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和寒町東陵の風景

和寒町東陵

へき地等級 3級の廃村である。
既存のレポートは、以下のアドレスに記されている。
http://knaruse.blog94.fc2.com/blog-entry-9.html

今回は、東陵小学校周辺の風景を紹介する。
時期は平成24年8月29日、及び同年11月27日に探訪したときのものである。

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学校跡地に建立されたメモリアル・サイン。
思っていたよりも、しっかりしていて驚いた。

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裏面には校舎の沿革が記されている。
尚、後ろのバスは私が乗車した町営バス「東和線」である。

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笹藪に埋もれているバス停。
しかし、これでも運転手さんに云えば運行してくれる。
但し、冬季間は除雪が入らないため、東和の「橋本前」バス停留所までの運行である。

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冬に行ったときは、しっかりと冬囲いが施されていた。

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笹藪で隠れていたバス停も、はっきりと判る。
尚、学校があったころ、このバス停付近に教員住宅があった。

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東陵小学校跡地に残る、体育館の基礎。

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基礎の横は湿地帯となっているが、ここに校舎があった。

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学校脇の道は廃道と化している。
この奥に、ニジマス養殖場もあった。

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学校前の風景。東和方面を望む。

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さながら、クリスマスツリーの様相のマツの木。

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手前の倉庫は、今年の豪雪により倒壊した。

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学校手前の「東和二股」周辺。
この廃道の先に、開拓農家の家(廃屋)が今も残っている。

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取り敢えず進む。
田畑は既に、荒地に戻っている。

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途中、振り返った風景。

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辛うじて「道」だと判る。
しかし、膝まで雪に埋まりながら進むので辛くなってきた。

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開拓農家の家が見えた。
ここはHEYANEKO氏の「廃村と過疎の風景 第6集 集落の記憶」に登場する家である。

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冬場と夏場、どちらも辛いが個人的には夏場の方が、まだ行きやすい。

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当時、通学していた和寒高校の校訓が掲げられていた。

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2階からの眺め。

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冬は雪が舞い込んでいた。

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そろそろ外に出よう。

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この家屋の奥にも人々の営みがあった。
「この奥にも開拓農家が住まわれていたのか」と驚いた。
この時は深い笹藪、流水により断念せざるを得なかった。

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その奥地も、体力と相談しながら行ってみた。

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ふと見ると、木々に隠れるようにして大きなマツの木があった。
恐らく、開拓農家が植えたマツの木だろう。

ここは山に囲まれた沢沿いである。
平地は猫の額ほどしかない。

戦後、食糧増産のために緊急で開拓された。
満足な道具もあるわけではなく、それでも木を切り倒し、ササを刈り払い、土壌を改良。
すべてがゼロからの出発だった。

それが自然に帰り、忘却の彼方となってしまっている。

この風景を見て、何ともいえぬ気持ちになった。

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東和の「橋本前」バス停から東陵方面を望む。

来年も北海道内の限界集落・無人集落を訪ね歩き、聞き取りを記録して発信していきたいものである。

芦別市滝里

芦別市滝里(平成24年11月11日探訪)

滝里の開拓は、明治36年の入植が始まりであった。
翌、明治37年になると戸数とともに就学児童も増加したが、約9キロ離れた野花南簡易教育所(現 野花南小学校)まで歩いていかねばならず、この間の道路は断崖絶壁の間を伝っていくしかなかった。
このような状態では教育上問題があるとして、集落の有志は教育施設の設置運動を起こした。
当時、三井木材は滝里の木材資源の開発を計画し鉄道枕木、建築材の伐採を開始していたがこれに併せて、集落の一同より枕木一挺につき5銭ずつ拠出し、教育所の建築資金にした。
建築場所は開拓が進んでいた集落の中心地 滝の上3線が選ばれ明治38年5月 滝の上簡易教育所が竣工し、同年7月 委嘱で昆 甚吉が教員となり明治39年11月 空知川滝の上簡易教育所として正式に認可された。

大正2年 根室本線鉄道が開通し、大正4年4月奔茂尻(ポンモシリ)尋常小学校となった。

昭和14年 それまでの奔茂尻より、現在の地名である滝里になった、

昭和16年 滝里国民学校と改称し、昭和18年には高等科が設置された。

昭和22年 滝里小学校となり、併せて中学校が併置された。

昭和23年6月 芦別町滝里と富良野町の境界にあった富良野町泉(現 富良野市島の下の一部)地区に滝里小学校泉分校が開校した。

ここは両市の境目にあり、隣人の交流や農業経営、市役所の遠隔等不便で一時、大正10年より昭和7年頃まで奔茂尻尋常小学校に列車で通学していた。危険や不便も伴っていたため、富良野町の理事に懇願し、島の下国民学校に通学していた。

分校は生徒数12名で1年生から4年生まで受け持っていたが、芦別町の方針変更により昭和26年8月26日を以て廃校となった。以後は、島の下小学校(大正5年5月1日開校・昭和56年3月31日閉校)へと通学することとなった。
 
滝里は空知川の洪水が切っ掛けとなり、ダム建設に伴い廃村になった。

昭和37年 空知川の水害が発生し、国道とを結んでいた滝里大橋が流され、孤立した。即刻、復旧工事が始まり昭和38年 滝里永久橋(滝里大橋)が落成した。

昭和47年頃より北海道開発局石狩川開発建設部が、極秘にダム建設の予備調査をすすめ、昭和50年7月8日 開発局は芦別市に対し「治水対策及び生活環境整備」を図る目的として予備調査した結果、滝里町がダム建設可能適地である旨の報告を行い、建設計画が表面化した。

滝里町は動揺が走った。

住み慣れた父祖の地を去ること、移転後の生業の不安もあったが、それ以上に極秘に調査していた国(自治省・北海道開発局)に対し不安・不信感が渦巻いていた。すぐに滝里ダム建設反対協議会を設立し、反対運動を展開した。

滝里町は「ダム建設反対」の立場であったが、当時、過疎や農業後継者の不在問題も持っており、開発局の従来のすすめ方に対し不信感、将来の不安感も交錯していたので、これらが解消されれば話し合いに応じる姿勢を持っていた。

昭和53年より現地説明会、生活再建対策や補償問題が度々行なわれていたが、開発局のダム関係予算の減額により、交渉は長期化した。

昭和58年12月20日 芦別市は国(開発局)と北海道に対し「誠意ある総合施策」の提言を求めた。施策が明示されない限り、滝里ダム連絡協議会及び滝里ダム現地連絡協議会には参加しない、と強い姿勢で回答を要求した。
国と道は調整を急ぎ、翌59年1月23日に回答を行なった。

だが、芦別市は「本市・水没関係者に対する対策が不十分であり、特に北海道の基本姿勢には積極性・具体性が乏しいと判断されます」と指摘。再び強い口調で道に対し「積極的な解決に向けて努力」を要求した。
同年9月14日 建設省から滝里ダム計画が発表され、60年度から本工事が実施されることとなったが、併せて補償交渉が本格的に始まった。

昭和60年6月17日より11月26日まで延べ13回にわたり交渉が繰り広げられ、12月9日に「石狩川水系滝里ダム建設事業に伴う損失補償基準(案)」が示され、滝里ダム対策協議会では12月15日の総会で決定し、12月20日に合意書の作成が行なわれた。そして翌61年1月13日「損失補償基準調印式」が行なわれ、補償交渉は幕を閉じた。
調印式後、個別の補償交渉が進められ、昭和61年8月頃までにはほぼ完了した。

昭和61年7月28日 滝里小学校の閉校式が行なわれた。
本来であれば昭和62年3月末であったが、これだと当時、在籍していた7人の児童のうち6人が既に去っているため「多くの児童が残っている一学期末に」という父兄の要望であった。卒業生総数 1,204人であった。
また、閉町式(解散式)は8月30日 滝里小学校体育館で行なわれ、滝里町82年の歴史に幕を下ろした。

今回のレポートに先立ち、廃校探訪仲間であり滝里に縁のあるA.D.1600氏に伺った。以下、滝里にまつわるエピソードを紹介する。

「…昭和60年から昭和62年の閉校まで祖父が校長として赴任していた。閉校当時は学校、駅舎(滝里駅)、1・2軒の家屋があるだけで、あとは更地になっていた。」

「平成9~10年頃、祖父母と共に滝里を再訪した時は駅舎のみ残っていた。学校や家屋は既に無かった。駅内部には当時『北の国から』のロケで有名になったため、観光客が書いた落書きもあったが、滝里出身者が感謝や惜別の思いを綴ったものもあった。片隅には埃を被った食器があった…」

最後に、次の質問をした。

『もし、ダム建設が無ければ滝里は現在、どのような状態になっていたと思いますか?』と伺った。

A.D.1600氏はこう云った。
『もし、ダム建設が無ければ学校は廃校になっていたとしても、集落は存続していたかもしれない。』

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スタート地点である島の下駅。
ここから約8キロ歩いたところに滝里がある。

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島の下駅から歩いて間もなく、滝里小学校泉分校の跡地がある。

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笹藪を掻き分けると閉校後、町内会館として使われていた名残の灯油タンクが残されていた。

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分校跡地の遠景。
矢印はイチイ(オンコ)の木だが、これが分校の目印である。
町内会館として活用されていたときに植樹されたものだろうか?

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さて、引き続き徒歩で歩く。
滝里はまだまだ先である。

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芦別市に入った。

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滝里大橋。
「滝里」の名前が初めて出てきた。

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目の前にはゴルフ場がある。
しかし、その先には水没した滝里がある。

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歩いていると、左手に旧道が見えた。

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旧道は立入禁止である。
しかし、ちょっと行ってみた。

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旧道を降りた風景。

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荒地となった田畑跡地はシラカバ林となっていた。

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シラカバ林の中には大量の石があった。
石垣の跡だろうか?

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家の庭に植えられていたマツの木が、ここに集落があったことを偲ばせてくれる。
そのマツも、シラカバに背丈を越され、必死に誇示しているかのように思えた。

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旧道を戻り、再び徒歩で横断。
右手には滝里墓地が今もある。

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あと2キロ。もう少し歩く。

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「思い出橋」
この名前を見たとき、ゴールが近くなったと思う反面何ともいえぬ気持ちになった。

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「望郷橋」
橋の名前を見てただ、言葉に詰まった。

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集落の中心部跡。
ダムの管理事務所に行けば滝里の資料が多数、展示されている。

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ダムを見下ろすようにして、校門や神社が移設されている。
A.D.1600氏の話によれば「ダム建設前は当時、山林で市街地は石狩川の向こう側にあった」とのことである。

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正面の2本のマツは、高台移転時に記念植樹されたものである。

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芦別滝里会が設置した案内板。

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滝里神社。
かつては毎年4月15日と9月15日、春秋の祭典が盛大に行われていた。

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忠魂碑。
在郷軍人会や青年団の力により、戦没者の英霊を祀るために建立された。

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戸隠神社。
この神社は「雨乞いの神社」として8月15日に祭典が行われていた。

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水没した滝里地区に当時、住まわれていた方々の名前が刻まれている。

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そして、滝里小中学校の校門。

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左手は「滝里小中学校」とある。

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右手には滝里の前の名前である「奔茂尻」となっていた。


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滝里小中学校の歴代校長の名が刻まれた記念碑。
これは平成16年に建立された。
校章は雪の結晶に「瀧」の文字が入っている。

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こちらは水天宮を祀った石碑である。
市史を見たが、詳しく書かれていなかった。

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滝里大橋が架けられた際に建立された「架橋記念」碑。
恐らく、初代のものだろう。建立年は昭和八年と刻まれていた。

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滝里にあったバス待合所。
しかし実際は、カメムシの巣窟と化していた。

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滝里の開拓からダム水没までを記した記念碑。
こちらをご覧になったほうが、集落の概要はコンパクトにまとめられていて分り易い。

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望郷之碑。
裏面には次のように刻まれていた。

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『空知川 せき止むほどに滝里の 八十年をいま ふり返りつゝ」

「発展」の名の下、犠牲になるダム建設。
失われたものが、日本国内にどれだけあるのだろうか。

ありがとう tomatoさま

当ブログと相互リンクさせていただいています「あの頃の夕張を求めて」の管理人 tomatoさまが逝去されました。
本日、告別式が営まれましたが有休を取得し、参列してきました。


tomatoさまとは昨年12月頃より「学舎の風景」での交流が切っ掛けで知り合うようになりました。
夕張の歴史について、深く掘り下げていたのをみて手持ちの古い写真や新聞記事の資料をお送りしたり、或いは掲示板に、今は無き清陵小学校の体育館や、大夕張地区に最後まで残っていた高橋電気店の建物を投稿したものでした。
また、こちらのブログの記事に対しても、コメントを多数寄せていただきました。

今年の3月、夕張の写真集とともに手紙が同封され「老後は夕張で暮らすのが子供の頃からの夢です…」としたためられていました。

体調を崩される前まで夕張を気にかけ、週に一度は夕張に出かけていたこと。
廃校となった小学校に記念碑建立を呼びかけ、寄付を募ったこと。

お会いできぬまま逝ってしまい、残念でなりません。
夕張の歴史について色々とお伺いし、あわよくば廃校探訪でご一緒したかったです。

どうぞ安らかに、そして夕張を見守り続けてください。
やり残したことは私たちが少しずつ調べて行きます。

                              成瀬 健太
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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