黒松内町東栄
黒松内町東栄(平成30年2月9日探訪)
黒松内町東栄は農村集落である。
明治29年愛知県人5戸、鳥取県人12戸が谷農場の小作として入植したのを皮切りに明治32年、吉野常太郎(長野県人)が72町歩の払下げを受け、翌33年小作人14戸を入植させて吉野農場を開設したが、谷・吉野の両農場は農業経営に失敗し笠原富三郎に託して離農し、柴田建次郎が残った。
明治35年、笠原富太郎の斡旋により鈴木弥曽吉、加藤鍋吉、稲垣清次郎、柴田建次郎4名が再開発のため調査し、吉野常太郎より笹刈料700円をもって72町歩を買収し、明治36年5月入植した。
その後明治37年三原善蔵が小作人2戸を伴い入植、翌38年小町佐吉が小作人7戸を入植させ小町農場を開設した。
その後も続々と入植者も現れ、大正2年頃に118戸を数えたが同年の凶作により離農者が現れ、大正9年には76戸に減少した。
学校は明治37年12月鈴木弥曽吉、加藤鍋吉、稲垣清次郎、三原善蔵、柴田建次郎の5名が協議を重ねた結果、鈴木弥曽吉所有の掘立小屋を借り受け、経費は住民の寄附にて賄い、野中舜太郎を教師として授業を開始したのが始まりである。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治38年 重別特別教授所設立(4月)
明治39年 幌内尋常小学校所属重別特別教授所と認可(5月)
明治42年 来馬尋常小学校所属重別特別教授所と変更(1月)
明治44年 再び幌内尋常小学校所属重別特別教授所と認可(4月)
大正2年 幌内尋常小学校重別教育所と変更(4月)
大正4年 来馬尋常小学校所属重別教育所と変更(6月)
大正5年 校舎移転新築(1月)
大正6年 重別尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 重別国民学校と改称(4月)
昭和22年 東栄小学校と改称(4月)
昭和47年 閉校(3月)
中学校
昭和23年 黒松内中学校東栄分校開校(4月)
昭和25年 東栄中学校と改称(11月)
昭和47年 閉校(3月)
昭和29年頃の東栄集落の実情が北海道へき地教育振興会編集・発行の『へき地の教育事情』(1954年発行)に記載されているので以下、掲載する。
「本校は黒松内より15粁の山間地にして全戸数16戸、全戸酪農業を営み生活態度は企画的良好、農民は非常に勤勉にして平均各戸2、3頭の乳牛を飼育し、畜舎、サイロ其他の酪農施設の充実に努力し教育に理解熱心で家庭が平和である。」
閉校時の報道を掲載する。
67年の歴史に幕 生徒ゼロ 感無量の廃校式 黒松内東栄小中
「【黒松内】東栄の灯よ永遠に-過疎化で児童、生徒が皆無となった東栄小中(佐藤誠三校長)の廃校式が25日、同校で行われ、67年の歴史に幕を閉じた。
東栄部落は、黒松内市街地から15キロの山間。明治29年、開拓者の入植で子供たちもふえ、同38年4月、地元有志の小屋を借り受け、30人の児童で重別特別教授所として開設したのが同校の始まり。大正初期には戸数110数戸を数えたこともあったが、その後の冷害、凶作に加えて濃霧、豪雪などの悪条件に災いされて離農者が続出。これに伴い、児童、生徒数も減り、昨年小学生はゼロ、1人の中学生も3学期中に近くの大成中に転校してしまった。これまでの卒業生は小学校285人、中学校48人。
廃校式は後志教育局の藤田次長、萬屋町長、今井町議会議長らの来賓はじめ同校の卒業生、部落の人たち合わせて90人が集まって開かれたが、みんな感無量の面持ち、来賓あいさつに続いて佐藤校長が『〝土を愛し郷土を守り育てよう〟のかけ声が、いつからか〝どこに住もうとも常に精いっぱいの努力を-〟』のことばで子供たちを送る日が続き、きょうを迎えた。しかし、校史のひとこまひとこまは多くの卒業生の心の中にきざみ込まれ、東栄の灯はいつまでも燃え続けるだろう』とお別れのことばを述べた。
このあと祝宴を開いて往時を語り合ったが、母校をバックにカメラにおさまり、〝時代の流れとはいえ寂しいものですネ〟としんみりする卒業生が多かった。」(北海道新聞小樽・後志版 昭和47年3月27日)
上大成集落探訪後、メインである東栄集落の探訪となった。
学校までの道のりは除雪されていないため、徒歩で進む。
雪で埋もれた橋。
橋の名は「重別橋」
歩いていくうち、廃屋を見つけた。
牧場の廃屋もある。
石碑が見えたが、雪で埋もれている。
例によって、石碑を掘り起こす。
東栄集落の開拓記念碑である。
開拓記念碑のあるところが学校跡地。
後日調べたところによれば、学校跡地の真裏が墓地になっている。
学校前には集会所の建物も残る。
学校より少し先に行くと、神社が見えた。
神社全景。
中を見ると「何か」の基礎が残っていた。
その答えは、集落の住民が奉仕して建立した馬頭観世音像である。
折角なので、芳名標に書かれた一文をここに復刻する。
馬頭観世音改築
総工費 弐万六拾五円也
丸太 二石七斗五升部落十二名
〃〃 一石 大谷鉄男
金九千七百六拾五円 部落十五名
〃〃 一〇〇〇円 桜井甚市
〃〃 一〇〇〇円 大谷鉄男
〃〃 一〇〇〇円 三原与三郎
〃〃 九〇〇円 三原滝三
〃〃 八〇〇円 松浦栄重
〃〃 八〇〇円 中田竹太郎
〃〃 八〇〇円 斉藤 栄
〃〃 五〇〇円 加藤角一
〃〃 五〇〇円 吉田正夫
〃〃 五〇〇円 鈴木四郎
〃〃 五〇〇円 小町紀一
〃〃 五〇〇円 尾田健三郎
〃〃 五〇〇円 大谷佐太郎
〃〃 三〇〇円 富田兼信
〃〃 五〇〇円 池田治男
〃〃 二〇〇円 実藤一巳
〃〃 一〇〇円 笹 芳衛
〃〃 一〇〇円 横田ウメ
棟梁 遠藤安彦
勤労奉仕 部落一同
昭和参拾参年七月十七日
落成
帰りがけ、趣きあった廃屋へ立ち寄った。
遠めで見たときは見えなかったが、結構傷んでいた。
中は牧草ロール置場と化し、家財道具何一つ無かった。
近くに残っていたサイロ。
記念碑や家屋よりも、放置されていた芳名標が印象深く残った。
参考文献
北海道へき地教育振興会1954『へき地の教育事情1954第1號』
黒松内町1987『黒松内町史上巻』黒松内町
黒松内町1993『黒松内町史下巻』黒松内町
北海道新聞1972「67年の歴史に幕 生徒ゼロ 感無量の廃校式 黒松内東栄小中」『北海道新聞』小樽・後志版昭和47年3月27日
黒松内町東栄は農村集落である。
明治29年愛知県人5戸、鳥取県人12戸が谷農場の小作として入植したのを皮切りに明治32年、吉野常太郎(長野県人)が72町歩の払下げを受け、翌33年小作人14戸を入植させて吉野農場を開設したが、谷・吉野の両農場は農業経営に失敗し笠原富三郎に託して離農し、柴田建次郎が残った。
明治35年、笠原富太郎の斡旋により鈴木弥曽吉、加藤鍋吉、稲垣清次郎、柴田建次郎4名が再開発のため調査し、吉野常太郎より笹刈料700円をもって72町歩を買収し、明治36年5月入植した。
その後明治37年三原善蔵が小作人2戸を伴い入植、翌38年小町佐吉が小作人7戸を入植させ小町農場を開設した。
その後も続々と入植者も現れ、大正2年頃に118戸を数えたが同年の凶作により離農者が現れ、大正9年には76戸に減少した。
学校は明治37年12月鈴木弥曽吉、加藤鍋吉、稲垣清次郎、三原善蔵、柴田建次郎の5名が協議を重ねた結果、鈴木弥曽吉所有の掘立小屋を借り受け、経費は住民の寄附にて賄い、野中舜太郎を教師として授業を開始したのが始まりである。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
明治38年 重別特別教授所設立(4月)
明治39年 幌内尋常小学校所属重別特別教授所と認可(5月)
明治42年 来馬尋常小学校所属重別特別教授所と変更(1月)
明治44年 再び幌内尋常小学校所属重別特別教授所と認可(4月)
大正2年 幌内尋常小学校重別教育所と変更(4月)
大正4年 来馬尋常小学校所属重別教育所と変更(6月)
大正5年 校舎移転新築(1月)
大正6年 重別尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 重別国民学校と改称(4月)
昭和22年 東栄小学校と改称(4月)
昭和47年 閉校(3月)
中学校
昭和23年 黒松内中学校東栄分校開校(4月)
昭和25年 東栄中学校と改称(11月)
昭和47年 閉校(3月)
昭和29年頃の東栄集落の実情が北海道へき地教育振興会編集・発行の『へき地の教育事情』(1954年発行)に記載されているので以下、掲載する。
「本校は黒松内より15粁の山間地にして全戸数16戸、全戸酪農業を営み生活態度は企画的良好、農民は非常に勤勉にして平均各戸2、3頭の乳牛を飼育し、畜舎、サイロ其他の酪農施設の充実に努力し教育に理解熱心で家庭が平和である。」
閉校時の報道を掲載する。
67年の歴史に幕 生徒ゼロ 感無量の廃校式 黒松内東栄小中
「【黒松内】東栄の灯よ永遠に-過疎化で児童、生徒が皆無となった東栄小中(佐藤誠三校長)の廃校式が25日、同校で行われ、67年の歴史に幕を閉じた。
東栄部落は、黒松内市街地から15キロの山間。明治29年、開拓者の入植で子供たちもふえ、同38年4月、地元有志の小屋を借り受け、30人の児童で重別特別教授所として開設したのが同校の始まり。大正初期には戸数110数戸を数えたこともあったが、その後の冷害、凶作に加えて濃霧、豪雪などの悪条件に災いされて離農者が続出。これに伴い、児童、生徒数も減り、昨年小学生はゼロ、1人の中学生も3学期中に近くの大成中に転校してしまった。これまでの卒業生は小学校285人、中学校48人。
廃校式は後志教育局の藤田次長、萬屋町長、今井町議会議長らの来賓はじめ同校の卒業生、部落の人たち合わせて90人が集まって開かれたが、みんな感無量の面持ち、来賓あいさつに続いて佐藤校長が『〝土を愛し郷土を守り育てよう〟のかけ声が、いつからか〝どこに住もうとも常に精いっぱいの努力を-〟』のことばで子供たちを送る日が続き、きょうを迎えた。しかし、校史のひとこまひとこまは多くの卒業生の心の中にきざみ込まれ、東栄の灯はいつまでも燃え続けるだろう』とお別れのことばを述べた。
このあと祝宴を開いて往時を語り合ったが、母校をバックにカメラにおさまり、〝時代の流れとはいえ寂しいものですネ〟としんみりする卒業生が多かった。」(北海道新聞小樽・後志版 昭和47年3月27日)
上大成集落探訪後、メインである東栄集落の探訪となった。
学校までの道のりは除雪されていないため、徒歩で進む。
雪で埋もれた橋。
橋の名は「重別橋」
歩いていくうち、廃屋を見つけた。
牧場の廃屋もある。
石碑が見えたが、雪で埋もれている。
例によって、石碑を掘り起こす。
東栄集落の開拓記念碑である。
開拓記念碑のあるところが学校跡地。
後日調べたところによれば、学校跡地の真裏が墓地になっている。
学校前には集会所の建物も残る。
学校より少し先に行くと、神社が見えた。
神社全景。
中を見ると「何か」の基礎が残っていた。
その答えは、集落の住民が奉仕して建立した馬頭観世音像である。
折角なので、芳名標に書かれた一文をここに復刻する。
馬頭観世音改築
総工費 弐万六拾五円也
丸太 二石七斗五升部落十二名
〃〃 一石 大谷鉄男
金九千七百六拾五円 部落十五名
〃〃 一〇〇〇円 桜井甚市
〃〃 一〇〇〇円 大谷鉄男
〃〃 一〇〇〇円 三原与三郎
〃〃 九〇〇円 三原滝三
〃〃 八〇〇円 松浦栄重
〃〃 八〇〇円 中田竹太郎
〃〃 八〇〇円 斉藤 栄
〃〃 五〇〇円 加藤角一
〃〃 五〇〇円 吉田正夫
〃〃 五〇〇円 鈴木四郎
〃〃 五〇〇円 小町紀一
〃〃 五〇〇円 尾田健三郎
〃〃 五〇〇円 大谷佐太郎
〃〃 三〇〇円 富田兼信
〃〃 五〇〇円 池田治男
〃〃 二〇〇円 実藤一巳
〃〃 一〇〇円 笹 芳衛
〃〃 一〇〇円 横田ウメ
棟梁 遠藤安彦
勤労奉仕 部落一同
昭和参拾参年七月十七日
落成
帰りがけ、趣きあった廃屋へ立ち寄った。
遠めで見たときは見えなかったが、結構傷んでいた。
中は牧草ロール置場と化し、家財道具何一つ無かった。
近くに残っていたサイロ。
記念碑や家屋よりも、放置されていた芳名標が印象深く残った。
参考文献
北海道へき地教育振興会1954『へき地の教育事情1954第1號』
黒松内町1987『黒松内町史上巻』黒松内町
黒松内町1993『黒松内町史下巻』黒松内町
北海道新聞1972「67年の歴史に幕 生徒ゼロ 感無量の廃校式 黒松内東栄小中」『北海道新聞』小樽・後志版昭和47年3月27日
黒松内町上大成
黒松内町上大成(平成30年2月9日探訪)
黒松内町上大成は戦後開拓集落である。
昭和22年9月に和歌山県人の入植、昭和24年に樺太からの引揚者が入植した。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和25年 大成小学校上大成分校設立(1月)
昭和32年 上大成小学校と改称(11月)
昭和51年 閉校(3月)
閉校時の記事を転載する。
寂しいな最後の授業いよいよ閉校、上大成小
「【黒松内】新入児童がいないことから、この30日で廃校になる町立上大成小で23日、最後の授業が行われた。同校は校長先生ほか、教科担当の先生が1人、児童1人の超ミニ校。この日は、いつもと変わらぬ授業だったが、先生も自動もさすがに寂しそうだった。
同校は、町の東方約20キロの山間部にあり、渡島管内の境界まで約1キロ、胆振管内の境界までは約4キロと、後志管内を含めて3つの行政区画の接点に位置している。
昭和25年に上大成の分校として開校、32年に現在の校舎が建設され、独立した。母校の歴史は古く、同校の沿革史によると明治34年(1901年)という。
独立したころは30人も児童がいたが、地区の主産業だった林業、農業が衰退、年ごとに住民の流出が目立ち、45年の児童10人が翌年には5人と1ケタになり、47年からは3人となった。うち2人も昨年秋に他へ転校、現在は4年生の矢吹幸治君1人だけ。先生も教科担当の岡崎久憲教諭と川嶋忠雄校長の2人。戸数わずか12戸でこれから先、新入児童の望みもないようで、町教育委員会も今年1月、3月いっぱいで廃校の結論を出した。
最後の授業はいつもの通り、1時間目に算数、2時間目は社会、3時間目理科と、勉強したが、さすがに岡崎教諭、矢吹君とも声がしめりがち。
休み時間には、川嶋校長も加わり、3人で一緒に記念のアルバム作りもしたが、写真を手に、楽しそうに思い出を語り合う3人の表情には、心の通い合ったほのぼのとしたぬくもりがあった。同校は24日に修了式を行い、矢吹君に修了証書を手渡した。
廃校式は30日午前11時から、同校で行われるが、矢吹君は新学期からお父さんの仕事の都合で、渡島管内長万部町の静狩小へ転校するという。」(『北海道新聞』後志版昭和51年3月25日)
小学校の火 また消えて
「児童数がたった1人、校下の過疎化に抗しきれず、黒松内町でも3月いっぱいで小学校が1つ消えていく。この学校は、4年生の矢吹幸治君ただ1人に川嶋忠雄校長と岡崎久憲教諭の2人の先生がいる上大成小学校。同町と長万部、豊浦町が境界を接する位置にあり、国道37号線に近い。戦後の開拓者の入植から25年に大成小学校の分校として開校、32年には30人の児童を擁し校舎を建設して独立校となった。
ところが、ここ数年、急激な離農が相次ぎ、同校の児童数もそれに伴って減少しついに1人となったもの。入学児童も見込めず、町教委は1月に廃校を決めた。川嶋校長は喜茂別・栄小に、岡崎教諭も同・第二喜茂別小に転勤が決まったが、同校では30日午前11時から閉校式が行われる。(黒松内)」(『北海タイムス』小樽後志 昭和51年3月29日)
お世話になっているHEYANEKO氏らと後志管内の廃校廃村を巡る旅、一番最初の集落は上大成である。
現在は数戸が住む高度過疎集落である。
校舎は傷みながらも現存している。
奥行きのある建物なので一目見て学校と分かった。
現在は個人が使用している。
校舎の背後に教員(或いは校長)住宅が残っていた。
※画像提供 HEYANEKO氏より
ちょっと中を覗いてみたが、瓦解した風景が広がるだけであった。
学校の隣には神社がある。
境内には石碑らしき石が建立されていたが、分からなかった。
帰りがけ、ふと見るとサイロの跡が残っていた。
参考文献
黒松内町1987『黒松内町史上巻』黒松内町
黒松内町1993『黒松内町史下巻』黒松内町
北海道新聞1976「寂しいな最後の授業いよいよ閉校、上大成小」北海道新聞後志版昭和51年3月25日
北海タイムス1976「小学校の火 また消えて」北海タイムス小樽後志版昭和51年3月29日
黒松内町上大成は戦後開拓集落である。
昭和22年9月に和歌山県人の入植、昭和24年に樺太からの引揚者が入植した。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和25年 大成小学校上大成分校設立(1月)
昭和32年 上大成小学校と改称(11月)
昭和51年 閉校(3月)
閉校時の記事を転載する。
寂しいな最後の授業いよいよ閉校、上大成小
「【黒松内】新入児童がいないことから、この30日で廃校になる町立上大成小で23日、最後の授業が行われた。同校は校長先生ほか、教科担当の先生が1人、児童1人の超ミニ校。この日は、いつもと変わらぬ授業だったが、先生も自動もさすがに寂しそうだった。
同校は、町の東方約20キロの山間部にあり、渡島管内の境界まで約1キロ、胆振管内の境界までは約4キロと、後志管内を含めて3つの行政区画の接点に位置している。
昭和25年に上大成の分校として開校、32年に現在の校舎が建設され、独立した。母校の歴史は古く、同校の沿革史によると明治34年(1901年)という。
独立したころは30人も児童がいたが、地区の主産業だった林業、農業が衰退、年ごとに住民の流出が目立ち、45年の児童10人が翌年には5人と1ケタになり、47年からは3人となった。うち2人も昨年秋に他へ転校、現在は4年生の矢吹幸治君1人だけ。先生も教科担当の岡崎久憲教諭と川嶋忠雄校長の2人。戸数わずか12戸でこれから先、新入児童の望みもないようで、町教育委員会も今年1月、3月いっぱいで廃校の結論を出した。
最後の授業はいつもの通り、1時間目に算数、2時間目は社会、3時間目理科と、勉強したが、さすがに岡崎教諭、矢吹君とも声がしめりがち。
休み時間には、川嶋校長も加わり、3人で一緒に記念のアルバム作りもしたが、写真を手に、楽しそうに思い出を語り合う3人の表情には、心の通い合ったほのぼのとしたぬくもりがあった。同校は24日に修了式を行い、矢吹君に修了証書を手渡した。
廃校式は30日午前11時から、同校で行われるが、矢吹君は新学期からお父さんの仕事の都合で、渡島管内長万部町の静狩小へ転校するという。」(『北海道新聞』後志版昭和51年3月25日)
小学校の火 また消えて
「児童数がたった1人、校下の過疎化に抗しきれず、黒松内町でも3月いっぱいで小学校が1つ消えていく。この学校は、4年生の矢吹幸治君ただ1人に川嶋忠雄校長と岡崎久憲教諭の2人の先生がいる上大成小学校。同町と長万部、豊浦町が境界を接する位置にあり、国道37号線に近い。戦後の開拓者の入植から25年に大成小学校の分校として開校、32年には30人の児童を擁し校舎を建設して独立校となった。
ところが、ここ数年、急激な離農が相次ぎ、同校の児童数もそれに伴って減少しついに1人となったもの。入学児童も見込めず、町教委は1月に廃校を決めた。川嶋校長は喜茂別・栄小に、岡崎教諭も同・第二喜茂別小に転勤が決まったが、同校では30日午前11時から閉校式が行われる。(黒松内)」(『北海タイムス』小樽後志 昭和51年3月29日)
お世話になっているHEYANEKO氏らと後志管内の廃校廃村を巡る旅、一番最初の集落は上大成である。
現在は数戸が住む高度過疎集落である。
校舎は傷みながらも現存している。
奥行きのある建物なので一目見て学校と分かった。
現在は個人が使用している。
校舎の背後に教員(或いは校長)住宅が残っていた。
※画像提供 HEYANEKO氏より
ちょっと中を覗いてみたが、瓦解した風景が広がるだけであった。
学校の隣には神社がある。
境内には石碑らしき石が建立されていたが、分からなかった。
帰りがけ、ふと見るとサイロの跡が残っていた。
参考文献
黒松内町1987『黒松内町史上巻』黒松内町
黒松内町1993『黒松内町史下巻』黒松内町
北海道新聞1976「寂しいな最後の授業いよいよ閉校、上大成小」北海道新聞後志版昭和51年3月25日
北海タイムス1976「小学校の火 また消えて」北海タイムス小樽後志版昭和51年3月29日
豊富町豊幌
豊富町豊幌(平成29年9月17日探訪)
豊富町豊幌は農村集落である。
「豊幌」は元幌延村と沙流村に分かれていた。当時は幌延村に属していたが村の合併、分村(昭和15年)を経て豊富村の区域に入ったことから、両村の頭文字をとって「豊幌」とした。
明治44年工藤の入植が最初であった。大正4年秋田団体(12戸)が南沢からの転入、大正8年能登団体(6戸)、佐渡団体(5戸)の入植、さらに大正12年関東大震災による被災者対策として補助移民の入植を受け入れ、50余戸を数えた。
さらに各府県から自作農創設のため入植する者が増え、昭和3年には74戸を数えた。
子供たちは当初、幌延尋常小学校附属南沢特別教授場に通学していたが、8キロ余りの道のりで人家も殆どない刈分道路であった。冬季になれば学校付近の空家を借りて児童の合宿所として、父兄が監督して登校の便を図った。
その後奥地に移住する者がいないことや距離の関係もあって大正13年幌延尋常小学校附属北沢特別教授場として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
大正13年 幌延尋常小学校附属北沢特別教授場として開校(2月)
昭和4年 北沢尋常小学校と変更(1月)
昭和15年 豊幌尋常小学校に変更(12月)
昭和16年 豊幌国民学校に変更(4月)
昭和22年 豊幌小学校と改称(4月)
昭和57年 閉校(3月)
中学校
昭和26年 開校(4月)
昭和57年 閉校(3月)
日曹炭鉱を見終えた後、豊幌へ来た。
所々に酪農家が点在している。
朽ちた校門があった。
学校跡地は何も残っていない。
倒壊した建物があったが、学校に関わる建物かは分からなかった。
学校から2キロ先に神社があるので足を運び、参拝した。
境内の笹薮の隙間から豊幌集落を見る。
へき地4級。
高度過疎集落であるが、神社は大切に維持されていた。
参考文献
豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会
豊富町豊幌は農村集落である。
「豊幌」は元幌延村と沙流村に分かれていた。当時は幌延村に属していたが村の合併、分村(昭和15年)を経て豊富村の区域に入ったことから、両村の頭文字をとって「豊幌」とした。
明治44年工藤の入植が最初であった。大正4年秋田団体(12戸)が南沢からの転入、大正8年能登団体(6戸)、佐渡団体(5戸)の入植、さらに大正12年関東大震災による被災者対策として補助移民の入植を受け入れ、50余戸を数えた。
さらに各府県から自作農創設のため入植する者が増え、昭和3年には74戸を数えた。
子供たちは当初、幌延尋常小学校附属南沢特別教授場に通学していたが、8キロ余りの道のりで人家も殆どない刈分道路であった。冬季になれば学校付近の空家を借りて児童の合宿所として、父兄が監督して登校の便を図った。
その後奥地に移住する者がいないことや距離の関係もあって大正13年幌延尋常小学校附属北沢特別教授場として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
大正13年 幌延尋常小学校附属北沢特別教授場として開校(2月)
昭和4年 北沢尋常小学校と変更(1月)
昭和15年 豊幌尋常小学校に変更(12月)
昭和16年 豊幌国民学校に変更(4月)
昭和22年 豊幌小学校と改称(4月)
昭和57年 閉校(3月)
中学校
昭和26年 開校(4月)
昭和57年 閉校(3月)
日曹炭鉱を見終えた後、豊幌へ来た。
所々に酪農家が点在している。
朽ちた校門があった。
学校跡地は何も残っていない。
倒壊した建物があったが、学校に関わる建物かは分からなかった。
学校から2キロ先に神社があるので足を運び、参拝した。
境内の笹薮の隙間から豊幌集落を見る。
へき地4級。
高度過疎集落であるが、神社は大切に維持されていた。
参考文献
豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会
豊富町日曹
豊富町日曹(平成29年9月16日探訪)
豊富町日曹は炭鉱集落である。
明治37年本願寺農場の管理人であった長門勇輔は日曹地区での採炭を計画し、農場の小作人をつかって明治42年から石炭を試掘した。
採掘した場所は大谷坑(後の三坑区域)で露天掘りであった。しかし輸送面の不備のため明治44年で操業を停止した。本格的な採炭は昭和時代に入ってからであった。
昭和11年日曹鉱業株式会社が5000万で鉱区を所有していた大谷光暢を買収し、7月9日会社重役、技手など10数名が現地調査し、炭層の有望性が確認され直ちに馬車道をつくり、物資の運搬を経て10月10日第1坑の採炭に着手した。
昭和13年豊富-日曹間に専用鉄道の敷設が始まり、昭和15年2月に専用鉄道が完成した。
この頃、冷害が全道を襲い南沢、北沢、目梨別、福永などの入植者は炭鉱労働に転業する者が増え児童も急増していった。このことから、学校設立の要望が高まり昭和13年9月に設立認可が下りた。学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和13年 南沢尋常小学校附属本流特別教授場として開校(9月)
昭和14年 本流尋常小学校と改称(3月)
昭和15年 日曹尋常小学校と改称(12月)
昭和16年 日曹国民学校と改称(4月)
昭和22年 日曹小学校と改称(4月)
昭和45年 火災のため消失(3月)
校舎新築(11月)
昭和48年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 開校(5月)
昭和48年 閉校(3月)
炭鉱鉄道敷設時期(昭和13年)以降の炭鉱の動向は以下の通りである。
昭和13年 鉄道職員住宅、第一発電所建設、事務所落成
一の沢、二の沢、熊の台集落の形成
昭和14年 日曹神社造営(6月10・11・12日祭典)
バウム式水洗選炭機設置
昭和15年 第二発電所落成(この頃の戸数 410戸1980人)
昭和16年 日曹診療所竣工
昭和17年 新事務所(一の沢)完成
昭和18年 選炭場完成
昭和22年 日曹炭鉱株式会社設立
新町1区・2区、富岡町、川向等に新たな炭鉱住宅の建設
昭和30年 日曹天塩鉱業所一時休山
昭和31年 選炭場火災により全焼
昭和35年以降 第3坑深部開発工事着手
坑内運搬の機械化
選炭機新設
採炭掘進の機械化
昭和47年 閉山(7月) (閉山時の戸数251戸937人 うち鉱業所関係196戸767人)
猿払村上猿払・石炭別を探訪後、豊富町日曹へやってきた。
建物はすべて大自然に戻っている。
日曹炭鉱跡地の記念碑。
残っている煙突は事務所の建物である。
傍に、かなり傷んでいるが昭和28年頃の日曹の案内板が掲示されている。
煙突の傍に、往時の日曹の写真が掲示されていた。
量が多いため、3分割してここに掲載する。
記念碑の向かいに学校があったが、既に痕跡は見当たらなかった。
手持ちの写真と見比べ、山の稜線で校舎跡地を特定した。
学校跡地付近より日曹集落を望む。
道はいいが、ここに集落があったとは信じられないくらい自然に戻っていた。
参考文献
豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会
豊富町日曹は炭鉱集落である。
明治37年本願寺農場の管理人であった長門勇輔は日曹地区での採炭を計画し、農場の小作人をつかって明治42年から石炭を試掘した。
採掘した場所は大谷坑(後の三坑区域)で露天掘りであった。しかし輸送面の不備のため明治44年で操業を停止した。本格的な採炭は昭和時代に入ってからであった。
昭和11年日曹鉱業株式会社が5000万で鉱区を所有していた大谷光暢を買収し、7月9日会社重役、技手など10数名が現地調査し、炭層の有望性が確認され直ちに馬車道をつくり、物資の運搬を経て10月10日第1坑の採炭に着手した。
昭和13年豊富-日曹間に専用鉄道の敷設が始まり、昭和15年2月に専用鉄道が完成した。
この頃、冷害が全道を襲い南沢、北沢、目梨別、福永などの入植者は炭鉱労働に転業する者が増え児童も急増していった。このことから、学校設立の要望が高まり昭和13年9月に設立認可が下りた。学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和13年 南沢尋常小学校附属本流特別教授場として開校(9月)
昭和14年 本流尋常小学校と改称(3月)
昭和15年 日曹尋常小学校と改称(12月)
昭和16年 日曹国民学校と改称(4月)
昭和22年 日曹小学校と改称(4月)
昭和45年 火災のため消失(3月)
校舎新築(11月)
昭和48年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 開校(5月)
昭和48年 閉校(3月)
炭鉱鉄道敷設時期(昭和13年)以降の炭鉱の動向は以下の通りである。
昭和13年 鉄道職員住宅、第一発電所建設、事務所落成
一の沢、二の沢、熊の台集落の形成
昭和14年 日曹神社造営(6月10・11・12日祭典)
バウム式水洗選炭機設置
昭和15年 第二発電所落成(この頃の戸数 410戸1980人)
昭和16年 日曹診療所竣工
昭和17年 新事務所(一の沢)完成
昭和18年 選炭場完成
昭和22年 日曹炭鉱株式会社設立
新町1区・2区、富岡町、川向等に新たな炭鉱住宅の建設
昭和30年 日曹天塩鉱業所一時休山
昭和31年 選炭場火災により全焼
昭和35年以降 第3坑深部開発工事着手
坑内運搬の機械化
選炭機新設
採炭掘進の機械化
昭和47年 閉山(7月) (閉山時の戸数251戸937人 うち鉱業所関係196戸767人)
猿払村上猿払・石炭別を探訪後、豊富町日曹へやってきた。
建物はすべて大自然に戻っている。
日曹炭鉱跡地の記念碑。
残っている煙突は事務所の建物である。
傍に、かなり傷んでいるが昭和28年頃の日曹の案内板が掲示されている。
煙突の傍に、往時の日曹の写真が掲示されていた。
量が多いため、3分割してここに掲載する。
記念碑の向かいに学校があったが、既に痕跡は見当たらなかった。
手持ちの写真と見比べ、山の稜線で校舎跡地を特定した。
学校跡地付近より日曹集落を望む。
道はいいが、ここに集落があったとは信じられないくらい自然に戻っていた。
参考文献
豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会
豊富町豊田
豊富町豊田(平成29年9月17日探訪)
豊富町豊田は農村集落である。
明治40年頃に数戸の農家が入植するも、交通不便であるため数年後に転出、冬季に菊井孝次郎が造材事業を行うのみであった。
大正15年に千葉・見延が入植したのを機に昭和2年に二浦、翌3年に藤沢、4年に高岡他4戸、5年に斉藤・熊谷他3戸、6年に打田他2戸が入植して豊田集落が形成されていった。
就学児童は昭和5年に入ってからであったが、当時は1里半余り隔てた兜沼尋常高等小学校阿沙流分校(後の阿沙流小学校)に通学していた。冬季間の通学困難な事情や集落の児童増加の見込みがあったため、集落の住民挙って学校設置の運動を起こした結果、昭和9年小学校設置の認可が下り(4月)、翌5月に仮校舎で授業が開始された。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和9年 豊田尋常小学校設置認可(4月)
仮校舎にて授業開始(5月)
新校舎落成移転(9月)
昭和16年 豊田国民学校と変更(4月)
昭和22年 豊田小学校と変更(4月)
昭和53年 閉校(3月)
中学校
昭和25年 開校
昭和53年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する
過疎化の波…ついに廃校
離農、農業後継者の流出の過疎化の波にのまれて廃校になる小、中学校の最後の卒業式が14日、小平町(注1)と豊富町の2校で行われ、児童たちも父母たちもそれぞれ感慨深げだった。
しんみり、ほたるの光 卒業生1人 44年の歴史に幕
「【豊富】住民が減って今年の卒業生がたった1人、在校生も3人しかいなくなった小中学校が、卒業式後に閉校式を行ない44年の歴史に幕を閉じた。
豊富市街地から約25キロ離れた豊田小中学校(高橋善治校長)。校長のほか教員が4人いるが、児童、生徒は中学3年と同1年の兄弟、小学3年と4年の兄弟の計4人。同校は昭和9年に開校、これまでに小、中あわせて287人が巣立っている。へき地5級校だが体育などクラブ活動が盛んで、特に卓球では中学女子が全道大会で団体優勝したこともある。
豊田地区は大正15年(1926年)に入植して以来、畑作農地として栄え、最盛期の昭和30年代には農家43戸、児童、生徒58人を記録したこともあった。ところが畑作から酪農に切り替わり、経営規模が拡大するにつれて離農者が相次いだ。農業後継者の流出もあって現在は11戸、生徒数も4人になってしまった。
昨年4月からは約7キロ離れた隣の庄内小中とスクールバスを利用して週に数回、体育や音楽の集合学習をし、各種行事も合同で行って教育効果を上げていた。しかし中学生が卒業したあとは、在校生がわずか3人になり、町教委ではついに閉校に踏み切った。
同校体育館での卒業式には父母ら25人が出席、最後の卒業生となった中学の阿部茂君に高橋校長から卒業証書が手渡された。来賓の安田俊同町教育長と子供たちが新学期から通学する庄内小中の田中光蔵校長の祝辞もしめりがち。「蛍の光」の合唱に子供たちよりも父母たちの方がしんみりとしていた。
このあと引き続いて閉校式。お別れ会には77歳になる地区の長老も参加、思い出話に花を咲かせたが、住民の心のよりどころであった学校の閉校に感慨ひとしお。参加者全員で記念撮影をして別れを惜しんだ。」(北海道新聞留萌・宗谷版 昭和53年3月16日)
豊富町内で宿泊した翌日、豊田集落を訪れた。
豊富町内の土地はほぼ平坦な土地が広がっているが、豊田は山間の平地を開拓していった。
山がすぐそこまで迫っている。
豊田小中学校跡地が見えた。
ここはへき地5級校である。
閉校後も校舎は残されていたが、既に解体されていた。
学校の隣には神社があった。
神社は移設されてきたものである。
近くには教員住宅もあった。
教員住宅の前には橋がある。
橋の名は「学校橋」
小さい川が流れている。
川の名は「学校の沢川」
ここに学校があったことを伝えている。
旧版地形図では、ここに寺院マークが記されている。
ちょっと薮に入ってみるも、痕跡は見当たらなかった。
帰り道、移設前の神社跡へ入ってみた。
なだらかな丘陵の頂上に神社はあったが、アプローチする道は消えていた。
(注1) 小平町の学校は富岡小学校であるが割愛する。
参考文献
豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会
北海道新聞1978「過疎化の波…ついに廃校 しんみり、ほたるの光 卒業生1人 44年の歴史に幕」北海道新聞留萌・宗谷版昭和53年3月16日
豊富町豊田は農村集落である。
明治40年頃に数戸の農家が入植するも、交通不便であるため数年後に転出、冬季に菊井孝次郎が造材事業を行うのみであった。
大正15年に千葉・見延が入植したのを機に昭和2年に二浦、翌3年に藤沢、4年に高岡他4戸、5年に斉藤・熊谷他3戸、6年に打田他2戸が入植して豊田集落が形成されていった。
就学児童は昭和5年に入ってからであったが、当時は1里半余り隔てた兜沼尋常高等小学校阿沙流分校(後の阿沙流小学校)に通学していた。冬季間の通学困難な事情や集落の児童増加の見込みがあったため、集落の住民挙って学校設置の運動を起こした結果、昭和9年小学校設置の認可が下り(4月)、翌5月に仮校舎で授業が開始された。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和9年 豊田尋常小学校設置認可(4月)
仮校舎にて授業開始(5月)
新校舎落成移転(9月)
昭和16年 豊田国民学校と変更(4月)
昭和22年 豊田小学校と変更(4月)
昭和53年 閉校(3月)
中学校
昭和25年 開校
昭和53年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する
過疎化の波…ついに廃校
離農、農業後継者の流出の過疎化の波にのまれて廃校になる小、中学校の最後の卒業式が14日、小平町(注1)と豊富町の2校で行われ、児童たちも父母たちもそれぞれ感慨深げだった。
しんみり、ほたるの光 卒業生1人 44年の歴史に幕
「【豊富】住民が減って今年の卒業生がたった1人、在校生も3人しかいなくなった小中学校が、卒業式後に閉校式を行ない44年の歴史に幕を閉じた。
豊富市街地から約25キロ離れた豊田小中学校(高橋善治校長)。校長のほか教員が4人いるが、児童、生徒は中学3年と同1年の兄弟、小学3年と4年の兄弟の計4人。同校は昭和9年に開校、これまでに小、中あわせて287人が巣立っている。へき地5級校だが体育などクラブ活動が盛んで、特に卓球では中学女子が全道大会で団体優勝したこともある。
豊田地区は大正15年(1926年)に入植して以来、畑作農地として栄え、最盛期の昭和30年代には農家43戸、児童、生徒58人を記録したこともあった。ところが畑作から酪農に切り替わり、経営規模が拡大するにつれて離農者が相次いだ。農業後継者の流出もあって現在は11戸、生徒数も4人になってしまった。
昨年4月からは約7キロ離れた隣の庄内小中とスクールバスを利用して週に数回、体育や音楽の集合学習をし、各種行事も合同で行って教育効果を上げていた。しかし中学生が卒業したあとは、在校生がわずか3人になり、町教委ではついに閉校に踏み切った。
同校体育館での卒業式には父母ら25人が出席、最後の卒業生となった中学の阿部茂君に高橋校長から卒業証書が手渡された。来賓の安田俊同町教育長と子供たちが新学期から通学する庄内小中の田中光蔵校長の祝辞もしめりがち。「蛍の光」の合唱に子供たちよりも父母たちの方がしんみりとしていた。
このあと引き続いて閉校式。お別れ会には77歳になる地区の長老も参加、思い出話に花を咲かせたが、住民の心のよりどころであった学校の閉校に感慨ひとしお。参加者全員で記念撮影をして別れを惜しんだ。」(北海道新聞留萌・宗谷版 昭和53年3月16日)
豊富町内で宿泊した翌日、豊田集落を訪れた。
豊富町内の土地はほぼ平坦な土地が広がっているが、豊田は山間の平地を開拓していった。
山がすぐそこまで迫っている。
豊田小中学校跡地が見えた。
ここはへき地5級校である。
閉校後も校舎は残されていたが、既に解体されていた。
学校の隣には神社があった。
神社は移設されてきたものである。
近くには教員住宅もあった。
教員住宅の前には橋がある。
橋の名は「学校橋」
小さい川が流れている。
川の名は「学校の沢川」
ここに学校があったことを伝えている。
旧版地形図では、ここに寺院マークが記されている。
ちょっと薮に入ってみるも、痕跡は見当たらなかった。
帰り道、移設前の神社跡へ入ってみた。
なだらかな丘陵の頂上に神社はあったが、アプローチする道は消えていた。
(注1) 小平町の学校は富岡小学校であるが割愛する。
参考文献
豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会
北海道新聞1978「過疎化の波…ついに廃校 しんみり、ほたるの光 卒業生1人 44年の歴史に幕」北海道新聞留萌・宗谷版昭和53年3月16日