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生田原町(現 遠軽町)石川

生田原町(現 遠軽町)石川(令和元年7月28日探訪)

生田原町(現 遠軽町)石川は農村集落である。
大正2年石川県から12戸、松田農場(松田吉三郎)の小作人として入地である。
大正4年松田は支線の沢分岐点から石川の殖民道路を開通させ、主要道路の基礎作りに貢献した。
大正5年松田農場から木材の搬出が行われ、林産資源として石川を含めた奥生田原の開拓が進んだ。
子弟らは清里小学校に通学していたが4~5キロ離れているため学校設置の要望を続けていた。
昭和20年京都より集団帰農者が戦後開拓で入地した。その後昭和22年にも戦後開拓で入地者が現れ、学齢児童34名となり国費による開拓学校として昭和22年11月5日開校した。
学校の沿革は以下の通りである。

石川小学校 昭和22年開校(11月)
      昭和39年閉校( 3月)

閉校記事を掲載する。
ここにも開拓地のきびしさ校史17年〝最後のホタルの光〟石川小(生田原)で廃校式
〝長く心に残してください〟
「【生田原】入植いらい17年、開拓の歴史とともにあゆんできた町内石川小学校では、最近、離農による児童数が減り廃校せざるをえなくなり、廃校式が第17回卒業式をかねて21日午前10時から同校で行われた。
 この日、来賓や父兄のほか、4月1日から統合する清里小中学校からの器楽対20人も出席して〝廃校〟という悲しみのうちにも、卒業を祝う晴れやかな最後の祝いが繰り広げられた。
 式は高橋教育長の式辞、町、町議会、町内校長会、部落会の代表からそれぞれお別れのことばやあいさつがあったあと、中浦正校長から2人の卒業生に卒業証書、在校生に終了書が渡され『きょう限りでこの学校も廃校となりますがこの学校で学んだ数々の思い出は、きっとみなさんの心のなかに長く残ることでしょう。これからも元気で、清里校のみなさんと仲よく勉強してくださいネ』とはげましのことばがあり、最後に〝ほたるの光〟を合唱して式を閉じこのあと全員でお別れの会が盛大に催された。
 石川小学校は開拓入植者の京都団体10戸の入植で昭和22年秋開校、以来ひところは30人を数える児童数だったが、最近離農者が相次ぎ、児童も卒業生2人をふくめてわずか12人となり、町教委と部落の話し合いで3月いっぱいで廃校と決定、4月1日から10人の子供たちは清里小中学校に通学、校舎は清里公民館石川分館として残ることになった。なお清里校への通学は4月1日から北見バスがスクールバスを運転する。」(北海道新聞網走・北見版 昭和39年3月24日)

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令和元年7月、A.D.1600氏と訪れた。
学校前の風景である。

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石川小学校の記念碑。

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学校より手前の風景。

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教員住宅は崩壊が進んでいた。

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あと何年持ちこたえられるだろうか。

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学校より奥、戦後開拓で京都出身者が入植した「清里京都」(又は清里京洛)。
学校方面を写したが、この先は畑が維持されていた。


参考文献
生田原町1981『生田原町史』生田原町
北海道新聞1964「ここにも開拓地のきびしさ校史17年〝最後のホタルの光〟石川小(生田原)で廃校式
〝長く心に残してください〟」『北海道新聞網走・北見版』昭和39年3月24日

紋別市八十士

紋別市八十士(平成30年10月・平成31年2月探訪)

紋別市八十士は農村集落であるが、かつては砂金が取れた。
明治39年八十士砂金山の発見で入地者が増えたが、明治43年に西巻開拓団長率いる山形・富山の両開拓団が入地、続いて新潟県人渡辺駒蔵ほか2名、原延孝、峰田新七らが入地、定住し始めた。子弟は小向尋常小学校へ通学していたが八十士からは遠距離であった。
大正10年、紋別尋常高等小学校所属八十士特別教授場として開校した。
その後、昭和18年教員の逝去で欠員が補充されないまま昭和23年まで休校となった。
戦後、引揚者の入地で一時校舎をその住宅として活用した。それらの子弟を加えて児童数が増加し、昭和22年4月小向小学校八十士分校と改称、昭和29年八十士小学校と改称した。(注)
しかし昭和40年以降児童数は漸減し、昭和47年3月29日閉校した。

小学校
大正10年 紋別尋常高等小学校所属八十士特別教授場として開校(2月)
 同年   小向尋常小学校所属に変更(9月)
昭和16年 小向国民学校八十士特別教授場と改称(4月)
昭和18年 休校
昭和22年 小向小学校八十士分校として再開(4月)
昭和29年 校舎新築
 同年   八十士小学校と改称(10月)
昭和47年 閉校(3月)
(注)『北海道教育関係職員録』昭和22年度には「八十士」の名前は掲載されていなかった。

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平成30年10月、K.T氏と訪れた。
学校より手前の風景である。

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八十士小学校の記念碑が見えた。

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神社の鳥居もある。

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鳥居をくぐったが社殿は見当たらなかった。

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校舎は崩壊寸前である。

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もう、長く持たないかもしれない。

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屋根も抜け落ちてしまっている。

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トイレは辛うじて残っていた。

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平成31年2月、HEYANEKO氏らと再訪した。

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学校より奥の屋敷跡。
外壁とサイロと、野生化したイチイ(オンコ)の木が佇んでいた。

参考文献
紋別市史編纂委員会1983『新紋別市史下巻』紋別市
2012『文芸オホーツク21号』紋別市文化連盟

紋別市三吉

紋別市三吉(平成30年10月・令和元年5月探訪)

紋別市三吉は戦後開拓集落である。

元は住友林業所の所有地で、大正13年頃住友の小作人4戸の入地を見たが、当時は道路もなく沼の上尋常小学校の通学も冬季は交通不能となり、クマが頻繁に出没して生計が困難であることから全員が離農した。
昭和27年、住友所有の土地を農林省が買い上げて15戸の開拓団(甲の沢に8戸、乙の沢に7戸)を入植させたのが始まりである。重粘地や傾斜地、冷害などで離農する者が現れ開墾はなかなか進まなかった。
子どもたちは沼の上小、中学校に通学していたが6~8キロ離れていることや通学路にクマが出没することから学校設置の要望は強かった。
昭和32年石沢惣次郎が学校用地を寄付、市もこれにこたえ昭和33年2月三吉小学校として開校した。
昭和36年、入植10周年とあわせ創立3周年記念行事を行い、校歌も制定したが離農が相次ぎ、昭和37年10月閉校した。

学校の沿革は以下の通りである。
昭和33年 三吉小学校開校(2月)
昭和36年 校歌制定
昭和37年 閉校(10月)

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平成30年10月、K.T氏とともに訪れた。

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学校敷地は溜池になっていた。

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校舎の防風林だろうか?

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学校傍に、サイロがある。
ここで暮らしていた人々の名残である。

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基礎も残っていた。

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サイロ反対側を写す。

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学校より奥の風景。

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造林の休憩小屋?が残っていた。

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令和元年5月、HEYANEKO氏らと再訪した。
記念碑も溜池も変わらず佇んでいた。

参考文献

紋別市史編纂委員会1983『新紋別市史下巻』紋別市

紋別市上古潭

紋別市上古潭(平成30年10月・令和元年5月探訪)

紋別市上古潭は農村集落である。
大正元年福島県人15戸(武山勇作団体長)が入地したのが始まりである。
その後も入地者が現れはじめたが通学区域は中立牛で、最も遠いところで12キロ離れていた。
村当局に学校設置の要望を出していたが財政上難しいため、集落で校舎、備品全てを寄付することで認可を得た。「沿革誌」によれば「上古潭部落一七戸、部落総出動ニテ五尺余ノ深雪ヲ除キ各自刻苦勉励ス」「校舎ハ間口六間奥行四間ニシテ教室一六坪住宅八坪、当時ノ教授場トシテ優ナルモノ」とあり、大正9年5月5日立牛尋常小学校所属上古潭特別教授場として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。

大正9年  立牛尋常小学校所属上古潭特別教授場として開校(5月)
昭和4年  中立牛尋常小学校所属上古潭特別教授場と改称
昭和6年  上古潭尋常小学校と改称(3月)
昭和11年 校舎新築
昭和16年 上古潭国民学校と改称(4月)
昭和22年 上古潭小学校と改称(3月)
昭和37年 校舎・へき地集会室・給食室・青年学級室新築
昭和45年 閉校(3月)

閉校記事を掲載する。
尚、記事の鴻輝小の記事は割愛する。

鴻輝小 寂しく廃校式 上古丹小 卒業生とも一人 相つぐ離農で過疎現象
「【紋別】年々深刻になる過疎化の波にもまれて市内で2つの辺地校が21、22の両日、教育の歴史にピリオドを打った。一校は鴻輝小、もう一校は上古丹小で、それぞれ15年、50年の歩みの幕を閉じ、開拓農家の相次ぐ離農で最後の卒業生は両校ともたった1人というさびしさだった。(中略)
一方、50年の長い歴史に閉幕を告げた上古丹小は上渚滑から20キロ奥にあり、大正9年5月、立牛小の特別教授場として創立。当時、17戸の開拓者が入植。20人の児童数でスタートした。昭和6年、上古丹小として独立校になったころから終戦後まで部落人口はゆるやかに増加して約40戸、児童数も40人を越えたこともあった。
 しかし38年ごろから始まった冷害、凶作で毎年3-4戸離農するという極端な減少が続き、現在は6戸。これに比例して児童数もグングンと減り、44年は5人でスタートしたものの、3人が離農で転校、いまは菊地誠さんの長女、初江さん(12)と岩井直義さんの二男、泰三君(10)のたった2人。その初江さんも卒業して市教委も泰三君を中立牛小へ編入、ことし限りで廃校することにした。
 22日の卒業式には2人とも元気よく登校。川越完校長が『50年間、開拓の歴史とともに歩んできたものが閉鎖されるのはさびしいが、新しい学校でまた一生懸命勉強してほしい』と2人を励ました。このあと市教委など関係者20人のほか部落の人たち20人も出席して閉校式が行なわれ、出席者は創立当時の思い出などをなつかしそうに語り合っていた。」(『北海道新聞網走・北見版』昭和45年3月23日)

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平成30年10月、K.T氏と訪れた。

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紋別市が建立した記念碑。

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これも学校の記念碑である。
同型の記念碑は、上立牛にもある。

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上古丹の墓地を示す看板。

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墓地への道は続いているが、何もないそうである。

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その道の名は「上古丹線」である。

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学校の向かいには神社があった。
「上古潭神社跡」とある。

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藪をかき分けると、社殿の屋根があった。
集落の名残である。

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令和元年5月、HEYANEKO氏らと再訪した。
記念碑は静かに佇んでいた。

参考文献
北海道新聞1970「鴻輝小 寂しく廃校式 上古丹小 卒業生とも一人 相つぐ離農で過疎現象」『北海道新聞網走・北見版』昭和45年3月23日
紋別市史編纂委員会1983『新紋別市史下巻』紋別市
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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