初山別村明里御料
初山別村明里御料(平成29年4月18日及び25日探訪)
初山別村明里御料は戦後開拓集落であった。
明里御料は以前『学舎の風景』合同探訪で訪ねようとしたが、生憎この時は見つけられなかった。
それから数年後、初山別村教育委員会とのやり取りや文献調査を踏まえ、学校跡地を特定することができた。
『初山別村史』を見ても明里御料に関する記述も少ない(注1)が、学級数・児童数の推移や閉校当時の報道記事を転載する。
開校 昭和35年12月5日
閉校 昭和43年4月26日
学級数・児童数の推移(『北海道教育関係職員録』昭和36年度~42年度より)
昭和36年度 1学級12名
昭和37年度 1学級12名
昭和38年度 1学級 6名
昭和39年度 1学級10名
昭和40年度 1学級 7名
昭和41年度 2学級 4名
昭和42年度 1学級 2名
7年余の歴史に幕 豊岬小学校明里分校 1日から本校に統合
「【初山別】豊岬小明里分校は3月末で廃校となり、4月1日から本校に統合される。
明里分校は豊岬小本校から9.5キロ、国鉄豊岬駅から11キロも離れた、通称‘御料開拓地`にある辺地校。この地区の児童を教育するため、35年11月に校舎が建設され、同12月に正式認可となった。当時は児童数も12人を数えていたが、年々離農や農家の移転があいつぎ、現在では校下にある民家はわずか1軒よりなく、児童もこの1軒の農家から2人が通学しているだけ。分校の先生も同家に下宿しなければならないという状態。
村教委は、いままで明里分校を含めた村内4校について統合計画を検討していたが、こうした現状から、まず明里分校の廃校を取りあげ、関係者の意向を打診していたが、こんご同分校の児童数がふえる見通しが全くないおとなどから、年度替わりをひかえ、急きょ廃校を決めたもの。わずか7年4ヵ月で同分校の歴史を閉じることになった。」(北海道新聞留萌・宗谷 昭和45年3月26日)
日本最北のりんご園である「木下りんご園」
この先が明里御料である。
この時は、あくまで「下見」で訪ねてきた。
一本の大きな松の先からダートになる。
道中の風景。
所々平坦な土地があるが、すべて植林されているか自然に還っている。
橋が崩れかかっている。おっかなびっくり渡りながら進む。
道はこの奥も続いていたが、川を渡る術が見当たらない。
諦めて引き返す。
と、その時分校跡を示す記念碑が建立されていることに気がついた。
下見の時点で、到達してしまった。
1週間後の4月25日 ラオウ氏とA.D.1600氏と会い、すっかり恐縮しながらの探索となった。
こちらが豊岬小中学校(本校)である。
小学校は平成26年3月、中学校は平成21年3月にそれぞれ閉校した。
明里分校までの道中は一緒なので割愛させていただく。
道中の橋を渡り、分校跡地へ到達した。
ネットでも明里分校の画像は出てこないので、恐らく初公開である。
傍には朽ちた昔の木碑が倒れていた。
東山小学校の木碑と同型である。
学校跡地。
分校にしても小さく、1教室と洗面所、トイレ程度しかない。
学校の基礎を改めて見て、お互い「分校でもここまで小さいのはあまり見かけない」と驚いていた。
天気も良かったので周辺を散策した。
学校跡地より崩れかけた橋を眺める。
へき地等級4級。
学校跡地の記念碑と基礎が唯一の集落の面影であった。
今回の調査では特に初山別村教育委員会様に大変お世話になりました。厚くお礼申し上げます。
(注1)『初山別村史』には「なお本校には昭和35年11月1日、南明里奥地住民の要望により豊岬小学校明里分校が設置され、同年12月5日から授業が開始されたが、住民の挙家流出により児童の現象をみ、昭和43年4月26日分校開設8ヵ年の歴史を閉じ本校に統合された。」と書かれている。
参考文献
北海道新聞1968「7年余の歴史に幕 豊岬小明里分校 1日から本校に統合」北海道新聞留萌・宗谷 昭和45年3月26日
北海道教職員組合1961~1967『北海道教育関係職員録』北海教育評論社
初山別村史編集室1972『初山別村史』初山別村役場
初山別村明里御料は戦後開拓集落であった。
明里御料は以前『学舎の風景』合同探訪で訪ねようとしたが、生憎この時は見つけられなかった。
それから数年後、初山別村教育委員会とのやり取りや文献調査を踏まえ、学校跡地を特定することができた。
『初山別村史』を見ても明里御料に関する記述も少ない(注1)が、学級数・児童数の推移や閉校当時の報道記事を転載する。
開校 昭和35年12月5日
閉校 昭和43年4月26日
学級数・児童数の推移(『北海道教育関係職員録』昭和36年度~42年度より)
昭和36年度 1学級12名
昭和37年度 1学級12名
昭和38年度 1学級 6名
昭和39年度 1学級10名
昭和40年度 1学級 7名
昭和41年度 2学級 4名
昭和42年度 1学級 2名
7年余の歴史に幕 豊岬小学校明里分校 1日から本校に統合
「【初山別】豊岬小明里分校は3月末で廃校となり、4月1日から本校に統合される。
明里分校は豊岬小本校から9.5キロ、国鉄豊岬駅から11キロも離れた、通称‘御料開拓地`にある辺地校。この地区の児童を教育するため、35年11月に校舎が建設され、同12月に正式認可となった。当時は児童数も12人を数えていたが、年々離農や農家の移転があいつぎ、現在では校下にある民家はわずか1軒よりなく、児童もこの1軒の農家から2人が通学しているだけ。分校の先生も同家に下宿しなければならないという状態。
村教委は、いままで明里分校を含めた村内4校について統合計画を検討していたが、こうした現状から、まず明里分校の廃校を取りあげ、関係者の意向を打診していたが、こんご同分校の児童数がふえる見通しが全くないおとなどから、年度替わりをひかえ、急きょ廃校を決めたもの。わずか7年4ヵ月で同分校の歴史を閉じることになった。」(北海道新聞留萌・宗谷 昭和45年3月26日)
日本最北のりんご園である「木下りんご園」
この先が明里御料である。
この時は、あくまで「下見」で訪ねてきた。
一本の大きな松の先からダートになる。
道中の風景。
所々平坦な土地があるが、すべて植林されているか自然に還っている。
橋が崩れかかっている。おっかなびっくり渡りながら進む。
道はこの奥も続いていたが、川を渡る術が見当たらない。
諦めて引き返す。
と、その時分校跡を示す記念碑が建立されていることに気がついた。
下見の時点で、到達してしまった。
1週間後の4月25日 ラオウ氏とA.D.1600氏と会い、すっかり恐縮しながらの探索となった。
こちらが豊岬小中学校(本校)である。
小学校は平成26年3月、中学校は平成21年3月にそれぞれ閉校した。
明里分校までの道中は一緒なので割愛させていただく。
道中の橋を渡り、分校跡地へ到達した。
ネットでも明里分校の画像は出てこないので、恐らく初公開である。
傍には朽ちた昔の木碑が倒れていた。
東山小学校の木碑と同型である。
学校跡地。
分校にしても小さく、1教室と洗面所、トイレ程度しかない。
学校の基礎を改めて見て、お互い「分校でもここまで小さいのはあまり見かけない」と驚いていた。
天気も良かったので周辺を散策した。
学校跡地より崩れかけた橋を眺める。
へき地等級4級。
学校跡地の記念碑と基礎が唯一の集落の面影であった。
今回の調査では特に初山別村教育委員会様に大変お世話になりました。厚くお礼申し上げます。
(注1)『初山別村史』には「なお本校には昭和35年11月1日、南明里奥地住民の要望により豊岬小学校明里分校が設置され、同年12月5日から授業が開始されたが、住民の挙家流出により児童の現象をみ、昭和43年4月26日分校開設8ヵ年の歴史を閉じ本校に統合された。」と書かれている。
参考文献
北海道新聞1968「7年余の歴史に幕 豊岬小明里分校 1日から本校に統合」北海道新聞留萌・宗谷 昭和45年3月26日
北海道教職員組合1961~1967『北海道教育関係職員録』北海教育評論社
初山別村史編集室1972『初山別村史』初山別村役場
初山別村大沢
初山別村大沢(平成25年5月8日及び6月9日探訪)
初山別村大沢は、半農半漁の集落であった。
明治20年代よりニシンやサケの漁業が始まった。
明治38年になると寺子屋が設けられ、寺子屋式の授業が開始された。
元 松前藩士 里見某が70歳の老齢であったが教師として迎えられた。
明治39年春 大沢橋付近にて旧宿舎を改造し、校舎を移転した。
明治40年4月1日 風連別尋常小学校付属大沢特別教授場として開校した。
大正期に入ると、集落民や青年団より木造柾葺平屋建て住宅1棟(18、5坪)、教授場の敷地として1.5反余歩の寄付を受けた。
昭和8年 校舎の新築が行われ、昭和9年4月4日 大沢尋常小学校として独立した。
しかし、昭和12年9月29日 住宅畑筒差出口付近から出火し、全焼してしまう。
翌 昭和13年12月22日 校舎が再建された。
昭和16年4月1日 大沢国民学校と改称。
昭和22年4月1日 大沢小学校と改称。
昭和33年10月18日 国鉄羽幌線初山別駅-遠別駅間開通に伴い、天塩大沢駅が開業した。
併せて、国道232号線の改良工事も重なり、昭和34年6月25日 校舎新築着工、同年10月31日竣工した。
校舎は円型ペチカ1基を校舎中心にもち、水道施設は校舎東方にある岩間から湧出していた清水をコンクリート水槽にたたえ、鉄管をもって導水し、教室・職員室・便所手洗場に給水し、秀でた施設であった。
また、昭和36年10月21日 大沢海岸に島根県隠岐島大久小学校3年生が流した「びんの便り」が漂着した。
これが切っ掛けとなり、大沢小学校と大久小学校との交流が始まった。
交流はスズランの交換、図画・習字・作文往復が重ねられ、大久小学校からはレモンや栗など島の特産物が送られてきた。
この交流は昭和37年3月11日 毎日新聞に掲載され、さらにNHK札幌中央放送局の企画として「こども夏のテレビクラブ」の番組にまで取り上げられることとなった。8月8日午前11時20分より55分まで、全国に放送された。
しかし、大沢にも過疎の波は押し寄せていた。
ニシン漁の衰退に加え、経済成長の影響を受け出稼・転業・離村が後を絶たなかった。
昭和35~45年の大沢の人口推移を挙げてみる。
昭和35年度 40世帯 211名
昭和40年度 26世帯 129名
昭和45年度 15世帯 50名
昭和44年3月31日 閉校式が行われた。卒業生総数 200余名。
国鉄羽幌線 天塩大沢駅も昭和62年3月30日付で廃止となった。
「びんの便り」で交流していた大久小学校は、平成21年3月31日付でで閉校となった。
国道232号線沿いにポツンと佇む大沢小学校。
校舎は現在、住居として転用されている。
鉄道が廃止された後は、沿岸バスが運行している。
航空写真を見ると、右手に人家があったがすべて無くなってしまっている。
1ヵ月後の6月9日 再び訪れた。
校舎は遠望するにとどまった。
学校周辺より豊岬方面を望む。
ニシンの千石場所として栄えた集落は、遠い過去の話になってしまった。
初山別村大沢は、半農半漁の集落であった。
明治20年代よりニシンやサケの漁業が始まった。
明治38年になると寺子屋が設けられ、寺子屋式の授業が開始された。
元 松前藩士 里見某が70歳の老齢であったが教師として迎えられた。
明治39年春 大沢橋付近にて旧宿舎を改造し、校舎を移転した。
明治40年4月1日 風連別尋常小学校付属大沢特別教授場として開校した。
大正期に入ると、集落民や青年団より木造柾葺平屋建て住宅1棟(18、5坪)、教授場の敷地として1.5反余歩の寄付を受けた。
昭和8年 校舎の新築が行われ、昭和9年4月4日 大沢尋常小学校として独立した。
しかし、昭和12年9月29日 住宅畑筒差出口付近から出火し、全焼してしまう。
翌 昭和13年12月22日 校舎が再建された。
昭和16年4月1日 大沢国民学校と改称。
昭和22年4月1日 大沢小学校と改称。
昭和33年10月18日 国鉄羽幌線初山別駅-遠別駅間開通に伴い、天塩大沢駅が開業した。
併せて、国道232号線の改良工事も重なり、昭和34年6月25日 校舎新築着工、同年10月31日竣工した。
校舎は円型ペチカ1基を校舎中心にもち、水道施設は校舎東方にある岩間から湧出していた清水をコンクリート水槽にたたえ、鉄管をもって導水し、教室・職員室・便所手洗場に給水し、秀でた施設であった。
また、昭和36年10月21日 大沢海岸に島根県隠岐島大久小学校3年生が流した「びんの便り」が漂着した。
これが切っ掛けとなり、大沢小学校と大久小学校との交流が始まった。
交流はスズランの交換、図画・習字・作文往復が重ねられ、大久小学校からはレモンや栗など島の特産物が送られてきた。
この交流は昭和37年3月11日 毎日新聞に掲載され、さらにNHK札幌中央放送局の企画として「こども夏のテレビクラブ」の番組にまで取り上げられることとなった。8月8日午前11時20分より55分まで、全国に放送された。
しかし、大沢にも過疎の波は押し寄せていた。
ニシン漁の衰退に加え、経済成長の影響を受け出稼・転業・離村が後を絶たなかった。
昭和35~45年の大沢の人口推移を挙げてみる。
昭和35年度 40世帯 211名
昭和40年度 26世帯 129名
昭和45年度 15世帯 50名
昭和44年3月31日 閉校式が行われた。卒業生総数 200余名。
国鉄羽幌線 天塩大沢駅も昭和62年3月30日付で廃止となった。
「びんの便り」で交流していた大久小学校は、平成21年3月31日付でで閉校となった。
国道232号線沿いにポツンと佇む大沢小学校。
校舎は現在、住居として転用されている。
鉄道が廃止された後は、沿岸バスが運行している。
航空写真を見ると、右手に人家があったがすべて無くなってしまっている。
1ヵ月後の6月9日 再び訪れた。
校舎は遠望するにとどまった。
学校周辺より豊岬方面を望む。
ニシンの千石場所として栄えた集落は、遠い過去の話になってしまった。
初山別村東山
初山別村東山(平成25年6月9日探訪)
初山別村東山は、茂築別(モチクベツ)原野の開拓から始まった。
明治31年 富山県下新川郡道下村 大原武一率いる道下村団体(23戸59名)が入地を開始した。同じく富山県下新川郡入善町の岩井暢次が19戸を率いて岩井農場を創設した。
学校の開校は、大正期に入ってからのことであった。
大正4年2月1日 茂築別11線に茂築別尋常小学校所属茂築別教授場として指定を受け、同月23日 校舎新築に着手した。
同年3月に校舎が落成し、3月5日より授業が開始された。この時の児童数 11名であった。
大正9年4月 それまでの茂築別11線より15線に移転した。
昭和3年10月14日 当時の村長 石居良三、茂築別尋常小学校長児玉新太郎の視察が行なわれた。
この時、校舎敷地が湿地帯で保健上から難点があり、校舎自体も腐朽狭隘であると指摘が上がった。
指摘を受け、岩垣東市の尽力により影井農場の土地の寄付を受け、茂築別15線(現校舎前地)に移転し、昭和5年9月10日新築落成した。
昭和16年4月1日 茂築別国民学校茂築別分教場と改称、同年8月1日 字名改正に伴い有明国民学校有明分教場と改称。この時の在籍児童数は9名であった。
昭和20年9月30日 有明国民学校から独立し、東山国民学校と改称した。
この時の在籍児童数は25名であった。
昭和22年4月1日 東山小学校と改称、在籍児童数は24名であった。
昭和33年3月18日 村議会において東山小学校の改築が議決され、同年6月10日着工、同年8月11日 竣工した。
同年9月16日 有明711番地に学校位置が指定され、落成式が挙行された。
しかし、過疎化の波は少しずつ進行していった。
昭和36年の在籍児童数 21名であったが、6年後の昭和42年度は僅か3名であった。
過疎化の波はその後も進行し、昭和53年3月31日付で閉校となった。
尚、学校跡地より奥に有明ダム(ひがしやま湖)があり、ダムは昭和46年12月完成した。
湖畔には東山樹園という公園が整備され「しょさんべつ桜まつり」の会場として使われている。
また、7線沢よりダムまでの約7キロの沿線に焼く1800本のエゾヤマザクラが植樹され、毎年5月中旬になるとサクラの名所として賑わいをみせている。
東山の手前に位置する有明小学校。
有明小学校は明治36年4月開校、平成22年3月閉校となった。
学校は現在、グループホームの施設として転用されている。
有明小学校教員住宅。
学校周辺は田園風景が広がっている。
東山小学校はこの先に位置している。
通い作の畑を眺めていると、右手に学校跡地が見えた。
校舎はこの正面に在った。
校門の裏面には、校舎及び教員住宅を新築した「羽幌町林組綜合建設株式会社」の表札が残っている。
学校より手前の風景。
通い作の畑はあるが、人家が見当たらない。
「平成16年度宝くじ桜植栽地」と刻まれた石碑が残されている。
ふと見ると「東山小学校跡地」と書かれた木碑と、国旗掲揚搭の基礎が残されていた。
その字体は剥げていた。
学校跡地より有明ダム方面を望む。
人家もあまり無い高度過疎集落だが、春先になればサクラが満開を迎え、人々も賑わいを見せるかもしれない。
初山別村東山は、茂築別(モチクベツ)原野の開拓から始まった。
明治31年 富山県下新川郡道下村 大原武一率いる道下村団体(23戸59名)が入地を開始した。同じく富山県下新川郡入善町の岩井暢次が19戸を率いて岩井農場を創設した。
学校の開校は、大正期に入ってからのことであった。
大正4年2月1日 茂築別11線に茂築別尋常小学校所属茂築別教授場として指定を受け、同月23日 校舎新築に着手した。
同年3月に校舎が落成し、3月5日より授業が開始された。この時の児童数 11名であった。
大正9年4月 それまでの茂築別11線より15線に移転した。
昭和3年10月14日 当時の村長 石居良三、茂築別尋常小学校長児玉新太郎の視察が行なわれた。
この時、校舎敷地が湿地帯で保健上から難点があり、校舎自体も腐朽狭隘であると指摘が上がった。
指摘を受け、岩垣東市の尽力により影井農場の土地の寄付を受け、茂築別15線(現校舎前地)に移転し、昭和5年9月10日新築落成した。
昭和16年4月1日 茂築別国民学校茂築別分教場と改称、同年8月1日 字名改正に伴い有明国民学校有明分教場と改称。この時の在籍児童数は9名であった。
昭和20年9月30日 有明国民学校から独立し、東山国民学校と改称した。
この時の在籍児童数は25名であった。
昭和22年4月1日 東山小学校と改称、在籍児童数は24名であった。
昭和33年3月18日 村議会において東山小学校の改築が議決され、同年6月10日着工、同年8月11日 竣工した。
同年9月16日 有明711番地に学校位置が指定され、落成式が挙行された。
しかし、過疎化の波は少しずつ進行していった。
昭和36年の在籍児童数 21名であったが、6年後の昭和42年度は僅か3名であった。
過疎化の波はその後も進行し、昭和53年3月31日付で閉校となった。
尚、学校跡地より奥に有明ダム(ひがしやま湖)があり、ダムは昭和46年12月完成した。
湖畔には東山樹園という公園が整備され「しょさんべつ桜まつり」の会場として使われている。
また、7線沢よりダムまでの約7キロの沿線に焼く1800本のエゾヤマザクラが植樹され、毎年5月中旬になるとサクラの名所として賑わいをみせている。
東山の手前に位置する有明小学校。
有明小学校は明治36年4月開校、平成22年3月閉校となった。
学校は現在、グループホームの施設として転用されている。
有明小学校教員住宅。
学校周辺は田園風景が広がっている。
東山小学校はこの先に位置している。
通い作の畑を眺めていると、右手に学校跡地が見えた。
校舎はこの正面に在った。
校門の裏面には、校舎及び教員住宅を新築した「羽幌町林組綜合建設株式会社」の表札が残っている。
学校より手前の風景。
通い作の畑はあるが、人家が見当たらない。
「平成16年度宝くじ桜植栽地」と刻まれた石碑が残されている。
ふと見ると「東山小学校跡地」と書かれた木碑と、国旗掲揚搭の基礎が残されていた。
その字体は剥げていた。
学校跡地より有明ダム方面を望む。
人家もあまり無い高度過疎集落だが、春先になればサクラが満開を迎え、人々も賑わいを見せるかもしれない。