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紋別市鴻之舞

紋別市鴻之舞(平成31年2月・令和元年5月及び7月探訪)

紋別市鴻之舞は鉱山集落である。
大正5年2月 沖野永蔵が元山山頂で石英の大露頭を発見し、羽柴義鎌と共に鉱区出願を行なった。今堀喜三郎、鳴沢弥吉のほか飯田嘉吉、池沢亨、岩倉梅吉らの協同経営による採掘が開始され、吉田久太郎が鉱山長に就任した。吉田は「コウノトリが舞うような」という意味で鴻之舞と提唱し、鴻之舞金山と名付けられた。
大正6年2月に住友との売買契約が成立し、同年9月より精錬所の建設、翌大正7年8月より試運転が開始され同年12月より本格的な操業を開始した。
鉱山の沿革は以下の通りである。

大正10年 元山坑で富鉱帯の発見
大正14年 本鉱床の発見(5月)
        元山第二通洞の完成。元山から製錬所間の索道廃止
昭和 2年 元山第三通洞完成
昭和 4年 元山第一鉱床着脈
昭和 7年 倶知安内(五号坑)第一堅坑着工(9月)
昭和 8年 第2次拡張精錬所完成(8月)
昭和10年 豪雨により第四沈殿池の決壊、鉱毒問題の発生(5月)
昭和17年 紋別~鴻之舞軽便鉄道が山王坑まで完成(4月)
        倶知安内八号坑第二堅坑二期工事完成(9月)
       金鉱業整備令により休山決定
昭和24年 鴻之舞鉱山の操業再開
昭和29年 史上最高の産金量(2,97トン)記録
昭和48年 閉山

学校の沿革は以下の通りである
小学校
大正7年  元山の鉱夫浴場を模様替えした仮教授場で授業開始(4月・私設)
大正8年  藻鼈尋常小学校所属元山教授場と改称(3月・公設)
        鴻之舞特別教授場と改称(5月)
        特別規定により鴻之舞尋常小学校と改称(9月)
大正10年 正規の鴻之舞尋常小学校となり、元山は鴻之舞尋常小学校所属となる
大正15年 元山特別教授場廃止、高等科併置
昭和16年 鴻之舞国民学校と改称(4月)
昭和22年 鴻之舞小学校と改称(4月)
昭和36年 校舎改築
昭和48年 閉校(10月)

中学校
昭和22年 鴻之舞中学校として開校(5月)
昭和25年 校舎新築移転(10月)
昭和48年 閉校(10月)

高等学校(定時制)
昭和26年 紋別高等学校鴻之舞分校として開校(4月)
昭和27年 鴻之舞高等学校と改称(11月)
昭和42年 閉校(3月)

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平成31年2月、HEYANEKO氏らと訪れた。
鴻之舞鉱山慰霊碑が建立されている場所は、かつて寺院(鴻恩寺)があった。

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開山100周年の記念碑が建立されている。

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鴻之舞小学校跡地。
煙突と外壁が残る。

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傍には二宮像の台座があった。

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鴻之舞元町跡の案内板。

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鴻之舞中学校跡の碑。
雪で埋もれていたので掘り返した。

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草木も茂っていないので、遺構がよく見える。

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蔵も残っていた。

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精錬所の建物。

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鉱員住宅が残る。

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令和元年5月、HEYANEKO氏らと再訪する。
この日は季節外れの猛暑であった。

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鴻之舞出身の方の案内で巡る。
発電所煙突の基礎部分である。

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草木で隠れた遺構。
しかし、暑い。

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大山祇社殿へ続く階段。

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階段の傍には顕彰碑がある。

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忠魂碑も建立されている。

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五号坑坑口。

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五号坑坑口から見た鴻紋軌道橋脚。

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令和元年5月撮影の慰霊碑。

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鴻紋軌道記念碑・銀色の道記念碑。
平成31年2月に行ったときは雪で埋もれていたが、今回ははっきりとみることができた。

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前回は雪で隠れていたのでよく分からなかったが、改めて開山100周年記念碑を見ることができた。

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復元した鉱山住宅。

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鴻之舞中学校プール跡。

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鴻之舞中学校の基礎と思われるコンクリート。

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さらに同年7月、A.D.1600氏、K.T氏と3度目の探訪を行った。
鴻之舞にある奉安殿である。

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裏面へ廻ると、奉安殿の傷みが進行していた。

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鴻之舞鉱山の墓地へ行ってみる。

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堂宇がある。
今もおよそ250名の人々が眠っている。

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舎利窟
碑の裏面には住友鴻之舞鑛業所と刻まれている。

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堂宇の先の煉瓦煙突。
鴻之舞鉱山の火葬場跡である。


参考文献
紋別市史編さん委員会1979『新紋別市史上巻』紋別市
紋別市史編さん委員会1983『新紋別市史下巻』紋別市
林包昭2017『鴻之舞鉱山開山100周年記念鴻之舞遺産を語り継ぐ』鴻之舞鉱山開山100周年記念事業実行委員会

紋別市上立牛

紋別市上立牛(平成30年10月・令和元年5月探訪)

紋別市上立牛は農村集落である。
『北海道地名誌』によれば大正2年頃より開拓が始まり、イモ、マメ、ムギ、ハッカを栽培していた。終戦前後には「ハッカ成金」も生まれたほどである。また造材が盛んで「冬山夏農」と言われていた。学校は大正6年7月5日、立牛尋常小学校所属上立牛特別教授場として開校した。
しかし、山奥という地理的な条件や農業だけで生活していくことができないことから昭和37年頃より離農が進み、昭和39年3月に閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。

大正6年  立牛尋常小学校所属上立牛特別教授場として開校(7月)
昭和4年  中立牛尋常小学校所属上立牛特別教授場と改称(9月)
昭和6年  新校舎落成(9月)
昭和9年  上立牛尋常小学校と改称(3月)
昭和16年 上立牛国民学校と改称(4月)
昭和22年 上立牛小学校と改称(4月)
昭和28年 校舎増改築
昭和39年 閉校(3月)

『網走教育第91号』(昭和31年)に上立牛の集落や学校の様子が掲載されていたので紹介する。
走る公民館
5 紋別市立上立牛小学校(9月9日)
「今日の会場はお祭りをくり上げての歓迎ぶり、熱心な青年団員は早々手伝いに来て準備その他色々と協力して呉れる。青年の中にはいつかのい地区幹部講習会に顔を見せ熱心に研究していたその顔もみえ懐かしく思う。午後1時半予定のプロに入る。歌の指導からはじまってオートスライド、人形劇、テープコーダー、いずれも予想以上に喜ばれ、観衆の老人の中には〝今日まで長生きしたかいがありました。〟などと云われる方もあり、我々も来たかいがあったと元気づく。そのあと小野教育長さんの時事解説、舘員の部落作りと団体活動の講和、そして座談会、わずかな時間ではあったが〝冷害にたえ得る農業経営〟〝電気をつけること〟〝道路の整備〟等切実な課題をとらえての話し合いがなされ、又明日に迫る演芸会に間に合わせようとお母さん方が涙ぐましい努力の中に作り上げた幕一式の披露など、さすがのお父さん方もほろりとしてうなる一場面。その後全員で〝開拓音頭〟〝燃えよかがり火〟を歌って踊って楽しいひとときをおくり、映画のあとは熊が出るというのでまとまって、小雨の降る中を名残りおしみつつ散会していった。併し青年達は明日に迫る演芸会の準備のため、かぼそいランプの下で練習をはじめる。この他に開設される青年学級もともしびに集まって実施して居るそうだが、なかなか大変であることが松岡校長先生からも聞かされ、御苦労なさって居られることが身にしみるようであった。」

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平成30年10月、K.T氏と訪れた。
上古潭と同型の古い記念碑である。

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学校より手前の風景。
学校より手前には17軒の建物があった。

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学校より奥は14軒、駅逓跡があった。
駅逓の跡地は未訪である。

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学校前の神社跡。

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令和元年5月、HEYANEKO氏と再訪した。

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別角度からみた神社跡地。
立ち枯れた木はご神木である。

参考文献
北海道教育委員会網走事務局1956『網走教育第91号』北海道教育委員会網走事務局
NHK北海道本部1975『北海道地名誌』北海教育評論社
『文芸オホーツク第21号(2012年)』紋別市文化連盟

紋別市八十士

紋別市八十士(平成30年10月・平成31年2月探訪)

紋別市八十士は農村集落であるが、かつては砂金が取れた。
明治39年八十士砂金山の発見で入地者が増えたが、明治43年に西巻開拓団長率いる山形・富山の両開拓団が入地、続いて新潟県人渡辺駒蔵ほか2名、原延孝、峰田新七らが入地、定住し始めた。子弟は小向尋常小学校へ通学していたが八十士からは遠距離であった。
大正10年、紋別尋常高等小学校所属八十士特別教授場として開校した。
その後、昭和18年教員の逝去で欠員が補充されないまま昭和23年まで休校となった。
戦後、引揚者の入地で一時校舎をその住宅として活用した。それらの子弟を加えて児童数が増加し、昭和22年4月小向小学校八十士分校と改称、昭和29年八十士小学校と改称した。(注)
しかし昭和40年以降児童数は漸減し、昭和47年3月29日閉校した。

小学校
大正10年 紋別尋常高等小学校所属八十士特別教授場として開校(2月)
 同年   小向尋常小学校所属に変更(9月)
昭和16年 小向国民学校八十士特別教授場と改称(4月)
昭和18年 休校
昭和22年 小向小学校八十士分校として再開(4月)
昭和29年 校舎新築
 同年   八十士小学校と改称(10月)
昭和47年 閉校(3月)
(注)『北海道教育関係職員録』昭和22年度には「八十士」の名前は掲載されていなかった。

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平成30年10月、K.T氏と訪れた。
学校より手前の風景である。

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八十士小学校の記念碑が見えた。

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神社の鳥居もある。

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鳥居をくぐったが社殿は見当たらなかった。

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校舎は崩壊寸前である。

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もう、長く持たないかもしれない。

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屋根も抜け落ちてしまっている。

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トイレは辛うじて残っていた。

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平成31年2月、HEYANEKO氏らと再訪した。

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学校より奥の屋敷跡。
外壁とサイロと、野生化したイチイ(オンコ)の木が佇んでいた。

参考文献
紋別市史編纂委員会1983『新紋別市史下巻』紋別市
2012『文芸オホーツク21号』紋別市文化連盟

紋別市三吉

紋別市三吉(平成30年10月・令和元年5月探訪)

紋別市三吉は戦後開拓集落である。

元は住友林業所の所有地で、大正13年頃住友の小作人4戸の入地を見たが、当時は道路もなく沼の上尋常小学校の通学も冬季は交通不能となり、クマが頻繁に出没して生計が困難であることから全員が離農した。
昭和27年、住友所有の土地を農林省が買い上げて15戸の開拓団(甲の沢に8戸、乙の沢に7戸)を入植させたのが始まりである。重粘地や傾斜地、冷害などで離農する者が現れ開墾はなかなか進まなかった。
子どもたちは沼の上小、中学校に通学していたが6~8キロ離れていることや通学路にクマが出没することから学校設置の要望は強かった。
昭和32年石沢惣次郎が学校用地を寄付、市もこれにこたえ昭和33年2月三吉小学校として開校した。
昭和36年、入植10周年とあわせ創立3周年記念行事を行い、校歌も制定したが離農が相次ぎ、昭和37年10月閉校した。

学校の沿革は以下の通りである。
昭和33年 三吉小学校開校(2月)
昭和36年 校歌制定
昭和37年 閉校(10月)

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平成30年10月、K.T氏とともに訪れた。

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学校敷地は溜池になっていた。

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校舎の防風林だろうか?

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学校傍に、サイロがある。
ここで暮らしていた人々の名残である。

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基礎も残っていた。

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サイロ反対側を写す。

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学校より奥の風景。

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造林の休憩小屋?が残っていた。

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令和元年5月、HEYANEKO氏らと再訪した。
記念碑も溜池も変わらず佇んでいた。

参考文献

紋別市史編纂委員会1983『新紋別市史下巻』紋別市

紋別市上古潭

紋別市上古潭(平成30年10月・令和元年5月探訪)

紋別市上古潭は農村集落である。
大正元年福島県人15戸(武山勇作団体長)が入地したのが始まりである。
その後も入地者が現れはじめたが通学区域は中立牛で、最も遠いところで12キロ離れていた。
村当局に学校設置の要望を出していたが財政上難しいため、集落で校舎、備品全てを寄付することで認可を得た。「沿革誌」によれば「上古潭部落一七戸、部落総出動ニテ五尺余ノ深雪ヲ除キ各自刻苦勉励ス」「校舎ハ間口六間奥行四間ニシテ教室一六坪住宅八坪、当時ノ教授場トシテ優ナルモノ」とあり、大正9年5月5日立牛尋常小学校所属上古潭特別教授場として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。

大正9年  立牛尋常小学校所属上古潭特別教授場として開校(5月)
昭和4年  中立牛尋常小学校所属上古潭特別教授場と改称
昭和6年  上古潭尋常小学校と改称(3月)
昭和11年 校舎新築
昭和16年 上古潭国民学校と改称(4月)
昭和22年 上古潭小学校と改称(3月)
昭和37年 校舎・へき地集会室・給食室・青年学級室新築
昭和45年 閉校(3月)

閉校記事を掲載する。
尚、記事の鴻輝小の記事は割愛する。

鴻輝小 寂しく廃校式 上古丹小 卒業生とも一人 相つぐ離農で過疎現象
「【紋別】年々深刻になる過疎化の波にもまれて市内で2つの辺地校が21、22の両日、教育の歴史にピリオドを打った。一校は鴻輝小、もう一校は上古丹小で、それぞれ15年、50年の歩みの幕を閉じ、開拓農家の相次ぐ離農で最後の卒業生は両校ともたった1人というさびしさだった。(中略)
一方、50年の長い歴史に閉幕を告げた上古丹小は上渚滑から20キロ奥にあり、大正9年5月、立牛小の特別教授場として創立。当時、17戸の開拓者が入植。20人の児童数でスタートした。昭和6年、上古丹小として独立校になったころから終戦後まで部落人口はゆるやかに増加して約40戸、児童数も40人を越えたこともあった。
 しかし38年ごろから始まった冷害、凶作で毎年3-4戸離農するという極端な減少が続き、現在は6戸。これに比例して児童数もグングンと減り、44年は5人でスタートしたものの、3人が離農で転校、いまは菊地誠さんの長女、初江さん(12)と岩井直義さんの二男、泰三君(10)のたった2人。その初江さんも卒業して市教委も泰三君を中立牛小へ編入、ことし限りで廃校することにした。
 22日の卒業式には2人とも元気よく登校。川越完校長が『50年間、開拓の歴史とともに歩んできたものが閉鎖されるのはさびしいが、新しい学校でまた一生懸命勉強してほしい』と2人を励ました。このあと市教委など関係者20人のほか部落の人たち20人も出席して閉校式が行なわれ、出席者は創立当時の思い出などをなつかしそうに語り合っていた。」(『北海道新聞網走・北見版』昭和45年3月23日)

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平成30年10月、K.T氏と訪れた。

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紋別市が建立した記念碑。

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これも学校の記念碑である。
同型の記念碑は、上立牛にもある。

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上古丹の墓地を示す看板。

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墓地への道は続いているが、何もないそうである。

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その道の名は「上古丹線」である。

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学校の向かいには神社があった。
「上古潭神社跡」とある。

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藪をかき分けると、社殿の屋根があった。
集落の名残である。

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令和元年5月、HEYANEKO氏らと再訪した。
記念碑は静かに佇んでいた。

参考文献
北海道新聞1970「鴻輝小 寂しく廃校式 上古丹小 卒業生とも一人 相つぐ離農で過疎現象」『北海道新聞網走・北見版』昭和45年3月23日
紋別市史編纂委員会1983『新紋別市史下巻』紋別市
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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