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浜中町三番沢

浜中町三番沢(平成28年5月29日探訪)

浜中町三番沢は農林業や交通の要衝も兼ねた集落であった。
集落の形成はいつごろかはっきりしなかったが、明治30年頃より農業や冬季間の薪材伐採で人々が出入りしていた。人々の多くは琵琶瀬、浜中の漁民であった。

学校は明治35年1月 浜中村立霧多布尋常高等小学校琵琶瀬分教場として開校した。
三番沢は交通の要所であったことから200~300人の人々が暮らし、商店や旅館もあって賑わいを見せていた。これは上記の薪材伐採の人々が冬季間、一時的に居を移していたことである。
しかし、釧路―根室間の鉄道開通(大正6年12月1日 釧路厚岸間、大正8年11月25日厚岸厚床間)に伴い、戸数が減少していった。

学校の沿革を纏めると以下のとおりである。

小学校
明治35年 霧多布尋常高等小学校琵琶瀬分教場として開校(1月)
大正 2年 霧多布尋常小学校三番沢分教場と改称(5月)
昭和10年 校舎移転(10月)
昭和16年 霧多布国民学校三番沢分教場と改称(4月)
昭和21年 三番沢国民学校と改称(3月)
昭和22年 三番沢小学校と改称(4月)
昭和30年 校舎新築(7月)
昭和47年 閉校(3月)

中学校
昭和23年 霧多布中学校三番沢分校校舎新築(8月)
      同 開校(9月)
昭和30年 閉校(3月)

閉校時の新聞記事を転載する。
70年の歴史にピリオド 浜中・三番沢小 なごり惜しみ閉校式
【浜中】ことし限りで70年の歴史を閉じる三番沢小学校(中島浩校長)の閉校式が19日午前10時から、卒業式にひき続いて行われた。
 同校は、道有林の広がる三番沢地区に明治35年に開校した。かつては釧路―根室間の交通の要所で、林業のほか、商店、はたごやもあって戦前には60人近い在校生がいた記録があるが、戦後は林業以外の産業がないため住民の転出が相次ぎ、最近は校下の住民は10戸たらず。その大半が近く茶内市街などに移転しようとしている。
 こうした地域の過疎化を反映して同校は1学級6人の辺地4級校。ことし2人の卒業生を送り出すと残るのは4人で、新入自動は1人。しかも校下には現在1歳にならない赤ちゃんがいるだけなので、ことし限りで廃校することになり、児童たちは新学期から約7キロ離れた茶内小に通学することになった。
 閉校式は在校生、卒業生と喜島町長、岩田教育長、校下の父母ら約180人が出席して開かれた。
 岩田教育長、中島校長らが『長い歴史を持つ本校もついに閉校することになりました。この学校で学んだことを誇りにして今後も一生けんめい勉強してください』とあいさつ、児童たちも『この学校がなくなっても楽しかった思い出を忘れないでがんばります』と答え出席者全員が同校の思い出を語り合って別れを告げていた。」

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三番沢の名称がついた「三番沢林道。」
この道を進む。

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道中の風景。
しかし、道を誤っていたことがわかり引き返して別な林道より再度、アプローチを図る。

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学校跡地に着いた。
何かないか、周囲を歩く。

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学校池の名残だろうか?

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一本の棒が朽ちかけつつも残っている。学校の標柱かは分からなかった。

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学校傍には神社の拝殿が残っていた。
正確には「三番沢山神社」と呼ばれ大正10年12月12日創建。
創建に携わった方は藤代吉五郎・上田藤五郎・大沢幸吉であった。

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祭典は5月12日と12月12日、年2回行われていた。

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奥に布のようなものがあったので引っ張り出すと、神社幕であった。
写真に撮った後、元にあった場所へ戻した。

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折角なので、移転前の校舎跡地も訪ねてみた。

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周辺を見ると、倒壊した作業小屋の屋根が見えた。

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移転前の校舎跡地。

CIMG8379.jpg
校舎の基礎が残ってないか探したが、見当たらなかった。

参考文献
浜中町役場1975『浜中町史』浜中町役場
浜中町2015『新浜中町史』浜中町
北海道新聞1972「70年の歴史にピリオド 浜中・三番沢小 なごり惜しみ閉校式」北海道新聞釧路・根室版」昭和47年3月20日
編者不明1995『三番沢小学校』
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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