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芦別市滝里

芦別市滝里(平成24年11月11日探訪)

滝里の開拓は、明治36年の入植が始まりであった。
翌、明治37年になると戸数とともに就学児童も増加したが、約9キロ離れた野花南簡易教育所(現 野花南小学校)まで歩いていかねばならず、この間の道路は断崖絶壁の間を伝っていくしかなかった。
このような状態では教育上問題があるとして、集落の有志は教育施設の設置運動を起こした。
当時、三井木材は滝里の木材資源の開発を計画し鉄道枕木、建築材の伐採を開始していたがこれに併せて、集落の一同より枕木一挺につき5銭ずつ拠出し、教育所の建築資金にした。
建築場所は開拓が進んでいた集落の中心地 滝の上3線が選ばれ明治38年5月 滝の上簡易教育所が竣工し、同年7月 委嘱で昆 甚吉が教員となり明治39年11月 空知川滝の上簡易教育所として正式に認可された。

大正2年 根室本線鉄道が開通し、大正4年4月奔茂尻(ポンモシリ)尋常小学校となった。

昭和14年 それまでの奔茂尻より、現在の地名である滝里になった、

昭和16年 滝里国民学校と改称し、昭和18年には高等科が設置された。

昭和22年 滝里小学校となり、併せて中学校が併置された。

昭和23年6月 芦別町滝里と富良野町の境界にあった富良野町泉(現 富良野市島の下の一部)地区に滝里小学校泉分校が開校した。

ここは両市の境目にあり、隣人の交流や農業経営、市役所の遠隔等不便で一時、大正10年より昭和7年頃まで奔茂尻尋常小学校に列車で通学していた。危険や不便も伴っていたため、富良野町の理事に懇願し、島の下国民学校に通学していた。

分校は生徒数12名で1年生から4年生まで受け持っていたが、芦別町の方針変更により昭和26年8月26日を以て廃校となった。以後は、島の下小学校(大正5年5月1日開校・昭和56年3月31日閉校)へと通学することとなった。
 
滝里は空知川の洪水が切っ掛けとなり、ダム建設に伴い廃村になった。

昭和37年 空知川の水害が発生し、国道とを結んでいた滝里大橋が流され、孤立した。即刻、復旧工事が始まり昭和38年 滝里永久橋(滝里大橋)が落成した。

昭和47年頃より北海道開発局石狩川開発建設部が、極秘にダム建設の予備調査をすすめ、昭和50年7月8日 開発局は芦別市に対し「治水対策及び生活環境整備」を図る目的として予備調査した結果、滝里町がダム建設可能適地である旨の報告を行い、建設計画が表面化した。

滝里町は動揺が走った。

住み慣れた父祖の地を去ること、移転後の生業の不安もあったが、それ以上に極秘に調査していた国(自治省・北海道開発局)に対し不安・不信感が渦巻いていた。すぐに滝里ダム建設反対協議会を設立し、反対運動を展開した。

滝里町は「ダム建設反対」の立場であったが、当時、過疎や農業後継者の不在問題も持っており、開発局の従来のすすめ方に対し不信感、将来の不安感も交錯していたので、これらが解消されれば話し合いに応じる姿勢を持っていた。

昭和53年より現地説明会、生活再建対策や補償問題が度々行なわれていたが、開発局のダム関係予算の減額により、交渉は長期化した。

昭和58年12月20日 芦別市は国(開発局)と北海道に対し「誠意ある総合施策」の提言を求めた。施策が明示されない限り、滝里ダム連絡協議会及び滝里ダム現地連絡協議会には参加しない、と強い姿勢で回答を要求した。
国と道は調整を急ぎ、翌59年1月23日に回答を行なった。

だが、芦別市は「本市・水没関係者に対する対策が不十分であり、特に北海道の基本姿勢には積極性・具体性が乏しいと判断されます」と指摘。再び強い口調で道に対し「積極的な解決に向けて努力」を要求した。
同年9月14日 建設省から滝里ダム計画が発表され、60年度から本工事が実施されることとなったが、併せて補償交渉が本格的に始まった。

昭和60年6月17日より11月26日まで延べ13回にわたり交渉が繰り広げられ、12月9日に「石狩川水系滝里ダム建設事業に伴う損失補償基準(案)」が示され、滝里ダム対策協議会では12月15日の総会で決定し、12月20日に合意書の作成が行なわれた。そして翌61年1月13日「損失補償基準調印式」が行なわれ、補償交渉は幕を閉じた。
調印式後、個別の補償交渉が進められ、昭和61年8月頃までにはほぼ完了した。

昭和61年7月28日 滝里小学校の閉校式が行なわれた。
本来であれば昭和62年3月末であったが、これだと当時、在籍していた7人の児童のうち6人が既に去っているため「多くの児童が残っている一学期末に」という父兄の要望であった。卒業生総数 1,204人であった。
また、閉町式(解散式)は8月30日 滝里小学校体育館で行なわれ、滝里町82年の歴史に幕を下ろした。

今回のレポートに先立ち、廃校探訪仲間であり滝里に縁のあるA.D.1600氏に伺った。以下、滝里にまつわるエピソードを紹介する。

「…昭和60年から昭和62年の閉校まで祖父が校長として赴任していた。閉校当時は学校、駅舎(滝里駅)、1・2軒の家屋があるだけで、あとは更地になっていた。」

「平成9~10年頃、祖父母と共に滝里を再訪した時は駅舎のみ残っていた。学校や家屋は既に無かった。駅内部には当時『北の国から』のロケで有名になったため、観光客が書いた落書きもあったが、滝里出身者が感謝や惜別の思いを綴ったものもあった。片隅には埃を被った食器があった…」

最後に、次の質問をした。

『もし、ダム建設が無ければ滝里は現在、どのような状態になっていたと思いますか?』と伺った。

A.D.1600氏はこう云った。
『もし、ダム建設が無ければ学校は廃校になっていたとしても、集落は存続していたかもしれない。』

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スタート地点である島の下駅。
ここから約8キロ歩いたところに滝里がある。

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島の下駅から歩いて間もなく、滝里小学校泉分校の跡地がある。

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笹藪を掻き分けると閉校後、町内会館として使われていた名残の灯油タンクが残されていた。

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分校跡地の遠景。
矢印はイチイ(オンコ)の木だが、これが分校の目印である。
町内会館として活用されていたときに植樹されたものだろうか?

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さて、引き続き徒歩で歩く。
滝里はまだまだ先である。

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芦別市に入った。

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滝里大橋。
「滝里」の名前が初めて出てきた。

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目の前にはゴルフ場がある。
しかし、その先には水没した滝里がある。

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歩いていると、左手に旧道が見えた。

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旧道は立入禁止である。
しかし、ちょっと行ってみた。

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旧道を降りた風景。

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荒地となった田畑跡地はシラカバ林となっていた。

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シラカバ林の中には大量の石があった。
石垣の跡だろうか?

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家の庭に植えられていたマツの木が、ここに集落があったことを偲ばせてくれる。
そのマツも、シラカバに背丈を越され、必死に誇示しているかのように思えた。

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旧道を戻り、再び徒歩で横断。
右手には滝里墓地が今もある。

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あと2キロ。もう少し歩く。

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「思い出橋」
この名前を見たとき、ゴールが近くなったと思う反面何ともいえぬ気持ちになった。

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「望郷橋」
橋の名前を見てただ、言葉に詰まった。

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集落の中心部跡。
ダムの管理事務所に行けば滝里の資料が多数、展示されている。

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ダムを見下ろすようにして、校門や神社が移設されている。
A.D.1600氏の話によれば「ダム建設前は当時、山林で市街地は石狩川の向こう側にあった」とのことである。

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正面の2本のマツは、高台移転時に記念植樹されたものである。

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芦別滝里会が設置した案内板。

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滝里神社。
かつては毎年4月15日と9月15日、春秋の祭典が盛大に行われていた。

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忠魂碑。
在郷軍人会や青年団の力により、戦没者の英霊を祀るために建立された。

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戸隠神社。
この神社は「雨乞いの神社」として8月15日に祭典が行われていた。

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水没した滝里地区に当時、住まわれていた方々の名前が刻まれている。

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そして、滝里小中学校の校門。

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左手は「滝里小中学校」とある。

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右手には滝里の前の名前である「奔茂尻」となっていた。


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滝里小中学校の歴代校長の名が刻まれた記念碑。
これは平成16年に建立された。
校章は雪の結晶に「瀧」の文字が入っている。

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こちらは水天宮を祀った石碑である。
市史を見たが、詳しく書かれていなかった。

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滝里大橋が架けられた際に建立された「架橋記念」碑。
恐らく、初代のものだろう。建立年は昭和八年と刻まれていた。

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滝里にあったバス待合所。
しかし実際は、カメムシの巣窟と化していた。

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滝里の開拓からダム水没までを記した記念碑。
こちらをご覧になったほうが、集落の概要はコンパクトにまとめられていて分り易い。

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望郷之碑。
裏面には次のように刻まれていた。

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『空知川 せき止むほどに滝里の 八十年をいま ふり返りつゝ」

「発展」の名の下、犠牲になるダム建設。
失われたものが、日本国内にどれだけあるのだろうか。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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