美深町小車 再訪
美深町小車(平成25年6月2日再訪)
美深町小車については以前、当ブログで紹介した。
http://knaruse.blog94.fc2.com/blog-entry-55.html
今回、手前の恩根内駅より徒歩で小車集落を訪ねてきた。
参考にしたのは、美深町郷土研究会が発行した「50年前の街並み再現地図」である。
50年前の昭和35年当時の住宅地図を参考に、歩くことにした。
恩根内小学校校舎を横目に進む。この時の時刻 午前8時45分。
恩根内小学校は明治36年4月8日 笠原泰一郎所有家屋の一部を仮校舎として開校した。
閉校は平成20年3月31日である。
小車大橋を渡る。
公民館 小車分館の建物が見えた。
昭和35年当時、この建物は見当たらない。
この先に御車小学校、さらに水銀鉱山があった。
歩き始めて間もなく、地神さまの石碑があった。元からここにあったものかは判らなかった。
昭和35年の地図を見ると、左手に公民館 小車分館があったが無くなっている。
周辺は畑が広がっていたが、すべて自然に還ってしまっている。
右手を見ると「阿部橋」という橋があった。
橋を渡ると、崩れた家屋が姿を現した。
すぐ斜め向かいにも家屋がある。
地図を見ると、両方とも阿部氏の家屋である。
阿部宅跡より少し歩くと「永沢橋」がある。
橋を渡った右手に、浴槽の一部が残されていた。
長沢宅の跡である。
その近くにはブロック造りの基礎があった。
地図では西村宅と表示されている。
もう少し進むと、三条氏の住宅跡が見えた。
三条氏宅の近くに「仁木橋」がある。
橋を渡ると、仁木氏宅のサイロが残されている。
その仁木氏宅裏手に旧道が残されていた。
旧道を歩くと橋が見えた。
もとの仁木橋か?
仁木宅を過ぎ、御車小学校跡地へ到着。到着時刻は午前9時40分。約4キロ歩いたことになる。
学校跡地を過ぎ「行けるところまで行ってみよう」と思い、ゲートをくぐる。
ゲートをくぐった直後の風景。
道路は立派と言う印象を受けた。
所々、平坦な土地が見える。
かつて人々が暮らしていた痕跡である。
歩いていくと、右手に看板が見えた。
「東洋水銀工鉱株式会社天塩鉱業所跡」とある。
ここが水銀鉱山の跡地である。到達時刻は午前10時29分。
看板を振り返っての風景。
道路だけは立派である。
周辺の風景。
すっかり自然に還ってしまっていた。
マツの木があるのは、かつてここで暮らしていた方々が植えたものだろうか。
痕跡は何も見出せない。
もう少し歩いてみる。
橋の名前は「水銀橋」。
いよいよ小車峠に入った。
この先は通行止めとなっている。
少し登り、下った先に平地が見えた。
探訪前、小車について三条滝雄氏に聞き取り取材した際「峠道に入って、ちょっと登って下った先に営林署の建物があった」と仰っていた。
ここが営林署の跡地だろうか。
ふと、右手に目をやればスイセンの花が咲いていた。
営林署で植えたものなのかは判らなかったが、この奥地にも人びとの暮らした営みがあった。
この時点で午前10時10分。ここで引き返すことにした。
戻る途中、残雪を目にした。
6月でもまだ雪が残っている。
それだけここは奥地である。
後日、美深町郷土研究会 会長 佐久間昌美氏に伺った。
佐久間氏は、こう話してくれた。
「最奥地の岩隈茂八郎氏の家は右手にあり、自宅敷地内の水車で発電していました…。この路線は板谷~恩根内停車場線と呼称する道道で、岩隈宅周辺の山林は細かく分筆された分譲地となり、多くの持ち主が全国に散在している彼の田中角栄・列島改造論の遺物です…。」
そして、こう付け加えた。
「セールストークは…自然を満喫できる道道沿いの保養地です…。」
保養地は訪れることすら非常に難しくなってしまったが、皮肉にも、自然を満喫することが出来た。
美深町小車については以前、当ブログで紹介した。
http://knaruse.blog94.fc2.com/blog-entry-55.html
今回、手前の恩根内駅より徒歩で小車集落を訪ねてきた。
参考にしたのは、美深町郷土研究会が発行した「50年前の街並み再現地図」である。
50年前の昭和35年当時の住宅地図を参考に、歩くことにした。
恩根内小学校校舎を横目に進む。この時の時刻 午前8時45分。
恩根内小学校は明治36年4月8日 笠原泰一郎所有家屋の一部を仮校舎として開校した。
閉校は平成20年3月31日である。
小車大橋を渡る。
公民館 小車分館の建物が見えた。
昭和35年当時、この建物は見当たらない。
この先に御車小学校、さらに水銀鉱山があった。
歩き始めて間もなく、地神さまの石碑があった。元からここにあったものかは判らなかった。
昭和35年の地図を見ると、左手に公民館 小車分館があったが無くなっている。
周辺は畑が広がっていたが、すべて自然に還ってしまっている。
右手を見ると「阿部橋」という橋があった。
橋を渡ると、崩れた家屋が姿を現した。
すぐ斜め向かいにも家屋がある。
地図を見ると、両方とも阿部氏の家屋である。
阿部宅跡より少し歩くと「永沢橋」がある。
橋を渡った右手に、浴槽の一部が残されていた。
長沢宅の跡である。
その近くにはブロック造りの基礎があった。
地図では西村宅と表示されている。
もう少し進むと、三条氏の住宅跡が見えた。
三条氏宅の近くに「仁木橋」がある。
橋を渡ると、仁木氏宅のサイロが残されている。
その仁木氏宅裏手に旧道が残されていた。
旧道を歩くと橋が見えた。
もとの仁木橋か?
仁木宅を過ぎ、御車小学校跡地へ到着。到着時刻は午前9時40分。約4キロ歩いたことになる。
学校跡地を過ぎ「行けるところまで行ってみよう」と思い、ゲートをくぐる。
ゲートをくぐった直後の風景。
道路は立派と言う印象を受けた。
所々、平坦な土地が見える。
かつて人々が暮らしていた痕跡である。
歩いていくと、右手に看板が見えた。
「東洋水銀工鉱株式会社天塩鉱業所跡」とある。
ここが水銀鉱山の跡地である。到達時刻は午前10時29分。
看板を振り返っての風景。
道路だけは立派である。
周辺の風景。
すっかり自然に還ってしまっていた。
マツの木があるのは、かつてここで暮らしていた方々が植えたものだろうか。
痕跡は何も見出せない。
もう少し歩いてみる。
橋の名前は「水銀橋」。
いよいよ小車峠に入った。
この先は通行止めとなっている。
少し登り、下った先に平地が見えた。
探訪前、小車について三条滝雄氏に聞き取り取材した際「峠道に入って、ちょっと登って下った先に営林署の建物があった」と仰っていた。
ここが営林署の跡地だろうか。
ふと、右手に目をやればスイセンの花が咲いていた。
営林署で植えたものなのかは判らなかったが、この奥地にも人びとの暮らした営みがあった。
この時点で午前10時10分。ここで引き返すことにした。
戻る途中、残雪を目にした。
6月でもまだ雪が残っている。
それだけここは奥地である。
後日、美深町郷土研究会 会長 佐久間昌美氏に伺った。
佐久間氏は、こう話してくれた。
「最奥地の岩隈茂八郎氏の家は右手にあり、自宅敷地内の水車で発電していました…。この路線は板谷~恩根内停車場線と呼称する道道で、岩隈宅周辺の山林は細かく分筆された分譲地となり、多くの持ち主が全国に散在している彼の田中角栄・列島改造論の遺物です…。」
そして、こう付け加えた。
「セールストークは…自然を満喫できる道道沿いの保養地です…。」
保養地は訪れることすら非常に難しくなってしまったが、皮肉にも、自然を満喫することが出来た。
幌延町浜里
幌延町浜里(平成25年6月9日探訪)
幌延町浜里は、日本海沿いの南北14キロに渡る砂丘地帯の間に位置する集落であった。
浜里は元々「音類」(オトンルイ)と呼ばれていた。アイヌ語で「沼へ行く道のあるところ」という意味である。
記録によると、寛政11年に伊能忠敬が稚咲内(ワッカサカナイ・現 豊富町)に測量基点を置いた。
後、明治3年に官設宿所が設置された。官設宿所の経営者は誰だったか不明である。
明治20年頃より天塩から稚咲内に通じる浜道路がつくられ、明治33年には駅逓が設置された。土地は季節的放牧場として利用された。
明治40年頃より下田牧場(南)、水口牧場(北)が経営し、大正5年頃まで音類特別教授場(南)で子弟の教育をしていたが中絶した。
その後、特筆すべきような出来事や産業もなく、戸数も少なかったため変化は見られない。
昭和7年 植村留助や水口藤三郎が主唱し、沙流村(現 豊富町)豊徳小学校分校として開校した。この時の児童数は11名であった。
しかし、10年後の昭和17年 児童減少に加え校舎焼失により廃校となる。若干の児童は天塩国民学校に通学していた。
戦後、昭和23年に国有林よりサロベツ川に至るまでとサロベツ原野南部一帯3,229Haが音類地区として開拓地に、同 昭和28年に国有林西部一帯が浜音類地区として750Haが開拓地にそれぞれ指定された。
開拓地として指定された昭和23年当時、主として山形県出身者と樺太からの引揚者 計102戸が入地した。
学校設置の気運も高まり、昭和24年10月1日 幌延村立音類小学校として開校した。
同年12月1日 幌延中学校音類分校を併置して開校、当時の人々は涙を流して喜び合った。
昭和27年4月1日 中学校が分校から独立し、音類中学校となった。
昭和28年 開発道路が完成し、また電化されるようになった。
昭和34年 字名改正により「浜里」に変更されたのに併せ、昭和35年4月1日付で「浜里小学校・浜里中学校」と改称した。
しかし、発展するかのようにみえたが水害や土地の痩薄、ニシン漁の不振が重なり、離農する人が次第に現れ始めた。
戸数の推移を見ると、昭和30年 51世帯282人 昭和35年 51世帯 259人であったが、昭和40年 27世帯124人 昭和45年 15世帯54人となっている。
昭和57年3月31日 幌延町の学校統合計画の実施により閉校した。
卒業生総数 小学校141名 中学校122名
道道稚内天塩線を走っていくと、右手に学校があった。
倉庫が建っているところはグラウンド跡と思われる。
記念碑が二つ建立されている。
右にあるのは馬頭観音の碑である。
そして、左にあるのが浜里小中学校の記念碑である。
裏面には沿革が刻まれている。
記念碑より下沼方面を望む。
集落の痕跡は何もない。
同じく、記念碑より稚咲内方面を望む。
昭和40年代半ばの地図では学校隣接地に6戸、稚咲内方面に5戸の家があったがすべて無くなっている。
天塩方面を望む。
かつては酪農業で賑わいを見せていたが、荒涼とした風景が広がる無人集落地帯となってしまった。
幌延町浜里は、日本海沿いの南北14キロに渡る砂丘地帯の間に位置する集落であった。
浜里は元々「音類」(オトンルイ)と呼ばれていた。アイヌ語で「沼へ行く道のあるところ」という意味である。
記録によると、寛政11年に伊能忠敬が稚咲内(ワッカサカナイ・現 豊富町)に測量基点を置いた。
後、明治3年に官設宿所が設置された。官設宿所の経営者は誰だったか不明である。
明治20年頃より天塩から稚咲内に通じる浜道路がつくられ、明治33年には駅逓が設置された。土地は季節的放牧場として利用された。
明治40年頃より下田牧場(南)、水口牧場(北)が経営し、大正5年頃まで音類特別教授場(南)で子弟の教育をしていたが中絶した。
その後、特筆すべきような出来事や産業もなく、戸数も少なかったため変化は見られない。
昭和7年 植村留助や水口藤三郎が主唱し、沙流村(現 豊富町)豊徳小学校分校として開校した。この時の児童数は11名であった。
しかし、10年後の昭和17年 児童減少に加え校舎焼失により廃校となる。若干の児童は天塩国民学校に通学していた。
戦後、昭和23年に国有林よりサロベツ川に至るまでとサロベツ原野南部一帯3,229Haが音類地区として開拓地に、同 昭和28年に国有林西部一帯が浜音類地区として750Haが開拓地にそれぞれ指定された。
開拓地として指定された昭和23年当時、主として山形県出身者と樺太からの引揚者 計102戸が入地した。
学校設置の気運も高まり、昭和24年10月1日 幌延村立音類小学校として開校した。
同年12月1日 幌延中学校音類分校を併置して開校、当時の人々は涙を流して喜び合った。
昭和27年4月1日 中学校が分校から独立し、音類中学校となった。
昭和28年 開発道路が完成し、また電化されるようになった。
昭和34年 字名改正により「浜里」に変更されたのに併せ、昭和35年4月1日付で「浜里小学校・浜里中学校」と改称した。
しかし、発展するかのようにみえたが水害や土地の痩薄、ニシン漁の不振が重なり、離農する人が次第に現れ始めた。
戸数の推移を見ると、昭和30年 51世帯282人 昭和35年 51世帯 259人であったが、昭和40年 27世帯124人 昭和45年 15世帯54人となっている。
昭和57年3月31日 幌延町の学校統合計画の実施により閉校した。
卒業生総数 小学校141名 中学校122名
道道稚内天塩線を走っていくと、右手に学校があった。
倉庫が建っているところはグラウンド跡と思われる。
記念碑が二つ建立されている。
右にあるのは馬頭観音の碑である。
そして、左にあるのが浜里小中学校の記念碑である。
裏面には沿革が刻まれている。
記念碑より下沼方面を望む。
集落の痕跡は何もない。
同じく、記念碑より稚咲内方面を望む。
昭和40年代半ばの地図では学校隣接地に6戸、稚咲内方面に5戸の家があったがすべて無くなっている。
天塩方面を望む。
かつては酪農業で賑わいを見せていたが、荒涼とした風景が広がる無人集落地帯となってしまった。