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江別市新野幌

江別市新野幌(平成31年4月14日・21日・29日探訪)

江別市新野幌は戦後開拓集落である。

通称「野幌原始林」と呼ばれていた地域に昭和21年度から23年度にかけ第1から第5の集落に分けて順次、入植者が現れ始めた。入植者の主な出身は以下の通りである。

第1集落 札幌糧秣廠軍人軍属42戸
第2集落 被服支廠32戸
第3集落 兵器支廠・海外引揚者・官庁退職者13戸
第4集落 厚別及び東西野幌の農家次男三男16戸
第5集落 満洲引揚者12戸

当時、入植地に学校が無かったため子どもたちは入植地に近い学校を個々に選び通学していた。通学していた学校は野幌小学校・大麻小学校・小野幌小学校・西の里小学校である。
また、新野幌の開拓の特色として根曲り竹や根株の除去に際し火薬を用いた抜根作業が行われたことにより急速な進捗を計ることができた。
学校建設は江別町が該当したが、町の予算を使うことが困難であったため地元開拓者の手によって学校建設が昭和22年4月より始まり、翌年6月に完了、昭和23年7月に開校した。

学校の沿革は以下の通りである。
昭和23年 開校(7月)
昭和41年 閉校(3月)

集落の主要出来事は以下の通りである。
尚、電気の導入はそれぞれの集落で違うので別に記した。
昭和21~23年度 入植
昭和23年     新野幌小学校開校(7月)
昭和24年     集落単位で開拓農業協同組合を設立(4個の連合会)
昭和27年頃    抜根・農道の新設工事終了
昭和29年     4個の開拓農業協同組合連合会を解散、新野幌地区開拓農業協同組合設立
昭和32年     暗渠排水工事完了
 同年       水道敷設完了
昭和34年      小野幌停留所より国鉄バスの運行開始
昭和36年      第3を除く全戸に有線放送電話設置
 同年       新野幌小学校に公衆電話架設

電気の導入は以下の通りである。
昭和22年 第3集落
昭和23年 第4集落
昭和24年 第2集落
昭和29年 第1集落
昭和38年 第5集落

閉校時の記事を掲載する

きょう最後の卒業式 新野幌小 〝母校よ、さようなら〟18年の歴史に幕 9人の児童寂しそう
「【江別】〝ホタルの光、窓の雪-〟と卒業式を兼ねた廃校式を20日にひかえ、新野幌小学校(八十木信義校長)の全児童9人の予行練習の歌声がまだ雪深い野幌原始林にさびしく吸い込まれる。
東田先生を囲んでみんなが歌うのもこれが最後。新学期からは6人の在校生と新入予定の1人が、ここから約4キロ離れた野幌小(諏訪田武校長、児童140人)へ転校していく。
同校は野幌原始林の真ん中にある2学級編成で、昭和23年に開拓農家82戸が入植していらい18年間にわたってその子弟の教育に尽くしてきた。しかし、営農不振がたたって若い人のなかに離農者がふえ、通学児童も32年の49人をピークに減少してゆき、ここ数年間の新入児は1人ないし皆無という状態。ことしは新学期からの在籍数がたった7にんになるため市教委は廃校に踏み切った。
 八十木校長(49)は『部落としては残念だが、子供の将来を思うとやむをえない』と複雑な表情で、同校に11年勤続の東田美恵教諭(55)も『とうとうお別れの日がきた』と悲しそう。2人の先生は同校の〝思い出〟にと記念の写真と、児童の感想文を織り込んだアルバムを作ったが、その中で4年生の菊地敏子さんは『一番心配なのは冬の通学路です。まだ幼い友だちもいますので、市長さんに満足な通学ができるようにお願いします』と訴えている。転校先への学校へは遠い児童で約6キロ、近くても4キロもあるだけに児童たちにとって登下校がなにより心配なのだ。
いま同校では3人の最後の卒業生を送り出そうと式場の準備や備品の整理に忙しいが、小さいながらみんなをやさしく包んでくれた学校にさようならする悲しさでいっぱいだ。廃校式は20日午後1時から、松川市長、前任各校長ら70人の来賓を迎え行われる。」(北海道新聞札幌近郊版昭和41年3月20日)

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4月14日、下見(その1)で残雪状況を確認した。

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4月21日、下見(その2)で学校跡地付近までの積雪量を確認した。
14日・21日とも図書館で調べ物を終えた後、大沢口より訪れた。

平成が間もなく終わろうとする4月29日、A.D.1600氏、きたたび氏と訪れた。
この日は学校から一番近い登満別口より訪れた。

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学校跡地。
この正面に校舎があり、傍に教員住宅があった。

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校舎の建っていた辺りを見るが、基礎は残っていなかった。

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学校手前の屋敷跡を歩くと、レンガの基礎があった。

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屋敷の基礎と思われるが、一同感嘆の声を挙げる。

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建物の基礎がはっきりと残っていた。

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近くにはレンガでできた貯水槽もあった。

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屋敷跡には角ビンなどが落ちている。

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碍子も落ちていた。

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石炭置場跡。
石炭が散乱していた。

現在は野幌森林公園として行き交う人びともいるが、人びとの暮らした営みははっきりと残っていた。

参考文献

北海道新聞1966「きょう最後の卒業式 新野幌小 〝母校よ、さようなら〟18年の歴史に幕 9人の児童寂しそう」『北海道新聞札幌近郊版』昭和41年3月20日
新野幌地区開拓農業組合1965『苦闘 新野幌開拓20周年記念誌』新野幌地区開拓農業組合

豊浦町上泉

豊浦町上泉(平成30年6月10日探訪)

豊浦町上泉は農村集落である。

明治40年 北海道開拓計画に基づき貸付地として弁辺原野約100戸分(5万町歩)を区画、明治41年狩太より神山富次郎、成松万五郎、桜地区より石神鶴松、藤井、広田の5戸が入植した。
明治45年1月、弁辺原野1783番地に校舎が建設され、同年6月弁辺原野特別教授所として開校。
東集落と西集落の氏神を合祀して春日神社を創設、昭和7年上泉神社となった。
上泉集落の主要産業は大正末期にはソバ・ヒエ・アワから豆類作付やデンプン製造に変化し、上川・藤川・田中・島貫・成松・愛沢・宮地の各デンプン製造所が開設された。
学校の沿革は以下の通りである。

小学校
明治45年 弁辺原野特別教授所として開校(6月)
大正 2年 弁辺原野教育所と改称(9月)
昭和 7年 上泉尋常小学校と改称(7月)
昭和16年 上泉国民学校と改称(4月)
昭和22年 上泉小学校と改称(4月)
昭和55年 休校(3月)
平成12年 閉校(3月)

中学校
※中学校は昭和24年11月から冬季仮分教場として上泉小学校に併置、小学校長が分校主として冬季間だけ授業が行われていた。
昭和35年 開校(4月)
昭和47年 閉校(3月)

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平成30年6月、HEYANEKO氏と北大の学生とで訪れた。
学校跡地には会館と鮭の孵化場、校門が残る。

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会館は今でも使われている。

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学校前の風景。
家屋が点在する高度過疎集落である。

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学校前には広大な畑が広がっていた。



参考文献
渡辺茂1972『豊浦町史』豊浦町
新・豊浦町史編集委員会2004『新豊浦町史』豊浦町
「角川日本地名大辞典」編集委員会1987『角川日本地名大辞典1-[1]北海道上巻』角川書店

古平町稲倉石

古平町稲倉石(平成30年6月9日探訪)

古平町稲倉石は鉱山集落であった。

明治18年大井嘉蔵・猪股五平・和田清作の3名が川に木を流していたとき川岸で金の鉱石が地表に現れているのを発見した。当初は「大股鉱山」と名付けられたが資金難のため間もなく中止した。
明治22年5月ごろ、北海道鉱山株式会社が買収し、試掘したところ金鉱の鉱脈から銀の含有量が多かったことから金・銀・銅鉱山として操業した。最盛期は従業員300人を超えていたが日清戦争後の不況により経営が悪化し、明治33年廃坑となる。
明治36年、田中鉱業株式会社が買い、高田為五郎が採掘と精錬に当たった。精錬は当初、然別鉱山へ運び委託していたが産出量も増えていったので稲倉石に精錬所を造った。
明治42年、然別鉱山経営者の小田良治所有となったが日露戦争後、外国からの金の輸入が増えたため明治44年に再び廃坑となる。
大正6年、函館の国屋忠五郎が鉄の精錬にマンガンの需要が高まってきたことに目をつけ、稲倉石鉱山からマンガンを掘り出し販売したが、第一次世界大戦後の需要低下により価格は暴落した。
大正7年、久原鉱業株式会社(後の日本鉱業株式会社)が捨てられていたマンガン鉱石に目をつけ、鉱山を買収するも、収支が償わないので大正9年に中止し休山した。
昭和4年、株式会社鉄興社が買収した。当時、鉄興社は鉄の精錬に必要な『フェロアロイ』といわれる製品を製造しており、事業拡大の計画や原料の確保のため大きなマンガン鉱山を手に入れる必要があった。
昭和5年4月、石川利雄が所長として赴任し、事務所兼所長住宅や従業員住宅の建設、選鉱場、焙焼炉の整備を急ぎ、採鉱をしながら新しい鉱脈を探したがフェロアロイが安価に輸入され始めたためマンガン鉱石の需要は急減。昭和6年2月出荷を停止し全職員は一時古平市街に降りて待機することとなった。その後、二酸化マンガンを製造する原料として使用することから8月に全従業員が元山に戻り、9月から作業を再開した。
昭和9年2月、鉄興社は稲倉石鉱山の経営を本社から分離して稲倉石鉱山株式会社を設立したが同年10月に鉄興社に吸収合併された。これは、鉄興社の増資のためであった。
 昭和15年9月、日独伊三国軍事同盟が締結されると同時にマンガン鉱石の輸入が途絶えたため、稲倉石鉱山のマンガン鉱石は日本にとって極めて重要なものとなる。昭和19年の北海道内マンガン生産量第1位(8万2千トン余り)を記録、昭和28年に上ノ国鉱山が第1位になるまで続いた。
 戦後、これまでの需要が途切れたため生産を中止し、規模も縮小したが昭和22年頃よりフェロアロイの需要が伸び始め、生産を再開した。
昭和38年をピークに、フェロアロイの需要減少や鉱脈の先細り、安価な鉱石の輸入が重なり赤字を抱えるようになった。
昭和45年、日本鉱業株式会社の仲介により子会社の北進鉱業へ売山することになり、大江鉱山との合併が決まった。
その後、昭和59年9月に閉山。また鉄興社も経営不振から原料吸収先の東洋曹達株式会社に吸収された。

学校の沿革は以下の通りである。

小学校
昭和 9年 稲倉石尋常小学校として開校(4月)
昭和11年 校舎移転(5月)
昭和16年 稲倉石国民学校と改称(4月)
昭和17年 高等科併置(3月)
昭和18年 稲倉石青年学校(私設)を併置(9月)
昭和22年 稲倉石小学校と改称(4月)
昭和28年 校舎移転(7月)
昭和52年 閉校(3月)

中学校
昭和22年 稲倉石中学校開校(5月)
昭和46年 閉校(3月)

鉱山の施設建築、集落関係は以下の通りである。
昭和 9年 第一策道 元山-堤の沢間運転開始(9月)
昭和12年 稲倉石消防組合結成(12月)
昭和15年 元山-堤の沢索道を港町まで延長(9月)
        稲倉石郵便局開局(12月)
昭和17年 6万ボルト変電所新設(7月)
昭和18年 出戸の沢選鉱所第2索道が運転開始(8月)
昭和19年 稲倉石から余市まで第3索道の建設着手(7月)(注1)
昭和26年 重液選鉱設備完成(8月)
昭和29年 粉鉱の焼結設備完成(3月)
昭和32年 中央バスが稲倉石まで定期バス運行開始(5月)
昭和34年 6200トン浮遊選鉱設備完成(9月)
昭和39年 テレビ共同視聴のためテレビ組合結成(10月)
       索道運転からトラック輸送に切り替え(12月)
昭和40年 旧校舎を改装して保育園開園(6月)
昭和50年 稲倉石郵便局廃局(3月)

中学校の閉校記事を掲載する

9人で最後の卒業式 古平 統合・閉校の稲倉石中
『【古平】町市街地から13キロほど離れたマンガン鉱山の学校、稲倉石中学校(藤田行雄校長、生徒数17人)の閉校式が14日行われ、同校は開校24年の歴史を閉じて今月限りで閉校、4月から町の中心校、古平中学校に統合されることになった。
同校は昭和22年5月1日に稲倉石小学校に併置で開校した。当時は生徒数わずか5人だったが、鉱山とともに発展、同37年ごろは89人に上った。しかしその後の合理化で漸減をたどり、昨年5月山が仁木町然別の北進鉱業大江鉱業所に買収され、職員の大幅転換に伴って生徒数は17人に減ってしまった。
このため昨年5月から2学級に縮小、複式授業を続けていたが『中学の複式授業では高校進学が心配だから大規模校に統合を-』というPTAの陳情もあって、もよりの古平中学と統合に踏み切った。
同校最後の卒業式は卒業生9人(男5人、女4人)に卒業証書を渡して閉校式に移った。
伊藤町長をはじめ町教育委員、歴代校長、父母ら多数が出席。高野町教育委員長、町長、藤田校長、吉田PTA会長らが『伝統ある母校がなくなることはたまらなく寂しいことだが、心を新たに勇気を振るい起こし、新たな古平中学で稲倉石魂を発揮して勉強して下さい。古平中学では大勢の友だちが手を広げて待っている』と生徒たちを励ました。
吉田PTA会長は涙ぐんで話がと切れがち。父母、先生たちもしきりと感涙をぬぐっていた。生徒たちも感無量の表情だったが、なつかしい『ふるさと』を歌って、思い出多い母校に別れを告げていった。』(「北海道新聞後志版」昭和46年3月16日)

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平成30年、HEYANEKO氏と訪れた。
砂利の採石場となっているが、ここが学校跡である。

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集落へ続く道。
草木が生い茂っているが先へ進む。

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やがて「通行止」となった。
クルマは諦めて徒歩で行く。

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事前に得た情報で「ジャングルジム」が残されていると聞いたが、この時は見つけられなかった。
その後、ジャングルジムのある場所は移転前の学校跡地で、保育園として転用されたことが分かった。

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突き当り付近のコンクリート構造物、草木が生い茂っていたので手鎌で少し刈り取った。
次は草木が茂る前に再訪してみたいものである。


参考文献
北海道新聞1971「9人で最後の卒業式 古平 統合・閉校の稲倉石中」『北海道新聞後志版』昭和46年3月16日
古平町史編纂委員会1998『古平町史第3巻』古平町

七飯町精進川 A先生&0氏の証言

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往時の精進川鉱山(日本硫鉄株式会社精進川鉱業所)
奥の建物は鉱山精錬所、手前の建物は購買

『鉱山の精錬・硫黄の用途について』
鉱石を掘ってトロッコで精錬所に運んでいたが、この時は硫黄以外にも色々なものが含まれている。
熱を加えて大きな窯に鉱石を入れ燃やす。そうすると硫黄と硫黄以外の燃えカスの煙に分かれる。硫黄だけが溶かされ、パイプを通してドラム缶に流れ込み、空気に触れることで再び固形化していった。この作業は2交代制であった。
採掘された硫黄は薬品や火薬で使われていたが、戦後発破、花火、薬に使われるようになった。
しかし、儲けも少なくなり閉山に至った。

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精進川鉱山跡地。坑口はこの先にある

『昭和28年の鉱毒問題について』
昭和28年 麓の開進社(注1)で鉱毒問題が起きた。「第2の足尾鉱毒事件」と呼ばれ、当時の町会議員S氏が中心となり会社側と話し合いを進めた結果、会社側が全面的に負担して溜池をつくり鉱毒が流れ込まないようにした。

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精進川

『精進川集落について』
風呂は長屋の人、鉱山労働者も無料で入浴できた。近くに床屋、購買、風呂の向かい側に50数戸の家が建ち並んでいた。購買は通帳で買い、給料から天引きされていく。
鉱山労働者の寮、職員寮、独身寮、鉱山労働者と職員の食堂があった。
私(教員)は職員の食堂で食事していたが、40~50人は入れる広さであり、賄婦は1人であった。

『精進川の暮らしについて』
鉱山労働者の長屋は1間、台所は別、石炭も部屋の中に入れ、トイレは外。
労働者のなかで少し偉いところは部屋と部屋の間にトイレがあった。
池田園駅近くに職員住宅があり、職員は自転車で通勤していた。また、索道が延びており、硫黄は索道で運ばれて池田園で卸していた。
冬は雪が多く、何処の家でも玄関にムシロを下げていた。防寒対策として、角まきで顔を覆っていた。
今のように笹や木々が生い茂らず、草原だった。家から駒ヶ岳が見えていた。
精進川は山菜も豊富で、グミ、野イチゴ、タケノコ、ウド、ヤマブドウが採れた。

『精進川で起きた事故』
ある年の冬、川に氷が貼っていたので子供が渡ろうとしたら氷が割れ、川に落ちてしまい亡くなった。
以来、冬の川渡りは無くなった。
また、発破かなにかで足を切断した人がいた。診療所は常勤医がいないので麓(七飯か函館)の病院へ運ばれていった。

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鳥居とその手前の道
向かって右側が鉱員住宅や浴場、左側に職員住宅があり、S字カーブであった

『精進川小中学校について』
学校は鉱山が建てた。当時、ほかの学校では真似できないくらい教材が豊富にあった。校舎は閉校してから1~2年のうちに解体された。
校舎は廊下を挟んで小学校、中学校。グランドは階段を降りて行くが広かった。
運動会は子供より大人の数が多かった。

(注1)現在の東大沼である。

写真 平成30年9月23日・11月3日撮影

聞き取り内容

『鉱山の精錬・硫黄の用途について』『昭和28年の鉱毒問題について』『精進川集落について』 A先生 
平成30年11月3日 七飯町内にて
『精進川の暮らしについて』『精進川で起きた事故』O氏 平成31年4月7日 函館市内にて

『精進川小中学校について』A先生&O氏より

往時の精進川鉱業所の写真 北海タイムス1958「師走の空の下に⑥ 暗い年越す精進川鉱山 再建夢みて機械整備 孤立の山奥に89世帯」『北海タイムス函館道南版』昭和33年12月24日

仁木町得志内

仁木町得志内(平成29年4月4日・平成30年6月9日他探訪)

仁木町得志内は戦後開拓の集落である。
得志内は国有林地が解放され、樺太からの引揚者や戦災で家を失った人たちなどが昭和21年より入植した。昭和26年で10戸暮らしていた。
学校の沿革は以下の通りである。

昭和26年 仁木小学校得志内分校開校(4月)
昭和41年 閉校(3月)

閉校記事を掲載する。
離農者多くついに廃校 仁木小得志内分校
「【余市】仁木市街から4キロほど離れた開拓地の仁木小得志内分校は、離農者が続出して児童が2人しかいなくなったため15年間の歴史にピリオドを打ち、30日、同校で廃校式を行った。
得志内は戦後、開拓者が入植、それに伴い26年、同分校が開校した。しかし、やせ地と打ち続く冷害のため開拓をあきらめ離農者が続出、一時は15、6戸もあった開拓農家もいまは2戸。これも離農が決定した。これまで同分校を卒業したのは30数人だが、ことしはたった1人。あと残るは新入学児と4年生の2人のみとなり、廃校に踏み切った。2人は本校(仁木小)に通うことになる。
30日は猛ふぶきのため分校までの道が不通となり廃校式も半日遅れるという状態。それでも町長、教育長、PTA役員、父母、児童ら10数人が出席。柏三次郎主任(60)らのあいさつがあり、高木町長から柏主任、谷口稔初代PTA会長に感謝状が贈られ、ひっそりとした廃校式だった。」(北海道新聞後志版昭和41年4月2日)

平成26年夏、大学生の頃に先生と一緒に初訪問を果たしたが、この時は学校跡地を間違えていた。
月日が流れ、平成29年4月に2回目の探訪を果たす。

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仁木駅から歩き、手前の最終人家方面を望む。

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残雪が多いが進む。

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地形図の文マークはこの辺りを指しているが、単独なのでこの時は自信がなかった。

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学校跡地周辺?の風景

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残雪の多さに驚きつつ、得志内をあとにした。

さらに月日が流れ、平成30年6月にHEYANEKO氏と3度目の再訪を果たす。
地元の方に話を伺うと、分校より奥に20戸ほどあったとのことである。

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HEYANEKO氏と旧版地形図を見て「ここが学校跡」と分かった。

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生い茂る草を手鎌で切り、進む。

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学校跡地はフキと笹薮になっていた。

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野生化した防風林だけが残っていた。

参考文献

北海道新聞1966「離農者多くついに廃校 仁木小得志内分校」『北海道新聞後志版昭和41年4月2日』
仁木町教育委員会2000『新仁木町史』仁木町
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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