夕張市登川
夕張市登川(平成25年5月4日探訪)
夕張市登川は、炭鉱で栄えた集落であった。
また、現在の「夕張市」はかつて「登川村」と呼ばれていた。
登川村の役場は当時、岩見沢にあり集落の中心は「夕張炭山」といわれた地区であった。
登川村の呼称は大正7年夕張町、昭和18年4月 夕張市へと変更されている。
登川の炭鉱は明治37,8年頃に発見されたが、詳細は不明である。
明治42年8月 結城虎五郎・飯田延太郎共同で採掘権を取得し、明治43年7月より採炭に着手した。
明治44年 三井鉱山株式会社が登川礦を結城虎五郎・飯田延太郎両名より譲り受けてから炭鉱経営計画を進めた。
この時三井登川炭鉱専用鉄道が開通し、楓-登川間が鉄道で結ばれた。
しかし、当時は教育の施設が無く百余名の児童たちは紅葉山小学校楓分教場(後の夕張市立楓小学校)まで通学しなくてはいけなかった。
このため登川礦は私立小学校設立を計画し、大正2年6月3日 私立 登川小学校が認可され、同年10月28日 開校に至った。
大正5年 楓-登川駅間が延伸開業し、登川駅が開業し、国鉄に移管された。
大正8年11月 それまでの三井鉱山より、北海道炭鉱汽船株式会社の経営に移った。
学校も例外なく移管し、大正14年1月1日 私立登川尋常小学校と改称した。
昭和2年3月23日 それまでの私立より公立へと移管され、公立登川尋常小学校となった。
同年4月1日 高等科が併置され、登川尋常高等小学校となった。
この時の在籍児童数 尋常科 7学級493名 高等科 2学級124名であった。
同年4月24日 楓尋常小学校を併合して楓分教場となった。
後の楓小学校へと繋がるが、独立するのは昭和21年12月1日のことである。
昭和16年4月1日 登川国民学校と改称した。
昭和22年4月1日 夕張市立登川小学校と改称した。
この時の在籍児童数 10学級512名であった。
同年5月1日 夕張市立登川中学校と校舎を共用し始めた。
昭和26年11月11日 校舎の共同使用が解除され、登川中学校は新築移転となった。
昭和34年4月1日 在籍児童数 12学級662名がピークであった。
北炭登川炭鉱は昭和28年に閉山された。隣接している楓集落の楓坑はその後、北炭真谷地炭鉱の傘下に入って操業を続けていたが、昭和62年に閉山を迎えた。
登川は炭鉱の閉山が早かったこともあり、人口は少しずつ減少していった。
鉄道も過疎化の波を受け、昭和56年7月 紅葉山-登川駅間の路線、2代目楓駅、登川駅が廃止された。
昭和61年3月31日 楓小学校・紅葉山小学校・登川小学校が統廃合され、新生の「のぞみ小学校」が開校したが、平成22年3月31日閉校となった。
登川中学校は昭和62年の閉校後、記念碑が建立されていたが小学校は無いままであった。
しかし「あの頃の夕張を求めて」 管理人tomato氏が校章・校名版を見つけ記念碑建立を呼びかけた。
記念碑は平成23年8月6日 除幕式が挙げられ、建立の運びとなった。
記念碑建立に向け、尽力されたtomato氏は平成24年11月28日 逝去された。tomato氏が呼びかけなければ、記念碑建立は無かったかもしれない。
学校の記念碑前にて。
学校跡地は現在、国有地により建立できないので、近くの民有地(中学校記念碑隣接地)に建立された。
小学校の記念碑裏面。
記念碑正面。
はめ込まれている校章や校名版は実物である。
中学校記念碑の裏面。
卒業生総数の多さに驚いた。
中学校跡地は、道路を挟んだ向かい側にあった。
橋を渡った先に学校跡地がある。
これは渡った先で撮ったものである。
本来の生徒昇降口の名残。それとなく判る。
傍には記念製作のオブジェが残されていた。
中学校跡地。だだっ広い平地となっていた。
中学校跡地を後にし、今度は小学校跡地へ行ってみる。
かつては炭鉱住宅、交番や劇場があったが、何もかも無くなってしまっている。
住宅街の跡地を進む。
建物の基礎すら残されていない。
「平地」こそ、人々が暮らしていた唯一の名残である。
小学校跡地が見えた。
中学校と同様、何もなくなっていた。
学校跡地よりさらに進むと、プールが残されている。
久しく使われていないような印象を受けたが、何時頃まで使われたのかは判らなかった。
トイレや脱衣所は傷んできている。
プール自体も掃除をすれば、まだ使えるような印象を受けた。
プール周辺には、家が数軒しか残されていない。
登川バス停留所より。ドームの庇がある建物はJR石勝線の線路である。
炭鉱住宅が建ち並んでいた風景は、忘却の彼方へとなってしまった。
夕張市登川は、炭鉱で栄えた集落であった。
また、現在の「夕張市」はかつて「登川村」と呼ばれていた。
登川村の役場は当時、岩見沢にあり集落の中心は「夕張炭山」といわれた地区であった。
登川村の呼称は大正7年夕張町、昭和18年4月 夕張市へと変更されている。
登川の炭鉱は明治37,8年頃に発見されたが、詳細は不明である。
明治42年8月 結城虎五郎・飯田延太郎共同で採掘権を取得し、明治43年7月より採炭に着手した。
明治44年 三井鉱山株式会社が登川礦を結城虎五郎・飯田延太郎両名より譲り受けてから炭鉱経営計画を進めた。
この時三井登川炭鉱専用鉄道が開通し、楓-登川間が鉄道で結ばれた。
しかし、当時は教育の施設が無く百余名の児童たちは紅葉山小学校楓分教場(後の夕張市立楓小学校)まで通学しなくてはいけなかった。
このため登川礦は私立小学校設立を計画し、大正2年6月3日 私立 登川小学校が認可され、同年10月28日 開校に至った。
大正5年 楓-登川駅間が延伸開業し、登川駅が開業し、国鉄に移管された。
大正8年11月 それまでの三井鉱山より、北海道炭鉱汽船株式会社の経営に移った。
学校も例外なく移管し、大正14年1月1日 私立登川尋常小学校と改称した。
昭和2年3月23日 それまでの私立より公立へと移管され、公立登川尋常小学校となった。
同年4月1日 高等科が併置され、登川尋常高等小学校となった。
この時の在籍児童数 尋常科 7学級493名 高等科 2学級124名であった。
同年4月24日 楓尋常小学校を併合して楓分教場となった。
後の楓小学校へと繋がるが、独立するのは昭和21年12月1日のことである。
昭和16年4月1日 登川国民学校と改称した。
昭和22年4月1日 夕張市立登川小学校と改称した。
この時の在籍児童数 10学級512名であった。
同年5月1日 夕張市立登川中学校と校舎を共用し始めた。
昭和26年11月11日 校舎の共同使用が解除され、登川中学校は新築移転となった。
昭和34年4月1日 在籍児童数 12学級662名がピークであった。
北炭登川炭鉱は昭和28年に閉山された。隣接している楓集落の楓坑はその後、北炭真谷地炭鉱の傘下に入って操業を続けていたが、昭和62年に閉山を迎えた。
登川は炭鉱の閉山が早かったこともあり、人口は少しずつ減少していった。
鉄道も過疎化の波を受け、昭和56年7月 紅葉山-登川駅間の路線、2代目楓駅、登川駅が廃止された。
昭和61年3月31日 楓小学校・紅葉山小学校・登川小学校が統廃合され、新生の「のぞみ小学校」が開校したが、平成22年3月31日閉校となった。
登川中学校は昭和62年の閉校後、記念碑が建立されていたが小学校は無いままであった。
しかし「あの頃の夕張を求めて」 管理人tomato氏が校章・校名版を見つけ記念碑建立を呼びかけた。
記念碑は平成23年8月6日 除幕式が挙げられ、建立の運びとなった。
記念碑建立に向け、尽力されたtomato氏は平成24年11月28日 逝去された。tomato氏が呼びかけなければ、記念碑建立は無かったかもしれない。
学校の記念碑前にて。
学校跡地は現在、国有地により建立できないので、近くの民有地(中学校記念碑隣接地)に建立された。
小学校の記念碑裏面。
記念碑正面。
はめ込まれている校章や校名版は実物である。
中学校記念碑の裏面。
卒業生総数の多さに驚いた。
中学校跡地は、道路を挟んだ向かい側にあった。
橋を渡った先に学校跡地がある。
これは渡った先で撮ったものである。
本来の生徒昇降口の名残。それとなく判る。
傍には記念製作のオブジェが残されていた。
中学校跡地。だだっ広い平地となっていた。
中学校跡地を後にし、今度は小学校跡地へ行ってみる。
かつては炭鉱住宅、交番や劇場があったが、何もかも無くなってしまっている。
住宅街の跡地を進む。
建物の基礎すら残されていない。
「平地」こそ、人々が暮らしていた唯一の名残である。
小学校跡地が見えた。
中学校と同様、何もなくなっていた。
学校跡地よりさらに進むと、プールが残されている。
久しく使われていないような印象を受けたが、何時頃まで使われたのかは判らなかった。
トイレや脱衣所は傷んできている。
プール自体も掃除をすれば、まだ使えるような印象を受けた。
プール周辺には、家が数軒しか残されていない。
登川バス停留所より。ドームの庇がある建物はJR石勝線の線路である。
炭鉱住宅が建ち並んでいた風景は、忘却の彼方へとなってしまった。
夕張市真谷地
夕張市真谷地(平成25年5月4日探訪)
夕張市真谷地は、炭鉱で栄えた集落であった。
真谷地市街バス停がある三区と真谷地六区は今も居住者がいるが、それ以外(真谷地一区・二区・四区・五区)はすべて自然に還ってしまっている。
元々の炭鉱開発は明治23年10月 藤村紫朗・増田潤両名の試掘権が決定したところから始まった。
その後数名の名義人の変更を経て、明治28年頃に頭山満・金子元三郎の両名になり「クリキ炭山」(クルキ炭山)と呼ばれていた。
明治38年 北海道炭鉱鉄道会社(後の北海道炭鉱汽船・北炭)が買収して「真谷地炭鉱」と改称された。
学校は明治40年1月6日 夕張郡沼の沢教育所所属真谷地特別教授場として開校した。
開校当初は真谷地一区の鉱員住宅に、児童92名を収容した。
明治43年5月26日 特別教授場より真谷地尋常小学校と改称し、独立校となったが、校舎は仮校舎であった。
大正4年3月20日 現在地に校舎が新築され、仮校舎より移転した。
大正14年4月1日 夕張郡真谷地尋常高等小学校と改称、高等科が併置された。
昭和15年4月1日 教室不足により1・2・3・4学年については「二部授業」を実施した。それだけ多くの児童が在籍していたことである。
昭和16年4月1日 夕張郡立真谷地国民学校と改称。
同年6月7日 分教場新築移転により、二部授業が解除された。
この「分教場」は大正8年4月1日 三区の鉱員住宅1戸を借りて二学級編成したところから始まった。後の「真谷地西小学校」である。
昭和19年4月1日 夕張市真谷地国民学校と改称。
昭和23年4月1日 夕張市真谷地小学校と改称し、中学校を併置した。
中学校は昭和27年1月1日まで置かれていたが、沼の沢中学校と統合し「夕張市立向陽中学校」として開校した。
その向陽中学校は昭和62年 登川中学校が統合し「夕張市立緑陽中学校」となるが緑陽中学校は平成22年3月31日 閉校する。
昭和35年9月25日 開校50周年記念式典が挙行され、校歌制定、校旗・中庭が整備された。
昭和45年11月29日 開校60周年記念式典が挙行された。
しかし、その5年後 昭和50年3月23日 閉校式が挙行された。
このことについて、真谷地で生まれ育った木村繁夫氏はこう話す。
「…当時一区は既に殆んど人もなく二区、三区の人たちの大半は山を下りていった。人も少なくなり、将来の見通しも立たないことから閉校を決めた。校舎は閉校後、そう日も経たないうちに解体された…。」
真谷地小学校の手前に、統合先である真谷地西小学校がある。
真谷地西小学校は昭和60年3月31日 沼の沢小学校と統合され、新生である「夕張市立緑小学校」が沼の沢小学校跡地に誕生する。
しかし、その緑小学校も平成23年3月31日付で閉校となった。
大きな学校跡地。
ここは昭和28年から昭和42年にかけて、定時制の真谷地高等学校(設置当時は市立夕張南高等学校真谷地分校)が併置されていた。
校門の裏面には、当時の児童の作品が残されていた。
校庭の片隅に、真谷地西小学校の記念碑が建立されている。
ここは道路沿いにあるので、比較的探訪しやすい学校跡地である。
目的の真谷地小学校は真谷地西小学校、真谷地市街地、真谷地炭鉱総合繰込所(跡)の先にある。
北炭真谷地炭鉱専用軌道より。
この先に炭鉱の中枢部であった「総合繰込所」があったが、平成19年から翌 20年にかけて解体された。
ここに繰込所があったが綺麗に無くなっている。
平成17年8月19日 手前の資材倉庫(繰込所が完成するまで事務所として活用)を探訪した。
もう、見ることの出来ない建物である。
そして、総合繰込所である。
内部は備品が放置されていた。
閉山後は、地元の業者が倉庫として転用していた。
炭鉱の浴槽も既に無い。
総合繰込所を後にして、学校跡へ進む。
途中、対岸の集落風景を眺める。
真谷地四区と思われる。
ふと見ると、橋梁のような基礎を見つけた。
「往時は橋(人道橋?)が架かっていて渡れたのでしょうね」などと話しながら見渡した。
この道をまっすぐ進むと、早くに無人化した一区、さらに奥にあった上の沢集落へと続く。
目的の真谷地小学校は右の、下りの道へ進む。
「この先に学校があったのだろうか」と思いながら下る。
普段は申し訳程度の水が流れている沢も、雪解け水で増水していた。
探訪仲間であるウィンデー氏がストックを持ってきてくれたので、ストックで足元を突きながら渡る。
川を渡った先の風景。
学校跡はこの先である。
通学路は廃道となっている。
「もう少しですよ」の言葉を信じ、前へ進む。
学校の記念碑は、隣接していた神社の境内にある。
これはその神社へと続く参道である。
そして、記念碑が姿を現した。
夏場なら、ササで隠れて見えないだろう。
背後の、太い木の幹のところに拝殿があった。
記念碑の台座の土を取り除く。
土に隠れていたせいか、かえって綺麗な状態を保っていた。
神社の隣接地に学校があった。
しかし現在は植林されており、尚且つ自然に還ってしまっているので、夏場の探訪は非常に難しい。
かつての学舎は、もう自然に還ってしまっていた。
夕張市真谷地は、炭鉱で栄えた集落であった。
真谷地市街バス停がある三区と真谷地六区は今も居住者がいるが、それ以外(真谷地一区・二区・四区・五区)はすべて自然に還ってしまっている。
元々の炭鉱開発は明治23年10月 藤村紫朗・増田潤両名の試掘権が決定したところから始まった。
その後数名の名義人の変更を経て、明治28年頃に頭山満・金子元三郎の両名になり「クリキ炭山」(クルキ炭山)と呼ばれていた。
明治38年 北海道炭鉱鉄道会社(後の北海道炭鉱汽船・北炭)が買収して「真谷地炭鉱」と改称された。
学校は明治40年1月6日 夕張郡沼の沢教育所所属真谷地特別教授場として開校した。
開校当初は真谷地一区の鉱員住宅に、児童92名を収容した。
明治43年5月26日 特別教授場より真谷地尋常小学校と改称し、独立校となったが、校舎は仮校舎であった。
大正4年3月20日 現在地に校舎が新築され、仮校舎より移転した。
大正14年4月1日 夕張郡真谷地尋常高等小学校と改称、高等科が併置された。
昭和15年4月1日 教室不足により1・2・3・4学年については「二部授業」を実施した。それだけ多くの児童が在籍していたことである。
昭和16年4月1日 夕張郡立真谷地国民学校と改称。
同年6月7日 分教場新築移転により、二部授業が解除された。
この「分教場」は大正8年4月1日 三区の鉱員住宅1戸を借りて二学級編成したところから始まった。後の「真谷地西小学校」である。
昭和19年4月1日 夕張市真谷地国民学校と改称。
昭和23年4月1日 夕張市真谷地小学校と改称し、中学校を併置した。
中学校は昭和27年1月1日まで置かれていたが、沼の沢中学校と統合し「夕張市立向陽中学校」として開校した。
その向陽中学校は昭和62年 登川中学校が統合し「夕張市立緑陽中学校」となるが緑陽中学校は平成22年3月31日 閉校する。
昭和35年9月25日 開校50周年記念式典が挙行され、校歌制定、校旗・中庭が整備された。
昭和45年11月29日 開校60周年記念式典が挙行された。
しかし、その5年後 昭和50年3月23日 閉校式が挙行された。
このことについて、真谷地で生まれ育った木村繁夫氏はこう話す。
「…当時一区は既に殆んど人もなく二区、三区の人たちの大半は山を下りていった。人も少なくなり、将来の見通しも立たないことから閉校を決めた。校舎は閉校後、そう日も経たないうちに解体された…。」
真谷地小学校の手前に、統合先である真谷地西小学校がある。
真谷地西小学校は昭和60年3月31日 沼の沢小学校と統合され、新生である「夕張市立緑小学校」が沼の沢小学校跡地に誕生する。
しかし、その緑小学校も平成23年3月31日付で閉校となった。
大きな学校跡地。
ここは昭和28年から昭和42年にかけて、定時制の真谷地高等学校(設置当時は市立夕張南高等学校真谷地分校)が併置されていた。
校門の裏面には、当時の児童の作品が残されていた。
校庭の片隅に、真谷地西小学校の記念碑が建立されている。
ここは道路沿いにあるので、比較的探訪しやすい学校跡地である。
目的の真谷地小学校は真谷地西小学校、真谷地市街地、真谷地炭鉱総合繰込所(跡)の先にある。
北炭真谷地炭鉱専用軌道より。
この先に炭鉱の中枢部であった「総合繰込所」があったが、平成19年から翌 20年にかけて解体された。
ここに繰込所があったが綺麗に無くなっている。
平成17年8月19日 手前の資材倉庫(繰込所が完成するまで事務所として活用)を探訪した。
もう、見ることの出来ない建物である。
そして、総合繰込所である。
内部は備品が放置されていた。
閉山後は、地元の業者が倉庫として転用していた。
炭鉱の浴槽も既に無い。
総合繰込所を後にして、学校跡へ進む。
途中、対岸の集落風景を眺める。
真谷地四区と思われる。
ふと見ると、橋梁のような基礎を見つけた。
「往時は橋(人道橋?)が架かっていて渡れたのでしょうね」などと話しながら見渡した。
この道をまっすぐ進むと、早くに無人化した一区、さらに奥にあった上の沢集落へと続く。
目的の真谷地小学校は右の、下りの道へ進む。
「この先に学校があったのだろうか」と思いながら下る。
普段は申し訳程度の水が流れている沢も、雪解け水で増水していた。
探訪仲間であるウィンデー氏がストックを持ってきてくれたので、ストックで足元を突きながら渡る。
川を渡った先の風景。
学校跡はこの先である。
通学路は廃道となっている。
「もう少しですよ」の言葉を信じ、前へ進む。
学校の記念碑は、隣接していた神社の境内にある。
これはその神社へと続く参道である。
そして、記念碑が姿を現した。
夏場なら、ササで隠れて見えないだろう。
背後の、太い木の幹のところに拝殿があった。
記念碑の台座の土を取り除く。
土に隠れていたせいか、かえって綺麗な状態を保っていた。
神社の隣接地に学校があった。
しかし現在は植林されており、尚且つ自然に還ってしまっているので、夏場の探訪は非常に難しい。
かつての学舎は、もう自然に還ってしまっていた。