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石狩市八の沢

石狩市八の沢(平成25年10月20日探訪)

石狩市八の沢は、油田で栄えた集落であった。

幕末の安政5年 幕府箱館奉行所石狩詰役所の荒井金助が、厚田望来の海辺に石油が浸透しているのを見て調査した結果、油田の存在を確認したのが始まりとされている。

明治12年 俊別(現 春別)で島倉仁之助が試掘りを行なったが成果はなかった。

この為、島倉は明治22年に北海道鉱山会社に鉱区を譲った。

明治36年 インターナショナル・オイル・コンパニーが開発に着手し、俊別や五の沢で鉱脈を発見、本格的な掘削が始まった。

明治44年 インタ-ナショナル・オイル・カンパニーは日本石油株式会社に譲渡した。

これにより、日本石油は石狩に鉱場を設け、事業を引き継いでいく。

大正10年 厚田村で石油試掘を行なっていた宝田石油会社と合併し、事業の拡大をはかる。

当時、子供たちは五の沢尋常小学校に通学していた。

昭和2年1月17日 五の沢尋常小学校八の沢特別教授場として開校した。

昭和4年 石油の採掘は年産1万271キロリットルに達し、ピークを迎える。

昭和5年の従業員数は187名となり、翌 昭和6年は五の沢からも就労者が加わり、約250名に達する。
社宅50戸、独身寮3棟が建っていた。

昭和8年 新規油井の掘削を中止したため激減する。

昭和10年にはおよそ半分の量しか産油されず、従業員も60名に減った。

昭和16年 政府出資の国策会社である帝国石油株式会社が設立され、日本石油の施設はそのまま引き継がれた。
学校は五の沢国民学校八の沢教授場と改称した。

昭和23年9月1日 八の沢小学校として独立した。

しかし、産出量は年産 1800キロリットルにまで減少し、最盛期の5分の1程度にまでなっていた。

昭和25年の就業者数は76名となり、翌 昭和26年10月時点で59世帯 就業人口は74名であった。

昭和30年になると従業員数もいよいよ少なくなり、41世帯55名であった。

昭和34年 石狩鉱は帝国石油から北宝石油鉱業株式会社へ移行した。

だが、昭和35年8月 採掘を廃止し石狩油田の歴史は終わった。

学校も、子供の減少から昭和37年3月31日付で閉校となった。

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普通林道 五の沢線に八の沢集落があった。
現在は石狩市が管理している。

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林道はすべて舗装道路となっている。

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林道を進んでいくと、記念碑が見えた。

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その隣に、校門が見えた。
ここが八の沢小学校の跡地である。

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階段跡と思われる斜面より、接近する。

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学校跡地は、笹藪に覆われていた。

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校門の隣接地にある八の沢鉱業所跡の記念碑。

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記念碑下部に記載された概要。

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八の沢集落の見取り図。
神社跡は今もある。

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学校前は植林されていた。

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学校跡地より少し先に進んだところにある、神社跡。

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拝殿跡は、笹藪で探訪不能であった。

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神社前からの風景。
日本国内でも数少ない、油田で栄えた集落は自然に帰ろうとしていた。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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