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三笠市奔別沢

三笠市奔別沢(平成24年10月6日探訪)

奔別沢は戦後開拓で出来た集落であった。
 
「奔別」と聞くと、三笠の基幹産業であった炭鉱、住友奔別炭鉱を連想する方が多いと思うが、奔別沢は炭鉱ではなく農業であった。

元々は三笠市字奔別の一部であったが、昭和26年 奔別沢開拓地として10戸が入植した。
昭和31年 奔別小学校奔別沢分校が開校。しかし昭和38年に廃校となり、同年奔別沢開拓集落も解散し、廃村となった。

奔別沢の記述は皆無に等しく、三笠市史を紐解いても記述は数行程度であった。上記の概略については「角川日本地名大辞典」でようやく分かった次第である。

奔別炭鉱立坑櫓の近くに住む、或る方に奔別沢分校跡地まで案内していただいた。以下、その方の回想を紹介する。

「…昭和41年頃、奔別の周辺で造材作業に従事していた。奔別沢も何度も入った。休憩中、先輩が「ここに昔、学校があった」と教えてくれた。ここはクマもよく出没した。作業の送迎バスに乗っていたとき、突然、目の前にクマが現れたこともあった…」

「学校跡の目印として右手にニレの木が生えているが、幹の下部に大きく空洞になっているニレの木がある。それが学校跡の目印だ。その後ろに学校があった…」

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ご存知、住友奔別炭鉱堅坑櫓。三笠だけではなく、日本の繁栄を支えた基幹産業のひとつ、炭鉱。
奔別も実は、廃村の一つである。(へき地等級 無級。奔別小学校 昭和48年閉校。離村時期は昭和末期頃?)
しかし、今回目指す奔別沢はここではなく、この奥にある。


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いきなり風景が一変。奔別沢の奥地である。
旧版地形図を見ると家屋のマークがあるので、恐らく家屋と畑が広がっていたかもしれない。

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上の写真より手前の風景。
痕跡は、僅かに残された平坦な土地しかない。

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分校跡の目印であるニレの木。
下部が空洞になっているのが、ポイントである。

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下部を拡大する。

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反対側。

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そして、ネット上では初公開と思われる。奔別沢分校跡地である。

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周囲を探してみたが、基礎は見当たらなかった。
平坦な土地こそが、奔別沢に人々が暮らしていた唯一の痕跡である。

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一番最初に紹介した「奔別沢の奥地である」写真より奥の風景。
分校も7年という短い校史であった。
人々が暮らしていた営みも、忘却の彼方となってしまった。

音威子府村 上音威子府

音威子府村 上音威子府(平成24年7月8日探訪)

上音威子府は北海道大学農学部演習林の、管理労力供給源確保のために入植した集落であった。

大正2年の秋に長津佐之次郎が、翌年の春(大正3年)に平田吉太郎ら3名が入植した。この年、国鉄上音威子府駅が開業した。

大正3年11月7日の北海タイムスにはこう記されている。

「本日開通の宗谷新線建設工事概況 宗谷線は旭川より北見国稚内港に達する延長約百六十哩の鉄道にして旭川名寄間四十七哩十九鎖は三十六年度迄に開通し爾来工事を中止せしが本道拓地殖民の趨勢は本線起工を促成し四十二年九月より再たび工事に着手するに至り名寄恩根内間廿二哩廿八鎖は四十四年十一月恩根内音威子府間十哩五十四鎖は大正元年十一月を以て営業を開始し音威子府小頓別間九哩五十八鎖は今回工事完成を告げ茲に営業を開始するに至れり(中略)

線路は天塩国中川村音威子府停車場に起り右折して大体「オトイネップ」川に沿ふて北進し八十一哩十一鎖附近に至り之を横断し八十二哩六十鎖附近に於て左折叉右転し八十三哩十五鎖に至りて再び同川を渡り四哩五十三鎖に上音威子府停車場を設け是より線路は狭隘なる渓谷の間を過ぎ紆余曲折して漸昇し数多の小渓流を横きり八十七哩十五鎖附近天塩国北見の国境に天北隋道を穿ち茲に北見国枝幸郡枝幸村に入り狭隘なる小頓別川の流域を縫い曲折数次に進むに随って下降し前後七回小頓別川を渡り東進して八十九哩七十九鎖に至りて小頓別停車場に達す(以下略)」

上音威子府駅の開業から3年後の大正6年11月10日 音威子府尋常小学校上音威子府特別教育所として開校した。

大正11年4月1日 上音威子府尋常小学校として独立する。この時の児童数は68名。

昭和16年4月1日 上音威子府国民学校となり、昭和22年4月1日 上音威子府小学校と改まった。

昭和42年8月20日 開校50周年記念式典を実施する。この頃より過疎化が進み、児童も急減する。

昭和50年3月16日 閉校式を行い、廃校となった。最後の児童在籍数は2名。卒業生総数 466名であった。

 上音威子府は鉄道の他、北海道大学農学部付属演習林の管理労力の供給源確保のため入植者を勧め、栄えた。大正末期には40戸ほどを数えていた。入植者は貸付を受けた土地の開墾や営農の他、木炭焼き、演習林の労務を行い、冬は冬山造材に従事していた。

 開拓当初は菜種等であったが、大正中期からはバレイショ一辺倒となる。

 昭和39年 演習林の農地解放により自作地となったが、過疎化が少しずつ進み始めていた。そして昭和49年、北海道大学農学部付属演習林事務所の移転が決定的となってしまった。
 閉校後も上音威子府駅舎は存続したが、平成元年5月1日を以て廃線となった。廃線後も駅舎は残っていたが、平成16年頃に解体された。

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上音威子府小学校跡地が見えた。
笹藪の中、ポツンと佇む「上音威子府小学校」跡の碑。

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学校前にはバス停があった。
このバス停は今も使われているのだろうか?

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グラウンド跡地の防風林。
樹木が整然と並んでいるので、それと分る。

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学校周辺の風景。左手が学校跡地。
生活の痕跡を見つけ出すことは出来なかった。

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学校の傍にある神社跡。
神社跡を目指し、斜面を登ったが岩肌が脆く、滑落の危機に遭い断念した。
尚、神社跡では相撲大会などが催されていた。

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国鉄上音威子府駅跡地に残るホーム跡。

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廃線になり20年以上経つが、痕跡は消えかかっていた。

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周囲は残土で覆われていた。
駅跡地が残土で覆われてしまうのも、時間の問題か?

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学校跡地より周辺の風景。
すべての行事が学校中心に催されたのも、過去の話となってしまった。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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