卓球台(この卓球台は寄贈されたものだそうです)で卓球をしたことなどなつかしく、今でもはっきりと思い出せますと話しています。」
(注1)
地元の人々は「トッタの沢」と呼称していたそうである。
参考文献
「茂辺地歴史散歩」 上磯町立茂辺地小学校 平成9年9月発行
「茂辺地 茂辺地小学校開校130周年記念誌」 茂辺地小学校 2007年7月発行
「僕らの中学校がほしい 上磯町湯の沢地区 秋、冬には通学困難/悩みのクマや雪 家族で転出する人も」
夕刊北海道新聞 昭和38年11月25日