新十津川町上尾白利加(北美沢)
新十津川町上尾白利加(平成25年10月20日探訪)
新十津川町上尾白利加は現在「北美沢」という地名に変わっているが、無人集落である。
明治38年 岩手県出身の照井平四郎、谷口源雄、玉置留吉、松実作次郎、金上豊吉ら16戸が入植したのに始まり、明治43年 道庁において区画を施し翌、44年に宮城県出身 水戸開吉ら13戸が入地し、開拓が始まった。
大正2年4月22日 照井平四郎の居宅を借用し、上徳富尋常小学校所属上尾白利加特別教授場として開校し、翌3年、校舎(25坪)が建てられた。
大正15年6月 上尾白利加尋常小学校として独立した。
昭和16年4月1日 上尾白利加国民学校と改称。
昭和22年4月1日 上尾白利加小学校と改称。
昭和24年10月1日 上徳富中学校上尾白利加分校を併置。
昭和28年4月 上尾白利加中学校として独立し、小中併置校となった。
昭和33年 尾白利加川上流に灌漑ダムが建設されることとなり、学校は水没区域内に該当していた。
その為、校舎をさらに奥地へ移転した。
このことについて、元町議の高宮九州夫氏はこう話してくれた。
「奥にはまだ人々が暮らしていた。手前側よりも奥のほうが人がいた…。」
実際、この奥は雨竜町国領という集落が在った。ここも例外なく「学校跡がある廃村」の一つであるが、昭和33年当時は人々の営みがあった。
灌漑ダム建設当時、校下には40戸を数えていたが、ダム建設と冷害常襲区域であるため離農が続出した。
昭和43年4月1日 字名改正により尾白利加から「北美沢」へ変更された。
また、校名も北美沢小中学校と改称した。
しかし過疎化の進行や、冬季間の豪雪により交通が途絶えることから、この年の11月中旬 既存の農家5戸を含め、学校ぐるみ市街地へ移転した。
昭和44年3月22日 新十津川町体育館で閉校式が挙げられた。
閉校式の記事は北海道新聞 空知版 昭和44年3月24日付「さようなら、ぼくらの母校 新十津川の北美沢小中」と掲載されている。
尾白利加ダム手前の風景。ダム周辺は整備されている。
この時期は水位も低下しているが、学校が在った頃の風景は失われていた。
この奥に学校が移転した。
学校より奥は雨竜町国領へとつながり、ひいては雨竜沼湿原や暑寒別岳へと通じている。
それだけ山深いところに開拓が入り、学校があった。
砂利道と舗装道を繰り返し、進む。
大きな松の木は、人々が暮らしていた名残である。
やがて、移転後の跡地が見えた。
正面の一本の松の木が、学校跡地である。
学校前に架かる橋。
流れている川の名前は「学校の沢川」
架けられている橋の名前は「渡辺橋」
学校跡地は開けた空間になっていたが、繁茂していたので基礎を確認できなかった。
奥には旧道と、先代の「渡辺橋」が残されていた。
学校跡地より奥の風景。
閉校式当時、最後の児童・生徒7名がリレー形式で朗読した「思い出の詩集」(大西綾子作詩)より。
『学校は悲しみの涙に消えて行く 楽しい思い出悲しい思い出 みんな美しい涙となって消えて行く どうして涙が流れるの もうおそいかしら やぱり永遠に学校は消えてしまうのです もう一度涙をふいて 校舎よ さようなら』
新十津川町上尾白利加は現在「北美沢」という地名に変わっているが、無人集落である。
明治38年 岩手県出身の照井平四郎、谷口源雄、玉置留吉、松実作次郎、金上豊吉ら16戸が入植したのに始まり、明治43年 道庁において区画を施し翌、44年に宮城県出身 水戸開吉ら13戸が入地し、開拓が始まった。
大正2年4月22日 照井平四郎の居宅を借用し、上徳富尋常小学校所属上尾白利加特別教授場として開校し、翌3年、校舎(25坪)が建てられた。
大正15年6月 上尾白利加尋常小学校として独立した。
昭和16年4月1日 上尾白利加国民学校と改称。
昭和22年4月1日 上尾白利加小学校と改称。
昭和24年10月1日 上徳富中学校上尾白利加分校を併置。
昭和28年4月 上尾白利加中学校として独立し、小中併置校となった。
昭和33年 尾白利加川上流に灌漑ダムが建設されることとなり、学校は水没区域内に該当していた。
その為、校舎をさらに奥地へ移転した。
このことについて、元町議の高宮九州夫氏はこう話してくれた。
「奥にはまだ人々が暮らしていた。手前側よりも奥のほうが人がいた…。」
実際、この奥は雨竜町国領という集落が在った。ここも例外なく「学校跡がある廃村」の一つであるが、昭和33年当時は人々の営みがあった。
灌漑ダム建設当時、校下には40戸を数えていたが、ダム建設と冷害常襲区域であるため離農が続出した。
昭和43年4月1日 字名改正により尾白利加から「北美沢」へ変更された。
また、校名も北美沢小中学校と改称した。
しかし過疎化の進行や、冬季間の豪雪により交通が途絶えることから、この年の11月中旬 既存の農家5戸を含め、学校ぐるみ市街地へ移転した。
昭和44年3月22日 新十津川町体育館で閉校式が挙げられた。
閉校式の記事は北海道新聞 空知版 昭和44年3月24日付「さようなら、ぼくらの母校 新十津川の北美沢小中」と掲載されている。
尾白利加ダム手前の風景。ダム周辺は整備されている。
この時期は水位も低下しているが、学校が在った頃の風景は失われていた。
この奥に学校が移転した。
学校より奥は雨竜町国領へとつながり、ひいては雨竜沼湿原や暑寒別岳へと通じている。
それだけ山深いところに開拓が入り、学校があった。
砂利道と舗装道を繰り返し、進む。
大きな松の木は、人々が暮らしていた名残である。
やがて、移転後の跡地が見えた。
正面の一本の松の木が、学校跡地である。
学校前に架かる橋。
流れている川の名前は「学校の沢川」
架けられている橋の名前は「渡辺橋」
学校跡地は開けた空間になっていたが、繁茂していたので基礎を確認できなかった。
奥には旧道と、先代の「渡辺橋」が残されていた。
学校跡地より奥の風景。
閉校式当時、最後の児童・生徒7名がリレー形式で朗読した「思い出の詩集」(大西綾子作詩)より。
『学校は悲しみの涙に消えて行く 楽しい思い出悲しい思い出 みんな美しい涙となって消えて行く どうして涙が流れるの もうおそいかしら やぱり永遠に学校は消えてしまうのです もう一度涙をふいて 校舎よ さようなら』
新十津川町北幌加
新十津川町北幌加(平成25年10月20日探訪)
新十津川町北幌加は、学校の跡地が判らなくなってしまった無人集落である。
新十津川町北幌加を含め、幌加の開拓は明治35年 西村直一の四十万坪の土地(北幌加農場)の開拓から始まり、順次吉野団体(徳富川・幌加徳富川合流点付近の両川沿い)、愛媛団体(徳富川右岸)、越後団体(南幌加高台)、宮城団体(南幌加奥)、滋賀団体(南幌加高台)が入植した。
学校については明治40年 区民有志が学校設置を協議し、宮本安吉が発起人となって寄付を集め、校舎建設に着手した。世話人として今北清太郎、湯藤伊平、宮本新太郎、中為一(兼 建築責任者)、芳賀伊右衛門が選ばれ、工事は原田覚次郎が担当した。
敷地は 堤長太郎(学園在住)より三反歩の寄付を受けて起工し、明治41年1月 校舎が完成し同年2月1日 吉野簡易教育所所属幌加特別教授場として開校した。
大正6年6月12日 幌南特別教授場が尋常小学校(後の幌加小学校)に昇格したことに伴い、同校の所属となった。
昭和9年5月14日 幌加尋常小学校として独立。
昭和16年4月1日 幌加国民学校と改称。
昭和22年4月1日 幌加小学校と改称。
昭和43年4月1日 幌南小学校が幌加小学校と改称することに伴い、北幌加小学校と改称した。
北幌加の過疎化は、昭和30年代後半より静かに進行していった。特に、米作の生産を抑制する減反政策で、水田の永年転作化が昭和46年より50年にかけて行なわれた。
永年転作化することで補助金が貰えた事も重なり、人口の流出が激しくなり昭和46年3月31日 閉校になった。
閉校後、校舎は解体され跡地に「西部地区簡易水道浄化場」が建てられた。
昭和50年8月30日より供用が開始され、平成13年まで稼動していた。
幌加小学校より4キロほど進むと見えてきた。
道路は今も通い作で使われているが、人家が全く無い。
この右手に廃墟と化した浄水場があるが、ここが北幌加小学校の跡地である。
バリケードされていたので、外観を眺めるに留まった。
学校跡地の斜め向かいにある「殉公之碑」。
殉公之碑の裏面。
『昭和四年四月十日當部落道路用砂利採取作業中突如雪盤崩壊左ノ五氏ハ不虞ノ壓死ヲ遂ゲラル其ノ公益事業ノ殉ゼラレタルハ洵ニ敬仰追惜措カサル處ナリ茲ニ區民相圖リ其ノ靈ヲ慰ムルト共ニ功績ヲ後昆ニ傳フ』
『山﨑新吉 三十七才 中川めつい 二十六才 中山正司 十八才 大井トクシ 二十五才 吉原ケイ 三十五才 昭和十五年 第十五區民一同』
学校(浄水場)跡地の小道を進む。
かつての水田風景は畑へと変わり、人々が暮らしていた営みは見つけられなかった。
新十津川町北幌加は、学校の跡地が判らなくなってしまった無人集落である。
新十津川町北幌加を含め、幌加の開拓は明治35年 西村直一の四十万坪の土地(北幌加農場)の開拓から始まり、順次吉野団体(徳富川・幌加徳富川合流点付近の両川沿い)、愛媛団体(徳富川右岸)、越後団体(南幌加高台)、宮城団体(南幌加奥)、滋賀団体(南幌加高台)が入植した。
学校については明治40年 区民有志が学校設置を協議し、宮本安吉が発起人となって寄付を集め、校舎建設に着手した。世話人として今北清太郎、湯藤伊平、宮本新太郎、中為一(兼 建築責任者)、芳賀伊右衛門が選ばれ、工事は原田覚次郎が担当した。
敷地は 堤長太郎(学園在住)より三反歩の寄付を受けて起工し、明治41年1月 校舎が完成し同年2月1日 吉野簡易教育所所属幌加特別教授場として開校した。
大正6年6月12日 幌南特別教授場が尋常小学校(後の幌加小学校)に昇格したことに伴い、同校の所属となった。
昭和9年5月14日 幌加尋常小学校として独立。
昭和16年4月1日 幌加国民学校と改称。
昭和22年4月1日 幌加小学校と改称。
昭和43年4月1日 幌南小学校が幌加小学校と改称することに伴い、北幌加小学校と改称した。
北幌加の過疎化は、昭和30年代後半より静かに進行していった。特に、米作の生産を抑制する減反政策で、水田の永年転作化が昭和46年より50年にかけて行なわれた。
永年転作化することで補助金が貰えた事も重なり、人口の流出が激しくなり昭和46年3月31日 閉校になった。
閉校後、校舎は解体され跡地に「西部地区簡易水道浄化場」が建てられた。
昭和50年8月30日より供用が開始され、平成13年まで稼動していた。
幌加小学校より4キロほど進むと見えてきた。
道路は今も通い作で使われているが、人家が全く無い。
この右手に廃墟と化した浄水場があるが、ここが北幌加小学校の跡地である。
バリケードされていたので、外観を眺めるに留まった。
学校跡地の斜め向かいにある「殉公之碑」。
殉公之碑の裏面。
『昭和四年四月十日當部落道路用砂利採取作業中突如雪盤崩壊左ノ五氏ハ不虞ノ壓死ヲ遂ゲラル其ノ公益事業ノ殉ゼラレタルハ洵ニ敬仰追惜措カサル處ナリ茲ニ區民相圖リ其ノ靈ヲ慰ムルト共ニ功績ヲ後昆ニ傳フ』
『山﨑新吉 三十七才 中川めつい 二十六才 中山正司 十八才 大井トクシ 二十五才 吉原ケイ 三十五才 昭和十五年 第十五區民一同』
学校(浄水場)跡地の小道を進む。
かつての水田風景は畑へと変わり、人々が暮らしていた営みは見つけられなかった。