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秋田県山本郡藤里町藤琴字奥小比内

秋田県山本郡藤里町藤琴字奥小比内(平成27年10月10日探訪)

秋田県の廃村レポートは、平成27年10月9日から11日にかけて『撤退の農村計画』編著者林直樹先生と、HEYANEKO様の秋田県無人集落調査に同行させていただいた時のものである。
期間中に訪れた無人集落地は15か所であるが、「学校」跡がある無人集落は4か所である。

享保15(1730)年の『六郡郡邑記』によれば「藤琴村の支郷、小比内村天和年中開く、家数15軒」と記されているが、奥小比内が含まれているかは不明である。
落ち武者であった三谷・市川の先祖が開拓したと伝えられている。学校の沿革は、以下の通りである。

明治30年 佐藤多治右エ門宅で私設教授を始めたことが奥小比内分校の始まりである。
明治37年 佐藤多治右エ門宅に特別教授場が設置される。
明治41年 藤琴尋常小学校坊中分校(後の坊中小学校)の古材を利用し、校舎を建設。
大正5年 藤琴尋常小学校坊中分校奥小比内分教室として設置。
昭和4年 坊中尋常小学校奥小比内分教場と変更。
昭和16年 坊中国民学校奥小比内分教場と変更。
昭和22年 藤琴小学校奥小比内分校と変更。
昭和37年 坊中小学校独立のため、坊中小学校奥小比内分校と改称。
昭和48年 坊中小学校奥小比内分校閉校。

集落の生業は田畑、林業であった。
集落へ通じる道は、昭和初期に敷設された森林軌道を転用したものである。(注1)

昭和21年に電気が導入され、電話は昭和30年代半ばに開通した。
昭和47年 集落再編事業の適用を受け、17戸が集団移転して無人集落となる。
学校も、集団移転により閉校した。

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「奥小比内」の名前が目に留まる。
名前だけは今も残っている。

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奥小比内へ続く道。
道中の写真は撮っていないが、森林鉄道の路線をそのまま道路に転用しているためスリル溢れる道路である。

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奥小比内集落跡地に到着した。
造材の土場と化していた。

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廃橋があるので渡ってみる。

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渡った先は、自然に還っていた。
それでも周囲を見回したが、住居跡などといったものは見られなかった。

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奥小比内分校を目指して歩く。
学校は、この先にあった。

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作業小屋と思われる建物を横目に、学校跡地へ進む。

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分岐点へ出た。
学校跡地は左の道に入って、すぐの高台に位置していた。

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学校跡地は、一面笹薮で覆われていた。

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他に学校跡地と思えるような場所が見当たらなかったので、位置的にも間違いない。

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元来た道を戻ると、小さな三角屋根が目に付いた。
近づいてみると井戸であった。

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集落を歩く。
田畑はすべて雑草で覆われている。

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そんな中、石垣が残っていた。
住居跡である。

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周囲を少し散策したが、建物の基礎は残っていなかった。

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帰る直前の奥小比内の集落風景。
か細い森林鉄道の道路とは対照的に、立派な道路が印象に残った。

(注1)森林軌道は昭和33年に廃止された。

参考文献

佐藤晃之輔『秋田・消えた村の記録』2001年 無明舎出版
藤里町史編纂委員会『藤里町史』平成25(2013)年 藤里町

秋田県山本郡藤里町大沢字名不知

秋田県山本郡藤里町大沢字名不知(なしらず)(平成27年10月10日探訪)

集落の開村年は不明であるが、集落の旧家は淡路金十郎家と言われており過去帳に貞享元年(1684)の戒名が残されている。
集落の沿革についての詳細な記録は調べることができなかった。

昭和27年 大沢小学校の古材を活用して藤琴小学校名不知分校として開校。
昭和37年 大沢小学校の独立に伴い、大沢小学校名不知分校と変更。
同年9月  開校10周年記念式典挙行。
昭和47年 大沢小学校名不知分校閉校。

名不知分校は昭和43年 ABS(秋田放送)より全国放映、翌昭和44年 NHKより全国放映された。
テレビに取り上げられた学校でもあった。

電気は昭和22年頃、電話は昭和30年代半ば頃に開通した。
昭和40年代に入ると転出者が現れ、昭和55年を以て全戸移転により、無人集落となった。

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名不知地区手前に残る案内板。
探訪当時はイネの穂が黄金色に輝き、収穫シーズンまっただ中である。

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通い作が行われており、明るい集落の印象を持った。

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集落の風景。
田は黄金色に輝いているが、人家が見当たらない。

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石碑を見つけたが、何も彫られておらず分からなかった。

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学校跡地を探す。
HEYANEKO氏に訊くと、ちょうど真横の山にあったそうである。

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学校へ続く道路は笹薮と化し、辛うじて「道路だったもの」と判別できる。

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意を決し、笹薮へ飛び込んだ。
学校へ続く道路の風景である。

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どうにか学校跡地付近まで来た。
植林されてしまっている。
学校敷地内に基礎が残っていないか探す。

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ふと見ると、遊具の回旋搭が残っていた。
HEYANEKO氏も初めての発見で「すごい発見だ!」と驚いていた。

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回旋搭の下にはうんていが倒れていた。

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周囲を見ると、校舎の一部と思われるコンクリート片も残っている。

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学校跡地の風景。

住民は転出しても通い作でのどかな風景が広がっているが、学校跡地は笹藪と化していた。
それでも、遊具が残っていたのは学校であることを示す唯一の名残であった。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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