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名寄市内淵

名寄市内淵(平成25年11月17日・12月5日探訪)

※平成16年3月24日~平成22年10月28日まで在住

名寄市内淵は現在、14世帯の集落である。

集落の特筆すべき事項として「陸上自衛隊 名寄駐屯地」が置かれている。
筆者も元 名寄駐屯地(第三普通科連隊)に在籍していた。

しかし、ここに学校があったことを知る人は少なく、学校跡地も既に駐屯地 敷地内に入っているため容易に探訪することは出来ない。

今回、筆者が名寄駐屯地(第三普通科連隊)に在籍していたこともあり、番外編であるが紹介する。


内淵は、アイヌと和人が暮らす集落であった。

天塩川筋をはじめ、日高方面のアイヌも集まる一方で、和人の移住も少なくなかった。明治後期より移住・開拓が始まり、主にハッカの栽培が盛んであった。

子どもたちは当時、名寄尋常高等小学校に通学していたが通学距離が長かった。

大正6年6月 内淵に住むアイヌ 北風磯吉が敷地と建設費の一部を寄贈し、大正7年 名寄尋常高等小学校内淵特別教授場として開校した。

大正11年 名寄尋常高等小学校内淵分教場と改称。

昭和16年 名寄国民学校内淵分教場と改称。

昭和22年 名寄小学校内淵分校と改称。

昭和27年3月 鈴木秀吉町長が「名寄の発展のため」と警察予備隊の誘致諮問案を打ち出した。
即日許可が出て、町を挙げての警察予備隊誘致運動を起こした。

その結果、中野総監の来町となり現地視察の結果、内淵がキャンプ地として白羽の矢がたった。

昭和27年4月30日付の「週間名寄タイムス」には「たちがたき土への愛着を捨て内淵住民 全面的に協力」という記事がある。

記事には「百性は他の商売の様に簡単に転住できない。土地を尊重し、そして長い間耕し続けてきた此の土地に限りない愛着を感じている」などの意見も出されたが、町発展のため全面的に協力することになった。

同年8月1日 キャンプ建設工事が昼夜問わずして行なわれた。

内淵分校のことについて村岡 登(89歳)はこう話す。

「…学校跡地は駐屯地の向こう側にあった。1年生から4年生までで、20名くらいいたと思う。私の土地は当時、駐屯地側にも5町あった。反対運動はあまり無かったように思う…」

ご子息の村岡正行は、駐屯地造成当時のことをこう話す。

「…駐屯地建設が決まったら、昼夜問わず工事が行なわれた。入口のところに飲み屋街が設けられ、学校近くに作業員の飯場があった。電気は、他の集落ではランプ生活であったが名寄で一番早くに導入された。駐屯地造成で使われている電気を少しいただいて、家に引っ張っていた…。」

「閉校後、校舎はしばらくあった。教室の中にはどんなものかは忘れてしまったが、標本が飾られていた…。いつの間にか校舎は解体されたが、最後までトイレの跡だけは残っていた…」

併せて、三条(旧姓 佐藤)和子も、駐屯地造成当時のことをこう話す。

「…当時は田園風景が広がっていた。それこそ、収穫間近のイネの穂がたわわに実っていたのに、工事関係車両でどんどん整地されていく。私は子ども心ながら「じき収穫するからちょっと待ってほしい」という思いで、車両の前に立った。しかし、出てきた運転手にチョコレートを数個渡されて、何事もなかったかのように整地作業は再開されてしまった…」

現在跡地は駐屯地敷地内だが、約10年前までは市の土地であった。

昭和27年12月5日の週間名寄タイムスに「先遣隊五十余名 きょう入町」とある。

駐屯地管理隊及び福祉隊、併せて50余名の隊員が本隊3000名隊員の入町に伴うスタンバイである。

翌 昭和28年3月9日 宇都宮より主力の第三連隊3000名が名寄に降り立った。

初代部隊長(連隊長)である中山忠雄は陸軍大学卒業後、陸軍中佐として陸軍参謀本部参課として支那・満洲・南方戦線を転戦した。

駐屯地開設に伴う騒音や既存の農家立ち退きにより、内淵分校は昭和29年3月末で廃校になった。

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平成25年11月8日~11月24日まで、名寄市 北国博物館で「懐かしの学び舎 中学・高校・大学編」という特別展が開催されていた。
これは、特別展に展示されていた写真である。
写っている建物が内淵分校校舎である。

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平成25年11月17日 久し振りに駐屯地を訪ねてみた。

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駐屯地が見えてきた。

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駐屯地入口脇の廃屋。
私が入隊した平成16年当時から、既に廃屋であった。

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駐屯地脇の内淵会館。
すぐ目の前に、駐屯地西門が見える。

警備していた隊員に、身元を明かした上で交渉を試みたが撮影は不可であった。

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駐屯地脇の菊山スキー場ロッジ跡。
「菊山」の由来は、かつてここで「除虫菊」を栽培していたことから名付けられた。

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内淵神社拝殿。
この時は神社の拝殿を撮影しただけで終わった。

しかし、日を改めて駐屯地広報班に連絡の上、12月5日に再び訪れた。

駐屯地広報班に事情を話し、資料館である「北勝館」へ伺った。

駐屯地が開庁して間もない頃の写真に、内淵分校の校舎は写っていた。

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昭和29年7月8日 防衛庁長官(木村篤太郎氏)視察のため来隊の写真。
背後にある、平屋の建物が内淵分校である。

学校跡地の現在の場所を撮ろうと再び交渉を試みたが、やはり撮影は不可であった。
但し、神社の跡地は許可が下りた。

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一目見て、神社跡だと判った。

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有刺鉄線の先が、かつての神社である。
有刺鉄線が無ければ、雪まみれになりながら訪ねていたかもしれない。


探訪後、近くに住む村岡 登宅を訪ねた。
村岡氏所蔵の資料を見せていただくことができた。

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昭和初期の学校周辺の様子。これは運動会のひとコマである。

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現在は駐屯地敷地内となっているが、かつての集落の風景。
尚、現在は駐屯地演習場となっている山もかつては「クウカルシュナイ」と呼ばれており、人々が暮らしていたと同時に、もとの智恵文峠であった。
その峠には大正9年頃まで「峠の茶屋」が存在していた。

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内淵神社 拝殿へ続く参道。
この参道も、既に消えてしまった。

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参道に植えられた木は今も健在である。

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今は有刺鉄線で行けないが、その先にかつて拝殿があった。
現在地へ移転する前の、神社である。

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昭和20年頃の航空写真。赤字は筆者が書き加えたものである。
これを見ると、現 駐屯地西門を越えて左手から昇りはじめている。

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名寄駐屯地の風景。

「峠の茶屋」「クウカルシュナイ」「内淵分校」も既に消え、自衛隊名寄駐屯地へと変貌を遂げた。
かつての風景は、神社跡地以外見出すことができない。

今回の調査にあたり、陸上自衛隊名寄駐屯地 第三普通科連隊広報班 様 村岡 登 様 村岡 正行様 三条 和子様に厚く御礼申し上げます。

追記(平成30年12月19日)
私の元上司の証言を掲載していましたが、確証が得られていないことから削除致しました。

名寄市北山

名寄市北山(平成19年4月30日・平成22年5月3日・平成24年1月29日探訪)

北山の開拓は智恵文村周辺地域より遅れた大正12(1923)年、道有地の貸付によって始まった。
当初は40戸ほどを数え、学童も30名前後に達していたが当時は智恵文尋常高等小学校に属していたので遠距離通学だった。
大正15年7月、北山特別教授場が設置された。これが北山小学校の開校年でもある。
昭和4年、北山尋常小学校。昭和16年 北山国民学校。昭和22年に北山小学校と変遷を辿る。
本格的な入植は戦後になってからである。所謂「戦後開拓」として入地した事。隣接の地域(旭地区)にも入植者が現れたことである。
しかし急傾斜面や、農作物の不振により昭和30年代頃より離農が相次ぎ、昭和52年3月31日に閉校となった。

北山の主要作物はバレイショ、ハッカ、豆や麦であったがそれ以外に、炭鉱も操業していた。炭鉱は戦中の一時でこの時は炭鉱長屋(鉱員住宅)が建ち並んでいたが、短命に終わってしまった。

北山にまつわるエピソードとして、ある方よりお便りを頂戴した。
その方の父親が教員で、38歳の時に校長職に昇任し、最初の勤務地が北山尋常小学校であった。
その頃は母の手助けを受けながら、在籍していた60名余りの生徒を一つの教室で教えていた…としたためられていた。

その他、北星駅周辺に住まわれている方の聞き取りの結果「昭和48~49年頃、北山小学校で運動会が催されたときに見物にいった」と話してくれた。
子供たちは智恵文小学校に通学しており、その方の住まわれている場所より3軒奥の家が、通学の境界であった。

様々な思い出を秘めた北山は、現在、無人集落(廃村)となってしまった。


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北星駅を降り、北山小学校跡へと行く。
この辺りから北山集落に入る。

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北山の開拓25周年を記念、並びに先人の功績を讃え昭和24年10月に建立された開拓記念碑。

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やがて、道が二股に分かれる。
この先へ進めば北山小学校跡地へ行くことができる。
左は戦後に開拓された「旭」地区へ行くことができる。
旭は現在、養豚場の施設が1軒あるだけである。以前は名寄市の「智恵文ひまわり畑」として脚光を浴びていた。

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旭への道のり。
この先に集落があったのか?と心細くなる。

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旭集落跡。
養豚の施設のみあった。

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古い小屋があるが、旭の開拓当時のものだろうか?

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小さい橋。恐らく、旭集落当時からのものだろう。
橋の先は薮と木々に覆われていた。

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それでは先ほどの分岐点まで戻り、今度は学校跡地へ。
写真に見える廃屋は北山で唯一、原形を留めた家屋である。

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道をもう少し進むと二股に分かれる道がある。
左へ進むと、北山小学校校舎跡がある。

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北山小学校跡の記念碑
この記念碑のある場所が、当時の学校玄関であった。

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北山小学校には「校歌」が無かったが「応援歌」があった。
応援歌碑は平成18年建立された。

記念碑の後ろにあった煙突 - コピー
校舎跡地の隣接地に教員住宅があった。この煙突は教員住宅のものである。

校舎へ続く階段
教員住宅と校舎を繋いでいた廊下の一部?と思われる。

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校舎の近くにあった「北山神社」跡と思われる場所。
ここだけ幹の太い「マツ」の木があったので、神社の跡かと思ったが確証は持てない。

神社より奥
神社跡と思われる場所より奥の風景。
この奥にも、人々の営みがあったが自然に還ってしまっていた。



平成24年5月 北山を再訪した。

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この時期は草木もそんなに伸びていないので、思わぬ発見がある。

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北山に唯一残っていた家屋が解体されていた。

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解体されて、本当に間もないようである。

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その先へ進むと、養豚場?の一部が残されていた。

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北山小学校閉校記念碑と応援歌碑。

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傍には子供たちの遊具である「タイヤ」があった。

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記念碑の裏側には便槽と、便器の残骸が残されていた。
校舎の後方部に便所棟があった。

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教員住宅の全景。今回は、基礎もはっきり確認できた。

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教員住宅と校舎とを繋いでいた「渡り廊下」
以前、この地に住まわれていた方の記憶によると「教員住宅と校舎とを結ぶ渡り廊下は、幅が広かった。また、夜間の巡回中、渡り廊下で野生のシカと遭遇して非常に驚いた」と仰っていた。

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学校の傍にあった「北山神社」跡地。

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笹藪の中に、神社に必ずある「手洗い場」があった。

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植わっていた草を取り除いてみる。

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側面には「紀元二千六百年」(昭和15年)の文字が彫られている。

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手洗い場の傍に、石垣が辛うじて残されていた。

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手洗い場より神社へのアプローチ。
笹藪をこがないと、たどり着けない。

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校舎の隣接する山に「半鐘」があった。話によると「山の上の方に半鐘があり、半鐘を管理していた方のお宅に泊りに行っては、櫓に登らせて貰った」とのことであるが…。

薮を進むと植林風景が広がっていた。
しかし、何故か「サクラ」の樹が植わっていた。

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サクラの木の傍に、石垣らしき石の塊があった。
ここに半鐘を管理していた方のお宅があったのだろうか…?

今回の証言は昭和10年代前半の思い出話なので、面影を見つけ出すのは難しかった。

名寄市御園

名寄市御園(平成22年5月3日探訪)

名寄東小学校御園分校入口
御園は名寄市街地より離れた山間部に位置し、戦後、食糧難のために開拓された「戦後開拓集落」です。
今まで開拓されていなかったので、戦争で被災した人々がこの地へ入植しました。
分校は昭和26年1月25日開校。それまでは市内の小学校まで延々と歩いて通学していました。
中心部にすんでいる児童たちは、御園から通学していた児童を「開拓民」と馬鹿にし、いじめもあったそうです。

開拓も容易くなく「机上による政策」で批判されがちですが、分校ができてからは運動会や娯楽等で賑やかでした。
しかし分校は 昭和43年3月31日閉校。現在、御園の居住者はゼロですが、通作で畑は維持管理されていました。
写真は御園分校の入り口です。この道を上り、右手に校舎がありました。

プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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