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七飯町精進川

七飯町精進川(平成30年9月23日・11月3日探訪)

七飯町精進川は硫黄鉱山集落であった。

草創期は雨鱒川鉱山と一緒であるため割愛する。
昭和12年に昭和製鉄株式会社が設立され褐鉄鉱の採掘に着手。昭和14年秋に硫黄鉱床も発見され、硫黄採掘を開始した。
昭和17年日本硫鉄株式会社と社名を変更し、製錬事業の開始とともに昭和18年8月に精進川鉱山の雨鱒川坑(雨鱒川鉱山)と改称したが、昭和19年企業整備により褐鉄鉱のみの採鉱となり、硫黄採掘は休止された。
終戦後、直ちに硫黄の採掘が再開されたが

①昭和28年に発生した鉱毒問題
②労使間の不調
③事業不振 が重なり昭和34年10月に閉山した。

学校の沿革は以下の通りである。

小学校
昭和22年 銚子口小学校精進川分校として開校
昭和27年 精進川小学校と改称(8月)
昭和36年 閉校(3月)

中学校
昭和28年 精進川中学校開校
昭和36年 閉校(3月)

休山後(昭和33年10月)の新聞記事を掲載する。

師走の空の下に⑥ 暗い年越す精進川鉱山 再建夢みて機械整備 孤立の山奥に89世帯
「ちまたにジングルベルが流れ千円札、一万円札のつかみどりなど大にぎわいをしているのに亀田郡七飯町〝日本硫鉄の精進川鉱業所〟には休山してしまった鉱山にしがみついたままきびしい冬をむかえている89世帯の従業員たちがいる。
▽…この鉱山は昭和17年に硫黄、硫化鉄を採るために作られた。資本金は一千万円、硫黄を四国の四国化成へ、硫化鉄を東圧など2、3の工場に出して日本流鉄のたった一つの生産源だった。不況の第一原因は化繊ソーダ関係産業の操業短縮、お得意の四国化成の需要もぐっと落ちた。いま一つは能率の悪い焼取式を新らしい無煙ボイラー式に切りかえたことだ。この方法が成功すればぐんとコスト安になるはずだったが純粋なものができず31年に新設した大きな設備はもう取りはずしてしまった。純度18パーセントから22パーセントの原石からとる硫黄は朝鮮動乱のブーム時はトン当たり7万円もしたのに今年の春あたりから1万6-7千円に暴落、硫化鉄だけなら立派に採算が取れていたのに硫黄部門は1トン造るたびに千七、八百円の赤字がつもった。こんな状態で毎月1200-1500トンの硫化鉄と450トンから490トンの硫黄を生産していたのでいよいよ資金繰りが詰まり9月末には増資して2000万円の会社は燃料、火薬などの代金も含めて215人の債権者に2億円の借金ができてしまった。
 9月末から10月にかけて村上鎮社長以下幹部総出動の融資折衝も効果なく遂に操業を休止、240人近くいた従業員は従業員組合幹部が鉱業所内に散らばっていたスクラップを売ったり積み立てておいた資金から一人当たり2100円ほどの旅費をもらって続々下山、給料4か月分不払いのままそれぞれの知人や親元をたどって散った。しかしこれはほとんど独身者で家族もちは身動きもとれず現在山元に51世帯、鹿部鉱業所に15世帯、池田園の本社近くに28世帯残っている。
▽…会社には一文の金もなく組合にも特別の貯えもないため組合幹部は独力で支庁や道に折衝国有林の払下げや食糧確保に毎日必死の努力を続けている。
 全日本金属鉱山労組から現金40万円、キリスト教奉仕団から小麦粉210袋、軍川の町民から白米45キロなどのカンパが寄せられ、支庁の努力で4カ月分の米が分割払いの形で持ちこまれたが、その他の食糧品、衣料などはまだ心細い。操業中は5キロの山を越えて池田園に抜ける索道が生活必需品を運び8-9キロある軍川への山道も会社のブルドーザーが除雪、何とかトラックも通れた。だが今年は2台あったトラックの1台は借金のカタに押えられ残る1台ももう少し雪が降れば駄目、何時大雪が降るかと心配しながら物資を運んでいるが全部組合資金賄いなのでガソリン代にも頭を悩ましている。
▽…春4月ころまでの陸の孤島になるこの鉱山で一番心配なのは急病人、残留者は12の班を作り自分の班内に病人が出れば責任をもって街までかつぎ下ろす約束ができている。もちろん国民健保も労災もきかない。たった一人いた診療所の医者にはずいぶん残ってくれとたのんだがついに去った。会社が報酬を4カ月分もこげつかせているので無理にはたのめなかったそうだ。残留者の唯一の頼みは毎週水曜日に支払われる失業保険料平均すると1世帯あたり月に1万1千円内外だ。山元の購買所を開いていた軍川の商人は1200万円の貸しを残して引上げた。あれや、これや見渡すかぎり債鬼ばかり、組合も引揚げ旅費立かえなどで大きな債務者だ。秋に野村鉱業が実情調査に来た。これは道に依頼されて現地を見ただけだが、残った人たちは資金のテコ入れがあるかと大きな期待をかけたがこれも無駄、今月17日の債権者会議で再建するという基本方針は決ったがどんな方法で?ということが判るのは来春のこと。まったく孤立した山奥の冬ごもりだ。
 105人の小中学生が山元の小中学校に通っているがいまは61人、親たちは何とか気持ちだけでも明るくと努力しているがやっぱり煙の出ない精錬所と見ては子供の表情も暗い。それでも残った人々は再建の日を夢みて設備はいつでも動かせるように管理に力を注いでいる。」『北海タイムス函館道南版』 昭和33年12月24日



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平成30年9月、道南の廃校廃村探訪でラオウ氏、A.D.1600氏と訪ねた。
精進川の道は頗る悪い。

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宗教法人が買い取り、鳥居を建てたがそれも朽ちていた。

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鳥居をくぐった先は道が何となく良い。
少し進んでみる。

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平坦な土地が広がっていたので住宅等建っていたのは間違いない。

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坑口なども現存していると聞くが、この時はそこまで探さなかった。

1ヶ月弱の時間が流れ、11月3日にラオウ氏と再訪した。
この時、精進川小中学校で教鞭を執っていた方とコンタクトを取り、学校跡地を教えていただくことができた。

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葉もすっかり落ちているので探訪は容易だった。

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精進川と橋。
この橋から程近いところに学校があった。

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橋から歩いて間もなく、学校を紹介した案内板が落ちていた。
「無い」と思われていたものがあったので驚きと興奮が交錯する。

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ピンクテープを頼りに手鎌を持って進む。

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笹薮であるが、かつての道である。
足元が見えないので一歩ずつ、慎重に進む。

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そして、ここが精進川小中学校の跡地である。
学校跡の決め手になったのは、背後の斜面と先生の証言である。

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学校へ続く道は笹薮に覆われており、歩くのも難儀である。

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最後、案内板が建てられていたところの笹を刈り、案内板を「復活」させた。



参考文献
北海タイムス1958「師走の空の下に⑥ 暗い年越す精進川鉱山 再建夢みて機械整備 孤立の山奥に89世帯」『北海タイムス函館道南版』昭和33年12月24日
七飯町1976『七飯町史』七飯町
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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