中川町板谷
中川町板谷(平成24年7月8日探訪)
板谷は小樽の板谷商船株式会社社長 板谷宮吉が所有していた土地であった。
明治41年 真駒内に所有していた農場を道に譲った際、代償として浜頓別にある農場を無償で払い下げを受けたが土地が足りないことに気づき、不足分として明治44年 安平志内(アベシナイ)の土地 1,325haを追加認定し、払い下げしたことから始まった。
大正2年 板谷農場に最初の小作人として若山茂作、川尻松五郎、渡辺仁太郎、池野友助らで翌大正3年、熊谷清太夫、山本彦市、古田万助、古田金五郎、古田仁太郎が入植した。多くは岐阜県出身であった。
この年に道路開削の話が持ち上がり、小作人の労力により刈り分け道路が出来たが、安平志内川に遮られていたため大正6年、丸木舟で川を渡ることになった。
丸木舟では生活物資を運ぶのに不便であったことから同年、熊谷清太夫が小作人らと相談の上、小樽の本社に願書を提出した。本社は当初、針金の支給を行ったがその後、本格的な支援を行い大正10年に10箇所のつり橋を設けることが出来た。
しかし、つり橋は出来ても道路は相変わらず「刈り分け道路」であった。当時の村会議員 田中篠松・小川勘三郎が代表となり板谷本社や村役場、旭川土木事務所(現 上川総合振興局旭川建設管理部)に要望を出し続けた。6回目の交渉の末、板谷本社より2,000円の寄付金を貰うことが出来た。不足分は村や小作人から計1,000円集め、合計金額3,000円を納金して工事に着手することが出来た。道路が完成したのは昭和2年のことであった。
学校は大正5年、曽根藤蔵区長ほか11名が発起人となり入植者に相談していたが、入植者と意見の食い違いが生じていた。しかし、3間に5間のものを建てることとし板谷本社より15円の寄付金を受け「板谷所有地内であれば立木の伐採をしてもよい」と許可が下りた。
曽根区長が大工の先頭に立って墨付を行い、設計は千葉永治(後の教員)が行い、入植者も人夫として校舎設計に携わり大正6年4月1日 志文内尋常小学校板谷特別教授場として開校した。
昭和4年10月28日 中川村立板谷尋常小学校として独立する。
昭和16年4月1日 中川村立板谷国民学校、昭和18年4月1日 高等科を併置する。
昭和22年4月1日 中川村立板谷小学校と改称する。また、共和中学校板谷分校を併置する。
昭和27年4月1日 共和中学校板谷分校より独立し、小中学校併置校となる。
板谷の主要な産業はハッカであった。中川の市街地より最も遠い場所に位置していたため、搬出しやすい作物がハッカであった。他には小豆等の農作物であった。周囲が国有林であることから農閑期は冬山造材で働いていた。昭和35年には4行政区にもなり、住民も59戸358名の人びとが生活していた。
木材搬出に伴う道路整備、電機の導入や農政の促進を行っても、地理的な不便さや離農者の増加により昭和44年 1行政区にまで縮小され、昭和49年5月末で15戸50名にまで減少した。
そして、この年の10月28日付で板谷小中学校は廃校になった。
板谷の閉校日が「10月28日付」ということだが、中川町教育委員会の見解によれば「学校設置条例」で板谷は「昭和49年12月31日付で廃止」と議事録に記されているが、現実問題として市街地から離れていたことから年末を避け、秋に行ったのではないか、という回答をいただいた。ただ、これはあくまで「推測」の域なので断定は出来ないが可能性として、十分考えられる。
板谷について、中川町佐久在住の阿部ヨネコ氏はこう語る。
「私は板谷小学校の位置より、まだ奥(4キロ先)に住んでいた。 40年位前に、佐久へ移住してきた。子供を背負いながら5時間かけて佐久へ行ったこともあった。板谷はハッカの栽培が盛んだった…」
学校が閉校する直前、町の大規模草地の計画区域に板谷が含まれ、乳牛の育成も試みたが、やはり地理的な不便さや山間部なのでムシが発生し、乳牛も思うように育成することが出来なかったため、短命に終わってしまった。
これは佐久で旅館業を営む藤田氏も、同様に証言していた。
戦前は駅逓もあり、学校の傍には神社も建立されていた。
しかし、地理的な不便さや離農による人口流出には勝てず、昭和57年8月に無人集落となってしまった。板谷もまた、へき地等級 5級の集落であった。
板谷小中学校の校門。
現在、道路が通っているところに校舎があった。
校門前には旧道が辛うじて残されていた。
校舎のあった位置より校門を望む。
校舎のあった位置より奥に「板谷小中学校跡地」の標柱が残されていた。
標柱の後ろには旧校門と思われる石が倒れていた。
これで標柱を支えているようにも思えた。
校舎位置より共和側の風景。
矢印の位置に駅逓があった。
学校の傍にあった板谷神社。
昭和12年4月24日に建築落成した。
9月4日のお祭りには角力(相撲)大会や柔剣術が行われた。
神社の階段跡を見下ろしてみる。
すっかり笹藪に覆われていた。
どこに拝殿があったのだろうか?
面影は神社の「ご神木」のみであった。
学校より奥の風景。
最盛期は4区にまで分れていたのも、遠い昔の話になってしまった。
板谷は小樽の板谷商船株式会社社長 板谷宮吉が所有していた土地であった。
明治41年 真駒内に所有していた農場を道に譲った際、代償として浜頓別にある農場を無償で払い下げを受けたが土地が足りないことに気づき、不足分として明治44年 安平志内(アベシナイ)の土地 1,325haを追加認定し、払い下げしたことから始まった。
大正2年 板谷農場に最初の小作人として若山茂作、川尻松五郎、渡辺仁太郎、池野友助らで翌大正3年、熊谷清太夫、山本彦市、古田万助、古田金五郎、古田仁太郎が入植した。多くは岐阜県出身であった。
この年に道路開削の話が持ち上がり、小作人の労力により刈り分け道路が出来たが、安平志内川に遮られていたため大正6年、丸木舟で川を渡ることになった。
丸木舟では生活物資を運ぶのに不便であったことから同年、熊谷清太夫が小作人らと相談の上、小樽の本社に願書を提出した。本社は当初、針金の支給を行ったがその後、本格的な支援を行い大正10年に10箇所のつり橋を設けることが出来た。
しかし、つり橋は出来ても道路は相変わらず「刈り分け道路」であった。当時の村会議員 田中篠松・小川勘三郎が代表となり板谷本社や村役場、旭川土木事務所(現 上川総合振興局旭川建設管理部)に要望を出し続けた。6回目の交渉の末、板谷本社より2,000円の寄付金を貰うことが出来た。不足分は村や小作人から計1,000円集め、合計金額3,000円を納金して工事に着手することが出来た。道路が完成したのは昭和2年のことであった。
学校は大正5年、曽根藤蔵区長ほか11名が発起人となり入植者に相談していたが、入植者と意見の食い違いが生じていた。しかし、3間に5間のものを建てることとし板谷本社より15円の寄付金を受け「板谷所有地内であれば立木の伐採をしてもよい」と許可が下りた。
曽根区長が大工の先頭に立って墨付を行い、設計は千葉永治(後の教員)が行い、入植者も人夫として校舎設計に携わり大正6年4月1日 志文内尋常小学校板谷特別教授場として開校した。
昭和4年10月28日 中川村立板谷尋常小学校として独立する。
昭和16年4月1日 中川村立板谷国民学校、昭和18年4月1日 高等科を併置する。
昭和22年4月1日 中川村立板谷小学校と改称する。また、共和中学校板谷分校を併置する。
昭和27年4月1日 共和中学校板谷分校より独立し、小中学校併置校となる。
板谷の主要な産業はハッカであった。中川の市街地より最も遠い場所に位置していたため、搬出しやすい作物がハッカであった。他には小豆等の農作物であった。周囲が国有林であることから農閑期は冬山造材で働いていた。昭和35年には4行政区にもなり、住民も59戸358名の人びとが生活していた。
木材搬出に伴う道路整備、電機の導入や農政の促進を行っても、地理的な不便さや離農者の増加により昭和44年 1行政区にまで縮小され、昭和49年5月末で15戸50名にまで減少した。
そして、この年の10月28日付で板谷小中学校は廃校になった。
板谷の閉校日が「10月28日付」ということだが、中川町教育委員会の見解によれば「学校設置条例」で板谷は「昭和49年12月31日付で廃止」と議事録に記されているが、現実問題として市街地から離れていたことから年末を避け、秋に行ったのではないか、という回答をいただいた。ただ、これはあくまで「推測」の域なので断定は出来ないが可能性として、十分考えられる。
板谷について、中川町佐久在住の阿部ヨネコ氏はこう語る。
「私は板谷小学校の位置より、まだ奥(4キロ先)に住んでいた。 40年位前に、佐久へ移住してきた。子供を背負いながら5時間かけて佐久へ行ったこともあった。板谷はハッカの栽培が盛んだった…」
学校が閉校する直前、町の大規模草地の計画区域に板谷が含まれ、乳牛の育成も試みたが、やはり地理的な不便さや山間部なのでムシが発生し、乳牛も思うように育成することが出来なかったため、短命に終わってしまった。
これは佐久で旅館業を営む藤田氏も、同様に証言していた。
戦前は駅逓もあり、学校の傍には神社も建立されていた。
しかし、地理的な不便さや離農による人口流出には勝てず、昭和57年8月に無人集落となってしまった。板谷もまた、へき地等級 5級の集落であった。
板谷小中学校の校門。
現在、道路が通っているところに校舎があった。
校門前には旧道が辛うじて残されていた。
校舎のあった位置より校門を望む。
校舎のあった位置より奥に「板谷小中学校跡地」の標柱が残されていた。
標柱の後ろには旧校門と思われる石が倒れていた。
これで標柱を支えているようにも思えた。
校舎位置より共和側の風景。
矢印の位置に駅逓があった。
学校の傍にあった板谷神社。
昭和12年4月24日に建築落成した。
9月4日のお祭りには角力(相撲)大会や柔剣術が行われた。
神社の階段跡を見下ろしてみる。
すっかり笹藪に覆われていた。
どこに拝殿があったのだろうか?
面影は神社の「ご神木」のみであった。
学校より奥の風景。
最盛期は4区にまで分れていたのも、遠い昔の話になってしまった。
中川町大和
中川町大和(平成24年7月8日探訪)
大和は元々「ワッカウエンベツ」(飲水の悪い川、の意)と呼ばれていた。
大正3年、江川惣之助が117町歩払い下げを受けたことに始まった。大正5年5月21日 奈良県十津川村出身の泉谷政一が江川と契約を交わし、弟とともに江川農場に入植した。
大正7年、片岡久四郎、沢田熊一郎、田上清七、未森宗一の4名名義で江川農場を買い受け、片岡農場と呼ばれた。
しかし、この年の9月に検査官が現れ、20町歩程度しか草刈りができていなかったため売り払いの取り消しを受けてしまう。取り消しを受けた片岡らは関係機関に運動を働き、大正8年7月に片岡と角谷芳造の名義で払い下げを受け、泉谷に一切の管理を一任して5ヵ年で開墾することとなった。
大正10年に道路が開削されたが、ワッカウエンベツ川が蛇行し山すそも迫っていた。一直線上にならず、なかなか辿りつけないことから後の集団転出になる原因にもなった。
昭和時代に入ると、道の拓殖計画により許可移住民が昭和4年に30戸入植し、泉谷は活動写真の弁士の経験もあったことから昭和5年頃に故郷 奈良県十津川村で大和を宣伝し、数十戸を移住させた。
入植者が増えた頃より学校設置の問題が浮上し、昭和5年3月に上棟式を行い、同年5月21日「志文内尋常高等小学校所属稚右遠別特別教授場」として開校した。
昭和11年11月20日に「幸(サイワイ)尋常小学校」と校名を変更、昭和16年4月1日 幸国民学校と経て昭和22年 幸小学校となった。
この年、共和中学校幸分校を設置し、昭和27年 幸中学校として併置、独立した。
大和の主要産業はハッカ栽培であった。それは当時、中川村の主要産業の一つでもあった。
しかし、ワッカウエンベツ川の狭い流域に開けた集落であるため、度々地滑りを起こし交通不能となっていた。
そして、昭和37年の長雨と台風の被害が決定的となり、全戸離農することになった。ジャガイモや小豆は全滅、トウモロコシや大豆も二分作、飼料作物のエン麦は三分作、デントコーン、青刈り飼料が半作であった。ビート、ハッカは六分から七分作であったのがせめてもの救いであった。
ハッカは全滅しなかったものの台風の被害で交通が寸断され、道路復旧にも莫大な費用がかかることから話し合いを重ねた結果、「災害激甚農家移転対策実施要領」に基づいて全戸離農になった。
この探訪の直前、中川町佐久にて旅館業を営む藤田氏より大和の集落について伺ってみた。聞き取り結果を抜粋し、以下に記す。
「大和への道は狭く、馬が1頭通れるかと言う程度でササが生い茂り、熊も出没していたので一斗缶を鳴らしながら進んだ。幸小学校の児童(小6)がある時「熊が出た」と聞いた途端、親父の鉄砲を持ち出して熊を仕留めた。」
「大和には2つの橋がある。一つは共和のすぐ奥にある、集落入口の橋だがもう一つは集落へ行く途中にある。元々は橋もなく、夏場、水位が低下したときに住民が渡って共和や佐久へ行った。やがて、つり橋から一般の橋に変わるが、台風で流され、住民がいなくなってからは久しく放置された。」
「大和はハッカ栽培が盛んだったが、畑を作れる様な広大な土地ではなく、狭い土地や斜面に栽培していた。学校、寺院、駅逓もあったが住民は皆、貧しかった。 知り合いがあるとき、借金の督促に行くと「これで勘弁してくれ」と言って大きなアンモナイトの化石を貰った、と言う話も聞いた。 大和は化石がたくさん出るところなので、当時、幸小学校に勤務していた先生が授業そっちのけで子供たちと化石採りをしていた。」
昭和38年3月7日 大和集落の解散式とともに幸小中学校の卒業式と廃校式が行われ、同年3月31日付で廃校になった。へき地5級の「陸の孤島」だった。
大和の集落入口。ここからずっと山奥へ進む。
まだまだ進む。
道は整備され、思っていたほど悪くなかった。
道なりにずっと進むと数本の大きな松の木があった。
学校の防風林と思われる。
そして、ここに学校があったのだ。
グラウンド跡と思われるが、既に植林されていた。
目印の大きな松の木。
学校があったことを教えてくれた唯一の証人でもある。
そして、学校の目の前には神社もあった。
これは神社の石畳である。
神社の拝殿跡より石畳を見下ろしてみる。
ササに埋もれかけていた。
神社の拝殿も自然に還ってしまっていた。
学校跡地より奥の風景。
この奥にも人家があり、戦前は駅逓も設けられていた。
しかし今は、草木が生い茂り集落の面影は無くなっていた。
大和は元々「ワッカウエンベツ」(飲水の悪い川、の意)と呼ばれていた。
大正3年、江川惣之助が117町歩払い下げを受けたことに始まった。大正5年5月21日 奈良県十津川村出身の泉谷政一が江川と契約を交わし、弟とともに江川農場に入植した。
大正7年、片岡久四郎、沢田熊一郎、田上清七、未森宗一の4名名義で江川農場を買い受け、片岡農場と呼ばれた。
しかし、この年の9月に検査官が現れ、20町歩程度しか草刈りができていなかったため売り払いの取り消しを受けてしまう。取り消しを受けた片岡らは関係機関に運動を働き、大正8年7月に片岡と角谷芳造の名義で払い下げを受け、泉谷に一切の管理を一任して5ヵ年で開墾することとなった。
大正10年に道路が開削されたが、ワッカウエンベツ川が蛇行し山すそも迫っていた。一直線上にならず、なかなか辿りつけないことから後の集団転出になる原因にもなった。
昭和時代に入ると、道の拓殖計画により許可移住民が昭和4年に30戸入植し、泉谷は活動写真の弁士の経験もあったことから昭和5年頃に故郷 奈良県十津川村で大和を宣伝し、数十戸を移住させた。
入植者が増えた頃より学校設置の問題が浮上し、昭和5年3月に上棟式を行い、同年5月21日「志文内尋常高等小学校所属稚右遠別特別教授場」として開校した。
昭和11年11月20日に「幸(サイワイ)尋常小学校」と校名を変更、昭和16年4月1日 幸国民学校と経て昭和22年 幸小学校となった。
この年、共和中学校幸分校を設置し、昭和27年 幸中学校として併置、独立した。
大和の主要産業はハッカ栽培であった。それは当時、中川村の主要産業の一つでもあった。
しかし、ワッカウエンベツ川の狭い流域に開けた集落であるため、度々地滑りを起こし交通不能となっていた。
そして、昭和37年の長雨と台風の被害が決定的となり、全戸離農することになった。ジャガイモや小豆は全滅、トウモロコシや大豆も二分作、飼料作物のエン麦は三分作、デントコーン、青刈り飼料が半作であった。ビート、ハッカは六分から七分作であったのがせめてもの救いであった。
ハッカは全滅しなかったものの台風の被害で交通が寸断され、道路復旧にも莫大な費用がかかることから話し合いを重ねた結果、「災害激甚農家移転対策実施要領」に基づいて全戸離農になった。
この探訪の直前、中川町佐久にて旅館業を営む藤田氏より大和の集落について伺ってみた。聞き取り結果を抜粋し、以下に記す。
「大和への道は狭く、馬が1頭通れるかと言う程度でササが生い茂り、熊も出没していたので一斗缶を鳴らしながら進んだ。幸小学校の児童(小6)がある時「熊が出た」と聞いた途端、親父の鉄砲を持ち出して熊を仕留めた。」
「大和には2つの橋がある。一つは共和のすぐ奥にある、集落入口の橋だがもう一つは集落へ行く途中にある。元々は橋もなく、夏場、水位が低下したときに住民が渡って共和や佐久へ行った。やがて、つり橋から一般の橋に変わるが、台風で流され、住民がいなくなってからは久しく放置された。」
「大和はハッカ栽培が盛んだったが、畑を作れる様な広大な土地ではなく、狭い土地や斜面に栽培していた。学校、寺院、駅逓もあったが住民は皆、貧しかった。 知り合いがあるとき、借金の督促に行くと「これで勘弁してくれ」と言って大きなアンモナイトの化石を貰った、と言う話も聞いた。 大和は化石がたくさん出るところなので、当時、幸小学校に勤務していた先生が授業そっちのけで子供たちと化石採りをしていた。」
昭和38年3月7日 大和集落の解散式とともに幸小中学校の卒業式と廃校式が行われ、同年3月31日付で廃校になった。へき地5級の「陸の孤島」だった。
大和の集落入口。ここからずっと山奥へ進む。
まだまだ進む。
道は整備され、思っていたほど悪くなかった。
道なりにずっと進むと数本の大きな松の木があった。
学校の防風林と思われる。
そして、ここに学校があったのだ。
グラウンド跡と思われるが、既に植林されていた。
目印の大きな松の木。
学校があったことを教えてくれた唯一の証人でもある。
そして、学校の目の前には神社もあった。
これは神社の石畳である。
神社の拝殿跡より石畳を見下ろしてみる。
ササに埋もれかけていた。
神社の拝殿も自然に還ってしまっていた。
学校跡地より奥の風景。
この奥にも人家があり、戦前は駅逓も設けられていた。
しかし今は、草木が生い茂り集落の面影は無くなっていた。