恵庭市盤尻
恵庭市盤尻(令和2年5月23日探訪)
恵庭市盤尻は発電所集落である。
明治36年4月 御料局札幌出張所が漁村上流地域で造材事業を始めたところ移住者が現れ始め、明治39年大谷派説教所が設置された。住職の林空真は布教の傍ら付近の児童を集め寺子屋式の教育を進めていたが地区住民の要望が高まり、明治41年8月10日恵庭尋常小学校盤尻分教場として開校した。
大正10年頃より当別電気株式会社(後の北海道電力)が漁川に発電所を建設し始め大正11年11月28日に完成、送電を開始したところ人口が急増した。さらに昭和2年5月より王子製紙株式会社が恵庭発電所の建設工事をはじめ、昭和3年12月末に完成、翌年1月に開設したところ再び定住者が増加した。
戦後、両発電所は機械化による人員削減が始まり、さらに国有林事業に転換や薪炭事業の衰微により転出する者が出始めた。
この結果、教育委員会による小規模校の学校統合が促進され、民間定期バスを利用して通学、バス賃は町費の助成とすることで合意し、昭和39年3月盤尻中学校の廃校、昭和40年3月盤尻小学校を廃校した。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治41年 恵庭尋常小学校盤尻分教場開校(8月)
大正10年 校舎・教員住宅改築(12月)
大正15年 青年訓練所併設(6月)
昭和 5年 盤尻尋常小学校と改称
昭和 9年 女子実業補習学校を併設(6月)
昭和10年 女子実業補習学校・青年訓練所の廃止、青年学校が併設(8月)
昭和16年 盤尻国民学校と改称(4月)
昭和17年 高等科併置(4月)
昭和22年 盤尻小学校と改称(4月)
昭和25年 校舎改築・落成式(7月)
昭和40年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 恵庭中学校盤尻分教場として開校(5月)
昭和27年 盤尻中学校と改称(4月)
昭和39年 閉校(3月)
令和2年5月、コロナウィルスに気を遣いながらHEYANEKO氏、A.D.1600氏と訪れた。
学校跡地は交通量もそこそこ多い。
学校跡地は市民の森づくり事業として梅が植樹されている。
学校より先の風景。
学校より手前の風景。
学校手前の屋敷跡にはサクラが満開を迎えていた。
学校跡地案内板の隣接地に校舎があった。
鉄塔の横にある樹木は防風林だろうか。
グーグルマップで見ると盤尻には「水天宮」がマッピングされているので水天宮を目指していくことにした。
天候は小雨。参道は廃道と化していたが、カッパを着用して単独で行ってみた。
「木」が倒れていたがそれは朽ち果てた鳥居であった。
参道の先まで来たが何も見当たらない。
ふと、右手を見た瞬間
社殿が朽ち果てながらも残っていた。
『恵庭市史』によれば
昭和2年10月20日、祭神を水波能女神とし、所有者は北海道電灯株式会社である。
よく見ると、社殿のそばにコンクリートの基礎が残っている。
かつては相当立派な建物であったことが伺える。
小雨が降るなかであったが、朽ちながらも残っていた水天宮が印象深くなった。
参考文献
恵庭市1979『恵庭市史』恵庭市
恵庭市盤尻は発電所集落である。
明治36年4月 御料局札幌出張所が漁村上流地域で造材事業を始めたところ移住者が現れ始め、明治39年大谷派説教所が設置された。住職の林空真は布教の傍ら付近の児童を集め寺子屋式の教育を進めていたが地区住民の要望が高まり、明治41年8月10日恵庭尋常小学校盤尻分教場として開校した。
大正10年頃より当別電気株式会社(後の北海道電力)が漁川に発電所を建設し始め大正11年11月28日に完成、送電を開始したところ人口が急増した。さらに昭和2年5月より王子製紙株式会社が恵庭発電所の建設工事をはじめ、昭和3年12月末に完成、翌年1月に開設したところ再び定住者が増加した。
戦後、両発電所は機械化による人員削減が始まり、さらに国有林事業に転換や薪炭事業の衰微により転出する者が出始めた。
この結果、教育委員会による小規模校の学校統合が促進され、民間定期バスを利用して通学、バス賃は町費の助成とすることで合意し、昭和39年3月盤尻中学校の廃校、昭和40年3月盤尻小学校を廃校した。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治41年 恵庭尋常小学校盤尻分教場開校(8月)
大正10年 校舎・教員住宅改築(12月)
大正15年 青年訓練所併設(6月)
昭和 5年 盤尻尋常小学校と改称
昭和 9年 女子実業補習学校を併設(6月)
昭和10年 女子実業補習学校・青年訓練所の廃止、青年学校が併設(8月)
昭和16年 盤尻国民学校と改称(4月)
昭和17年 高等科併置(4月)
昭和22年 盤尻小学校と改称(4月)
昭和25年 校舎改築・落成式(7月)
昭和40年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 恵庭中学校盤尻分教場として開校(5月)
昭和27年 盤尻中学校と改称(4月)
昭和39年 閉校(3月)
令和2年5月、コロナウィルスに気を遣いながらHEYANEKO氏、A.D.1600氏と訪れた。
学校跡地は交通量もそこそこ多い。
学校跡地は市民の森づくり事業として梅が植樹されている。
学校より先の風景。
学校より手前の風景。
学校手前の屋敷跡にはサクラが満開を迎えていた。
学校跡地案内板の隣接地に校舎があった。
鉄塔の横にある樹木は防風林だろうか。
グーグルマップで見ると盤尻には「水天宮」がマッピングされているので水天宮を目指していくことにした。
天候は小雨。参道は廃道と化していたが、カッパを着用して単独で行ってみた。
「木」が倒れていたがそれは朽ち果てた鳥居であった。
参道の先まで来たが何も見当たらない。
ふと、右手を見た瞬間
社殿が朽ち果てながらも残っていた。
『恵庭市史』によれば
昭和2年10月20日、祭神を水波能女神とし、所有者は北海道電灯株式会社である。
よく見ると、社殿のそばにコンクリートの基礎が残っている。
かつては相当立派な建物であったことが伺える。
小雨が降るなかであったが、朽ちながらも残っていた水天宮が印象深くなった。
参考文献
恵庭市1979『恵庭市史』恵庭市