小平町川上
小平町川上(平成28年10月10日・平成29年4月19日探訪)
小平町川上は農村集落である。
小平町滝下東和と同様、明治39年御料1線から24線までの農地区画割測設を経て翌40年から農地として貸し下げることになった。明治42年2月中野観文を招き入れ個人宅の庭先(歳桃久松宅)を借用、授業を始めたのが最初である。6月に大渕彗淳が教えたが10月に去り休業した。時々、歳桃氏が教えていたが明治43年菅原善四郎を招いて再開した。
児童数の増加により専用教場の必要性を痛感し、10月に小屋を建てて移った。
明治44年5月に小平蘂尋常小学校所属小平蘂御料第3特別教授場となった。校舎は従来の小屋を使っていた。
明治45年1月教員が来たが9月に去り、再び休業(大正2年4月まで)する。
大正2年4月に再び教員が来て授業が始まり、校舎も改築した。
大正4年小平蘂第3教育所(後の寧楽小学校)所属、翌5年度から御料第1教育所(後の達布小学校)所属に代わった。所属校も変わったが教職員の入れ替わりも激しく、落ち着く教員がいなかった。落ち着きを見せたのは昭和に入ってからである。
大正6年度より達布尋常小学校所属川上特別教授場と改称。昭和8年5月には滝下尋常小学校所属になった。
昭和9年度に川上尋常小学校と改称、昭和16年4月に川上国民学校と改称、昭和22年に川上小学校と改称した。
川上は「へき地教育振興法」適用校として多角的な補助が計画、実行された。列挙すると
①校舎2教室新築(昭和31年)
②へき地集会所(屋内体育館)新築(昭和32年)
③校長住宅改築(昭和33年)
④へき地学校風呂付設(昭和41年) である。
戦後開拓者の入植(9戸)もあったが、過疎化の進行に伴い住民は次々に転出。
「過疎地域対策緊急措置法」の適用を受け、学校は昭和49年3月末で閉校。集落は集団移転した。
移転先は小平市街地に「川上団地」を設け19戸が移転。3戸は達布に移転した。
学校の沿革は以下の通りである。
明治42年 中野観文を招き入れ歳桃久松宅の庭先を借用して授業開始(2月)。大渕氏が6月より教えるが10月で去り、休業
明治43年 菅原善四郎を招いて再開(9月)。小屋(校舎)建設(10月)
明治44年 小平蘂第1尋常小学校所属小平蘂御料第3教授場となる(5月)
明治45年 教員が去ったため休業(9月)
大正 2年 再開(4月)校舎改築する
大正 4年 小平蘂第3教育所所属小平蘂御料第3教授場と改称(4月)
大正 5年 小平蘂御料第1教育所所属第3特別教授場と改称
大正 6年 達布尋常小学校所属川上特別教授場と改称
昭和 9年 川上尋常小学校と改称
昭和16年 川上国民学校と改称(4月)
昭和22年 川上小学校と改称(4月)
昭和49年 閉校(3月)
閉校時の新聞記事を掲載する。
さようなら63年間の思い出 集団離農の小平・川上部落で廃校式 在校生が合奏披露 門標返還に涙ぐむ主婦
【小平】「〝さようなら、川上〟-部落ぐるみの集団移転に伴い63年間の校史にピリオドを打つ川上小学校の廃校式が24日行われた。春近しとはいえ、2メートル以上の雪にすっぽり包まれた同校には在校生3人のほか、部落住民のほとんどが出席、式場となった教室には住み慣れた地を去る惜情と近づく再出発の期待とが複雑に交錯していた。
川上部落は約70年前、石川県、四国などからの入植者で切り開かれた。明治42年(1909年)から私設の教授場を開き、児童の教育を進めていたが、小平蘂第一尋常小学校所属御料第三特別教授場として公設認可があったのは同44年(1911年)5月。達布小所属川上特別教授場を経て昭和9年、川上尋常小として独立。戦後22年4月から川上小学校となった。大正2年(1913年)から、この日卒業した歳桃正弘君、片山悦子さんを入れ、ちょうど男100人、女100人の計200人の卒業生を送り出している。
約15年前には45世帯を数えた校下も過疎の波に洗われ現在は22戸96人。水田経営に見切りをつけ、過疎地域集落整備事業の指定を受け、昨年、全道でも珍しい部落挙げての離農に踏み切り、町側もすでに市街地に川上団地用として1万平方メートルの宅地を造成、職業紹介も行い部落全員が木工場などで雪解けと共に第2の人生を踏み出すことになっている。
廃校式に先立って行われた卒業式で西校長は2人の卒業生と4月から小平小に転校する3年生の歳桃明義君の3人に「川上は消えます。しかし君たちはこの学校を最後まで見守ったという気概を持って新しい出発を-」と激励した。
また川上部落移転激励会を兼ねた廃校式でも五十嵐小平町長、桜井留萌支庁長、加藤留萌教育局長らが「川上の地を離れるのはつらいでしょうが、力強く第2の人生を踏み出してください」と3人の児童らと集まった約80人の住民を励ました。
式の途中、西校長は思い出深い「川上小学校」の門標を五十嵐町長に返還したが、目がしらを抑える主婦もいた。さらに式の間、3人の在校生がマリンバ、アコーディオン、笛をもって器楽合奏を披露。校歌と「ふるさと」のメロディーは出席者の胸を強く打っていた。」北海道新聞留萌・宗谷版昭和49(1974)年3月26日
達布を抜け、滝下東和を過ぎ、川上へ入った。
川上小学校跡地には農業施設が建っていた。
傍には、集落にゆかりある人らの名前が刻まれた「懐古の碑」が建立されている。
学校前の屋敷跡(H宅跡)前には、達布から伸びていた森林鉄道の築堤らしきものが残っていた。
学校より先へ進む。
この辺りには戦後開拓入植者を含め、3戸の家があった。
小雨が降り、足元もぬかるむ。
そして何より、クマの脅威である。
平坦な土地(畑&屋敷跡)が所々にあったが、笹に覆われていた。
もうひとつ、ここの「川上本流林道」にも既存農家と戦後開拓入植者が暮らしていた。
尚、達布から伸びていた森林鉄道はこの林道の先まで通じていた。
川は濁流。落ちないとは思いつつも、慎重に渡る。
雪の時期は集落の面影が分かる反面、「穴持たず」のヒグマの危険がある。
ここも当然、携帯電話圏外である。
この辺りに1戸の家があったが、何も残っていない。
推測で、庭先の松の木が残っている程度である。
振り返ると、森林鉄道の築堤らしきものが分かる。
道はまだ続いているがこれ以上進むのは危険と判断し、引き返した。
余話
川上小学校の門標は道の駅「おびら鰊番屋」2階に展示されている。
学校の門標は大事に保管されていた。
尚、隣にあるベルは富岡小学校で使用されていたものである。
参考文献
北海道新聞1974「さようなら63年間の思い出 集団離農の小平・川上部落で廃校式 在校生が合奏披露 門標返還に涙ぐむ主婦」北海道新聞留萌・宗谷版昭和49年3月26日
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
鈴木 トミヱ2000『小平百話‐記憶の中の物語‐』小平町開基120年記念事業実行委員会
小平町川上は農村集落である。
小平町滝下東和と同様、明治39年御料1線から24線までの農地区画割測設を経て翌40年から農地として貸し下げることになった。明治42年2月中野観文を招き入れ個人宅の庭先(歳桃久松宅)を借用、授業を始めたのが最初である。6月に大渕彗淳が教えたが10月に去り休業した。時々、歳桃氏が教えていたが明治43年菅原善四郎を招いて再開した。
児童数の増加により専用教場の必要性を痛感し、10月に小屋を建てて移った。
明治44年5月に小平蘂尋常小学校所属小平蘂御料第3特別教授場となった。校舎は従来の小屋を使っていた。
明治45年1月教員が来たが9月に去り、再び休業(大正2年4月まで)する。
大正2年4月に再び教員が来て授業が始まり、校舎も改築した。
大正4年小平蘂第3教育所(後の寧楽小学校)所属、翌5年度から御料第1教育所(後の達布小学校)所属に代わった。所属校も変わったが教職員の入れ替わりも激しく、落ち着く教員がいなかった。落ち着きを見せたのは昭和に入ってからである。
大正6年度より達布尋常小学校所属川上特別教授場と改称。昭和8年5月には滝下尋常小学校所属になった。
昭和9年度に川上尋常小学校と改称、昭和16年4月に川上国民学校と改称、昭和22年に川上小学校と改称した。
川上は「へき地教育振興法」適用校として多角的な補助が計画、実行された。列挙すると
①校舎2教室新築(昭和31年)
②へき地集会所(屋内体育館)新築(昭和32年)
③校長住宅改築(昭和33年)
④へき地学校風呂付設(昭和41年) である。
戦後開拓者の入植(9戸)もあったが、過疎化の進行に伴い住民は次々に転出。
「過疎地域対策緊急措置法」の適用を受け、学校は昭和49年3月末で閉校。集落は集団移転した。
移転先は小平市街地に「川上団地」を設け19戸が移転。3戸は達布に移転した。
学校の沿革は以下の通りである。
明治42年 中野観文を招き入れ歳桃久松宅の庭先を借用して授業開始(2月)。大渕氏が6月より教えるが10月で去り、休業
明治43年 菅原善四郎を招いて再開(9月)。小屋(校舎)建設(10月)
明治44年 小平蘂第1尋常小学校所属小平蘂御料第3教授場となる(5月)
明治45年 教員が去ったため休業(9月)
大正 2年 再開(4月)校舎改築する
大正 4年 小平蘂第3教育所所属小平蘂御料第3教授場と改称(4月)
大正 5年 小平蘂御料第1教育所所属第3特別教授場と改称
大正 6年 達布尋常小学校所属川上特別教授場と改称
昭和 9年 川上尋常小学校と改称
昭和16年 川上国民学校と改称(4月)
昭和22年 川上小学校と改称(4月)
昭和49年 閉校(3月)
閉校時の新聞記事を掲載する。
さようなら63年間の思い出 集団離農の小平・川上部落で廃校式 在校生が合奏披露 門標返還に涙ぐむ主婦
【小平】「〝さようなら、川上〟-部落ぐるみの集団移転に伴い63年間の校史にピリオドを打つ川上小学校の廃校式が24日行われた。春近しとはいえ、2メートル以上の雪にすっぽり包まれた同校には在校生3人のほか、部落住民のほとんどが出席、式場となった教室には住み慣れた地を去る惜情と近づく再出発の期待とが複雑に交錯していた。
川上部落は約70年前、石川県、四国などからの入植者で切り開かれた。明治42年(1909年)から私設の教授場を開き、児童の教育を進めていたが、小平蘂第一尋常小学校所属御料第三特別教授場として公設認可があったのは同44年(1911年)5月。達布小所属川上特別教授場を経て昭和9年、川上尋常小として独立。戦後22年4月から川上小学校となった。大正2年(1913年)から、この日卒業した歳桃正弘君、片山悦子さんを入れ、ちょうど男100人、女100人の計200人の卒業生を送り出している。
約15年前には45世帯を数えた校下も過疎の波に洗われ現在は22戸96人。水田経営に見切りをつけ、過疎地域集落整備事業の指定を受け、昨年、全道でも珍しい部落挙げての離農に踏み切り、町側もすでに市街地に川上団地用として1万平方メートルの宅地を造成、職業紹介も行い部落全員が木工場などで雪解けと共に第2の人生を踏み出すことになっている。
廃校式に先立って行われた卒業式で西校長は2人の卒業生と4月から小平小に転校する3年生の歳桃明義君の3人に「川上は消えます。しかし君たちはこの学校を最後まで見守ったという気概を持って新しい出発を-」と激励した。
また川上部落移転激励会を兼ねた廃校式でも五十嵐小平町長、桜井留萌支庁長、加藤留萌教育局長らが「川上の地を離れるのはつらいでしょうが、力強く第2の人生を踏み出してください」と3人の児童らと集まった約80人の住民を励ました。
式の途中、西校長は思い出深い「川上小学校」の門標を五十嵐町長に返還したが、目がしらを抑える主婦もいた。さらに式の間、3人の在校生がマリンバ、アコーディオン、笛をもって器楽合奏を披露。校歌と「ふるさと」のメロディーは出席者の胸を強く打っていた。」北海道新聞留萌・宗谷版昭和49(1974)年3月26日
達布を抜け、滝下東和を過ぎ、川上へ入った。
川上小学校跡地には農業施設が建っていた。
傍には、集落にゆかりある人らの名前が刻まれた「懐古の碑」が建立されている。
学校前の屋敷跡(H宅跡)前には、達布から伸びていた森林鉄道の築堤らしきものが残っていた。
学校より先へ進む。
この辺りには戦後開拓入植者を含め、3戸の家があった。
小雨が降り、足元もぬかるむ。
そして何より、クマの脅威である。
平坦な土地(畑&屋敷跡)が所々にあったが、笹に覆われていた。
もうひとつ、ここの「川上本流林道」にも既存農家と戦後開拓入植者が暮らしていた。
尚、達布から伸びていた森林鉄道はこの林道の先まで通じていた。
川は濁流。落ちないとは思いつつも、慎重に渡る。
雪の時期は集落の面影が分かる反面、「穴持たず」のヒグマの危険がある。
ここも当然、携帯電話圏外である。
この辺りに1戸の家があったが、何も残っていない。
推測で、庭先の松の木が残っている程度である。
振り返ると、森林鉄道の築堤らしきものが分かる。
道はまだ続いているがこれ以上進むのは危険と判断し、引き返した。
余話
川上小学校の門標は道の駅「おびら鰊番屋」2階に展示されている。
学校の門標は大事に保管されていた。
尚、隣にあるベルは富岡小学校で使用されていたものである。
参考文献
北海道新聞1974「さようなら63年間の思い出 集団離農の小平・川上部落で廃校式 在校生が合奏披露 門標返還に涙ぐむ主婦」北海道新聞留萌・宗谷版昭和49年3月26日
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
鈴木 トミヱ2000『小平百話‐記憶の中の物語‐』小平町開基120年記念事業実行委員会
小平町滝下東和
小平町滝下東和(平成28年10月10日・平成29年4月19日・4月25日探訪)
小平町滝下東和は農業から始まり、後に炭鉱で栄えた集落である。
明治39年御料1線から24線までの農地区画割測設が実施され、翌40年から農地として貸し下げることになった。
しかし、御料の区域があまりにも広大すぎることから明治41年12月特別教授場を2か所(うち1か所は私設校)開校、校名は小平蘂御料第2特別教授場と称した。
大正4年より小平蘂御料第一教育所(後の達布小学校)所属となり大正13年、校舎を御料13線に移転した。
昭和8年5月に滝下尋常小学校と改称、昭和16年4月滝下国民学校と改称。
昭和21年1月、失火により校舎全焼のため子弟らは営林署の小屋を借用したり、上記念別国民学校へ通学した。
昭和22年春、個人家屋を購入したうえで改造移転し、ようやく落ち着きを取り戻したが、教室が狭いため翌23年に増築、また昭和24年5月に閉校した上記念別小学校校舎を移転させ、職員室や教室に充てている。
昭和25年、中学校併置の認可が下り、27年7月まで共生した。
昭和31年11月、炭鉱開発により児童数が増えたため校舎を中学校へ移転した。
昭和38年より東和小学校と改称した。
昭和33年より日本炭業 達布福久鉱の採炭が始まり児童数も増えていったが、昭和42年7月で閉山した。
閉山後、農家以外の住む人は激減し僅かに残った児童も学校周辺にクマが出没したため自衛隊が児童の警護に当たり、昭和43年3月末に閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
明治41年 特別教授場を2カ所(うち1カ所は私設校)開設・小平蘂御料第2特別教授場として開校(12月)
大正 4年 小平蘂御料第一教育所所属となる
大正13年 御料13線に移転改築
昭和 8年 滝下尋常小学校と改称(5月)
昭和16年 滝下国民学校と改称(4月)
昭和21年 校舎全焼(1月)
昭和22年 個人家屋を購入、改造移転(春)
昭和23年 校舎増築(10月)
昭和24年 閉校した上記念別小学校の校舎を移転付設(5月)
昭和31年 東和中学校に移転付設(11月)
昭和38年 東和小学校と改称
昭和43年 閉校(3月)
中学校
昭和25年 東和中学校開校(小学校と共生)
昭和27年 校舎移転(8月)
昭和43年 閉校(3月)
炭鉱が閉校し、生徒が減少する一方でクマの脅威があった。これから紹介する記事は、自衛隊がクマの掃討作戦を行い、児童生徒らをトラックで輸送する記事である。
自衛隊が山岳機動演習 奥地に追い込むクマ正面対決は避けて
「ヒグマの出没におびえる小平町では被害を未然に防止するため、留萌支庁を通して自衛隊の出動を要請していたが、留萌第26普通科連隊では6日から11日までヒグマの出る同町奥地一帯で山岳機動演習を実施ヒグマ掃とう作戦を支援することになった。
演習に参加するのは池田連隊長以下隊員600人と車輛60台、これから行う暑寒別岳その他で実施計画中の山岳訓練を変更して達布地区に集中して行うことにしたもので、部隊は達布、寧楽、滝下、下記念、川上などにヒグマの出没する地区に分かれて、夜は山中に天幕を張り幕営。6日間にわたって山岳戦を展開、推定30頭に上るといわれるヒグマを部落周辺から山中深く追い払う作戦である。尚池田連隊長は作戦準備のため4日現地を視察した。」
通学輸送始まる
「最近連日のようにクマの出没する小平町滝下地区で4日から自衛隊トラックによる児童生徒の通学が始まった。
同町市街から約40キロ奥の滝下、川上地区は、けわしい山に囲まれた山村地域。最近20回程度に亘ってヒグマが水を求めて住民を脅かしているが、4~5キロもある山道を歩いて通学している児童生徒は、いつクマに襲われるかわからない-と町が支庁を通して要請したもの。これら川上小、東和小中の学童68人をクマの危険から守るため、4日から留萌自衛隊第1中隊の大倉3曹ら6人の隊員が東和小中学校に泊まり込みで生徒のトラック輸送を始めた。登校時の朝8時ころと下校時に、大型トラック1台で生徒を送り迎えしており、12日まで実施する予定だ。」上記2記事 日刊留萌新聞昭和42年9月5日
追込み作戦成功するか 600人が山岳戦 自衛隊達布地区に出動
「陸上自衛隊第2師団第26普通科連隊の山岳機動演習が、6日から小平町奥地の達布地区で始まった。
同訓練は当初暑寒別岳などで実施する計画であったが、小平町の要望もあってヒグマの出没におびえる達布地区で集中的に行うことになったもの。訓練には池田連隊長をはじめ、隊員600人と車輛約60台を動員。毎日のようにヒグマの出る達布、滝下、川上など4か所に設営、11日まで6日間にわたって実戦さながらの訓練を展開する。
同地区一帯に7月末から推定30頭にのぼるといわれるヒグマが出没、学校生徒も自衛隊のトラックで通学するほど、部落住民は山オヤジの危険にさらされている。このようなことからクマ退治も兼ねた山岳訓練を行うもので、夜は山中に幕営、クマを山奥に追い込む奇襲作戦を行う。」
食糧現地で購入 連隊長の親心
「ヒグマの恐怖におののいている小平町達布地区住民を救うため自衛隊留萌駐とん部隊は6日から11日まで同地区で大がかりな山岳機動演習を開始した。
いつもの演習なら隊員めいめいが携行食糧を持参するのだが、今度は兵たん部を異動主食の米を除いてすべて現地調達で賄うことになった。
これは炭砿、鉄道の閉鎖で達布の商店が困っていると聞いた池田連隊長が少しでも地域の人たちのためになればと親心を示したもの。何分600人からの部隊となると副食品や酒、甘味品(お菓子)煙草だけでも1日数万円はかかる。これを現地の商店や農家から買い上げて部落の人たちのふところを暖めようという趣向だが、思わぬ現金収入に部落の人たちも大歓迎、これを機に自衛隊に親近感を増すのではなかろうか。」上記2記事 日刊留萌新聞昭和42年9月7日
閉校式の記事を掲載する。
60年の歴史を閉ず 閉山で生徒激減 東和小中校で廃校式
小平町東和小中校の廃校式は、17日在校生29人、藤田校長ら教員、PTA、五十嵐町長、佐々木教委々員長ら来賓およそ100人が出席して同校で行われ、明治41年分校として開校してから60年間、446人の児童・生徒を送り出した歴史を閉じた。
廃校式は17日午前10時30分から同校講堂で行われ、開式の後物故者の霊に黙とうを捧げた後、五十嵐町長が『みなさんの教育環境を良くすることに決めました』と廃校の理由を交えた式辞を述べ、藤田悌三校長が「東和校の教育目標である健康、勤労、自主創造、奉仕の4つを忘れず、達布校でも元気に勉強してください」と別れの言葉を述べ、竹村議長、町内校長会、東和校PT会長らが生徒を励ました。
続いて五十嵐町長から歴代校長、PT会長、職員代表、生徒代表らに記念品が贈られ、生徒を受け入れる本間達布小校長と石崎同中学校長が「安心して達布にきてください、4月5日を待っています」とお迎えの言葉が述べられた。これに対し小学校代表の小学5年の三好明美さんが「滝の下で炊事遠足をしたことなど思い出は尽きません、学校は移ってもわたくしたちを忘れないでください、わたくしたちは転校して早く新しい学校になじむように努力します」中学代表の1年大屋慶治君も「炭鉱閉山がぼくたちの学校の歴史を変えてしまいました。しかしぼくらは東和で学んだことを一生忘れません」とあいさつ「つきせぬ小平の清流に、まことのちかいうつしつつ、かたき友情たからかに、こだまとひびく・ああ東和、われらが母校に光あれ」の校歌、続いて蛍の光を一同が合唱して廃校式を終えた。校歌と蛍の光を歌い終わるころ、大屋PT会長が感慨深く涙を流し女教師が声を出して泣いて閉山という社会の動きに廃校に追いやられた同行の閉鎖を惜しんでいた。」日刊留萌新聞昭和43年3月19日
達布地区を通り過ぎ、おびらしべ湖(ダム)に来た。
このダムの底に、移転前の滝下小学校や集落が広がっていた。
ダム湖畔を眺める。
おびらしべダム湖畔の「小島」
この「小島」こそ、かつての滝下神社があった場所である。
移転先の東和小中学校跡付近。
すっかり自然に戻っていた。
余話
戦後、滝下東和地区の隆盛を極めた日本炭業 達布福久鉱の入り口はこちらである。
航空写真で確認すると、この林道のはるか先にコンクリートの遺構らしきものが写っていた。
しかしあまりに奥であることやクマ出没地帯なので、単独で行くのは止めた。
参考文献
日刊留萌新聞1967「自衛隊が山岳機動演習 奥地に追い込むクマ正面対決は避けて」「通学輸送始まる」日刊留萌新聞昭和42年9月7日
日刊留萌新聞1968「60年の歴史を閉ず 閉山で生徒激減 東和小中校で廃校式」日刊留萌新聞昭和43年3月19日
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
鈴木 トミヱ2000『小平百話‐記憶の中の物語‐』小平町開基120年記念事業実行委員会
小平町滝下東和は農業から始まり、後に炭鉱で栄えた集落である。
明治39年御料1線から24線までの農地区画割測設が実施され、翌40年から農地として貸し下げることになった。
しかし、御料の区域があまりにも広大すぎることから明治41年12月特別教授場を2か所(うち1か所は私設校)開校、校名は小平蘂御料第2特別教授場と称した。
大正4年より小平蘂御料第一教育所(後の達布小学校)所属となり大正13年、校舎を御料13線に移転した。
昭和8年5月に滝下尋常小学校と改称、昭和16年4月滝下国民学校と改称。
昭和21年1月、失火により校舎全焼のため子弟らは営林署の小屋を借用したり、上記念別国民学校へ通学した。
昭和22年春、個人家屋を購入したうえで改造移転し、ようやく落ち着きを取り戻したが、教室が狭いため翌23年に増築、また昭和24年5月に閉校した上記念別小学校校舎を移転させ、職員室や教室に充てている。
昭和25年、中学校併置の認可が下り、27年7月まで共生した。
昭和31年11月、炭鉱開発により児童数が増えたため校舎を中学校へ移転した。
昭和38年より東和小学校と改称した。
昭和33年より日本炭業 達布福久鉱の採炭が始まり児童数も増えていったが、昭和42年7月で閉山した。
閉山後、農家以外の住む人は激減し僅かに残った児童も学校周辺にクマが出没したため自衛隊が児童の警護に当たり、昭和43年3月末に閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
明治41年 特別教授場を2カ所(うち1カ所は私設校)開設・小平蘂御料第2特別教授場として開校(12月)
大正 4年 小平蘂御料第一教育所所属となる
大正13年 御料13線に移転改築
昭和 8年 滝下尋常小学校と改称(5月)
昭和16年 滝下国民学校と改称(4月)
昭和21年 校舎全焼(1月)
昭和22年 個人家屋を購入、改造移転(春)
昭和23年 校舎増築(10月)
昭和24年 閉校した上記念別小学校の校舎を移転付設(5月)
昭和31年 東和中学校に移転付設(11月)
昭和38年 東和小学校と改称
昭和43年 閉校(3月)
中学校
昭和25年 東和中学校開校(小学校と共生)
昭和27年 校舎移転(8月)
昭和43年 閉校(3月)
炭鉱が閉校し、生徒が減少する一方でクマの脅威があった。これから紹介する記事は、自衛隊がクマの掃討作戦を行い、児童生徒らをトラックで輸送する記事である。
自衛隊が山岳機動演習 奥地に追い込むクマ正面対決は避けて
「ヒグマの出没におびえる小平町では被害を未然に防止するため、留萌支庁を通して自衛隊の出動を要請していたが、留萌第26普通科連隊では6日から11日までヒグマの出る同町奥地一帯で山岳機動演習を実施ヒグマ掃とう作戦を支援することになった。
演習に参加するのは池田連隊長以下隊員600人と車輛60台、これから行う暑寒別岳その他で実施計画中の山岳訓練を変更して達布地区に集中して行うことにしたもので、部隊は達布、寧楽、滝下、下記念、川上などにヒグマの出没する地区に分かれて、夜は山中に天幕を張り幕営。6日間にわたって山岳戦を展開、推定30頭に上るといわれるヒグマを部落周辺から山中深く追い払う作戦である。尚池田連隊長は作戦準備のため4日現地を視察した。」
通学輸送始まる
「最近連日のようにクマの出没する小平町滝下地区で4日から自衛隊トラックによる児童生徒の通学が始まった。
同町市街から約40キロ奥の滝下、川上地区は、けわしい山に囲まれた山村地域。最近20回程度に亘ってヒグマが水を求めて住民を脅かしているが、4~5キロもある山道を歩いて通学している児童生徒は、いつクマに襲われるかわからない-と町が支庁を通して要請したもの。これら川上小、東和小中の学童68人をクマの危険から守るため、4日から留萌自衛隊第1中隊の大倉3曹ら6人の隊員が東和小中学校に泊まり込みで生徒のトラック輸送を始めた。登校時の朝8時ころと下校時に、大型トラック1台で生徒を送り迎えしており、12日まで実施する予定だ。」上記2記事 日刊留萌新聞昭和42年9月5日
追込み作戦成功するか 600人が山岳戦 自衛隊達布地区に出動
「陸上自衛隊第2師団第26普通科連隊の山岳機動演習が、6日から小平町奥地の達布地区で始まった。
同訓練は当初暑寒別岳などで実施する計画であったが、小平町の要望もあってヒグマの出没におびえる達布地区で集中的に行うことになったもの。訓練には池田連隊長をはじめ、隊員600人と車輛約60台を動員。毎日のようにヒグマの出る達布、滝下、川上など4か所に設営、11日まで6日間にわたって実戦さながらの訓練を展開する。
同地区一帯に7月末から推定30頭にのぼるといわれるヒグマが出没、学校生徒も自衛隊のトラックで通学するほど、部落住民は山オヤジの危険にさらされている。このようなことからクマ退治も兼ねた山岳訓練を行うもので、夜は山中に幕営、クマを山奥に追い込む奇襲作戦を行う。」
食糧現地で購入 連隊長の親心
「ヒグマの恐怖におののいている小平町達布地区住民を救うため自衛隊留萌駐とん部隊は6日から11日まで同地区で大がかりな山岳機動演習を開始した。
いつもの演習なら隊員めいめいが携行食糧を持参するのだが、今度は兵たん部を異動主食の米を除いてすべて現地調達で賄うことになった。
これは炭砿、鉄道の閉鎖で達布の商店が困っていると聞いた池田連隊長が少しでも地域の人たちのためになればと親心を示したもの。何分600人からの部隊となると副食品や酒、甘味品(お菓子)煙草だけでも1日数万円はかかる。これを現地の商店や農家から買い上げて部落の人たちのふところを暖めようという趣向だが、思わぬ現金収入に部落の人たちも大歓迎、これを機に自衛隊に親近感を増すのではなかろうか。」上記2記事 日刊留萌新聞昭和42年9月7日
閉校式の記事を掲載する。
60年の歴史を閉ず 閉山で生徒激減 東和小中校で廃校式
小平町東和小中校の廃校式は、17日在校生29人、藤田校長ら教員、PTA、五十嵐町長、佐々木教委々員長ら来賓およそ100人が出席して同校で行われ、明治41年分校として開校してから60年間、446人の児童・生徒を送り出した歴史を閉じた。
廃校式は17日午前10時30分から同校講堂で行われ、開式の後物故者の霊に黙とうを捧げた後、五十嵐町長が『みなさんの教育環境を良くすることに決めました』と廃校の理由を交えた式辞を述べ、藤田悌三校長が「東和校の教育目標である健康、勤労、自主創造、奉仕の4つを忘れず、達布校でも元気に勉強してください」と別れの言葉を述べ、竹村議長、町内校長会、東和校PT会長らが生徒を励ました。
続いて五十嵐町長から歴代校長、PT会長、職員代表、生徒代表らに記念品が贈られ、生徒を受け入れる本間達布小校長と石崎同中学校長が「安心して達布にきてください、4月5日を待っています」とお迎えの言葉が述べられた。これに対し小学校代表の小学5年の三好明美さんが「滝の下で炊事遠足をしたことなど思い出は尽きません、学校は移ってもわたくしたちを忘れないでください、わたくしたちは転校して早く新しい学校になじむように努力します」中学代表の1年大屋慶治君も「炭鉱閉山がぼくたちの学校の歴史を変えてしまいました。しかしぼくらは東和で学んだことを一生忘れません」とあいさつ「つきせぬ小平の清流に、まことのちかいうつしつつ、かたき友情たからかに、こだまとひびく・ああ東和、われらが母校に光あれ」の校歌、続いて蛍の光を一同が合唱して廃校式を終えた。校歌と蛍の光を歌い終わるころ、大屋PT会長が感慨深く涙を流し女教師が声を出して泣いて閉山という社会の動きに廃校に追いやられた同行の閉鎖を惜しんでいた。」日刊留萌新聞昭和43年3月19日
達布地区を通り過ぎ、おびらしべ湖(ダム)に来た。
このダムの底に、移転前の滝下小学校や集落が広がっていた。
ダム湖畔を眺める。
おびらしべダム湖畔の「小島」
この「小島」こそ、かつての滝下神社があった場所である。
移転先の東和小中学校跡付近。
すっかり自然に戻っていた。
余話
戦後、滝下東和地区の隆盛を極めた日本炭業 達布福久鉱の入り口はこちらである。
航空写真で確認すると、この林道のはるか先にコンクリートの遺構らしきものが写っていた。
しかしあまりに奥であることやクマ出没地帯なので、単独で行くのは止めた。
参考文献
日刊留萌新聞1967「自衛隊が山岳機動演習 奥地に追い込むクマ正面対決は避けて」「通学輸送始まる」日刊留萌新聞昭和42年9月7日
日刊留萌新聞1968「60年の歴史を閉ず 閉山で生徒激減 東和小中校で廃校式」日刊留萌新聞昭和43年3月19日
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
鈴木 トミヱ2000『小平百話‐記憶の中の物語‐』小平町開基120年記念事業実行委員会