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神恵内村清川

神恵内村清川 (平成27年4月25日探訪)

神恵内村清川は、道道998号古平神恵内線 当丸(トーマル)峠の道中にある戦後開拓集落である。

道路情報で「当丸峠」と耳にする機会があると思うが、そこに「清川」という集落があった。

トーマルの開拓そのものは大正7年頃、森本愛吉らが入植したことに始まる。
しかし、開拓されて幾年も月日が流れ、原生林に覆われてしまっていた。

昭和23年 白鳥録太郎を団長とする樺太 留多加からの引揚者17戸が入植した。
この年の12月22日 神恵内小学校清川分校が設置された。

昭和24年 開発道路トーマル殖民地線が着工された。
lこの年、 トーマルは30町歩が開墾された。

清川は北海道内の戦後開拓地域でも「模範的」な開拓集落であった。

それは、入植者のすべてが「共同体」として、神恵内開拓農業協同組合を組織し組合長の統率のもとに進められていった事業の結果である。

昭和26年 フローリング工場、搾油、精穀設備、ラジオ共同聴取が実施される。

昭和27年 バター工場完成。乳牛の飼育も始まった。

昭和28年 清川小学校が独立する。
また、同年開発道路トーマル殖民地線(神恵内 古平間)は二級国道に昇格する。

昭和29年 清川小学校増築工事が落成した。
同年、製パン工場が完成する。

また、他の地域に先駆けてパンと牛乳を中心にした「完全給食」が実施された。
私見であるが、昭和30年以前に「へき地」の学校で「完全給食」を実施したところは極めて稀である。

昭和29年の洞爺丸台風(台風15号)が北海道内を襲った。

北海道内も倒木被害や岩内町の大火を引き起こす要因となったが、トーマルも水力発電施設が壊滅的状態に陥ってしまった。

それでも、昭和30年 澱粉工場が完成する。

だが、昭和31年は冷害で期待できるような収穫量ではなかった。

昭和33年 清川小学校敷地内に風力発電施設が完成。

昭和36年 集中豪雨により神恵内橋以外全部流出。

気が付けば、借金も二千万円を越え、見切りをつけた農家は転出していった。

昭和40年10月30日 神恵内村立清川小学校・神恵内中学校清川分校の閉校式が挙行された。

閉校当時、9戸の農家が生活していたが明年に集団離農することとなった。

子供たちは、神恵内小・中学校の寄宿舎に入居することが決まっていたので、12月には寄宿舎に行った。

北海道新聞 小樽市内板 昭和42年9月26日付の「山の秋 海の秋」シリーズ第8回目に『幽気漂う無人部落 水のアワ、開拓民の努力』としてトーマルが掲載されているが、抜粋して紹介する。

『(前略)軒の傾いたバター工場、雑草になかばおおわれたデンプン工場の廃液捨て場、どろんとにごった水面をのぞかせる養魚池。さびついたのか、発電風車はコトリとも音を立てない。くずれたサイロ、庭先に置かれたままの荷車。まだ取りこわさないで残っている民家が五軒。その一軒の軒先に"滝沢留三郎″と記した表札が打ち付けてあった。』

『案内役をしてくれた神恵内村の村木総務課長が、ポツリ、ポツリと話す『清川開拓部落』の興亡は、救いがたい暗いものであった。いまは土台しかない小、中学校跡を見て、開通間もない国道二二九号線積丹横断道路を通って帰途についたとき『この道路さえ早くできていましたらね』とひとこと。(中略)』

『神恵内市街から約十キロ。当丸峠のふもとを流れる清川沿いに人煙が立ちのぼったのは昭和二十三年。樺太引き揚げ者三十二戸の(注1)緊急入植による清川開拓部落のはじめての夕げのしたくであった。(中略)このとし(昭和24年)、部落と神恵内を結ぶ開拓道路が開通、荷馬車一台がやっと通れる細々とした山道だったが、部落民にとっては、これからの開拓を進めるいのちの綱。さっそく乳牛を入れ、バター生産が始まった。間もなく清川上流にダムができ、水力発電の灯がともった。バターは知事表彰されるほど品質優良。子どもたちのために小、中学校もできた。入植者の顔にやっと笑いが浮かぶようになった。』

『だが、二十七年(注2)この地方を襲った集中豪雨はダムを決壊させ、開拓道路をズタズタに寸断、部落の機能をマヒさせて去った。バター生産は一時ストップ。操業を再開したと思ったら、こんどは委託販売先の営業不振で代金がこげつき、打つ手はすべて裏目と出た。』

『もともと道路が悪く、牛乳が運び出せないから、バター生産に活路を求めたのだ。バターもダメなら牛を持っていても仕方がない。借金のかたに乳牛を手放す人も出始めた。追ってくるのは離農。デンプン生産、ニジマスの養殖など離農歯止め策も徒労に終わった。クシの歯が欠けるように離農者が相次ぎ、四十一年三月、小、中学校閉鎖。そして十月、最後まで踏みとどまっていた滝口清七さん(68)もついに部落を去った。清川の灯はまったく消えたのである。(中略)』

※(注1) 北海道新聞の記事と『郷土かもえない』では入植者の人数に差異がみられる。
※(注2) 昭和27年の集中豪雨であるが、昭和29年の台風15号(洞爺丸台風)の誤りではないかと思われる。

児童・生徒数の変遷が村政要覧に掲載されていたので抜粋する。

『神恵内村政要覧 昭和26年度版』の「清川分教場」(当時)の児童数
学級数 1 教員数 2 児童数 男 29 女 16 計45

『かもえない1958』(昭和33年)の児童・生徒数
小学校 学級数 1 教員数 2 児童数 男 7 女 11 計18
中学校(神恵内中学校清川分校) 学級数 1 教員数 2 生徒数 男 6 女 4 計10
※昭和33年4月1日現在

『かもえない1964』(昭和39年)の児童・生徒数
小学校 学級数 1 教員数 2 児童数 男 5 女 6 計11
中学校(分校) 学級数 1 教員数 2 生徒数 男 1 女 1 計2
※昭和39年5月1日現在

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鉱山跡地調査の帰路、清川へ立ち寄った。
4月下旬でも、残雪が残っている。

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清川小中学校跡地と思われる場所である。
「記念碑」の真下にあったみたいだが、残雪が多くて決め手に欠けた。
残雪の中、集落の痕跡を探すため周囲を散策する。

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不自然な「松」の防風林。学校の防風林と思われる。
斜面を下っていく。

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下った先の風景。
昭和40年まで、ここに学校を含めた様々な施設、そして人びとが暮らしていた。

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サイロの基礎があった。
人々が暮らしていた名残である。

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よく見れば、野生化した松の木があちこちある。

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集落の一部はミズバショウの花が咲く、湿地帯と化していた。

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人工のコンクリート構造物を見つけた。
しかし、どのような用途で使われていたかは分からなかった。

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建物の基礎。
昭和40年以前でコンクリートの基礎がはっきり残っているところは、公的な建物(学校など)以外では珍しい。

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石垣も残っている。
夏場なら笹薮に覆われて観ることができない。

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学校跡地付近で見かけたコンクリート。
雪を掘ろうと試みるも、堅くなっており諦めた。

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集落に点在する松の木。
残雪のため、建物の基礎は僅かしか見つけることができなかった。

昭和40年11月30日付の『清川小中校さびしく閉校式』に掲載されていた一文を掲載する。

『…最後に、゛ホタルの光り"が歌われたが、悲しみは涙からおえつにかわった。オルガンをひいている宮崎先生のホオをいくすじも白いものが光る。十余人の父母たちも、かつて同校に奉職、閉校式に参列した元の先生たちもみんな泣いた。戸外は荒れ果てた畑と、貧しい農家、そしてきびしい冬。(以下略)』

今回の調査に当たり、調査にご協力いただきましたふゆをさま(「人形廃墟別館 仮想博物館」管理人)に厚く御礼申し上げます。

引用・参考文献

2万5千分の1地形図 両古美山 昭和43年7月30日発行
    同     ポンネアンチシ山 昭和43年4月30日発行

5万分の1地形図  古平 昭和22年2月28日発行
   同         余別 昭和22年2月28日発行

「神恵内村政要覧 昭和26年度版」 昭和26年発行
「かもえない1958」 神恵内村役場 昭和33年7月1日発行
「かもえない1964」 神恵内村役場 昭和39年7月25日発行
郷土かもえない 神恵内村長 北井七太郎編 昭和47年11月2日発行
北海道新聞 後志版 昭和40年11月30日付 『清川小中校さびしく閉校式 涙ぐむ学童十二人』
北海道新聞 市内版(後志版) 昭和42年9月26日付 『山の秋海の秋 第8回目/幽気漂う無人部落のアワ、開拓民の努力』

羽幌町築別炭砿

羽幌町築別炭砿(平成25年6月9日・平成27年3月26日他探訪)

羽幌町はかつて、炭鉱で栄えていた。

羽幌町築別炭砿・羽幌砿(羽幌炭鉱)・上羽幌(上羽幌炭鉱)であるが、このうち築別炭砿・羽幌砿は廃村に、上羽幌はごく少数戸の農家が住む、高度過疎集落である。

この三地域については築別炭砿・羽幌砿両地区は築別御料、上羽幌は羽幌御料と呼ばれていた。
今回は築別炭砿集落について取り上げたい。

明治30年代に御料農地の貸下げが始まると開拓農家が入地し、農業集落が形成されていった。
当初は純農村地帯であった。

本格的な開発は昭和に入ってからであった。

昭和6年 神戸の鈴木商店から、ここの鉱区を譲渡された太陽産業株式会社は調査・開発を進めた。

昭和14年 羽幌駅前に本店を、築別御料に鉱業所を設け「築別炭坑」と命名し坑夫住宅を建設し始めた。

昭和15年 築別炭坑の開発と共に、羽幌鉄道株式会社による築別-羽幌間の鉄道建設を進めた。

昭和16年 羽幌鉄道株式会社が太陽産業株式会社の石炭鉱業設備を譲り受け、鉄道と炭鉱開発を同時に進め「羽幌炭礦鉄道株式会社」と改めた。

学校は昭和15年12月8日 公立太陽尋常高等小学校が開校した。

昭和16年4月 羽幌町立太陽国民学校と改称。

昭和22年4月 羽幌町立太陽小学校と改称。太陽中学校もこの時、併置した。
一方、炭鉱開発は戦時中の労働力不足により低迷期が続いた。

昭和22年前後、羽幌炭鉱二坑(上羽幌地区)の開発が始まり、昭和23年には本坑(三毛別)・二坑を合併し、本坑に羽幌砿業所が置かれた。

昭和25年 道内の炭鉱労働史に残る大争議が発生したが、その後は労使協調のもとで増産を見せた。

築別炭砿集落は左岸に岡町・谷町・末広町。右岸に古賀町・旭町・金子町があった。
町名の由来は羽幌炭礦鉄道株式会社社長や役員の名前であった。また、集落には商店街はもとより築別砿業所、役場支所、会館、消防本部、生協、幼稚園、研修所、大五百貨店、クラブ、大山衹神社が集まっていた。

しかし、昭和30年代後半よりエネルギー革命の影響を受けた。

羽幌炭砿は経営の合理化や機械化に重点を置き、昭和40年には築別・羽幌砿業所を統合し羽幌砿業所と改称、旧砿業所を築別坑・羽幌坑・上羽幌坑と改称した。

だが、羽幌坑の自然条件の悪化が減産を招いた。

昭和45年 築別西坑を閉鎖し羽幌坑・上羽幌坑に縮小したが坑内条件の悪化や出稼率の低下により、昭和45年11月 閉山した。

太陽小学校は閉山する前の昭和42年3月 3階建ての校舎が完成した。

閉山により児童の転出が後を絶たず、昭和46年5月31日 閉校となった。中学校も同日付で閉校した。

旧太陽小学校はその後「はぼろ緑の村」として昭和57年6月6日にリニューアルされた。
校舎は宿泊施設へと転用され、羽幌炭砿の資料も展示されていたが、利用客の減少により平成12年に閉鎖された。

尚、現在は羽幌町の観光名所の一つとして案内板を建てている。

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築別炭砿へ行く途中にある羽幌町立築別中学校。開校は昭和22年4月1日、閉校は昭和50年3月31日である。

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隣接地には「築別老人寿の家」がある。独特な字体である。

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体育館は今も使用されている。

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もう少し進むと羽幌町立上築別小学校がある。開校は明治38年11月16日、閉校は昭和35年9月30日である。
校舎は既に解体されてしまったものと思われる。

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現在は「羽幌町上築老人の家」「羽幌町上築中央集会所」として使われている。

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先を進み、右手を見ると羽幌炭鉱鉄道の橋脚が見えた。

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橋脚は戦時中、物資不足のため全国各地から桁を集めて建てたものである。

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橋脚を過ぎ、曙集落へ入ると曙小学校跡が見えた。開校は明治39年4月10日、閉校は平成2年3月31日である。
この正面に校舎があったが昭和50年3月、隣接の旧北辰中学校校舎に移転した。

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移転した曙小学校はかつて、旧北辰中学校であると共に旧太陽高等学校でもあった。

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曙小学校を抜けると、太陽小学校が見えた。

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体育館は、珍しい円形型である。

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北海道新聞 留萌・宗谷版昭和42年3月21日付の記事に「卒業と新築記念 太陽小で二つのお祝い」とある。
昭和42年3月19日 卒業式と校舎新築落成式の式典が挙行された。
しかし、今は朽ちゆく一方であった。

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2年前の平成23年10月20日、太陽小学校の内部を探訪した。

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床には合宿で来ていた中学校のポスターが落ちていた。

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校舎裏にはプールが残されていた。

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外へ出て、太陽小学校を後にするとホッパーが姿を現した。

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ホッパーを越えて進むと、炭鉱病院が朽ちながらも残されていた。
平成23年10月20日の時点でこの状態であった。

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約10年前の平成13年頃に撮った炭鉱病院。

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この頃はまだ、どうにか面影を残していたので内部探訪も出来た。
しかし、現在は老朽化が著しいので危険である。

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炭鉱病院の奥に太陽中学校があった。
学校跡地は平地となっているだけで、何も無かった。

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病院へ戻り、いよいよ炭鉱住宅方面へと進む。

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炭鉱住宅の前には、消防署の建物が朽ちながらも残されている。

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そして、眼前には鉄筋の炭鉱住宅が並んでいた。

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北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和44年10月4日付の記事に「鉄筋アパート完成 明るいムードそえる」とある。
建物は昭和43年の秋に建築が始まった。

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だが、僅か1年後に閉山となり住民はいなくなった。

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平成13年頃に撮った炭鉱住宅。

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この頃は屋根がめくれることも無かったが、投石でガラス窓が所々割られていた。

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炭鉱住宅を後にし、浴場へと足を運ぶ。

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浴場は往時の面影を残していた。

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発電所煙突と映写室の跡。
羽幌町の発展を担った集落は、自然に還っていた。

これから先は、既に公開した羽幌町羽幌砿(旭ヶ丘小学校)と併せて調査した時のものである。

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築別炭鉱の手前はゲートで閉じられている。
ここから先は徒歩で進む。

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太陽小学校は、積雪により遠望で留める。

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築別炭鉱のホッパーが見えた。

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さらに進むと、築別炭鉱病院が見えたが屋根は完全に抜け落ちている。

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内部の床面は非常に危ない。

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正面玄関へ廻る。
病院受付の面影は残っているが、朽ち果てる寸前である。

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築別炭鉱の鉄筋炭鉱住宅が見えてきた。

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鉄筋炭鉱住宅。
今回は、この奥にある築別浄水場まで歩くことにした。

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鉄筋炭鉱住宅を抜けた先の風景。
雪の下に、住宅の基礎が眠っている。

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築別スキー場跡。
「ジャンプ台」もあったが、この時は見つけることができなかった。

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浄水場手前の北清寮。

北清寮
平成14~15年 5月頃撮影の北清寮。


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平成14~15年 5月頃撮影の北清寮。
この頃も朽ちていたが、それでも屋根が辛うじて残っていた。

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平成14~15年 5月頃撮影の北清寮内部。
筆者はここで、床を踏み抜いてしまった。

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北清寮の向かいに、鉄棒が残されていた。

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鉄棒の傍に、屋根が残っている。
炭鉱住宅の屋根と思われる。

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築別浄水場が見えた。

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平成14~15年 5月頃撮影の築別浄水場。
浄水場に関しては、殆ど変化が見られない。

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浄水場を探訪して帰る途中の風景。
右は一緒に訪れた知人(かんじき)、左は筆者(長靴)である。

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帰り際、ふと見ると墓地が見えた。
今も3基のお墓がある。今もお参りに来られているのだろうか。
維持管理されていることを願いつつ、築別炭鉱を後にした。

羽幌町羽幌砿

羽幌町羽幌砿(平成23年10月20日・平成25年6月9日・平成27年3月26日探訪)

羽幌町羽幌砿は築別炭砿、上羽幌と並んで炭鉱街を築いていた。

羽幌砿の開拓は築別炭砿と同様、築別御料に属し、明治35年より開拓が始まった。

大正2年 築別川本流奥地の新区画(後の鉄橋から金子町付近まで)の測設が行なわれ、大正3年より20数戸が入植したが離農者が出て、大正9年頃は17戸になっていた。

本格的な開発は昭和に入ってからであった。

「築別炭砿」でも取り上げたように、昭和6年 神戸の鈴木商店から、ここの鉱区を譲渡された太陽産業株式会社は調査・開発を進めた。(詳細は「築別炭砿」の項を参照)

築別炭砿地区の開発が進められていったが、戦時中の資材・労働力不足により戦後、昭和25年頃までは低迷期が続いていた。

低迷期の中、昭和23年より羽幌砿区の開発が始まった。
この時、本坑である羽幌砿区と二坑を合併し、羽幌鉱業所が置かれた。
これにより築別・羽幌両鉱業所による生産が確立した。

羽幌砿区は三毛別川の両岸に集落が形成された。

このうち中心街は睦町から稲穂町で、役場支所・郵便局・駐在所・公民館・保育所・消防団・会館・映画館・診療所・社員クラブ・砿友クラブ・生協・大五百貨店が集中していた。
また、旭町(旭丘)には羽幌鉱業所・旭ヶ丘小中学校・羽幌綜合建設(株)があった。

学校は昭和26年2月1日 羽幌町立曙小学校分教場として開校し、この年の12月1日 羽幌町立旭ヶ丘小学校として独立した。

羽幌炭砿の本砿として従業員の子弟が急増し、昭和28年4月には6学級編成になった。
昭和33年1月16日 中学校が新設され、小中併置校となった。

だが、6年後の昭和39年5月24日 原因不明の火災により中学校が焼失してしまった。

この年の9月30日 旭ヶ丘中学校は曙中学校と統合し、新築された統合学校である北辰中学校に移転、分離した。

しかし、炭鉱の閉山により児童の流出が著しく、昭和45年5月時点で13学級463名の児童がいたが、昭和46年5月 3学級47名にまで激減していた。

旭ヶ丘小学校は昭和46年5月31日 閉校した。

一方、統合先の北辰中学校も閉山の影響を受け、昭和45年度当初 8学級272名の生徒数がいたが、昭和46年4月には3学級 34名にまで激減した。

昭和46年5月10日 羽幌砿にあった三毛別地区からの通学生徒がいなくなったため、この年に廃校となった羽幌太陽高等学校校舎(後の曙小学校校舎)に移転した。

移転後の昭和48年4月 2学級編成 各学年3,4名という小規模校へとなってしまう。

昭和50年3月31日 羽幌中学校との統合により閉校となった。

一方、集落も炭鉱閉山により無人集落となってしまった。

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羽幌町曙より、炭鉱で栄えた羽幌砿へ行く途中に北辰中学校校舎はある。

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校門が片方、現存していた。

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校舎は朽ちつつもどうにか、残されている。

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教室は既に取り払われていた。

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しかし、2階へ上がると往時の面影が残されていた。

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卒業生の残した書き込み。

これ以外にも、「あの頃にタイムスリップしました」「なつかしい。校舎がだんだん草におおわれてく!」「思い出を大切にしていきます」等の卒業生の書き込みがあった。

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北辰中学校を後にして、羽幌炭鉱の立坑櫓が見えた。

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立坑櫓から程近いところに旭ヶ丘小学校はあった。
学校はこの先、左手にあった。

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外壁だけとなった炭住が残る。

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旭ヶ丘小学校の跡地は、ここの炭住の裏手にあったようだ。
探訪当時、生憎見つけることが出来なかった。

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かつての建物の基礎が随所に残る。

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これは「健保会館」と呼ばれていた建物の門である。

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その健保会館前には、住宅の煙突が倒れていた。

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傍には浴槽も残っている。

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所々に便槽があるので、足元には注意が必要である。

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羽幌炭鉱立坑櫓の屋上より。
炭鉱街を築き上げた羽幌炭鉱は、開発前の原野に戻ってしまった。

尚、現在は羽幌町の観光案内の一つとして取り上げられ、主要な箇所に案内板が立てられている。

これから紹介するのは、平成27年3月26日に再訪したときのものである。
前回は旭ヶ丘小学校を見つけることができなかったが、今回は航空写真や地形図、そしてSNSを通して知り合った知人と再訪した。

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道道はゲートで閉じられているので、ゲートの先から歩いて探訪した。
早春の羽幌炭鉱堅坑櫓が見えてきた。

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ガソリンスタンドも雪に埋もれていたが、原形を保っている。

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旧道がはっきりと分かる。
知人はかんじきを装着したが、私はツボ足で進む。

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建物の基礎は見ることができないが、人々が暮らしていた痕跡は鮮明に見ることができる。

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前回の調査は、ここで引き返した。
ピンクの外壁の炭鉱住宅の裏が、旭ヶ丘小学校跡地である。

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炭鉱住宅の裏へ廻って見る。
足が冷たくなりつつあるが先に進み、斜面を登る。

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斜面を登ると、右手に基礎が見えた。

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正面を見れば、校舎の基礎や煙突が姿を現した。
旭ヶ丘小学校の校舎跡地である。

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奥には、インターネットの画像検索で見た基礎が残されている。

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間近で見ると、正面玄関ではなさそうだが校舎の一部であることに変わりはない。

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煙突がそのまま残されている。
校舎からは、羽幌炭鉱堅坑櫓を見ることができる。

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正面に見えたこれは校門なのだろうか?

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グラウンドは潅木が生い茂っていた。

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校舎跡地より炭鉱住宅街を見下ろす。

すっかり自然に還ってしまったが、人々が暮らしていた営みを必死に伝えているように思えた。
今回の調査に際し、快く協力してくださった知人に感謝申し上げます。

せたな町(北桧山町)日中戸

せたな町(北桧山町)日中戸(平成27年5月3日・5月30日探訪)

せたな町(北桧山町)日中戸は漁村の集落であった。

明治2年 稲船竹五郎らがニシン漁獲を目的として開基した。
開基してからしばらくの間は、水産税免除地域であったため出稼ぎや入嫁や越年永住者により集落を形成し、維持していた。

当時は二シン漁で栄えていたため、戸数は56戸を数えていた。

明治31年5月20日 太櫓尋常小学校日中戸仮分校として開校。

大正5年 冬期間のみ季節分教場として再開。
※北海道新聞 昭和39年2月15日付の記事に記載されていたので、本当に「季節分教場」として「再開」されたのかは分かりかねます。

昭和19年12月 鵜泊国民学校日中戸分校と改称。
「通年制」の分校となった。

昭和25年10月 日中戸小学校として独立。この時、中学校も併置された。

昭和31年 校舎が新築落成する。

昭和33年6月 日中戸に水力発電施設による電気が点灯した。

この電気の点灯には、当時日中戸小中学校に勤務されていた先生の尽力もあった。
北海道新聞 渡島桧山版 昭和33年6月21日付に『゛点灯"の喜びに沸く日中戸部落 功労者金谷先生も出席 盛大に発電所落成式行う』とある。

『【北桧山】北桧山町の陸の孤島日中戸部落(十三戸)に水力発電により電気がついたのはさる四日のこと、この落成式が十八日日中戸小学校に部落民を始め松谷北桧山町長、平岩同町教育長、各町議らが出席して行われ、部落は電化の喜びにわいたが、この陰には部落愛にあふれた一青年教師の努力の結晶が秘められている。』

『 函館市出身の金谷鉄弥先生(28)が日中戸校に赴任したのは二十九年五月。同校は学校とは名ばかりで二十二坪の民家を改造した小、中各一教室の貧弱なものだった。(中略)』

『 部落の元老三上勇吉さん(74)がこうした現状を打開しようと資材を投じて道路をつけることに奔走しているのを見た金谷先生は年寄りにばかりまかせておけないと、電気をつけることと学校の改修、船入場を造ることに立ち上がった。部落民もこれに協力、とりあえず電気期成会をつくって部落ぐるみの運動に進んだ。』

『 鶴昭校長(48)も何かと金谷先生を励ましてくれるので先生はほとんど自費で札幌、函館の電気業者と交渉した結果、差当り七十万円あれば水力の自家発電所ができることがわかり、部落民全員が金を出し合って発電所を造ろうと申合わせた。』
『 ところがこれは道補助がつくので北桧山町当局では事業の一切を町が引受け五月三日から1ヵ月足らずで自家発電所を完成し、六月四日には待望の電灯が点じられたのである。』

『 金谷先生は発電所着工の四月に江差町立朝日中学校に転任し、十八日の落成式には陰の功労者として特別招待されたが、松谷町長、町議、部落民は゛電気がついたのは先生のお陰だ"と泣いて青年教師の苦労をたたえた。』

昭和38年9月16日未明 日中戸を含め北桧山一帯に集中豪雨が襲いかかった。
日中戸も、集中豪雨の被害を受けた。

北海道新聞夕刊 昭和38年9月17日付『北桧山の豪雨禍広がる 日中戸部落ほぼ全滅』とある。
日中戸の被害のみ抜粋する。

『(前略)それによると、十六戸のうち稲船秀雄さん、工藤助太郎さんの二戸を残して十四戸(六十五人)が全壊、残り二戸も家財が押し流されて部落民七十一人が十六日午後から日中戸小学校=鶴昭校長、児童数十二人=に避難したが学校も泥が積もり、柱が傾いてついに倒壊。このため避難民は残っている二戸や一部は高台に着の身着のまま逃げ、米などの食糧も極度に不足している状態で、道路づけと合わせて空からの救援物資が一刻も早く落とされることを願った。(以下略)』

北海道新聞 函館市内版 昭和38年12月15日付『事件63年 ② 北桧山集中豪雨』という記事に、日中戸が紹介されている。
以下、引用する。

『 九月十六日の集中豪雨で全十四戸のほとんどが流失、全、半壊した北桧山町字日中戸部落は明年六月までに、祖父代々九十三年にわたる部落の歴史に終止符を打って集団移転しなければならぬほど痛めつけられてしまった。』

『 この日午前八時四十分、大音響とともに日中戸の裏山がくずれ落ち部落をひとのみにした。とりあえず、小、中学生はヘリコプターで東瀬棚へ運ばれたが、その後日中戸小中学校が廃校と決まったため、小学一年生、稲船文子さんら小学生七人、中学生五人の計十二人は北桧山町公民館を仮宿として東瀬棚小、中学校に通学せざるを得なくなった。』

『(中略)間もなく『先祖の開基当時の苦労を忘れてなるものか』と再建に立ち上がった。ところがその後も小規模ながけくずれが各所に続き、道地下資源調査所の調査で『定住は危険』との結論が出されてついに『部落放棄』という悲運にさらされた。(以下略)』

昭和39年3月31日 日中戸小中学校 閉校。

閉校について北海道新聞 渡島桧山版 昭和39年2月15日付には『日中戸小中校 来月で廃校 六十年の歴史に幕』とある。

『【北桧山】北桧山町教委は町立日中戸小中校を三月三十一日付で廃校することに決めた。(中略)日中戸小学校は同町字新成の日中戸部落にあり、町内では最南端の辺地校。明治三十五年、鵜泊小学校の特別簡易教授場として開校し、一時はニシン漁場として繁栄、五、六十戸もあった子弟の教育に当った。その後、部落の衰微とともに中断され、子供たちは約四キロ離れた鵜泊小学校に徒歩で通学していたが、海岸道路が悪く、加えて冬の通学は困難なので、大正五年から冬季間だけの季節分教場として再開、昭和十九年一二月には通年制の分教場が置かれ戦後の二五年十月中学校を併置して日中戸小中学校となった。

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5月3日 お世話になっているラオウ氏と訪れた。
波も穏やかである。

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日中戸小中学校跡地は、この奥にあった。
正面の木製電柱が、学校のあった場所である。

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石垣である。
ここに、学校があったのだ。

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基礎がそのまま残されている。

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基礎に彫られている文字。
『北海道太櫓郡太櫓村日中戸小中学校 団長三上勇吉』

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同じく、彫られている文字。
『昭和三十年十一月十九日完成 基礎 日中戸小中学校』

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学校跡地にはコンクリートの残骸もある。
校舎の一部かはわからなかった。

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ふと足元を見れば、お世話になっている村影弥太郎氏のサイトで掲載されている日中戸レポートが落ちていた。
これを見て、だれか訪ねてきたのだろうか。

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煙突も倒れながら残っていた。

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川の河口には、船着き場と思われる石が残されていた。

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5月3日の調査からそう日もたたぬ5月30日、お世話になっているHEYANEKO氏の合同調査で再訪した。
学校跡地はイタドリですっかり覆い尽くされていた。

学校跡地は既に調査済みなので、学校より一段上にあった神社跡地を目指す。

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山はイタドリで覆われている。
「ちょっと見てきます」と云って、山を登る。

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途中の、目の高さの風景。下り坂だが、私の身長以上のイタドリである。

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神社のマークがあった辺りの風景。
山頂はまだ先だが、神社を置くとしたらここしかないと思い、撮影した。

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神社跡地と思われる場所より、眼下を望む。
集中豪雨がなければ、日中戸は存続していたかもしれない。

参考・引用文献

北海道新聞 渡島・桧山版 昭和33年6月21日付
『゛点灯"の喜びに沸く日中戸部落 功労者金谷先生も出席 盛大に発電所落成式行う』

北海道新聞 渡島・桧山版 昭和38年9月17日付『北桧山の豪雨禍広がる 日中戸部落ほぼ全滅』
         夕刊     昭和38年9月18日付『豪雨のツメ跡 北桧山町 土砂に押しつぶされた日中戸部落の惨状(写真)』

         函館市内版  昭和38年12月15日付『事件63年 ② 北桧山集中豪雨』

北檜山町五十年のあゆみ 第11節 北檜山町小・中学校の廃校の軌跡 北檜山町立日中戸小・中学校 
                  北檜山町町史編集室 平成16年12月30日発行
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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