下川町珊瑠
下川町珊瑠(平成26年3月12日探訪・学校跡地探訪未遂)
珊瑠は明治39年 岐阜県出身である林 杉太郎、前田助兵衛、山本房吉、三島孫三郎らが入地したことに始まった。
子供たちは当時、上名寄簡易教育所(後の下川町立上名寄小学校)に通学していたが遠距離であった為、組長 前田助兵衛 伍長 林 杉太郎、市村大助、山本房吉らが主唱した。
明治41年2月17日 珊瑠七線 上ヶ島弥於吉の茅屋を借りて、授業が始まった。
同年6月 珊瑠簡易教育所と改称。
明治43年10月 珊瑠八線御料地四十九番地に校舎を移転する。
大正6年4月 名寄町立珊瑠尋常小学校と改称。
大正11年8月23日 台風により校舎が倒壊。
同年10月 九線高台下に移転。
大正13年1月 分村により下川村立珊瑠尋常小学校と改称。
昭和6年8月 九線高台より、現在地である十二線に移転する。
昭和16年4月 珊瑠国民学校と改称。
昭和22年4月 珊瑠小学校と改称。併せて下川中学校珊瑠分教室を併置。
昭和27年4月 中学校が独立し、小中併置校となった。
珊瑠は、鉱山と農業で栄えた集落であった。
大正6年 寺島庄太郎が転石を発見するも、その後別人により露頭の発見もあった。
鉱区の出願や試掘もされたが、資本金が少なかったことから大正15年 斎藤ヤエから三井鉱山へ渡った。
この時、買収と同時に直属と成り「珊瑠出張所」と命名された。
昭和8年 諸般の設備が整い、三井珊瑠鉱業所と改称。
鉱業所の子弟は珊瑠小学校に通学していたが、学校から4キロ離れていることや、冬期間の積雪量により通学が困難であったことから同年12月 「珊瑠第二尋常小学校」が設立された。
昭和15年頃 鉱山周辺は300戸の職員住宅や鉱員住宅が建ち並んでいた。
一方、既存の農村のほうも珊瑠木工場や澱粉工場、国有林事業の隆盛もあり120戸 700名を数えていた。
この頃、珊瑠尋常小学校に通学していたある方は、こう回想する。
「…学校の傍には杉野さんと云う澱粉工場があった。あの頃は珊瑠第一も、学校周辺の珊瑠第二もたくさんの人が暮らしていた…。」
昭和16年の「国民学校」改正に伴い、珊瑠第二国民学校と改まったが昭和17年4月時点で、尋常科4学級 225名 高等科1学級 42名の子弟が通学していた。
しかし、鉱山は大東亜戦争の最中である昭和18年7月 戦争遂行のため帝国鉱発株式会社の手に渡り、不急産業として閉山した。
閉山と同時に、珊瑠第二国民学校も閉校となった。
戦後、鉱山は昭和25年 磯部鉱業株式会社の手に渡り再開した。
昭和40年 会社の合併により合同資源産業株式会社磯部珊瑠鉱業所と変更する。
昭和43年11月 珊瑠小中学校開校60周年記念式が挙行された。
この年の珊瑠の人口は 珊瑠第一 21世帯 107人 珊瑠第二 43世帯 165人であった。
だが、鉱山の縮小や離農による過疎化に見舞われた。
昭和47年3月末をもって下川小学校・下川中学校と統合され、閉校になった。
過疎化はその後も続き、昭和52年度の珊瑠地区の人口は 17世帯 54名にまで激減していった。
珊瑠鉱山は資源の枯渇や、金の相場が悪くなったことから昭和62年を以て休山となった。
学校も閉校となり金山も閉山となった珊瑠だが、ダム建設の話が浮上する。
元々は昭和41年に策定された「天塩川水系工事実施基本計画」に基づき、昭和43年度から予備調査がなされていたが、紆余曲折もあって予算は毎年見送られていた。
昭和62年12月 当時の原田町長・平町議会議長・政所同副議長が上京し、陳情を行なった。
その結果、年末になって「サンルダム実施計画の調査費がついた」と連絡が入った。
平成4年12月21日 新年度予算の大蔵省原案が内示され、サンルダムの建設が正式に決定した。
翌 平成5年からサンルダム建設が始まった。
平成10年4月 損失補償基準妥結調印が行なわれる。
平成11年3月 ダム水没に伴い全戸が移転し、行政区も廃止になったと同時に無住地となった。
平成21年10月 民主党政権交代により「サンルダム」の工事凍結が発表された。
名寄新聞 平成21年10月17日付の記事に「工事凍結で大きな波紋 サンルダム建設事業・名寄の給水統合計画に暗雲」と見出しがつき、ダム建設を見越した風連地区と陸上自衛隊名寄駐屯地との給水統合を計画していたので中止となった場合の影響は大きい、と紹介されている。
工事凍結の発表から3年経った平成24年10月31日 道道下川雄武線 珊瑠の付け替え道路が全線開通した。
既存の道道は旧道になったと同時に、ダム事業用地のためダム建設事業所で管理し、立ち入り禁止となった。
同年11月12日 国土交通大臣の方針により、サンルダムの建設事業を継続を決定した。
名寄新聞 平成24年11月14日付の記事に「国が事業継続を決定 サンルダム・下川町長や住民から喜びの声」とある。
ダム建設が再開されたため、現在もダム建設は進行中である。
ダム建設で話題になっている珊瑠。
学校はこの先に位置している。
ダム建設に伴い、付け替えられた道道下川雄武線。
真下には旧道と化した道道と、水没する珊瑠第一の集落跡が広がっている。
かつての畑はシラカバ林と化した珊瑠第一より、学校跡方面を望む。
正面に見えるのがサンル牧場である。
サンル牧場は昭和53年度より草地造成が始まり、昭和56年6月より入牧が始まった。
そのまま進むと「珊瑠十二線」というT字路の交差点が出てくる。
雄武側よりT字路方面を望む。
反対に、雄武方面を望む。
周辺は人家マークが点在しているが、すべて無人となっている。
珊瑠十二線付近。
探訪当初、ここが学校跡地だと思っていた。
しかし、実際はここよりもう少し【手前】に位置していた。
跡地を見誤り、学校跡地は「探訪未遂」で終わってしまった。
ここの跡地は「サンル木工場」の跡地である。
珊瑠第一の付け替え道路より珊瑠第一の集落跡を望む。
金山と農業で栄えた集落は、ダムに水没しようとしていた。
後日、旭川開発建設部サンルダム建設事業所に電話で伺うと「ダム完成時、学校跡地(珊瑠十二線)周辺は余程の大雨が降らない限りは水に漬からないと思う」と回答を得ることが出来た。
尚、ダムは平成29年 完成予定とのことである。
珊瑠は明治39年 岐阜県出身である林 杉太郎、前田助兵衛、山本房吉、三島孫三郎らが入地したことに始まった。
子供たちは当時、上名寄簡易教育所(後の下川町立上名寄小学校)に通学していたが遠距離であった為、組長 前田助兵衛 伍長 林 杉太郎、市村大助、山本房吉らが主唱した。
明治41年2月17日 珊瑠七線 上ヶ島弥於吉の茅屋を借りて、授業が始まった。
同年6月 珊瑠簡易教育所と改称。
明治43年10月 珊瑠八線御料地四十九番地に校舎を移転する。
大正6年4月 名寄町立珊瑠尋常小学校と改称。
大正11年8月23日 台風により校舎が倒壊。
同年10月 九線高台下に移転。
大正13年1月 分村により下川村立珊瑠尋常小学校と改称。
昭和6年8月 九線高台より、現在地である十二線に移転する。
昭和16年4月 珊瑠国民学校と改称。
昭和22年4月 珊瑠小学校と改称。併せて下川中学校珊瑠分教室を併置。
昭和27年4月 中学校が独立し、小中併置校となった。
珊瑠は、鉱山と農業で栄えた集落であった。
大正6年 寺島庄太郎が転石を発見するも、その後別人により露頭の発見もあった。
鉱区の出願や試掘もされたが、資本金が少なかったことから大正15年 斎藤ヤエから三井鉱山へ渡った。
この時、買収と同時に直属と成り「珊瑠出張所」と命名された。
昭和8年 諸般の設備が整い、三井珊瑠鉱業所と改称。
鉱業所の子弟は珊瑠小学校に通学していたが、学校から4キロ離れていることや、冬期間の積雪量により通学が困難であったことから同年12月 「珊瑠第二尋常小学校」が設立された。
昭和15年頃 鉱山周辺は300戸の職員住宅や鉱員住宅が建ち並んでいた。
一方、既存の農村のほうも珊瑠木工場や澱粉工場、国有林事業の隆盛もあり120戸 700名を数えていた。
この頃、珊瑠尋常小学校に通学していたある方は、こう回想する。
「…学校の傍には杉野さんと云う澱粉工場があった。あの頃は珊瑠第一も、学校周辺の珊瑠第二もたくさんの人が暮らしていた…。」
昭和16年の「国民学校」改正に伴い、珊瑠第二国民学校と改まったが昭和17年4月時点で、尋常科4学級 225名 高等科1学級 42名の子弟が通学していた。
しかし、鉱山は大東亜戦争の最中である昭和18年7月 戦争遂行のため帝国鉱発株式会社の手に渡り、不急産業として閉山した。
閉山と同時に、珊瑠第二国民学校も閉校となった。
戦後、鉱山は昭和25年 磯部鉱業株式会社の手に渡り再開した。
昭和40年 会社の合併により合同資源産業株式会社磯部珊瑠鉱業所と変更する。
昭和43年11月 珊瑠小中学校開校60周年記念式が挙行された。
この年の珊瑠の人口は 珊瑠第一 21世帯 107人 珊瑠第二 43世帯 165人であった。
だが、鉱山の縮小や離農による過疎化に見舞われた。
昭和47年3月末をもって下川小学校・下川中学校と統合され、閉校になった。
過疎化はその後も続き、昭和52年度の珊瑠地区の人口は 17世帯 54名にまで激減していった。
珊瑠鉱山は資源の枯渇や、金の相場が悪くなったことから昭和62年を以て休山となった。
学校も閉校となり金山も閉山となった珊瑠だが、ダム建設の話が浮上する。
元々は昭和41年に策定された「天塩川水系工事実施基本計画」に基づき、昭和43年度から予備調査がなされていたが、紆余曲折もあって予算は毎年見送られていた。
昭和62年12月 当時の原田町長・平町議会議長・政所同副議長が上京し、陳情を行なった。
その結果、年末になって「サンルダム実施計画の調査費がついた」と連絡が入った。
平成4年12月21日 新年度予算の大蔵省原案が内示され、サンルダムの建設が正式に決定した。
翌 平成5年からサンルダム建設が始まった。
平成10年4月 損失補償基準妥結調印が行なわれる。
平成11年3月 ダム水没に伴い全戸が移転し、行政区も廃止になったと同時に無住地となった。
平成21年10月 民主党政権交代により「サンルダム」の工事凍結が発表された。
名寄新聞 平成21年10月17日付の記事に「工事凍結で大きな波紋 サンルダム建設事業・名寄の給水統合計画に暗雲」と見出しがつき、ダム建設を見越した風連地区と陸上自衛隊名寄駐屯地との給水統合を計画していたので中止となった場合の影響は大きい、と紹介されている。
工事凍結の発表から3年経った平成24年10月31日 道道下川雄武線 珊瑠の付け替え道路が全線開通した。
既存の道道は旧道になったと同時に、ダム事業用地のためダム建設事業所で管理し、立ち入り禁止となった。
同年11月12日 国土交通大臣の方針により、サンルダムの建設事業を継続を決定した。
名寄新聞 平成24年11月14日付の記事に「国が事業継続を決定 サンルダム・下川町長や住民から喜びの声」とある。
ダム建設が再開されたため、現在もダム建設は進行中である。
ダム建設で話題になっている珊瑠。
学校はこの先に位置している。
ダム建設に伴い、付け替えられた道道下川雄武線。
真下には旧道と化した道道と、水没する珊瑠第一の集落跡が広がっている。
かつての畑はシラカバ林と化した珊瑠第一より、学校跡方面を望む。
正面に見えるのがサンル牧場である。
サンル牧場は昭和53年度より草地造成が始まり、昭和56年6月より入牧が始まった。
そのまま進むと「珊瑠十二線」というT字路の交差点が出てくる。
雄武側よりT字路方面を望む。
反対に、雄武方面を望む。
周辺は人家マークが点在しているが、すべて無人となっている。
珊瑠十二線付近。
探訪当初、ここが学校跡地だと思っていた。
しかし、実際はここよりもう少し【手前】に位置していた。
跡地を見誤り、学校跡地は「探訪未遂」で終わってしまった。
ここの跡地は「サンル木工場」の跡地である。
珊瑠第一の付け替え道路より珊瑠第一の集落跡を望む。
金山と農業で栄えた集落は、ダムに水没しようとしていた。
後日、旭川開発建設部サンルダム建設事業所に電話で伺うと「ダム完成時、学校跡地(珊瑠十二線)周辺は余程の大雨が降らない限りは水に漬からないと思う」と回答を得ることが出来た。
尚、ダムは平成29年 完成予定とのことである。