留辺蘂町上金華
留辺蘂町上金華(令和元年7月28日探訪)
留辺蘂町上金華は農村集落である。
大正5年2月20日、宮田仲太郎率いる愛媛団体29戸が入植した。
当時は密林で道路もなく、自然条件の厳しさから大正7年には25戸に減少した。
同年、奔武華(現在の金華)に特別教授場(後の金華小学校)が設置された。大正9年上武華8号線まで村道が開通したので通学できるようになったが、それでも6キロ以上の道であった。
大正時代の主要作物は山麦、裸麦、バレイショであったが昭和に入ってからハッカが栽培されるようになった。
また、京都府出身の9戸が戦後開拓で上金華に入植した。
昭和25年、地元選出の町議宮田仲太郎が町当局や議会に働きかけ、昭和26年4月上金華小学校設立の認可を得、昭和26年4月開校した。
昭和34年頃まで冬季造材事業があり、林業で収入を得ていたが造材事業がなくなり昭和38年には児童数7人まで減少し、閉校した。
昭和40年2戸、41年2戸、42年1戸、43年2戸転出し、無住化集落となり旧愛媛団体の開拓地跡は落葉松などが植林された。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和26年 開校(4月)
昭和38年 閉校(3月)
昭和31年の校下の概況を抜粋して紹介する。
人口 109名(男54名 女55名)
戸数 17戸(内通学児童を有する家7戸)
職業 純農家13 その他教員1 その他3
出身地 愛媛県8 富山県2 宮城県1 山形県3 京都府3
令和元年7月、お世話になっているA.D.1600氏と上金華を訪ねた。
愛媛団体入植記念碑と、馬頭観世音の碑(昭和15年建立)がある。
愛媛団体の入植記念碑。
碑文
梅の花ほころぶ郷里の南国伊豫をあとにして八日目一、九一六年(大正五年)二月一二日薄暮。北海度いう開拓集団移民に応募した二十九戸百二十余人(団体長宮田仲太郎)この地上ポンムカに入植する。積雪二メートル、寒威骨を刺す厳冬と木の葉がくれに僅かに空をのぞく昼なお暗い密林が団体員を迎える。全域砂礫地帶。「五町歩の大地主」を夢みる開拓者の意欲を拒み続ける。一、九六九年(昭和四十四年)までに全戸離農、愛媛団体開拓半世紀余の歴史を閉じる。
一、九八〇年四月建立 愛媛県人会 宮田家一同
入植者氏名
宮田仲太郎 日和佐雄之助 日和佐道太郎 大西松太郎 大西六助 杉野竹五郎
山内国助 曽我部カネ 玉井喜一 渡部茂市 鎌田重平 堀 藤吉 越智彦作
渡辺巻三郎 越智庄太郎 伊藤八造 戸田亀吉 渡辺房六 渡辺熊四郎 江原政吉
長野吉太郎 黒川直藏 矢野春太郎 山内庄吉 山内武四郎 山内八五郎 山内柳助
十亀武五郎 近藤角太郎 以上 二十九戸百二十名
「上金華」の名前が残る林道。
学校はこの先にある。
学校跡の記念碑。
学校跡地より振り返る。
植林された木々が続いている。
開けた高台より集落を望む。
『金華区史』には神社もあったが見つけることが出来なかった。
参考文献
留辺蘂町金華区史編集委員会1999『金華区史』留辺蘂町金華区史編集委員会
留辺蘂町上金華は農村集落である。
大正5年2月20日、宮田仲太郎率いる愛媛団体29戸が入植した。
当時は密林で道路もなく、自然条件の厳しさから大正7年には25戸に減少した。
同年、奔武華(現在の金華)に特別教授場(後の金華小学校)が設置された。大正9年上武華8号線まで村道が開通したので通学できるようになったが、それでも6キロ以上の道であった。
大正時代の主要作物は山麦、裸麦、バレイショであったが昭和に入ってからハッカが栽培されるようになった。
また、京都府出身の9戸が戦後開拓で上金華に入植した。
昭和25年、地元選出の町議宮田仲太郎が町当局や議会に働きかけ、昭和26年4月上金華小学校設立の認可を得、昭和26年4月開校した。
昭和34年頃まで冬季造材事業があり、林業で収入を得ていたが造材事業がなくなり昭和38年には児童数7人まで減少し、閉校した。
昭和40年2戸、41年2戸、42年1戸、43年2戸転出し、無住化集落となり旧愛媛団体の開拓地跡は落葉松などが植林された。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和26年 開校(4月)
昭和38年 閉校(3月)
昭和31年の校下の概況を抜粋して紹介する。
人口 109名(男54名 女55名)
戸数 17戸(内通学児童を有する家7戸)
職業 純農家13 その他教員1 その他3
出身地 愛媛県8 富山県2 宮城県1 山形県3 京都府3
令和元年7月、お世話になっているA.D.1600氏と上金華を訪ねた。
愛媛団体入植記念碑と、馬頭観世音の碑(昭和15年建立)がある。
愛媛団体の入植記念碑。
碑文
梅の花ほころぶ郷里の南国伊豫をあとにして八日目一、九一六年(大正五年)二月一二日薄暮。北海度いう開拓集団移民に応募した二十九戸百二十余人(団体長宮田仲太郎)この地上ポンムカに入植する。積雪二メートル、寒威骨を刺す厳冬と木の葉がくれに僅かに空をのぞく昼なお暗い密林が団体員を迎える。全域砂礫地帶。「五町歩の大地主」を夢みる開拓者の意欲を拒み続ける。一、九六九年(昭和四十四年)までに全戸離農、愛媛団体開拓半世紀余の歴史を閉じる。
一、九八〇年四月建立 愛媛県人会 宮田家一同
入植者氏名
宮田仲太郎 日和佐雄之助 日和佐道太郎 大西松太郎 大西六助 杉野竹五郎
山内国助 曽我部カネ 玉井喜一 渡部茂市 鎌田重平 堀 藤吉 越智彦作
渡辺巻三郎 越智庄太郎 伊藤八造 戸田亀吉 渡辺房六 渡辺熊四郎 江原政吉
長野吉太郎 黒川直藏 矢野春太郎 山内庄吉 山内武四郎 山内八五郎 山内柳助
十亀武五郎 近藤角太郎 以上 二十九戸百二十名
「上金華」の名前が残る林道。
学校はこの先にある。
学校跡の記念碑。
学校跡地より振り返る。
植林された木々が続いている。
開けた高台より集落を望む。
『金華区史』には神社もあったが見つけることが出来なかった。
参考文献
留辺蘂町金華区史編集委員会1999『金華区史』留辺蘂町金華区史編集委員会
紋別市志文
紋別市志文(平成30年10月21日・令和元年5月26日探訪)
紋別市志文は農村集落である。
明治43年シュブノツナイ原野区画測定がなされた直後に関口権作、三沢金作、岩松安治、金内亀造らの入植が始まりである。大正3年開削道路が新設されてからシュブノツナイ川流域よりも農耕適地であることや、金山の発見(沼の上鉱山)により入植者が急増した。
学校は大正3年11月15日、紋別尋常小学校所属志文特別教授場として開校した。
戦後、沼の上鉱山の閉山(昭和34年)や離農により昭和57年の閉校時点で12戸であった。
地元の方からいただいた情報で、令和元年6月時点で志文の戸数は5戸である。
学校の沿革は以下の通りである。
大正3年 紋別尋常小学校所属志文特別教授場として開校(11月)
大正4年 暴風雨により校舎倒壊。9月校舎再建
大正10年 小向尋常小学校所属志文特別教授場と改称
大正11年 沼の上尋常小学校所属志文特別教授場と改称
昭和3年 校舎新築
昭和6年 志文尋常小学校と改称
昭和16年 志文国民学校と改称(4月)
昭和22年 紋別市立志文小学校と改称(4月)
昭和57年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する。
辺地校の灯また消える 紋別・志文小 寂しい卒業、閉校式
「【紋別】また一つ、辺地の学校の灯が消えた。68年の歴史を持つ志文小(山口繁校長)で18日、最後の卒業式と閉校式が行われ、本州から駆けつけたOBを含めた約100人が、懐かしの母校との別れを惜しんだ。
同校は大正3年(1914年)紋別尋常小学校志文特別教授場として開校、昭和22年に志文小学校と改称してこれまでに404人の卒業生を送り出して来た。炭焼きに始まって製材、鉱山の開発と人口が増えた同地区で、一時は児童が100人近くを数えたこともあったが40年代から離農や鉱山の閉山などで戸数が12戸に減り、56年度の児童数はわずか4人。このうち2人がこの春卒業して、新入生がいないため、2人の児童だけでは効果的な授業ができないことなどを理由に、隣の沼ノ上小への統合が決まった。
午前10時からの卒業式では、山口校長の式辞のあと、6年生の伊藤健君と菅原学君に卒業証書、3年生で伊藤君の弟の仁君、菅原君の弟の智君に修了証書が渡された。
このあと6年生、3年生の2組の兄弟が別れのあいさつを交わし、在校生が「親切にしてくれて本当にありがとう」、卒業生が「入学したころにたくさんいた友達が次々と去っていくのはさびしかったが、思い出はいつまでも尽きません」と語りかけると、出席した父兄の間にハンカチで目頭を押さえる姿が目立った。
続いて山形県、函館市などの遠隔地からやって来たOBを含め、約100人が参加して閉校式が行われ、今は楽しかった思い出だけが胸に残る懐かしの校舎に別れを告げた。」(北海道新聞網走北見版 昭和57年3月20日)
平成30年10月、K.T氏と訪れた。
学校周辺には人家が点在している。
閉校後、校舎は一度も使われないまま朽ちようとしていた。
学校の隣には神社がある。
翌年5月、HEYANEKO氏らと再訪したが校舎の傷みは一層進んでいた。
鳥居の先には祠があった。
隣には昭和8年10月建立の馬頭観世音があった。
参考文献
紋別市史編纂委員会1960『紋別市史』紋別市
北海道新聞網走北見版1982「辺地校の灯また消える 紋別・志文小 寂しい卒業、閉校式」『北海道新聞昭和57年3月20日』
紋別市志文は農村集落である。
明治43年シュブノツナイ原野区画測定がなされた直後に関口権作、三沢金作、岩松安治、金内亀造らの入植が始まりである。大正3年開削道路が新設されてからシュブノツナイ川流域よりも農耕適地であることや、金山の発見(沼の上鉱山)により入植者が急増した。
学校は大正3年11月15日、紋別尋常小学校所属志文特別教授場として開校した。
戦後、沼の上鉱山の閉山(昭和34年)や離農により昭和57年の閉校時点で12戸であった。
地元の方からいただいた情報で、令和元年6月時点で志文の戸数は5戸である。
学校の沿革は以下の通りである。
大正3年 紋別尋常小学校所属志文特別教授場として開校(11月)
大正4年 暴風雨により校舎倒壊。9月校舎再建
大正10年 小向尋常小学校所属志文特別教授場と改称
大正11年 沼の上尋常小学校所属志文特別教授場と改称
昭和3年 校舎新築
昭和6年 志文尋常小学校と改称
昭和16年 志文国民学校と改称(4月)
昭和22年 紋別市立志文小学校と改称(4月)
昭和57年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する。
辺地校の灯また消える 紋別・志文小 寂しい卒業、閉校式
「【紋別】また一つ、辺地の学校の灯が消えた。68年の歴史を持つ志文小(山口繁校長)で18日、最後の卒業式と閉校式が行われ、本州から駆けつけたOBを含めた約100人が、懐かしの母校との別れを惜しんだ。
同校は大正3年(1914年)紋別尋常小学校志文特別教授場として開校、昭和22年に志文小学校と改称してこれまでに404人の卒業生を送り出して来た。炭焼きに始まって製材、鉱山の開発と人口が増えた同地区で、一時は児童が100人近くを数えたこともあったが40年代から離農や鉱山の閉山などで戸数が12戸に減り、56年度の児童数はわずか4人。このうち2人がこの春卒業して、新入生がいないため、2人の児童だけでは効果的な授業ができないことなどを理由に、隣の沼ノ上小への統合が決まった。
午前10時からの卒業式では、山口校長の式辞のあと、6年生の伊藤健君と菅原学君に卒業証書、3年生で伊藤君の弟の仁君、菅原君の弟の智君に修了証書が渡された。
このあと6年生、3年生の2組の兄弟が別れのあいさつを交わし、在校生が「親切にしてくれて本当にありがとう」、卒業生が「入学したころにたくさんいた友達が次々と去っていくのはさびしかったが、思い出はいつまでも尽きません」と語りかけると、出席した父兄の間にハンカチで目頭を押さえる姿が目立った。
続いて山形県、函館市などの遠隔地からやって来たOBを含め、約100人が参加して閉校式が行われ、今は楽しかった思い出だけが胸に残る懐かしの校舎に別れを告げた。」(北海道新聞網走北見版 昭和57年3月20日)
平成30年10月、K.T氏と訪れた。
学校周辺には人家が点在している。
閉校後、校舎は一度も使われないまま朽ちようとしていた。
学校の隣には神社がある。
翌年5月、HEYANEKO氏らと再訪したが校舎の傷みは一層進んでいた。
鳥居の先には祠があった。
隣には昭和8年10月建立の馬頭観世音があった。
参考文献
紋別市史編纂委員会1960『紋別市史』紋別市
北海道新聞網走北見版1982「辺地校の灯また消える 紋別・志文小 寂しい卒業、閉校式」『北海道新聞昭和57年3月20日』
紋別市沼の上鉱山
紋別市沼の上鉱山(令和元年5月26日探訪)
紋別市沼の上鉱山は鉱山集落である。
大正5年、白楊丸太材の伐り出し運搬作業で入山していた関口権作、黒川辰三、小野寺清助、三沢仁太郎、井辻吉五郎、土谷久太郎らの発見によるもので沼の上金山と名付けられた。
当初は函館の栖原鉱業所が経営していたが、昭和3年三菱鉱業の経営に移った。
学校は約6キロ先の志文特別教授場へ通学していたが、悪路であることや冬の吹雪きで数日間人馬の往来が止まることもあった。このため、鉱山所長高橋逸作が奔走し、鉱山家庭教授所開設の認可を得て昭和4年9月28日、三菱沼の上鉱山の経営する私塾として開設した。昭和12年、監督官庁の強い勧告や鉱山側の努力により2月に公立に移管し、志文尋常小学校所属となった。
昭和34年9月に沼の上鉱山は閉山し、従業員は下川鉱山へ配置転換となり、学校は昭和34年12月に閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和4年 私塾として開設(9月)
昭和12年 志文尋常小学校所属上志文特別教授場と改称
昭和23年 上志文小学校と改称(10月)
昭和34年 閉校(12月)
閉山の記事を掲載する。
三菱沼ノ上鑛業所閉山 31年の歴史に終止符
「三菱鉱業沼ノ上鑛山が開鉱以来31年の歴史に終止符を打ち9月末で閉鉱することになった。
閉鉱の理由は将来性がなくなったため、つまり新鉱床が再三の探鉱にもかかわらず新鉱床が発見されず、この鉱山の埋蔵量がつきたものと見られたためである。
同鉱は所長以下従業員43人で製練は行わず鉱石を系統工場に送っていた。
三菱従業員は、下川鉱業所に抱かれるので閉山に起る労仂騒動は心配ない。
同鉱山は大正6年(原文ママ)附近の農民が鉱石を発見、鉱山業今堀喜三郎さんが31鉱区の試掘願いを出しその後大正12年当時凾館の人栖原角衛さんの手に移り昭和3年三菱が買受けて開鉱し今に至っている。この鉱山閉鉱により市では一つの産業機関を失うことになり、年間市税その他の減収は約80万円になるというが教育関係費用の持出しが少なくすむことにより相殺すると約50万円程度の減収となる。」(「北海民友新聞昭和34年9月29日」)
令和元年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
志文小学校探訪後、沼の上鉱山へ向かう。
沼の上鉱山集落跡付近へ到達した。
川の水が赤茶色に染まっている。
集落を散策する。
スイセンを見つけた。
人為的に植えたスイセンが野性化して残っていた。
集落はここで間違いない。
学校は何処に在ったのだろうか。
旧版地形図をみると、この辺りに家屋が集中しているが、今は植林された林となっていた。
「入山禁止」の看板に三菱金属鉱山の名前があった。
鉱山時代の唯一の名残であった。
参考文献
北海民友新聞1959「三菱沼ノ上鑛業所閉山 31年の歴史に終止符」『北海民友新聞』
紋別市史編纂委員会1960『紋別市史』紋別市
紋別市史編さん委員会1983『新紋別市史』紋別市
紋別市沼の上鉱山は鉱山集落である。
大正5年、白楊丸太材の伐り出し運搬作業で入山していた関口権作、黒川辰三、小野寺清助、三沢仁太郎、井辻吉五郎、土谷久太郎らの発見によるもので沼の上金山と名付けられた。
当初は函館の栖原鉱業所が経営していたが、昭和3年三菱鉱業の経営に移った。
学校は約6キロ先の志文特別教授場へ通学していたが、悪路であることや冬の吹雪きで数日間人馬の往来が止まることもあった。このため、鉱山所長高橋逸作が奔走し、鉱山家庭教授所開設の認可を得て昭和4年9月28日、三菱沼の上鉱山の経営する私塾として開設した。昭和12年、監督官庁の強い勧告や鉱山側の努力により2月に公立に移管し、志文尋常小学校所属となった。
昭和34年9月に沼の上鉱山は閉山し、従業員は下川鉱山へ配置転換となり、学校は昭和34年12月に閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和4年 私塾として開設(9月)
昭和12年 志文尋常小学校所属上志文特別教授場と改称
昭和23年 上志文小学校と改称(10月)
昭和34年 閉校(12月)
閉山の記事を掲載する。
三菱沼ノ上鑛業所閉山 31年の歴史に終止符
「三菱鉱業沼ノ上鑛山が開鉱以来31年の歴史に終止符を打ち9月末で閉鉱することになった。
閉鉱の理由は将来性がなくなったため、つまり新鉱床が再三の探鉱にもかかわらず新鉱床が発見されず、この鉱山の埋蔵量がつきたものと見られたためである。
同鉱は所長以下従業員43人で製練は行わず鉱石を系統工場に送っていた。
三菱従業員は、下川鉱業所に抱かれるので閉山に起る労仂騒動は心配ない。
同鉱山は大正6年(原文ママ)附近の農民が鉱石を発見、鉱山業今堀喜三郎さんが31鉱区の試掘願いを出しその後大正12年当時凾館の人栖原角衛さんの手に移り昭和3年三菱が買受けて開鉱し今に至っている。この鉱山閉鉱により市では一つの産業機関を失うことになり、年間市税その他の減収は約80万円になるというが教育関係費用の持出しが少なくすむことにより相殺すると約50万円程度の減収となる。」(「北海民友新聞昭和34年9月29日」)
令和元年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
志文小学校探訪後、沼の上鉱山へ向かう。
沼の上鉱山集落跡付近へ到達した。
川の水が赤茶色に染まっている。
集落を散策する。
スイセンを見つけた。
人為的に植えたスイセンが野性化して残っていた。
集落はここで間違いない。
学校は何処に在ったのだろうか。
旧版地形図をみると、この辺りに家屋が集中しているが、今は植林された林となっていた。
「入山禁止」の看板に三菱金属鉱山の名前があった。
鉱山時代の唯一の名残であった。
参考文献
北海民友新聞1959「三菱沼ノ上鑛業所閉山 31年の歴史に終止符」『北海民友新聞』
紋別市史編纂委員会1960『紋別市史』紋別市
紋別市史編さん委員会1983『新紋別市史』紋別市