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名寄市御園

名寄市御園(平成22年5月3日探訪)

名寄東小学校御園分校入口
御園は名寄市街地より離れた山間部に位置し、戦後、食糧難のために開拓された「戦後開拓集落」です。
今まで開拓されていなかったので、戦争で被災した人々がこの地へ入植しました。
分校は昭和26年1月25日開校。それまでは市内の小学校まで延々と歩いて通学していました。
中心部にすんでいる児童たちは、御園から通学していた児童を「開拓民」と馬鹿にし、いじめもあったそうです。

開拓も容易くなく「机上による政策」で批判されがちですが、分校ができてからは運動会や娯楽等で賑やかでした。
しかし分校は 昭和43年3月31日閉校。現在、御園の居住者はゼロですが、通作で畑は維持管理されていました。
写真は御園分校の入り口です。この道を上り、右手に校舎がありました。

和寒町東和

和寒町東和(平成20年5月31日探訪)

東和のメインストリート
東和の歴史は古く、明治期に開拓された集落です。
開拓当初は辺り一面笹ヤブや樹木に覆われていました。バレイショ(ジャガイモ)や除虫菊の栽培等で開拓され、次第に人も居住するようになり大正6年6月1日、東和小学校が開校しました。
昭和初期には澱粉工場が6軒あり、如何にバレイショの栽培が盛んだったか伺えます。
戦後、食糧難により戦後開拓が東和の奥で進められ、東陵と言われました。そこにできた東陵小学校は昭和27年4月1日に開校します。
東陵は、洋菜カリフラワー栽培で北海道で一番になったこともあります。
しかし、次第に人口も少なくなり東陵小学校は昭和46年3月31日閉校。東和小学校も昭和51年3月31日に閉校しました。
現在、東和の居住者は3世帯7名。東陵地域は0世帯(廃村)となっています。

東和は和寒高校のスキー部 部員が夏季の間、この道を走って体力練成をしていました。理由を聞くと「車が殆ど通らないから」とのことでした。
その和寒高校も平成22年に閉校となりました。

東和に残る澱粉工場の廃墟。
東和で一番大きかったのは松永さんという方が経営していた澱粉工場でした。
澱粉工場跡

東和小学校の奥にあった通称「刈分地区」。
地名の由来は笹薮を「刈り分けて」開拓したという説が有力です。
刈分地区は現在、大規模な畑と化していますがかつてはつづら折の道(刈分道路)が続き、人家も点々とですがありました。
その刈分地区に残る刈分道路の一部です。
刈分地区に残る「刈分道路」の一部

東和にあった神社跡。
あった、と書いたのは、神社は既に崩壊して瓦礫となっていました。
社殿へ続く階段は笹薮に覆われ、自然へ還ろうとしていました。

東和神社

ご挨拶

東和小中学校跡

「北海道の建物」を閉鎖して随分経ちました。
この間、炭鉱跡地の探訪や、日本の無人集落(廃村)、高度過疎集落(限界集落)なんかを訪ね歩いてきました。
mixiにも紹介していましたが、広く紹介しようと思い、ブログを開設しました。
ブログについては過疎地探訪の現地調査、聞き取りなんかを紹介していきたいと思います。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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