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せたな町(北桧山町)日中戸

せたな町(北桧山町)日中戸(平成27年5月3日・5月30日探訪)

せたな町(北桧山町)日中戸は漁村の集落であった。

明治2年 稲船竹五郎らがニシン漁獲を目的として開基した。
開基してからしばらくの間は、水産税免除地域であったため出稼ぎや入嫁や越年永住者により集落を形成し、維持していた。

当時は二シン漁で栄えていたため、戸数は56戸を数えていた。

明治31年5月20日 太櫓尋常小学校日中戸仮分校として開校。

大正5年 冬期間のみ季節分教場として再開。
※北海道新聞 昭和39年2月15日付の記事に記載されていたので、本当に「季節分教場」として「再開」されたのかは分かりかねます。

昭和19年12月 鵜泊国民学校日中戸分校と改称。
「通年制」の分校となった。

昭和25年10月 日中戸小学校として独立。この時、中学校も併置された。

昭和31年 校舎が新築落成する。

昭和33年6月 日中戸に水力発電施設による電気が点灯した。

この電気の点灯には、当時日中戸小中学校に勤務されていた先生の尽力もあった。
北海道新聞 渡島桧山版 昭和33年6月21日付に『゛点灯"の喜びに沸く日中戸部落 功労者金谷先生も出席 盛大に発電所落成式行う』とある。

『【北桧山】北桧山町の陸の孤島日中戸部落(十三戸)に水力発電により電気がついたのはさる四日のこと、この落成式が十八日日中戸小学校に部落民を始め松谷北桧山町長、平岩同町教育長、各町議らが出席して行われ、部落は電化の喜びにわいたが、この陰には部落愛にあふれた一青年教師の努力の結晶が秘められている。』

『 函館市出身の金谷鉄弥先生(28)が日中戸校に赴任したのは二十九年五月。同校は学校とは名ばかりで二十二坪の民家を改造した小、中各一教室の貧弱なものだった。(中略)』

『 部落の元老三上勇吉さん(74)がこうした現状を打開しようと資材を投じて道路をつけることに奔走しているのを見た金谷先生は年寄りにばかりまかせておけないと、電気をつけることと学校の改修、船入場を造ることに立ち上がった。部落民もこれに協力、とりあえず電気期成会をつくって部落ぐるみの運動に進んだ。』

『 鶴昭校長(48)も何かと金谷先生を励ましてくれるので先生はほとんど自費で札幌、函館の電気業者と交渉した結果、差当り七十万円あれば水力の自家発電所ができることがわかり、部落民全員が金を出し合って発電所を造ろうと申合わせた。』
『 ところがこれは道補助がつくので北桧山町当局では事業の一切を町が引受け五月三日から1ヵ月足らずで自家発電所を完成し、六月四日には待望の電灯が点じられたのである。』

『 金谷先生は発電所着工の四月に江差町立朝日中学校に転任し、十八日の落成式には陰の功労者として特別招待されたが、松谷町長、町議、部落民は゛電気がついたのは先生のお陰だ"と泣いて青年教師の苦労をたたえた。』

昭和38年9月16日未明 日中戸を含め北桧山一帯に集中豪雨が襲いかかった。
日中戸も、集中豪雨の被害を受けた。

北海道新聞夕刊 昭和38年9月17日付『北桧山の豪雨禍広がる 日中戸部落ほぼ全滅』とある。
日中戸の被害のみ抜粋する。

『(前略)それによると、十六戸のうち稲船秀雄さん、工藤助太郎さんの二戸を残して十四戸(六十五人)が全壊、残り二戸も家財が押し流されて部落民七十一人が十六日午後から日中戸小学校=鶴昭校長、児童数十二人=に避難したが学校も泥が積もり、柱が傾いてついに倒壊。このため避難民は残っている二戸や一部は高台に着の身着のまま逃げ、米などの食糧も極度に不足している状態で、道路づけと合わせて空からの救援物資が一刻も早く落とされることを願った。(以下略)』

北海道新聞 函館市内版 昭和38年12月15日付『事件63年 ② 北桧山集中豪雨』という記事に、日中戸が紹介されている。
以下、引用する。

『 九月十六日の集中豪雨で全十四戸のほとんどが流失、全、半壊した北桧山町字日中戸部落は明年六月までに、祖父代々九十三年にわたる部落の歴史に終止符を打って集団移転しなければならぬほど痛めつけられてしまった。』

『 この日午前八時四十分、大音響とともに日中戸の裏山がくずれ落ち部落をひとのみにした。とりあえず、小、中学生はヘリコプターで東瀬棚へ運ばれたが、その後日中戸小中学校が廃校と決まったため、小学一年生、稲船文子さんら小学生七人、中学生五人の計十二人は北桧山町公民館を仮宿として東瀬棚小、中学校に通学せざるを得なくなった。』

『(中略)間もなく『先祖の開基当時の苦労を忘れてなるものか』と再建に立ち上がった。ところがその後も小規模ながけくずれが各所に続き、道地下資源調査所の調査で『定住は危険』との結論が出されてついに『部落放棄』という悲運にさらされた。(以下略)』

昭和39年3月31日 日中戸小中学校 閉校。

閉校について北海道新聞 渡島桧山版 昭和39年2月15日付には『日中戸小中校 来月で廃校 六十年の歴史に幕』とある。

『【北桧山】北桧山町教委は町立日中戸小中校を三月三十一日付で廃校することに決めた。(中略)日中戸小学校は同町字新成の日中戸部落にあり、町内では最南端の辺地校。明治三十五年、鵜泊小学校の特別簡易教授場として開校し、一時はニシン漁場として繁栄、五、六十戸もあった子弟の教育に当った。その後、部落の衰微とともに中断され、子供たちは約四キロ離れた鵜泊小学校に徒歩で通学していたが、海岸道路が悪く、加えて冬の通学は困難なので、大正五年から冬季間だけの季節分教場として再開、昭和十九年一二月には通年制の分教場が置かれ戦後の二五年十月中学校を併置して日中戸小中学校となった。

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5月3日 お世話になっているラオウ氏と訪れた。
波も穏やかである。

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日中戸小中学校跡地は、この奥にあった。
正面の木製電柱が、学校のあった場所である。

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石垣である。
ここに、学校があったのだ。

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基礎がそのまま残されている。

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基礎に彫られている文字。
『北海道太櫓郡太櫓村日中戸小中学校 団長三上勇吉』

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同じく、彫られている文字。
『昭和三十年十一月十九日完成 基礎 日中戸小中学校』

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学校跡地にはコンクリートの残骸もある。
校舎の一部かはわからなかった。

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ふと足元を見れば、お世話になっている村影弥太郎氏のサイトで掲載されている日中戸レポートが落ちていた。
これを見て、だれか訪ねてきたのだろうか。

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煙突も倒れながら残っていた。

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川の河口には、船着き場と思われる石が残されていた。

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5月3日の調査からそう日もたたぬ5月30日、お世話になっているHEYANEKO氏の合同調査で再訪した。
学校跡地はイタドリですっかり覆い尽くされていた。

学校跡地は既に調査済みなので、学校より一段上にあった神社跡地を目指す。

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山はイタドリで覆われている。
「ちょっと見てきます」と云って、山を登る。

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途中の、目の高さの風景。下り坂だが、私の身長以上のイタドリである。

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神社のマークがあった辺りの風景。
山頂はまだ先だが、神社を置くとしたらここしかないと思い、撮影した。

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神社跡地と思われる場所より、眼下を望む。
集中豪雨がなければ、日中戸は存続していたかもしれない。

参考・引用文献

北海道新聞 渡島・桧山版 昭和33年6月21日付
『゛点灯"の喜びに沸く日中戸部落 功労者金谷先生も出席 盛大に発電所落成式行う』

北海道新聞 渡島・桧山版 昭和38年9月17日付『北桧山の豪雨禍広がる 日中戸部落ほぼ全滅』
         夕刊     昭和38年9月18日付『豪雨のツメ跡 北桧山町 土砂に押しつぶされた日中戸部落の惨状(写真)』

         函館市内版  昭和38年12月15日付『事件63年 ② 北桧山集中豪雨』

北檜山町五十年のあゆみ 第11節 北檜山町小・中学校の廃校の軌跡 北檜山町立日中戸小・中学校 
                  北檜山町町史編集室 平成16年12月30日発行
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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