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占冠村湯の沢

占冠村湯の沢(平成23年10月22日探訪)

占冠村湯の沢は、製炭業で栄えた集落であった。

明治43年 上富良野の丸一木工場造材部の飯場であった某が、初めて茶屋を開いた。
ただ、名前が判らなかったことから「ぢいさんばあさん茶屋」と言われていた。

茶屋はもう1軒 岩崎某が始めたものであったが、ここの茶屋のおばあさんは「峠の茶屋のおにばば」で有名であった。

大正初期 9戸の農家によって開拓されていった。

当時は第一次世界大戦後の「豆景気」により、順調に進んでいたかのように見えたが、景気が後退して残ったのは青木元一だけであった。

昭和17年 上川管内木炭業組合 組合長であった森田金太郎が大東亜戦争開戦に伴い、ガス用木炭の生産のため、湯の沢に注目した。

昭和19年 森田は湯の沢三里標に仮事務所を設置。

昭和20年 製炭事業の発展と共に、炭焼子が移住してきた。

焼子の子弟は当時、占冠国民学校に通学していたが間もなく、事務所や倉庫の一部を改築し、仮教室として占冠国民学校・中央国民学校の教職員の出張授業を受けることとなった。

昭和21年 焼子一同の要望により森田も小学校建設を考え、村と協議した結果5月1日 新入浅野国民学校 植山国雄校長の来校となった。

植山校長が在職していた新入浅野国民学校は石綿鉱業で栄えていたが、石綿鉱山の閉鎖により廃校となった。

学校備品は新入浅野国民学校のものを引き継いだが、経費関係の一切は森田が負担した。

同年12月1日 占冠村立湯之沢国民学校として開校。

昭和22年 占冠村立湯の沢小学校と改称。

だが、昭和26年 森田事業所の経営が困難となったため、事業所を打ち切った。

旭川に引き上げて以降、学校維持の経費は村が支出することとなった。

併せて、事業所を打ち切ったことにより転出者が現れ始めた。

昭和38年3月22日 最後の卒業生 5名を送り出し、廃校となった。

北海道新聞 上川中部版 昭和38年3月27日付で「時々遊びにこよう 一人一人、思い出述べる」という見出しで、湯の沢小学校の廃校を報道している。

報道によれば「昭和38年4月には20人に減少、これでは児童の学力低下をもたらすばかりである、と占冠小学校の統合に踏み切った」旨書かれている。

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湯の沢にある、峠下茶屋跡の記念碑と説明。

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説明文の拡大。

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茶屋跡記念碑より金山(南富良野町)方面を望む。

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反対の、湯の沢小学校跡方面を望む。

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学校跡地付近には、旧道が残されていた。

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リゾート的な観光開発の一環で、農林省関係補助事業として「占冠村農業者センター(湯の沢温泉)」の建設を計画。
昭和53年竣工し、開業した。

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バス停がある。
地名は残されているが、定住者はいない。

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この探訪当時、入浴しなかったが機会があれば入ってみたいものである。

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温泉の近くに、建物が見えた。

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酪農施設の建物である。
この建物は筆者が取材を行った後、解体されてしまった。

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酪農施設の前より学校跡地の風景。

昭和38年3月22日 廃校式で児童がつづった作文集より。

「この学校と別れるのはとてもさびしい。これからも時々、運動場に来て遊ぼう」

「この学校はおとうさんたちが一生懸命になって建てた学校です。ボロでもどの学校よりいい」

「みんなでおカネを出しあって買った野球道具だけでも思い出になるように置いてもらいたい。校舎はそのまま残るので、冬には屋根に積もった雪を落として大切にいたわりたい」

今は温泉宿となってしまったが、かつては製炭で栄え、学校があったことを知る観光客はどれくらいいるのだろうか。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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