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大樹町光地園

大樹町光地園(平成28年5月30日探訪)

大樹町光地園は戦後開拓集落である。

戦前から戦中にかけては短角牛の放牧や馬の自由放牧地として利用されていただけであった。
 昭和22年8月に14名が大樹村を訪れ、開拓地に登る麓のヌビナイ川支流のほとりに合掌小屋を建て、開拓の準備に着手した。
 昭和23年ブルドーザー、トラクターを駆使して開拓が始まった。
 昭和24年には12戸72名に加え、5名が入植した。同年、集落名が「光地園」と命名された。由来は樺太抑留時代、同志によって考えられていたもので『光が地に一面に輝く園という楽園を建設する希望』であった。
 昭和25年光地園小学校が開校(4月1日)、中学校は小田の分校として開校した。
 昭和27年に中学校も独立。この年から翌年にかけて電灯施設の整備、昭和34年には開拓診療所、会館も建設された。また、和牛の導入も行われ既存の集落に勝るとも劣らないまでに整備されていった。
 ところが、昭和39年に大冷害が北海道を襲い、光地園も大打撃を受けた。農産物の収入は上がらず物価の上昇で生活費は嵩み、負債の累積も重なった上の冷害である。
 この時、金沢大学の学生によって光地園小中学生15名を冬季間、集団里子に預かることになった。
 昭和40年の営農計画は2~3戸に過ぎず、大半は出稼ぎと和牛の飼育という不安定な生活であった。住民は集団里子の関係で金沢市や出稼ぎ先等に転出していった。
昭和43年3月、光地園小中学校は閉校した。閉校時の報道記事を転載する。

18年間、開拓地に文化の灯 光地園小中で廃校式
「【大樹】開拓地に文化の灯をともし続けて18年―光地園小中学校が26日、静かにその歴史を閉じた。重なる冷害、凶作と離農者の続出で、児童、生徒わずか8人。〝光りはこの大地から〟―その開拓の夢は音もなくくずれて廃校となった。汗と涙のにじんだこの大地は、やがて国営の大規模草地改良事業から始まり、町の酪農振興の基地としてよみがえる日も遠くはない。光地園の春はおそく、大樹町市街地の西方21キロ、まだ雪深く、樹氷咲く山奥に、開拓の受難の歴史を刻むように建つ、古ぼけた小さな校舎で、この日、最後の卒業式と廃校式が行われた。
 山口校長以下教員4人。小学生3人、中学生5人。『日高の山の輝きに、われらの力はずませて…』―そろって校歌を歌った後、小林昇と上野則子さんの2人に、山口校長か中学校卒業証書を授与、『社会の役に立つ人間になってください』とあいさつ。9年間の義務教育を終えて同校を巣立った生徒の数はこれで62人。この2人が最後となった。
 『わたしたちのために尽くしてくださった、おにいさん、おねえさん』『わいてくる思い出の泉。運動会、修学旅行…』『元気にがんばってください』『きっとがんばります』―在校生と卒業生の〝呼びかけ〟の声は感動に震え、ささやかながら厳粛な式を閉じた。
 引き続き廃校式に移ったが、かつての教員や同窓生も駆けつけて出席者30数人。沢崎教育長、高橋町長、高島町議会議長らが『離れ離れになっても、開拓魂でがんばってください。先生たちも十勝の子供たちのために活躍してください』とあいさつ。吉田PTA会長が、慣れぬ手にクワを持って不毛の大地にいどんだ思い出を語ると、会場のあちこちからすすり泣き。
 樺太からの引き揚げ者14戸が初めてクワをおろし、『光地園』と名づけて理想郷建設を目ざしたのは昭和22年春。その子供たちの教育の場として25年、光地園小学校が誕生、27年9月に中学校が併設された。開拓者もふえ、33年には52戸、児童生徒も60人余りを数えたが、その後相次ぐ冷害凶作に耐えかねて離農者が続出。いまではわずか3戸を残すだけという寂しさ。
 しかし、この3戸は光地園に根強い愛着を持ち、これからも歯を食いしばって、この地で生活を続ける決意が固い。このため中学2年の小林洋子さんと吉田美穂子さんの2人は4月から大樹の市街に下宿して通い、あとの4人の小、中生は教員の子供で転校となる。小林さんはみんなの前で『この校舎が風雨にさらされて消えてゆくことを考えると寂しい。しかし学んだことは消えません。新しい学校へ行ったら、一生懸命努力します』と、別れの言葉を述べた。教室のすみずみまでしみ込んだ思い出をかみしめるように―。
 43年度からこの光地園の離農跡地600ヘクタールを利用して、国営の大規模草地改良事業が実施され、51年度に完成の予定だが、町では乳牛1万頭飼育の基地とする計画であり、開拓の夢破れたこの土地もやがて新しい大地として、たくましく生まれ変わることになる。」(北海道新聞十勝版1968年3月28日)


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大樹町尾田からつづら折のカーブを登っていくと光地園集落に入る。
道中、古い家屋が目に入る。

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家屋の先の風景。ひたすらまっすぐ進む。

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学校手前に建立されているのは『家畜感謝之碑』。

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その横には祠がある。
『大樹町史』には昭和34年に馬頭観世音碑が建てられ、と記されているが馬頭観世音かは分からなかった。

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光地園小中学校はこの先にあった。現在は町営光地園牧場(昭和49年度完成)の敷地内になるので立ち入りせず、遠望にとどめた。

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学校手前の風景。学校は閉校になったが現在も町営牧場として利用されいる。

参考文献

北海道新聞1968「18年間、開拓地に文化の灯 光地園小中で廃校式」『北海道新聞十勝版』昭和43年3月28日
大樹町1969『大樹町史』大樹町

大樹町館山

大樹町館山(平成28年5月30日探訪)

大樹町館山は農山村集落である。

集落名の由来は宮城県館矢間村からの移民が多かったことから「館山契約会」という部落会を作ったが、やがて故郷館山の名前を冠し、集落名とした。
明治43年 植民地の区画割をしたことがきっかけとなり、翌明治44年4月蓬田忠六を団体長とする移民と、加藤亀次郎を団体長とする移民が入植した。草分けの人々は蓬田・加藤のほか佐藤宇太郎、佐藤政治、加藤薫、今野善治、齋藤源三郎であった。
入植者はその後も現れ、大正7年頃は24戸を数えていた。

「館山契約会」は24戸を3部に分割して諸般の行事や総会、作付けや相場などを相談しあい、営農に励んだ。

学校は永らく、明道小学校や石坂小学校に通わせていた。
学校の沿革は、以下の通りである。

昭和20年6月1日   石坂国民学校傘骨分校として開校(原文ママ)
昭和23年3月31日  館山小学校として独立
昭和23年10月13日 校舎改築移転
昭和35年8月20日  校舎新築落成
昭和43年3月31日  大樹小学校に統合 

※離農が顕著に現れ始めた年代は『大樹町史』に書かれていなかったが、昭和30年代後半から40年代初頭にかけてと思われる。

昭和43年閉校直前の戸数 9戸 児童数 12名であった。

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国道236号線 大樹町と広尾町の境目あたりを西へ進む。

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道路左手に館山小学校が見えた。
現在は、私有地の中にある。

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学校を挟んで斜め向かいに、神社と石碑が見える。
フキをなぎ倒して進む。

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拝殿は朽ちつつも残っている。

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石碑は馬頭観音である。

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学校より奥の風景。
居住者はいないが、通い作で今も畑が維持されていた。

参考文献

大樹町1969『大樹町史』大樹町
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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