足寄町旭丘
足寄町旭丘(平成25年10月6日探訪)
足寄町旭丘は、十勝管内で数少ない「へき地等級 5級」の学校であった。
旭丘は、町内の国鉄足寄駅より28キロ離れた山間部に位置していた。
反対に、隣接する上士幌町清水谷駅(国鉄士幌線)からは、5キロであった。
旭丘の開拓は大正4年に始まる。
東京 お茶の水にあった順天堂病院 院長 佐藤 進を中心に小作農家43戸を引き連れ、開拓に従事した。
学校設置は大正15年 水谷農場 水谷政次郎からの寄付を受け3月31日 芽登尋常高等小学校付属旭丘分教場として認可、同年6月15日 開設した。
但し、足寄町史(昭和48年7月刊)には「5月19日に授業を開始した」旨の記述がある。
昭和17年 芽登国民学校旭丘分教場と改称した。
昭和23年 芽登小学校旭丘分教場と改称した。
それまでの間は、芽登小学校の分校であった。
分校時代の歴代校長は不明であるが、教職員は大正15年から昭和31年まで、松井義雄が担当していた。
また、旭丘の命名も松井自身であった。
戦後になると、戦後開拓で樺太引揚者や地元の造材業関係者が入地し、人口も増え始める。
小学校として独立するのは、昭和32年4月1日からであった。
昭和34年には中学校も併置した。この時、小学校2学級・中学校1学級の複々式学級であった。
前述したように、旭丘は十勝でも数少ないへき地等級5級の学校であったが、それ裏付けるように校歌の歌詞にも現れている。
「足寄の西の 旭丘 通う子供は 少いが 山坂越えて ぬかる道を 元気一ぱい よい子供」(遠藤四郎 作詞作曲)
しかし、旭丘は高台に位置する集落であるため、冷害の影響をまともに受けやすかった。
昭和40年12月22日付の北海道新聞には「毎月届くおやつ代 川崎の主婦たちから足寄の辺地校へ」という記事がある。
記事によると、冷害の影響や集落の窮状を知った川崎市の主婦団体「おやつの会」徳上淑子代表らが毎月、4000円のおやつ代を旭丘小学校へ送っていた。
学校側の使途は毎週金曜日、パンやお菓子を買って食べる「おやつ給食」として使っていた。
年末にはおやつ代の他、クリスマスプレゼントとしてマフラーも一緒に贈られた。
旭丘小学校の児童たちもお礼の手紙を始め、集落内でとれた十勝石、すずらん、ボリボリキノコ(ナラタケ)を送っていた。
しかし、土地条件の悪さによる離農はその後も進み、昭和43年には小学校1学級・中学校1学級にまで減少してしまった。
在籍児童数の推移を以下、示す。
大正15年 19名 昭和25年 7名 昭和44年 18名
昭和 5年 25名 昭和30年 20名 昭和45年 14名
昭和10年 31名 昭和35年 27名 昭和46年 8名
昭和15年 38名 昭和40年 32名
昭和20年 12名 昭和43年 26名
昭和46年3月31日 閉校となった。
道道468号清水谷足寄線 士幌町側(清水谷)から足寄町芽登へ抜ける道沿いに校舎はある。
但し、校舎以外の建物は皆無である。
校舎は閉校後、民間へ譲渡されたが活用の用途は不明である。
校舎横に「子ども会」の記念碑が建立されている。
これは川崎市の「おやつの会」の顕彰を込めて建立されたそうである。
しかし生憎、建立年月日を失念してしまった。
下部のプレートには辛うじて「努力」と判読できる。
校舎内部。
床板はすっかり剥がされてしまっていた。
廊下もかなり朽ちてきている。
何となく教室の面影があるが、壁は既に取り払われていた。
突き当たりは便所であった。
便所側より。
あと何年、持ちこたえるだろうか。
学校前より芽登方面を望む。
校舎以外の建物は無い。
芽登方面へ1キロ進むと「旭丘」という看板が目に付いた。
旭丘の集落は、この高台にある。
案内図。
数軒の酪農家が点在している。
案内図より学校跡地方面を望む。
平坦な土地は、かつて人々が暮らしていた名残である。
矢印のとおりに進むと、高台の中心部に着いた。
この先にも人家はあるが、目視では見えない。
反対側を望む。
山坂越えて、ぬかる道を進んで通った子どもたちの声は、もう聞こえない。
足寄町旭丘は、十勝管内で数少ない「へき地等級 5級」の学校であった。
旭丘は、町内の国鉄足寄駅より28キロ離れた山間部に位置していた。
反対に、隣接する上士幌町清水谷駅(国鉄士幌線)からは、5キロであった。
旭丘の開拓は大正4年に始まる。
東京 お茶の水にあった順天堂病院 院長 佐藤 進を中心に小作農家43戸を引き連れ、開拓に従事した。
学校設置は大正15年 水谷農場 水谷政次郎からの寄付を受け3月31日 芽登尋常高等小学校付属旭丘分教場として認可、同年6月15日 開設した。
但し、足寄町史(昭和48年7月刊)には「5月19日に授業を開始した」旨の記述がある。
昭和17年 芽登国民学校旭丘分教場と改称した。
昭和23年 芽登小学校旭丘分教場と改称した。
それまでの間は、芽登小学校の分校であった。
分校時代の歴代校長は不明であるが、教職員は大正15年から昭和31年まで、松井義雄が担当していた。
また、旭丘の命名も松井自身であった。
戦後になると、戦後開拓で樺太引揚者や地元の造材業関係者が入地し、人口も増え始める。
小学校として独立するのは、昭和32年4月1日からであった。
昭和34年には中学校も併置した。この時、小学校2学級・中学校1学級の複々式学級であった。
前述したように、旭丘は十勝でも数少ないへき地等級5級の学校であったが、それ裏付けるように校歌の歌詞にも現れている。
「足寄の西の 旭丘 通う子供は 少いが 山坂越えて ぬかる道を 元気一ぱい よい子供」(遠藤四郎 作詞作曲)
しかし、旭丘は高台に位置する集落であるため、冷害の影響をまともに受けやすかった。
昭和40年12月22日付の北海道新聞には「毎月届くおやつ代 川崎の主婦たちから足寄の辺地校へ」という記事がある。
記事によると、冷害の影響や集落の窮状を知った川崎市の主婦団体「おやつの会」徳上淑子代表らが毎月、4000円のおやつ代を旭丘小学校へ送っていた。
学校側の使途は毎週金曜日、パンやお菓子を買って食べる「おやつ給食」として使っていた。
年末にはおやつ代の他、クリスマスプレゼントとしてマフラーも一緒に贈られた。
旭丘小学校の児童たちもお礼の手紙を始め、集落内でとれた十勝石、すずらん、ボリボリキノコ(ナラタケ)を送っていた。
しかし、土地条件の悪さによる離農はその後も進み、昭和43年には小学校1学級・中学校1学級にまで減少してしまった。
在籍児童数の推移を以下、示す。
大正15年 19名 昭和25年 7名 昭和44年 18名
昭和 5年 25名 昭和30年 20名 昭和45年 14名
昭和10年 31名 昭和35年 27名 昭和46年 8名
昭和15年 38名 昭和40年 32名
昭和20年 12名 昭和43年 26名
昭和46年3月31日 閉校となった。
道道468号清水谷足寄線 士幌町側(清水谷)から足寄町芽登へ抜ける道沿いに校舎はある。
但し、校舎以外の建物は皆無である。
校舎は閉校後、民間へ譲渡されたが活用の用途は不明である。
校舎横に「子ども会」の記念碑が建立されている。
これは川崎市の「おやつの会」の顕彰を込めて建立されたそうである。
しかし生憎、建立年月日を失念してしまった。
下部のプレートには辛うじて「努力」と判読できる。
校舎内部。
床板はすっかり剥がされてしまっていた。
廊下もかなり朽ちてきている。
何となく教室の面影があるが、壁は既に取り払われていた。
突き当たりは便所であった。
便所側より。
あと何年、持ちこたえるだろうか。
学校前より芽登方面を望む。
校舎以外の建物は無い。
芽登方面へ1キロ進むと「旭丘」という看板が目に付いた。
旭丘の集落は、この高台にある。
案内図。
数軒の酪農家が点在している。
案内図より学校跡地方面を望む。
平坦な土地は、かつて人々が暮らしていた名残である。
矢印のとおりに進むと、高台の中心部に着いた。
この先にも人家はあるが、目視では見えない。
反対側を望む。
山坂越えて、ぬかる道を進んで通った子どもたちの声は、もう聞こえない。