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穂別町福山

穂別町福山(平成28年5月30日・平成29年5月29日探訪)

穂別町福山は鉱山・農業で開けた集落である。

元々は居路夫(オロロップ)と呼ばれ、造材とクローム鉱山で明治末期から開けていたが、仕事のために入地したものであり定住者はいなかった。

大正7年和歌山団体(団長 東金蔵)、山形団体(総代 奥山甚四郎)の入植があり、本格的な開拓がすすめられていった。大正9年には官設駅逓所や移住世話所が設けられ以降、岩手団体、滋賀団体、大阪博愛社孤児院団体が移住してくる。
しかし入植した土地が想像していたものと全く異なったものであり、必ずしも良好とは言えなかった。
「オロロップ原野」目指して到着するも、故郷では百花繚乱の季節であるにも関わらずオロロップの山々は白雪に覆われ、満目荒涼たる姿に絶望しただけではなく融雪期の河川の激流、橋どころか舟筏さえない状況に茫然とし郷里に帰る者、他の土地を求めて転出する者もいて最後まで残ったのは数えるほどであった。
それでも人びとは学校の必要性を痛感し、お互いに協力し合って草葺掘立小屋の校舎を建設し、大正10年奥穂別尋常小学校所属居路夫特別教授場として開校した。
昭和期に入ると八田鉱業所岩見鉱山の開鉱(昭和12年)に伴い児童数も急増した。急増に伴い、総工費の2割にあたる766円を集落の住民が負担し、労力奉仕で1教室増築した。
昭和16年に字名改正により居路夫から福山に変更になったのと併せて福山国民学校と改称した。
昭和22年福山小学校と改称と同時に、安住中学校福山分校が開校した。中学校(分校)の建物は旧曹洞宗布教場を教室と教員住宅に利用して授業が開始された。
昭和28年に中学校が独立、小中併置校となり昭和36年新校舎落成(11月)、昭和39年へき地集会室(屋体)の完成(6月)、昭和47年には通学困難な児童生徒を収容する寄宿舎の開設(1月)など、校内外施設は充実していく。

一方で昭和37年頃より木材の不振とクローム鉱山の閉山、離農者が現れ始め過疎化が進み昭和56年3月に福山小学校、昭和57年3月に福山中学校が閉校となった。

学校の沿革をまとめると以下の通りである。

小学校
大正10年 奥穂別尋常小学校所属居路夫特別教授場として開校(5月)
昭和 7年 居路夫尋常小学校と改称(5月)
昭和16年 福山国民学校と改称(4月)
昭和22年 福山小学校と改称(4月)
昭和56年 閉校(3月)

中学校
昭和22年 安住中学校福山分校開校(5月)
昭和28年 福山中学校と改称(7月)
昭和57年 閉校(3月)

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平成28年5月、釧路管内の廃校廃村調査の帰り道、福山へ立ち寄った。

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家屋は残っているが人気がない。

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味わい深い木造の家屋も残っている。

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学校跡地。
何年か前までは校舎や校門も現存していたが、解体されている。

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校舎敷地内の一角に記念碑があった。

CIMG8545
学校跡をしのばせるものは防風林くらいしか残されていない。

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国道274号線沿いにあるので、絶えず車の往来がある。

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福山大橋。
交通量は多いが、ここに学校があったことを知る人はどれくらいいるだろうか。

この探訪から1年後、再び福山へ足を運んだ。

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交通量は相変わらず多い。

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解体された住宅跡と残る住宅。

KIMG1765.jpg
道道610号占冠穂別線はずっと通行止めである。

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今回は福山の神社へ足を運んだ。

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神社の拝殿は健在である。
折角なので、参拝した。

CIMG9311.jpg
「福山」の名がついた案内板は今も残る。

今でこそ国道が開通し交通の要になっているが、開拓当初は想像を絶するなかでの開拓であった。

参考文献

穂別町史編さん委員会1968『穂別町史』穂別町役場
穂別町史編纂委員会1991『新穂別町史』穂別町

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穂別町(当時)で仕事

私は、平成12年から3年間穂別町で仕事をしました。
当時は、福山へ穂別町富内から、昔、設置された発電所の跡を右手に見ながら、未舗装の対向車とも
すれ違い不可能な幅の狭い山道を通り、水が勢いよく吹き出し崩れ落ちそうな覆道をくぐり抜け
福山へ出かけました。
廃校になった、福山小・中学校の建物や跡地は、高速道東道の工事事務所などがおかれていました。
富内から福山へ至る道路は、現在通行止めです。

Re: 穂別町(当時)で仕事

杜子春さま

コメント有難うございました。学校跡地に工事事務所が置かれていたのは興味深いです。
富内~福山間の道路は今も通行止ですが、険しい道路なんですね。貴重な情報、重ねて御礼申し上げます。

福山小中学校の思い出

地名を検索していて懐かしい写真に出会いました。
ここに文章を残すことで誰かの目に留まることもあるのでしょうか。
私は昭和52年3月に福山中学校を卒業しました。1・2年生が4人、自分たち卒業生が4人、
計8人の小さな学校でした。隣の教室は小学校だったけど、当時合計8人だったか7人だったか。
小中併置校で、校長教頭は一人ずついました。教員はほとんどが新採用の若い教員でしたが、
ごくたまに家族持ちのベテラン教員が赴任してくることがあって、転入生と出会うことが数回ありました。
ちょっと刺激的な出来事だったのかな。
9年間一緒に通った同級生たちは元気にしているだろうか。
たまに福山を通過することがあり、校舎がだんだん傷んできて、屋根が落ちる様子も見てきました。
現在は撤去されて、自然に還っていく途中でしょう。記憶している人もどんどん減っていく。
この年になると故郷を思い返すことが増えます。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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