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苫小牧市静川

苫小牧市静川(令和2年5月24日探訪)

苫小牧市静川は農村集落である。
静川は元々『ニナルカ』(川沿いの大地の上)を意味し、旧静川小学校付近の安平川左岸の低い台地を指していた。また一時、漢字で「仁成花」と書かれたこともあったが昭和19年1月1日より字名改称により現在の「静川」に改められた。由来は静かに流れる安平川を指している。

明治39年キング木工場の設置に伴い工夫や造材夫の入地があった。明治42年6~7月に国有未開地処分法の適用を受け7,8町歩の畑地を得て亀カ森徳太郎、伊藤寅松らの集団入植が行われたが、実際大半の人は入植せず開墾を放棄した。その後、蔦森百一、岩田辰次郎などの入植があって大正3年4月、勇払郡苫小牧村第十六部長(区長)として亀カ森徳太郎が選ばれた。
この頃の人々は現金収入へと結びつく製炭業や運搬業(馬車追い)に従事していたが、次第に農業を重視するようになっていく。
昭和2年に入ると丸拓合資会社が造田事業を目的として勇払原野開墾に着手、静川も丸拓第三農場が開設され。農業も活発化していった。ただ、依然として製炭業も盛んであったが焼子の出入りが激しく、多いときは50戸以上であったが数年のうちに他の製炭林を求めて移動し、人口が半減することもあった。
戦後、昭和30年前後に新規入植者や他地域からの移転者もあって昭和31年に27戸129名、昭和35年には32戸131人の人々が暮らし、苫小牧農業の中核地帯を構成する有畜農業地となった。
だが、苫小牧港の整備拡充により勇払原野は北海道の工業基地として注目を集め、苫小牧東部工業基地建設により昭和44年10月より用地の買収が開始された。当初は農地を手放す人も少なくなかったが昭和45年以降買収が進み、昭和45年3月に静川小学校閉校式、静川地区解散式が行われた。

ニナルカ地区の子どもたちは厚真の小学校に通学していたが大正時代に入ると木炭製造の発達で児童数も急増した。このため、旧キング木工場事務所を改装して大正4年9月 沼ノ端簡易教育所ニナルカ特別教授場として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。

大正4年  沼ノ端簡易教育所ニナルカ特別教授場として開校(9月)
大正5年  苫小牧尋常高等小学校所属となる(8月)
大正6年  沼ノ端尋常小学校所属となる(4月)
大正8年  校舎新築
大正9年  苫小牧尋常高等小学校所属となる(4月)
大正11年  苫小牧西尋常高等小学校所属となる(2月)
大正13年  沼ノ端尋常小学校所属となる(4月)
昭和16年  沼ノ端国民学校所属となる(4月)
      仁成花国民学校と改称(5月)
昭和19年  静川国民学校と改称(1月)
昭和22年  静川小学校と改称(4月)
昭和46年  閉校(3月)

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令和2年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
国指定遺跡 静川遺跡もあるがこの時は学校や集落跡を探った。

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学校跡地。

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防風林と思われるマツの木が残っている。

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傍には静川のバス停がある。

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集落の面影はほとんど見られない。

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学校跡付近の神社へ行ってみる。

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神社跡付近にはビンが転がっていた。

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そして、トタン屋根の一部が朽ちながもあった。
集落の面影は神社跡付近に、僅かに残っていた。

参考文献
苫小牧市1976『苫小牧市史下巻』苫小牧市
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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