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三石町二川

三石町(現 新ひだか町)二川(平成23年10月22日・23日、平成29年5月28日探訪)

延出小学校の分校があった集落である。

延出小学校 二川分校は昭和13年に開校した。
二川地域は当時、開墾者や木炭業者40戸ほどの集落を形成していた。
それまでは延出小学校まで通学していたが、当地の事業家 坂東信之・中谷清光らが出資して昭和13年2月15日、字福畑280番地に 小林清二准訓導を主任として開校した。

開講当初の児童は33名(男子21名 女子12名)、単級教育で行われていた。
しかし、昭和18年の時点で児童数12名(男子4名 女子8名)に減少してしまう。
昭和22年4月1日 分校に昇格するも昭和30年代に入ると、児童数は一桁となり昭和38年、児童数2名(男子1名 女子1名)となり、同年7月31日をもって廃校となった。
二川のへき地等級は3級、現在集落の人口はゼロ。
集落付近には「二川大橋」「二川林道」の名前のみが残っている。

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この先に二川集落があった。


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旧版地形図には、この周辺にも人家があった。
今は植林されており痕跡は全くない。

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児童はこの川を渡って、学校に通学していた。
対岸に校舎があったものと思われる。
渡る術がないので、一旦引き返す。

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「二川大橋」
この傍に「二川林道」という林道もあった。

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二川大橋を渡り、対岸の学校跡付近。
「付近」と書いたのは、学校跡だと断定することが出来なかった。
校門もあったようだが、自然に還っており痕跡を見つけることが出来なかった。

本校であった延出小学校も平成23年1月30日 閉校式が行われ115年の歴史に幕を下ろした。
閉校当時の児童19名、卒業生の総数は3093名である。

時は流れ平成29年5月、HEYANEKO氏らと一緒に訪ねた。
HEYANEKO氏が持ってきた「三石局郵便区全図 日高国三石郡」によれば「二川」の集落名、「文マーク」(二川分校)の名前が書かれているが、もうひとつ「三百町」という地名が書かれている。

分校跡を探すも、なかなか見つからず諦めかけたその時ラオウ氏が地元の古老に伺った。
その結果、分校の卒業生であることがわかりお願いして学校跡地を教えていただくことができた。

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二川大橋。
学校は、この橋を渡った先にあった。

CIMG9281.jpg
学校跡地。
古老の話では「『三百町』は土地の広さから来ている。三百町に入植した人はみな、炭焼きで暮らしていた。」
「かつては学校前のグラウンドで、総出で運動会が行われた。分校主任の先生は子供が10人もいた…。」

ここで二川地区の集落が伺える記事を紹介する。

老教師の愛に明るく 文化に取残された二川分校 俸給割いてラジオ 勉強に不自由と学用品

「【三石】戦後民主主義が叫ばれてから早くも10年という長い年月が流れ去ろうとしており、その間小学校では地域社会と結びついた社会科、視聴覚教育、辺地校教育の推進などが中央で大きく取り上げられてきたが、文化の恩恵から取り残されている山奥の分校はこれら新しい地帯の"真空地帯″となっているのが実情だ。しかしこれら分校では一人の教師を囲んで児童たちが毎日見たこともないところの話を聞きながら学び、都会では見られぬ師弟愛に包まれた教育が行われている。美しく彩られた秋の一日、一老教師とそれをとりまく"18の瞳″のいる日高で二番目に児童数の少ない三石郡三石町延出小学校二川分校を訪れてみた。
ここは三石町から三石川に沿ってさかのぼること4里、ことに平らな一本道をすぎ山際にさしかかってからの1里半は林道と山道の中間を縫うような悪路でしかも白い大理石の露頭がいまにも落ちそうになってみえるところもあり河原におりてまた登るという交通不便なところでそれにまた三方が山、前は三石川とその支流にさえぎられているという全く孤立した電気のない16戸の二川部落である。
同部落には早い人は昭和10年ころから三石木材(社長坂東信之氏)のきこりとして入り、16戸のうちには田畑を耕作する人もあり、現在3戸で田○反(注1)、畑2町が平らな土地に耕作されそのほかの人ほとんどが炭焼きに従事している。これらの人々は造材で忙しくなると狩り出されるので田畑を耕作しているとはいえ形ばかりだ。
分校はこの三石木材と三井物産の共同経営で部落の子供たちの教育のため昭和16年に設立(注2)、その後27年延出小学校の分校となった。当時は30名前後の児童がいたが戦後三井が同地から引き上げ、さらに造材、製炭の生産が少なくなるにつれて山を出ていったので最近では10名を数えることがまれで現在6年生の池田恵子さん(11)を最上級生に3年生2名、1年生4名の9名しかいない。来年は恵子さんが卒業して1年生が3名入学するので11名になるという。主任教諭の矢部知治氏(58)は20年満州から引揚げてきた人でその後三石中学で8年間教職につき昨年4月分校に赴任したが"一時はどうなることかと思いあぐんだが、それも来てみて落着くようになってからは教えがいがあることがわかり全力をあげていますよ″と目を輝かせながら語るのだった。
分校の授業は日が昇れば仕事に出かけ、日が沈むと帰るという部落の人々の原始的生活が反映して朝7時から始まる。それから15分間ラジオ体操をやる、といってもラジオに合せてではない。それから本格的な授業に入るのだが、児童が教室に入っても20坪の教室が広く感じるほどだ。授業が早く始まるので1年生などは10時ごろで帰り、お昼にはみんないなくなってしまう。だからお弁当を持ってくる子供はいない。最も持ってくるようにいっても副食物に困る家庭ばかりなので持ってくるのは無理な話だ。部落の人が買い物をするときは三石の市街地まで出て行くのだが、帰りに積んできてもらう三石木材のトラックは毎日出ない。時には1週間も10日も通わないこともある。そのため副食物や必要品は1ヶ月くらいのものを買わなければならない。そのため学校に弁当を持たせてやるだけの余裕がないのだ。児童の学力は、算数、国語では大きな小学校に負けないが実験を伴う理科は劣るという。事実算数は1年生で2ケタの加減教えているが理科では電池の実験が精いっぱい。また電気がないためラジオ教育も幻灯による視聴覚教育もできない。しかし矢部先生はせめてラジオだけでもと10月初旬にポータブルラジオを1台自費で購入。山へ運んだがアンテナがないため昼間は聴くことができなかったが、近くこのアンテナ線が運ばれてくるのでラジオが聴けるようになると子供たちは大喜びだ。
ここの子供たちは文明の産物をほとんど知らない。最近水揚げポンプが先生の住宅に取り付けられたが、これを見た子供は9人のうち5人、ラジオを聴いたことのないのが5人、電灯を見たのが3人と全く文化からとり残された環境の中にいる。またバナナを食べたことのある子供は1人もいなかったが、これは矢部先生が札幌から取り寄せ食べさせてやり、さらに教科書に出ている蓮華の花を知らないというので昨年これを植え、今年になって花が3つ咲いたのでようやく知ることができたというエピソードもある。ヘリコプターは去る7月の水害のとき水死者を発見したさい河原に降りたので見ることができた。
こうして分校で毎日先生がいろいろ新しい知識を身につけた児童も卒業すると山道を2里下って延出中学へ通わねばならない。ところが分校の前の川には危ない丸木橋が1本あるだけである。少しの雨でも降り増水が激しくなると途中川原にある道はすぐ水の下になってしまう。本年卒業した2人のうち1人は今のところ自転車で通っているが、もう1人は通称三百町の沢という分校からさらに1キロおくもあってしかも自転車がないので自転車の借りれる時しか通学できず1月に2、3日の出席率だという。
分校に通学してきている児童の家庭のほとんどが炭焼きで生計を立てているため貧しく児童たちはお菓子もろくに食べられず、ノートなども満足に持っていない。こうした児童のため矢部先生は山を下りるたびに自費でキャラメル、チョコレートなどのお菓子からノート類まで買ってきて与えている。児童たちにとって先生が山から帰ってくるのが大きな楽しみとなっている。貧しいとはいえ児童の中でカサを持っているのが1軒、あとの児童は近いところはぬれて通学、遠くの沢になると子供は休んでしまうという状態だ。
訪れた日の午後から折り悪く雨が降ってきた。これが山あければ楽しい学校の1本のカサでどれだけの子供たちがぬれないでしかも休まないで学校へくることだろうか、このようなところはまだまだ北海道のいたるところにある。決して日高の1分校の話ではない。」(北海道新聞胆振日高版昭和30年10月27日)

次に、閉校時の記事を掲載する。

近く売払い処分に 二川分校25年の歴史閉ず

「【三石】去る7月31日付で廃校となった三石町立延出小学校二川分校の校舎が来月3日に売払い処分されることになった。同分校は三石市街から13.5キロの山奥にある。13年に延出小学校の分校として開校、多い時には20人前後の児童が在席していた。
しかし二川部落は開拓地だけに貧困世帯が多く、年々同地を去るものが多くなり昨年は矢部知治教諭のほか6年の1年の児童たった2人となってしまった。町としてもわずか2人の児童だけで年間多額の経費を要することや、子供の将来のためにと、7月31日をもって廃校とした。
このため2人の児童は部落から4キロ離れた延出本校に通学している。
校舎の売払い入札は、12月3日午前10時から町役場会議室で行われるが、約25年間の長い年月に亘ってへき地学校として親しみのあった校舎が、二川部落から姿を消すことになったもの。」(日高報知新聞昭和38年11月27日)

注1 ○は印刷不鮮明のため不明である。
注2 『三石町史』によれば昭和13年開校である。

参考文献

郵政省1952「三石局郵便区全図 日高国三石郡」郵政省
北海道新聞1955「老教師の愛に明るく 文化に取残された二川分校 俸給割いてラジオ 勉強に不自由と学用品」北海道新聞胆振日高版昭和30年10月27日
日高報知新聞1963「近く売払い処分に 二川分校25年の歴史閉ず」日高報知新聞昭和38年11月27日
三石町史編纂委員会1971『三石町史』三石町
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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