羽幌炭砿大同窓会
羽幌炭砿大同窓会(平成27年9月27日参加)
羽幌町築別炭鉱・羽幌砿・上羽幌地区で操業していた羽幌炭鉱。
羽幌炭砿は昭和45年11月2日をもって閉山した。
今年、羽幌炭砿が閉山して45年の節目を迎えることや関係者が高齢化しているため、今回の同窓会が決定した。
この同窓会は縁ある方々だけではなく、一般の方も参加できるとのことですぐに申し込みを行った。
平成27年9月27日(初日)
「はぼろ温泉サンセットプラザ」に掲示されていた案内板。
羽幌炭砿大同窓会会場風景。
はぼろ温泉サンセットプラザにて、シンポジウムが開催された。
シンポジウム内容は、以下の通りである。
コーディネーター 関 秀志(元北海道開拓記念館学芸部長)
基調講演
「鈴木商店の再興の夢をかけた羽幌炭砿」 小林 正幸(双日総合研究所主任研究員)
「羽幌炭砿のあゆみ」 金子直三(羽幌炭砿専務 金子三次郎 孫)
報告
「羽幌炭砿と羽幌町」 駒井 久晃 (羽幌町長)
「炭砿(ヤマ)にいだかれて」 平岩 博幸 (羽幌炭砿出身者)
参加者全員に配布された記念誌「悠久の夢をかけた羽幌炭砿」。
基調講演資料(レジュメ)。
基調講演「鈴木商店の再興の夢をかけた羽幌炭砿」(小林 正幸)をまとめると、次の通りである。
① 羽幌炭砿と鈴木商店の歩み
鈴木商店は明治7年 神戸に誕生した貿易会社で第一次世界大戦中は大手財閥を抜き、日本一の総合商社になったことである。
単に貿易事業だけにとどまらず、80もの事業会社を設立し、立ち上げた事業会社の中には現在も操業をしている有名企業もある。
しかし、昭和2年に鈴木商店は破綻してしまうものの、鈴木家や分離した日商(現 双日)の役員を集め、羽幌炭砿を創業させた。
②鈴木商店と羽幌炭砿とのかかわり
鈴木商店にゆかりある名前は、羽幌炭砿の字名や、建物の名称として今なお刻まれている。
一例として、「太陽小学校」 「辰巳屋旅館」 「辰巳橋」「金子町」が挙げられる。
※鈴木商店の親睦会として「辰巳会」という会が存在した。
基調講演2 「羽幌炭砿のあゆみ」(金子 直三)をまとめると、次の通りである。
① 操業前後の混迷期(昭和14~19年)
・戦時体制に組み込まれていくなかの創業であったので、橋桁ひとつでも規格違いにより不揃いである。
・勤労報国隊や採炭決死隊の入山、朝鮮人・中国人の徴用、24時間連続勤務の敢行である。
② 戦後の混乱期(昭和20~25年)
・敗戦により朝鮮人・中国人労務者の蜂起
・「ドッジ・ライン」により「いろはを忘れたぼろ炭砿」と揶揄されるほど困窮を極めていた。
・昭和25年9月 石炭企業初の無期限ストが発生した。
③ 合理化推進期(昭和26~30年)
・築別炭砿を中心に合理化を推進。
・この頃より、人々の生活にもゆとりが生まれ、本坑会館をはじめ大五ビル(羽幌炭砿本社社屋)が完成する。
④ 躍進期(昭和31~36年)
・昭和31年 町田叡光専務が二代目社長に就任し、より合理化を推進していった。
・昭和32年 高松宮御夫妻のご来山。
・昭和36年 出炭量100万トン越えの達成。
・都会に勝るとも劣らない生活環境が整い、炭鉱住宅街の造成、山神祭、優良乳幼児コンクール等が開催された。
⑤ エネルギー革命と閉山(昭和37~45年)
・羽幌はビルド鉱として生き残りを賭け、更なる合理化を推進。
・羽幌本坑の選炭工場・ホッパー、運搬立坑櫓の完成。
・昭和40年度から4年連続で出炭量100万トン越えの達成。
・労使が「企業ぐるみ閉山制度」を選択し、昭和45年11月2日閉山。
基調講演はここまでで、次が報告である。
「羽幌炭砿と羽幌町」(駒井 久晃羽幌町長)
・羽幌炭砿と羽幌町との関わり合いとして、どれだけ羽幌町に影響を及ぼしていたか歳出入の比較をスライドで説明。
・羽幌町立太陽小学校閉校後の活用として「はぼろ緑の村」の開設。(「はぼろ緑の村」は平成13年閉鎖)
・羽幌町ふるさと納税のPR。
「炭砿(ヤマ)にいだかれて」(平岩 博幸 羽幌炭砿出身者)
・スライドで上映される羽幌炭砿関係のスケッチを紹介しつつ、往時のエピソードを紹介。
会場からは溜息があちこちで漏れていた。
基調講演・報告会終了後、懇親会へと移行した。
懇親会の席上、当初は顔なじみの調査員クラスタ席にいたが、乾杯後に別な席へ移動した。
別な席に移動して、築別炭砿・上羽幌出身者より往時の生活について少し伺った。
築別炭砿出身者の話をまとめると「昭和30年代は景気も良く、町で遊んで帰りはタクシーチケットで帰宅したものだった。今ならば、そこまで出来ない。」と懐かしそうに話してくれた。
また、上羽幌出身者の方からは上羽幌小学校入学式や各種集合写真を拝見させていただくことができた。
「まぁ、一杯飲みなさい」と言われ、ついつい飲みすぎてしまったのはご愛嬌ということで…。
翌日(9月28日)、三山バスツアーは生憎、都合がつかなかったので参加できなかった。
参加した方の話によると、沿岸バス2台で運行したが道中、大雨に見舞われてしまい現地での集合写真を撮ることができなかったそうである。
最後に、羽幌炭砿大同窓会を企画・運営されたスタッフの皆様、大変お疲れ様でした。
また、一緒に参加されたササ(POPLAR)さま LEVEL7Gさま Yさま 板谷恭祐さま くまさん提督さま
北海道石炭鉱業振興会会頭さま 黒ダイヤ五郎さま A.D.1600さま ウィンデーさまに厚く御礼申し上げます。
羽幌町築別炭鉱・羽幌砿・上羽幌地区で操業していた羽幌炭鉱。
羽幌炭砿は昭和45年11月2日をもって閉山した。
今年、羽幌炭砿が閉山して45年の節目を迎えることや関係者が高齢化しているため、今回の同窓会が決定した。
この同窓会は縁ある方々だけではなく、一般の方も参加できるとのことですぐに申し込みを行った。
平成27年9月27日(初日)
「はぼろ温泉サンセットプラザ」に掲示されていた案内板。
羽幌炭砿大同窓会会場風景。
はぼろ温泉サンセットプラザにて、シンポジウムが開催された。
シンポジウム内容は、以下の通りである。
コーディネーター 関 秀志(元北海道開拓記念館学芸部長)
基調講演
「鈴木商店の再興の夢をかけた羽幌炭砿」 小林 正幸(双日総合研究所主任研究員)
「羽幌炭砿のあゆみ」 金子直三(羽幌炭砿専務 金子三次郎 孫)
報告
「羽幌炭砿と羽幌町」 駒井 久晃 (羽幌町長)
「炭砿(ヤマ)にいだかれて」 平岩 博幸 (羽幌炭砿出身者)
参加者全員に配布された記念誌「悠久の夢をかけた羽幌炭砿」。
基調講演資料(レジュメ)。
基調講演「鈴木商店の再興の夢をかけた羽幌炭砿」(小林 正幸)をまとめると、次の通りである。
① 羽幌炭砿と鈴木商店の歩み
鈴木商店は明治7年 神戸に誕生した貿易会社で第一次世界大戦中は大手財閥を抜き、日本一の総合商社になったことである。
単に貿易事業だけにとどまらず、80もの事業会社を設立し、立ち上げた事業会社の中には現在も操業をしている有名企業もある。
しかし、昭和2年に鈴木商店は破綻してしまうものの、鈴木家や分離した日商(現 双日)の役員を集め、羽幌炭砿を創業させた。
②鈴木商店と羽幌炭砿とのかかわり
鈴木商店にゆかりある名前は、羽幌炭砿の字名や、建物の名称として今なお刻まれている。
一例として、「太陽小学校」 「辰巳屋旅館」 「辰巳橋」「金子町」が挙げられる。
※鈴木商店の親睦会として「辰巳会」という会が存在した。
基調講演2 「羽幌炭砿のあゆみ」(金子 直三)をまとめると、次の通りである。
① 操業前後の混迷期(昭和14~19年)
・戦時体制に組み込まれていくなかの創業であったので、橋桁ひとつでも規格違いにより不揃いである。
・勤労報国隊や採炭決死隊の入山、朝鮮人・中国人の徴用、24時間連続勤務の敢行である。
② 戦後の混乱期(昭和20~25年)
・敗戦により朝鮮人・中国人労務者の蜂起
・「ドッジ・ライン」により「いろはを忘れたぼろ炭砿」と揶揄されるほど困窮を極めていた。
・昭和25年9月 石炭企業初の無期限ストが発生した。
③ 合理化推進期(昭和26~30年)
・築別炭砿を中心に合理化を推進。
・この頃より、人々の生活にもゆとりが生まれ、本坑会館をはじめ大五ビル(羽幌炭砿本社社屋)が完成する。
④ 躍進期(昭和31~36年)
・昭和31年 町田叡光専務が二代目社長に就任し、より合理化を推進していった。
・昭和32年 高松宮御夫妻のご来山。
・昭和36年 出炭量100万トン越えの達成。
・都会に勝るとも劣らない生活環境が整い、炭鉱住宅街の造成、山神祭、優良乳幼児コンクール等が開催された。
⑤ エネルギー革命と閉山(昭和37~45年)
・羽幌はビルド鉱として生き残りを賭け、更なる合理化を推進。
・羽幌本坑の選炭工場・ホッパー、運搬立坑櫓の完成。
・昭和40年度から4年連続で出炭量100万トン越えの達成。
・労使が「企業ぐるみ閉山制度」を選択し、昭和45年11月2日閉山。
基調講演はここまでで、次が報告である。
「羽幌炭砿と羽幌町」(駒井 久晃羽幌町長)
・羽幌炭砿と羽幌町との関わり合いとして、どれだけ羽幌町に影響を及ぼしていたか歳出入の比較をスライドで説明。
・羽幌町立太陽小学校閉校後の活用として「はぼろ緑の村」の開設。(「はぼろ緑の村」は平成13年閉鎖)
・羽幌町ふるさと納税のPR。
「炭砿(ヤマ)にいだかれて」(平岩 博幸 羽幌炭砿出身者)
・スライドで上映される羽幌炭砿関係のスケッチを紹介しつつ、往時のエピソードを紹介。
会場からは溜息があちこちで漏れていた。
基調講演・報告会終了後、懇親会へと移行した。
懇親会の席上、当初は顔なじみの調査員クラスタ席にいたが、乾杯後に別な席へ移動した。
別な席に移動して、築別炭砿・上羽幌出身者より往時の生活について少し伺った。
築別炭砿出身者の話をまとめると「昭和30年代は景気も良く、町で遊んで帰りはタクシーチケットで帰宅したものだった。今ならば、そこまで出来ない。」と懐かしそうに話してくれた。
また、上羽幌出身者の方からは上羽幌小学校入学式や各種集合写真を拝見させていただくことができた。
「まぁ、一杯飲みなさい」と言われ、ついつい飲みすぎてしまったのはご愛嬌ということで…。
翌日(9月28日)、三山バスツアーは生憎、都合がつかなかったので参加できなかった。
参加した方の話によると、沿岸バス2台で運行したが道中、大雨に見舞われてしまい現地での集合写真を撮ることができなかったそうである。
最後に、羽幌炭砿大同窓会を企画・運営されたスタッフの皆様、大変お疲れ様でした。
また、一緒に参加されたササ(POPLAR)さま LEVEL7Gさま Yさま 板谷恭祐さま くまさん提督さま
北海道石炭鉱業振興会会頭さま 黒ダイヤ五郎さま A.D.1600さま ウィンデーさまに厚く御礼申し上げます。