八雲町熊嶺
八雲町熊嶺(平成26年10月14日探訪)
八雲町熊嶺は戦後開拓の集落であった。
昭和21年5月 八雲町大新地区の砂蘭部川沿いの国有地が開放されると、外地からの引揚者や八雲鉱山の離職者ら17戸が入地した。
当時、飛行場に残っていた兵舎を仮住居として4キロの道のりを通い、開拓に従事した。
熊嶺の名の由来は、野田生の奥の山に熊嶺というところがあり、集落総意により「熊嶺部落」にしようと総会で決議した。
昭和22年から23年にかけ、熊嶺開拓道路が施工された。
ただ、「道路」といってもようやく馬車が通れる程度の道で、融雪期になれば道路がぬかるみ、道路本来の役割を果たせないままであった。
子供たちは当時、八雲小学校大新分校(後 大新小学校)に通学していたが、通学は困難を極めていた。
住民らは、旧軍で使われていた飛行場の建物(三角兵舎)を用いて、教員住宅を含め7坪の仮校舎を建て、昭和24年4月の開校を目指した。
ところが、仮校舎が「設備不十分」という理由で延期され、結局、昭和24年7月1日 「八雲小学校熊嶺分校」として開校した。
昭和25年4月 大新分校が独立して大新小学校と改称したのを機に、校名も「大新小学校熊嶺分校」と改称した。
この年、開拓事業入植施設補助規程による国費補助を受け、補助として新校舎と教員住宅を建築した。
中学生については、入植当初から八雲中学校が通学区域であったが13キロも離れており、通学は不可能であった。
このため、昭和26年7月より熊嶺分校の教員による委託授業方式を導入した。
昭和27年4月 八雲町立熊嶺小学校と独立。
同年11月 熊嶺中学校の設置が認可された。
昭和27年・28年に1世帯ずつ転出しているが、これが熊嶺地区における転出(離農)の始まりであった。
熊嶺は昭和30年代の半ば、牛乳集荷により集落が二分するという出来事があった。
昭和35年6月9日付で『罪な牛乳集荷合戦 部落、二つに割れる』とある。
「(前略)市街地から10キロ以上も離れた戸数わずか16戸の熊嶺部落は、11戸が乳牛を飼育しており、1日90リットル前後の牛乳をことしの4月まで農協を通し雪印乳業に出していた。ところが先月はじめ明治乳業が乗り込み説得した結果、数戸が名乳に出荷を約束、部落総出荷量90リットルのうち36リットル前後を出しているため、部落民が二つに割れてしまった。」
「(中略)これら数戸の農家は農協に借りがあるため牛乳代金がそっくりはいってこないので、明治乳業にクラ替えしたと部落民はみているが、最近ではこれがすべての面で感情的に対立しはじめ、お互いにイガミあっている。」
「このような空気が子供に反映しては困ると熊嶺分校でも心配しているが、これといった名案がなく、頭を痛めているという。」
昭和36年1月7日付の北海道新聞 渡島・桧山版には『゛集団"離農を決意 八雲町の熊嶺部落 渡島管内では初めて』とある。
「戦後国の緊急開拓で入植した開拓部落民の離農が目立ってふえてきているが、゛生活できない"と集団離農することになり問題になっている。渡島管内で入植者の集団離農はこんどが初めてという。」
「同町字熊嶺部落は戦後昭和二十一年国の緊急開拓政策で樺太からの引き揚げ者十五戸が入植、(中略)その後二十二年に一戸、二十九年に二戸がクワをかついで入り十八戸で部落を作り学校まで設けたが、その後二戸が離農し、十六戸が営農していた。」
※新聞報道によれば「樺太からの引き揚げ者十五戸」とあるが、樺太(外地)からの引揚者もいるが「くまね25年誌」を見ると「熊嶺は 鉱山から14名 その他4名 その他の集合団である。(斉藤順蔵)」と書かれている。従って、樺太からの引揚者十五戸…というのは間違いと思われる。
「(中略)しかし土地があっても山間地が多く耕地とは名ばかりで町内では落部の下二股開拓地とともに不振開拓地のラク印が押されていた。このようなことから十六戸のうち五戸がとても営農して行けないと近く離農することになった。(中略)」
「(中略)なお渡島管内で集団離農するのはこれは初めてで、実際の離農時期は三月末になる予定。」
昭和40年代半ばに入っても、熊嶺の生活は厳しいものがあった。
昭和44年5月4日付で『辺地の苦しさ訴える 田仲町長ら 熊嶺小・中を訪問、懇談』とある
「辺地校の多い町内でも最も山奥の熊嶺小・中(大野文比古校長・17人)に二日、田仲町長はじめ石垣町教育長ら町から5人が訪問、部落の人たちと懇談した。」
「この日はまず、子供たちが器楽を演奏、町長からチョコレートを贈られたあと三浦久義PTA会長ら10人が参加して懇談したが、『入植したものの、開拓では生活できず賃金労働をしている。このままでは離農しなくてはならない』『むすこたちがみんなマチへ出てしまった。ワシだけは残るつもりだが…』『病気になっても〝足〟がない、ぜひ診療車を-。』と、次々苦しい実情が報告され、田仲町長は『町としてもなんとかみなさんの力になりたい。道路改修や診療車の問題は早急に解決したい』と語っていた。」
昭和47年度当初は小学校児童6名、中学校生徒5名が在籍したものの、同年10月に児童2名が転出したため教員の子名だけ在籍という状態になった。
中学校は、10月15日付で生徒がゼロとなった。
年度の途中で閉校になったことについて『くまね25年誌』を見ると、川嶋健治氏は次のように書いている。
「(前略)ただ、熊嶺は離農の数が多くなっていたので、子供達がいなくなった時、私達はどうなるのかなあとフト考えた。(中略)だがこの件については、前教育長石垣氏と前校長の大野先生が話し合われ、昭和48年3月31日までは廃校にしないということで(中略)さ程気にはしなかった。」
「(中略)ところが、10月19日 校長は突然吾々に「熊嶺校は今年中に廃校になる。最終的決定は明日になるそうである」と告げたのである。」
「正に、晴天のヘキレキであった。」
これ以降、年度の途中で熊嶺小中学校が閉校になることについての疑問が記述されている。
しかし、年度内の閉校は決まってしまった。
昭和47年12月1日 八雲小・中学校に統合という形式をもって、閉校となった。
熊嶺集落手前にある大新集落の大新小学校。
探訪当時ですら老朽化が著しかったが、探訪した後に解体された。
大新小学校を過ぎ、いよいよ熊嶺地区へ入る。
電柱には「熊嶺」の名前が残っている。
熊嶺の道路。すっかり自然に帰っているが、酪農風景が広がっていた。
道が分岐しているが、熊嶺は一周できるようになっている。
左に曲がり、先へ進む。
左に曲がって間もなく、道路左手にサイロがある。
人々が暮らしていた痕跡である。
先へ進むと、周囲とは不釣りあいなプレハブの倉庫があった。
以下、ラオウ氏の回想。
「…ここは熊嶺小中学校に勤務していた川嶋先生(注1)が家族と一緒にキャンプをやっていた。元々は、熊嶺小中学校の教員住宅があった場所だ。」
「私は当時、廃校調査の駆け出しの頃(昭和62~3年)だったが、柏山校長先生(注2)に聞いて、川嶋先生の家族と一緒にキャンプした。」
「夜遅くに、川嶋先生が『熊嶺小中学校の跡地へ行って見るか』と言って、懐中電灯の灯りを頼りに学校跡地へ行った。それが、熊嶺小中学校の初めての訪問だった。」
(注1)川嶋先生とは熊嶺小中学校に勤務していた川嶋健治先生のことである。専門は国語で、平成2年に逝去された。
(注2)柏山校長先生とは、熊嶺小中学校に勤務していた柏山克己先生である。
プレハブ倉庫の近くにはブロックの基礎がある。
これは旧軍の解体資材を転用して、7坪の仮校舎を建てたときのものである。
周囲を回り、学校跡地へ通じていた「道」に出た。
「道」といっても、もはや廃道と化し、草木やササが生い茂っている。
意を決し、「通学路」を歩く。
「通学路」の道中。
人の背丈以上のササが生い茂り、行く手を阻むが払いのけて進む。
進むと、サイロが見えてきた。
熊嶺小中学校は、このサイロの下にある。
下った先に、遊具のタイヤがあった。
熊嶺小中学校のグラウンドである。
その傍には百葉箱?の一部が残されている。
グラウンド。
湿地帯と化しており、足元がぬかるむ。
それもその筈で、グラウンドは沼地を埋め立ててできたものである。
「八雲教育 第15号」 『教育の谷間にともしびを ⑩』でこう、記されている。
「ここのグラウンドは、沼地を埋立てしたもので、表土を十糎も掘れば水がつく。さらにその東側一帯から水が湧き、グランドに流れ込み特に雨天には、被害が大きい。」
グラウンドの端に、記念碑はあった。
記念碑より一段高くなったところに、校舎と棟続きの校長住宅があった。
校舎・校長住宅跡地。
基礎が残っている。
屋根の一部もどうにか残っていた。
閉校後、校舎や校長住宅は解体され、植林されてしまっている。
校庭の隅に、小林弘治校長が考案し、PTAの奉仕で完成した「希望の池」がある。
しかし、ツタやコケで覆われており、よく分からない。
折角なので、へばりついていたツタやコケを取り除いた。
「希望の池」と掘ったのは小林校長である。
希望の池の全景写真。
「希望の池」は復活した。
帰り道、学校隣接地にあった神社のご神木を探す。
しかし、この時ご神木を見つけることはできなかった。
熊嶺を離れる道中に見つけた基礎。
最後に転出された方の家の基礎である。
『くまね25年誌』巻末に記載されている「お礼のことば」より。
この言葉は、熊嶺小学校が新築された時のものである。
此の度、私等の学校の落成式に 多数の来賓がお出になり、何よりもうれしく思います。
私等は、父母と一しょに熊嶺に来てから勉強することも出来ないので、他の生徒をつくづくうらやましく思っておりました。
そして仕事のかたわら、父母から教えられておりました。
今日から、皆様のお情けによってりっぱな学校を建てて頂き、まことにありがたい幸福でございます。
これからよく先生の教えをまもり、一生県命勉強して少しでも役に立つ人になって、ごおんの万分の一でもお返ししたいと思います。
粗末ながらこれでお礼のことばといたします。
昭和二十五年八月十日 熊嶺分校在校生 総代 塚田綾子
参考・引用文献
くまね25年誌 川嶋健治 昭和48年3月5日発行
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島桧山版 昭和35年6月9日 『罪な牛乳集荷合戦 部落、二つに割れる』
同 昭和36年1月7日『゛集団"離農を決意 八雲町の熊嶺部落 渡島管内では初めて』
同 昭和44年5月4日『辺地の苦しさ訴える 田仲町長ら 熊嶺小・中を訪問、懇談』
広報 八雲教育 第15号 『教育の谷間にともしびを ⑩』 昭和43年11月30日発行
八雲町熊嶺は戦後開拓の集落であった。
昭和21年5月 八雲町大新地区の砂蘭部川沿いの国有地が開放されると、外地からの引揚者や八雲鉱山の離職者ら17戸が入地した。
当時、飛行場に残っていた兵舎を仮住居として4キロの道のりを通い、開拓に従事した。
熊嶺の名の由来は、野田生の奥の山に熊嶺というところがあり、集落総意により「熊嶺部落」にしようと総会で決議した。
昭和22年から23年にかけ、熊嶺開拓道路が施工された。
ただ、「道路」といってもようやく馬車が通れる程度の道で、融雪期になれば道路がぬかるみ、道路本来の役割を果たせないままであった。
子供たちは当時、八雲小学校大新分校(後 大新小学校)に通学していたが、通学は困難を極めていた。
住民らは、旧軍で使われていた飛行場の建物(三角兵舎)を用いて、教員住宅を含め7坪の仮校舎を建て、昭和24年4月の開校を目指した。
ところが、仮校舎が「設備不十分」という理由で延期され、結局、昭和24年7月1日 「八雲小学校熊嶺分校」として開校した。
昭和25年4月 大新分校が独立して大新小学校と改称したのを機に、校名も「大新小学校熊嶺分校」と改称した。
この年、開拓事業入植施設補助規程による国費補助を受け、補助として新校舎と教員住宅を建築した。
中学生については、入植当初から八雲中学校が通学区域であったが13キロも離れており、通学は不可能であった。
このため、昭和26年7月より熊嶺分校の教員による委託授業方式を導入した。
昭和27年4月 八雲町立熊嶺小学校と独立。
同年11月 熊嶺中学校の設置が認可された。
昭和27年・28年に1世帯ずつ転出しているが、これが熊嶺地区における転出(離農)の始まりであった。
熊嶺は昭和30年代の半ば、牛乳集荷により集落が二分するという出来事があった。
昭和35年6月9日付で『罪な牛乳集荷合戦 部落、二つに割れる』とある。
「(前略)市街地から10キロ以上も離れた戸数わずか16戸の熊嶺部落は、11戸が乳牛を飼育しており、1日90リットル前後の牛乳をことしの4月まで農協を通し雪印乳業に出していた。ところが先月はじめ明治乳業が乗り込み説得した結果、数戸が名乳に出荷を約束、部落総出荷量90リットルのうち36リットル前後を出しているため、部落民が二つに割れてしまった。」
「(中略)これら数戸の農家は農協に借りがあるため牛乳代金がそっくりはいってこないので、明治乳業にクラ替えしたと部落民はみているが、最近ではこれがすべての面で感情的に対立しはじめ、お互いにイガミあっている。」
「このような空気が子供に反映しては困ると熊嶺分校でも心配しているが、これといった名案がなく、頭を痛めているという。」
昭和36年1月7日付の北海道新聞 渡島・桧山版には『゛集団"離農を決意 八雲町の熊嶺部落 渡島管内では初めて』とある。
「戦後国の緊急開拓で入植した開拓部落民の離農が目立ってふえてきているが、゛生活できない"と集団離農することになり問題になっている。渡島管内で入植者の集団離農はこんどが初めてという。」
「同町字熊嶺部落は戦後昭和二十一年国の緊急開拓政策で樺太からの引き揚げ者十五戸が入植、(中略)その後二十二年に一戸、二十九年に二戸がクワをかついで入り十八戸で部落を作り学校まで設けたが、その後二戸が離農し、十六戸が営農していた。」
※新聞報道によれば「樺太からの引き揚げ者十五戸」とあるが、樺太(外地)からの引揚者もいるが「くまね25年誌」を見ると「熊嶺は 鉱山から14名 その他4名 その他の集合団である。(斉藤順蔵)」と書かれている。従って、樺太からの引揚者十五戸…というのは間違いと思われる。
「(中略)しかし土地があっても山間地が多く耕地とは名ばかりで町内では落部の下二股開拓地とともに不振開拓地のラク印が押されていた。このようなことから十六戸のうち五戸がとても営農して行けないと近く離農することになった。(中略)」
「(中略)なお渡島管内で集団離農するのはこれは初めてで、実際の離農時期は三月末になる予定。」
昭和40年代半ばに入っても、熊嶺の生活は厳しいものがあった。
昭和44年5月4日付で『辺地の苦しさ訴える 田仲町長ら 熊嶺小・中を訪問、懇談』とある
「辺地校の多い町内でも最も山奥の熊嶺小・中(大野文比古校長・17人)に二日、田仲町長はじめ石垣町教育長ら町から5人が訪問、部落の人たちと懇談した。」
「この日はまず、子供たちが器楽を演奏、町長からチョコレートを贈られたあと三浦久義PTA会長ら10人が参加して懇談したが、『入植したものの、開拓では生活できず賃金労働をしている。このままでは離農しなくてはならない』『むすこたちがみんなマチへ出てしまった。ワシだけは残るつもりだが…』『病気になっても〝足〟がない、ぜひ診療車を-。』と、次々苦しい実情が報告され、田仲町長は『町としてもなんとかみなさんの力になりたい。道路改修や診療車の問題は早急に解決したい』と語っていた。」
昭和47年度当初は小学校児童6名、中学校生徒5名が在籍したものの、同年10月に児童2名が転出したため教員の子名だけ在籍という状態になった。
中学校は、10月15日付で生徒がゼロとなった。
年度の途中で閉校になったことについて『くまね25年誌』を見ると、川嶋健治氏は次のように書いている。
「(前略)ただ、熊嶺は離農の数が多くなっていたので、子供達がいなくなった時、私達はどうなるのかなあとフト考えた。(中略)だがこの件については、前教育長石垣氏と前校長の大野先生が話し合われ、昭和48年3月31日までは廃校にしないということで(中略)さ程気にはしなかった。」
「(中略)ところが、10月19日 校長は突然吾々に「熊嶺校は今年中に廃校になる。最終的決定は明日になるそうである」と告げたのである。」
「正に、晴天のヘキレキであった。」
これ以降、年度の途中で熊嶺小中学校が閉校になることについての疑問が記述されている。
しかし、年度内の閉校は決まってしまった。
昭和47年12月1日 八雲小・中学校に統合という形式をもって、閉校となった。
熊嶺集落手前にある大新集落の大新小学校。
探訪当時ですら老朽化が著しかったが、探訪した後に解体された。
大新小学校を過ぎ、いよいよ熊嶺地区へ入る。
電柱には「熊嶺」の名前が残っている。
熊嶺の道路。すっかり自然に帰っているが、酪農風景が広がっていた。
道が分岐しているが、熊嶺は一周できるようになっている。
左に曲がり、先へ進む。
左に曲がって間もなく、道路左手にサイロがある。
人々が暮らしていた痕跡である。
先へ進むと、周囲とは不釣りあいなプレハブの倉庫があった。
以下、ラオウ氏の回想。
「…ここは熊嶺小中学校に勤務していた川嶋先生(注1)が家族と一緒にキャンプをやっていた。元々は、熊嶺小中学校の教員住宅があった場所だ。」
「私は当時、廃校調査の駆け出しの頃(昭和62~3年)だったが、柏山校長先生(注2)に聞いて、川嶋先生の家族と一緒にキャンプした。」
「夜遅くに、川嶋先生が『熊嶺小中学校の跡地へ行って見るか』と言って、懐中電灯の灯りを頼りに学校跡地へ行った。それが、熊嶺小中学校の初めての訪問だった。」
(注1)川嶋先生とは熊嶺小中学校に勤務していた川嶋健治先生のことである。専門は国語で、平成2年に逝去された。
(注2)柏山校長先生とは、熊嶺小中学校に勤務していた柏山克己先生である。
プレハブ倉庫の近くにはブロックの基礎がある。
これは旧軍の解体資材を転用して、7坪の仮校舎を建てたときのものである。
周囲を回り、学校跡地へ通じていた「道」に出た。
「道」といっても、もはや廃道と化し、草木やササが生い茂っている。
意を決し、「通学路」を歩く。
「通学路」の道中。
人の背丈以上のササが生い茂り、行く手を阻むが払いのけて進む。
進むと、サイロが見えてきた。
熊嶺小中学校は、このサイロの下にある。
下った先に、遊具のタイヤがあった。
熊嶺小中学校のグラウンドである。
その傍には百葉箱?の一部が残されている。
グラウンド。
湿地帯と化しており、足元がぬかるむ。
それもその筈で、グラウンドは沼地を埋め立ててできたものである。
「八雲教育 第15号」 『教育の谷間にともしびを ⑩』でこう、記されている。
「ここのグラウンドは、沼地を埋立てしたもので、表土を十糎も掘れば水がつく。さらにその東側一帯から水が湧き、グランドに流れ込み特に雨天には、被害が大きい。」
グラウンドの端に、記念碑はあった。
記念碑より一段高くなったところに、校舎と棟続きの校長住宅があった。
校舎・校長住宅跡地。
基礎が残っている。
屋根の一部もどうにか残っていた。
閉校後、校舎や校長住宅は解体され、植林されてしまっている。
校庭の隅に、小林弘治校長が考案し、PTAの奉仕で完成した「希望の池」がある。
しかし、ツタやコケで覆われており、よく分からない。
折角なので、へばりついていたツタやコケを取り除いた。
「希望の池」と掘ったのは小林校長である。
希望の池の全景写真。
「希望の池」は復活した。
帰り道、学校隣接地にあった神社のご神木を探す。
しかし、この時ご神木を見つけることはできなかった。
熊嶺を離れる道中に見つけた基礎。
最後に転出された方の家の基礎である。
『くまね25年誌』巻末に記載されている「お礼のことば」より。
この言葉は、熊嶺小学校が新築された時のものである。
此の度、私等の学校の落成式に 多数の来賓がお出になり、何よりもうれしく思います。
私等は、父母と一しょに熊嶺に来てから勉強することも出来ないので、他の生徒をつくづくうらやましく思っておりました。
そして仕事のかたわら、父母から教えられておりました。
今日から、皆様のお情けによってりっぱな学校を建てて頂き、まことにありがたい幸福でございます。
これからよく先生の教えをまもり、一生県命勉強して少しでも役に立つ人になって、ごおんの万分の一でもお返ししたいと思います。
粗末ながらこれでお礼のことばといたします。
昭和二十五年八月十日 熊嶺分校在校生 総代 塚田綾子
参考・引用文献
くまね25年誌 川嶋健治 昭和48年3月5日発行
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島桧山版 昭和35年6月9日 『罪な牛乳集荷合戦 部落、二つに割れる』
同 昭和36年1月7日『゛集団"離農を決意 八雲町の熊嶺部落 渡島管内では初めて』
同 昭和44年5月4日『辺地の苦しさ訴える 田仲町長ら 熊嶺小・中を訪問、懇談』
広報 八雲教育 第15号 『教育の谷間にともしびを ⑩』 昭和43年11月30日発行