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せたな町(大成町)ヌタップ

せたな町(大成町)ヌタップ (平成27年5月3日・5月30日探訪)

せたな町(大成町)ヌタップは、戦後開拓の集落であった。

昭和24年 樺太からの引揚者21戸が入植した。
ヌタップは海抜300メートルと高い位置にあるため「冷害」に悩まされながらの開拓であった。

昭和26年2月 平田内小学校平和分校が開校。
中学校も、分校として開校した。

昭和27年11月5日 新校舎が落成する。

昭和30年4月1日 平和小・中学校と独立した。

ヌタップの日常を知る記事が『教育月報』に記載されていた。
『教育月報 No93』に当時の校長 石田光世が『へき地の運動会』というタイトルで寄稿している。
以下、該当部分を引用する。

『昭和30年4月1日、独立校となりました。それまで平田内校の分校であって、運動会には本校(8キロ)まで行ってさんかしておったので、父兄は子供の運動会の姿をみない(忙しい時期だから)。独立の年に、PTAができ、その役員会で運動会をやることに決めたのです(中略)。』

『戸数20、在籍数小18、中16計34名、職員3名の運動会についての困難点は、この様なへき地では経験がないこと、種目をどの様にするか(全数が僅少であること、学年ごとの数のバランスがとれないこと、性別のバランスが取れないこと)、いろいろと頭痛の種だった。そこで、行事のあり方を部落全体に拡げて総員出動のプログラム編成にとりかかってみたのです。(中略)』

『晴天に恵まれ、部落の手で拡大されたグラウンド(周囲130米)には、父兄子ども等が、点々として淋しいものでありましたが、緑山の老若男女は一日中声援をし、駈けっこし、愉快にすごしたのです。(中略)』

『本年は、拠出金の趣向を変え、毎月(1月ー6月)一戸当り百円とし、鶏卵をもち寄り、開拓農協で販売していただき代金を積み立てて、この行事をやりやすくしようとしたのです。(中略)』

『このへき地の運動会を見んものと、八キロの山頂をトラックに便乗して来る人も多く仲間入りし、戴く褒章の実用的である見事な点に好評をはくしております。楽しい行事、トラブルなき快愉な集い、校名に反しない平和そのものでもあります(以下略)。』

また、『教育月報』 1962(昭和37)年11月号『座談会 へき地の教育を語る』で橘 喜久未(久遠郡大成村立平和小・中学校長)は次のように述べている。

『私のところは、バスの停留所まで8キロ、停留所から東瀬棚の駅まで32キロあります。部落は、昭和24年樺太からの引揚者が入植した開拓部落で、それまでは炭鉱夫、漁師というように農業には未経験なものばかりです。』

『戸数は12戸、児童・生徒数は小が11名、中が5名の計16名です。部落の人をぜんぶ集めても51名です。』

『(電気なんかは)ありません。学校ができてから十年間に生徒が34名卒業しましたが、残っているのは5名だけです。(中略)』

『私のところは高台でね。標高300メートルもあるんで寒くて米がとれないといわれていたんです。赴任してからいろいろ調べて見たんですが、とれるような気がするので去年米を作ってみました。』

『実際にはできるんです。一俵ほどとれて部落の人達にたべさせてやりました。部落の人達も自分達の土地にも米がとれるというので、5ヶ年計画を立てたりしてやっているわけです。こういうようになると楽しみができますね。』

だが、昭和38年9月に発生した集中豪雨はヌタップにも大きな被害を与えた。

北海道新聞 夕刊 昭和38年12月9日付で『山を下りる開拓地の人たち 全戸、市街地で越冬』とある。

『九月の集中豪雨で被害を受けた大成村字宮野の通称ヌタップ開拓地の人たちが全員山を下り、市街地で越冬することになった。』

『ヌタップ開拓地は宮野地区から約九キロ離れた高台にあり、ヌタップ地区十三戸、小川地区六戸計十九戸の開拓者が二十四年ごろから入植していた。九月の豪雨で宮野を結ぶ開拓道路(小川炭鉱道路)が決壊、不通、その後の復旧も思わしくなく、降雨のたびに泥んことなって農産物の搬出や日用品の輸送にも支障をきたす始末。そのうえ冬を迎えて病人が出た場合、下まで運び出せないことも憂慮され、結局部落を放棄することになったもの。(中略)』

『すでに部落十九戸は十一月までに下山したが、このため平和小中学校(小学八人、中学六人)は自然的に休校となり、児童生徒の大半は字宮野の平田内小中学校に通学している。(以下略)』

『大成町史』によると、昭和38年11月19日付で小・中学校を閉鎖、同年12月3日付で平田内小中学校に移転、と記されている。
そして、平和小中学校は昭和39年7月30日付で閉校となった。

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ヌタップへの道のり。
ここから10キロ先に、学校があった。

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道中の風景。
これはまだ、序章にしか過ぎない。

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道中の風景。
まだまだ進む。

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右手を見れば岩肌が見える。

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左手には川が流れ、大自然が溢れている。
携帯電話は当然、圏外である。

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だいぶ進んできたその時、記念碑が見えた。
ヌタップの「開拓記念之碑」である。

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碑文の解読を試みる。
『昭和二十八年三月建立』

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風化が著しいため一部不明なところがあるが、次のように判読できた。

『瀧谷徳次郎氏齢七十一歳○(透?)老躯○(箋?)○同志二十一世帯昭和二十三年七月引揚樺太拓荊棘定居於山陬ヌタップ至誠努開拓昭和二十三年得病逝去住民慕其遺徳茲』

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こちらは入植者の名前が記載されている。
『中田仁太郎 大野沖一郎 成田林之助 照井政次郎 野宮正塚 稲垣二三郎 高山三郎 佐々木弥作 菊地庄雄 高山庄三 鱈場正雄 中島勝次郎 清野○○ 前川清太郎 ○○勝美 高橋寅之助 渡辺平太郎 三浦○○ 富三』 

碑文で○のところは判読不能であったところ。

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探訪時、道路が崩れていた。
ここから先は、徒歩での訪問である。

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その先も道路が崩れていた。
道はまだ続いていたので「ちょっと行ってきます」と言って先へ進んだ。

決壊部分を渡ってから「単独行動」になったことに気付いたが、大声で声が届く範囲で調査を続行した。

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倒木「には」気にしないで進む。
気にするのは「クマ」の出没である。

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右を見ると、建物の残骸が見えた。

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瓦解して久しいが、平和小中学校の建物である。
ラオウ氏に「ありましたよー!」と大声で叫び、学校跡を知らせた。

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住民の奉仕で造成されたグラウンドは、自然に還っていた。

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あさがお(小便器)も残っていた。

校舎が閉校後も残っていた理由として、渡島森林管理署に問い合わせたところ「昭和50年代頃までヌタップに休憩小屋があった」と教えていただいた。
従って、校舎は閉校後、休憩小屋として転用されていた可能性がある。

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学校跡地の近くにもうひとつ基礎を見つけた。
恐らく、教員住宅の基礎と思われる。

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別角度より。
基礎がはっきりとわかる。

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周辺を歩いてみる。
マツの木があるが、ここに住まわれていた方が植樹したものだろうか。

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学校より手前の風景。
畑はすべて植林されていた。

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それから程なくして、HEYANEKO氏らと再訪した。
穴の開いた道路は修復され、容易に学校跡地まで到達することができた。

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学舎はササに覆われていた。
3週間でこんなに伸びるものか、と驚いた。

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帰り道に見つけた橋梁。
こちらが元々の道であった。

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尚、ここはクマ出没が極めて高いので単独での調査はお勧めしないことを明記する。
上記の写真はクマの「罠」である。

参考文献・引用資料

『大成町史』 大成町 昭和59年9月15日発行
『教育月報 1958年7月号 No 93』 北海道教育委員会
『教育月報』 1962年11月号  No142』 北海道教育委員会
北海道新聞 夕刊 昭和38年12月9日付 『山を下りる開拓地の人たち 全戸、市街地で越冬』
『入植者台帳』  北海道農地開拓部開拓課 昭和39年発行
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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