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羽幌炭砿今昔

羽幌町羽幌炭砿は、既に当ブログにも取り上げてきた。
さらに今年(平成27年)閉山45年を記念した同窓会が開催され、ゆかりある方だけではなく一般の方も多数参加した。

今回、『羽幌炭鉱閉山関係資料』(北海道立文書館蔵)の中に羽幌炭砿閉山直前(直後)の写真が綴られていたので、往時の写真と現在の様子を比較して紹介する。写真から判断して、昭和45年秋頃に撮影されたものかと思われる。
写真の説明文は、文書資料の原文のまま引用した。

築別航空写真
築別炭礦全景

羽幌航空写真
羽幌礦全景

上羽幌航空写真
上羽幌全景

航空写真の撮影年代は不明である。

太陽高校
太陽高等学校(曙)

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現在の太陽高等学校(平成25年6月9日撮影)(注1)

太陽小学校
太陽小学校(築炭)

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現在の太陽小学校(平成27年3月26日撮影)

選炭施設
選炭工場(築炭)

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現在の選炭工場(平成27年3月26日撮影)

消防署
消防施設(築炭)

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現在の消防施設(平成25年6月9日撮影)

診療所
羽幌炭礦鉄道病院(築炭)

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現在の羽幌炭礦鉄道病院(平成27年3月26日撮影)

劇場
築別炭礦会館(築炭)

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現在の築別炭礦会館付近(映写室)(平成25年6月9日撮影)
※築別炭鉱会館の近くの高い煙突は火力発電所の煙突です。

築別住宅
改良住宅=4棟96戸(築炭)

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現在の改良住宅4棟96戸(平成27年3月26日撮影)
※改良住宅4棟には間違いなく実際に人が入居し生活していました。

浄水場
水道施設(築炭)

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現在の水道施設(築別浄水場)(平成27年3月26日撮影)

羽幌立坑
立坑(羽幌礦)

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現在の立坑付近(平成27年3月26日撮影)

健保会館
健保会館(羽幌砿)

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現在の健保会館(平成25年6月9日撮影)

北辰中 - コピー
北辰中学校(曙)

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現在の北辰中学校(平成25年6月9日撮影)

上羽幌住宅
公営住宅(上羽幌)(注4)

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現在の公営住宅

この中で、築別炭鉱の鉄筋炭鉱アパート(改良住宅)は閉山直前に建てられたため、実際に使われていたのか永らく不明であった。
ある方は「あの建物は所謂『モデルルーム』のようなものであったので使われていなかった」と云う。

しかし、写真を見ると実際に使われている様子がわかる。その根拠として

① 煙突から煙が出ている
② ベランダに洗濯物らしき物体がある、2点である。

さらに築別炭砿ジャンプ台でスキーの練習をした事のある知人に伺うと、次の証言を得ることができた。
「築別の鉄筋アパートは1年間だけ使われた。(注2)朝日寮が火事で焼けた時(注3)、朝日寮の住人の多くがここに移り住んだ。また、スキージャンプの合宿場所としても使われた。」
使用期間が短かったとはいえ、実際に使われていたのは事実である。

(注1)元々は北海道立太陽高等学校の校舎として使われていたが、昭和46年3月に太陽高等学校は閉校。北辰中学校(羽幌砿)が炭鉱閉山による生徒数激減のため、閉校した太陽高等学校校舎に移転した。昭和50年3月に北辰中学校が閉校してからは、曙小学校校舎として平成2年3月まで使われていた。

(注2) 現存する鉄筋炭鉱住宅は昭和43年秋に建築が始まり、昭和44年10月に完成した。

(注3) 朝日寮の火災は昭和45年1月12日に発生し、全焼した。

(注4) 建物は建物の素材(ブロック造)や住宅の構造から、緑町上炭鉱住宅の可能性がある。

これ以外にも様々な建物が紹介されているが、次に挙げる建物で場所をご存知の方がいましたらご連絡ください。

築別炭砿

築別炭礦駅
築別炭礦駅

羽幌礦業所事務所
築別炭鉱事務所 - コピー

末広浴場(末広町)
末広湯 - コピー
※築別炭鉱の末広町にあった公衆浴場ですね、利用したことがあります 。公衆浴場は築別炭鉱内では上古賀町と岡町、金子町にもありました。 無料で入れました。

スポーツハウス(末広町)
スポーツハウス
※多分末広町のプールのあった場所ですね。

幼稚園(なかよし幼稚園・末広町)
幼稚園
※幼稚園は末広町です。

宿泊施設(旭台)
CIMG5117 - コピー
※旭台にあった迎賓館で、来賓客を接待する施設でした。建物の裏側に小さな池がもうけられ鯉が放されていました。

公民館分館(谷町)
公民館分館
※公民館分館は谷町で裏手に川が流れており写真の右手には太陽小学校に至る道路がありました。


築別炭山郵便局(谷町)
郵便局
※郵便局は移転後の新しいもので小さな商店街の一角で谷町にありました。

公営住宅(下古賀町)
住宅
※築別炭鉱の下古賀町にあったもので主に教員住宅として使われていました。写真の山の中腹に小さく写っているのは鶏舎です。

羽幌礦

診療所
羽幌診療所

栄山寮=独身寮
独身寮

住宅施設(撮影場所不明)
羽幌住宅

参考文献

『羽幌炭鉱閉山関係資料』(北海道立文書館蔵)
『鉄筋アパート完成 明るいムードそえる』北海道新聞留萌・宗谷版昭和44年10月4日号

※hitosiさまの証言を織り交ぜました。有難うございました。(12月21日)

羽幌町築別炭砿

羽幌町築別炭砿(平成25年6月9日・平成27年3月26日他探訪)

羽幌町はかつて、炭鉱で栄えていた。

羽幌町築別炭砿・羽幌砿(羽幌炭鉱)・上羽幌(上羽幌炭鉱)であるが、このうち築別炭砿・羽幌砿は廃村に、上羽幌はごく少数戸の農家が住む、高度過疎集落である。

この三地域については築別炭砿・羽幌砿両地区は築別御料、上羽幌は羽幌御料と呼ばれていた。
今回は築別炭砿集落について取り上げたい。

明治30年代に御料農地の貸下げが始まると開拓農家が入地し、農業集落が形成されていった。
当初は純農村地帯であった。

本格的な開発は昭和に入ってからであった。

昭和6年 神戸の鈴木商店から、ここの鉱区を譲渡された太陽産業株式会社は調査・開発を進めた。

昭和14年 羽幌駅前に本店を、築別御料に鉱業所を設け「築別炭坑」と命名し坑夫住宅を建設し始めた。

昭和15年 築別炭坑の開発と共に、羽幌鉄道株式会社による築別-羽幌間の鉄道建設を進めた。

昭和16年 羽幌鉄道株式会社が太陽産業株式会社の石炭鉱業設備を譲り受け、鉄道と炭鉱開発を同時に進め「羽幌炭礦鉄道株式会社」と改めた。

学校は昭和15年12月8日 公立太陽尋常高等小学校が開校した。

昭和16年4月 羽幌町立太陽国民学校と改称。

昭和22年4月 羽幌町立太陽小学校と改称。太陽中学校もこの時、併置した。
一方、炭鉱開発は戦時中の労働力不足により低迷期が続いた。

昭和22年前後、羽幌炭鉱二坑(上羽幌地区)の開発が始まり、昭和23年には本坑(三毛別)・二坑を合併し、本坑に羽幌砿業所が置かれた。

昭和25年 道内の炭鉱労働史に残る大争議が発生したが、その後は労使協調のもとで増産を見せた。

築別炭砿集落は左岸に岡町・谷町・末広町。右岸に古賀町・旭町・金子町があった。
町名の由来は羽幌炭礦鉄道株式会社社長や役員の名前であった。また、集落には商店街はもとより築別砿業所、役場支所、会館、消防本部、生協、幼稚園、研修所、大五百貨店、クラブ、大山衹神社が集まっていた。

しかし、昭和30年代後半よりエネルギー革命の影響を受けた。

羽幌炭砿は経営の合理化や機械化に重点を置き、昭和40年には築別・羽幌砿業所を統合し羽幌砿業所と改称、旧砿業所を築別坑・羽幌坑・上羽幌坑と改称した。

だが、羽幌坑の自然条件の悪化が減産を招いた。

昭和45年 築別西坑を閉鎖し羽幌坑・上羽幌坑に縮小したが坑内条件の悪化や出稼率の低下により、昭和45年11月 閉山した。

太陽小学校は閉山する前の昭和42年3月 3階建ての校舎が完成した。

閉山により児童の転出が後を絶たず、昭和46年5月31日 閉校となった。中学校も同日付で閉校した。

旧太陽小学校はその後「はぼろ緑の村」として昭和57年6月6日にリニューアルされた。
校舎は宿泊施設へと転用され、羽幌炭砿の資料も展示されていたが、利用客の減少により平成12年に閉鎖された。

尚、現在は羽幌町の観光名所の一つとして案内板を建てている。

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築別炭砿へ行く途中にある羽幌町立築別中学校。開校は昭和22年4月1日、閉校は昭和50年3月31日である。

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隣接地には「築別老人寿の家」がある。独特な字体である。

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体育館は今も使用されている。

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もう少し進むと羽幌町立上築別小学校がある。開校は明治38年11月16日、閉校は昭和35年9月30日である。
校舎は既に解体されてしまったものと思われる。

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現在は「羽幌町上築老人の家」「羽幌町上築中央集会所」として使われている。

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先を進み、右手を見ると羽幌炭鉱鉄道の橋脚が見えた。

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橋脚は戦時中、物資不足のため全国各地から桁を集めて建てたものである。

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橋脚を過ぎ、曙集落へ入ると曙小学校跡が見えた。開校は明治39年4月10日、閉校は平成2年3月31日である。
この正面に校舎があったが昭和50年3月、隣接の旧北辰中学校校舎に移転した。

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移転した曙小学校はかつて、旧北辰中学校であると共に旧太陽高等学校でもあった。

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曙小学校を抜けると、太陽小学校が見えた。

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体育館は、珍しい円形型である。

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北海道新聞 留萌・宗谷版昭和42年3月21日付の記事に「卒業と新築記念 太陽小で二つのお祝い」とある。
昭和42年3月19日 卒業式と校舎新築落成式の式典が挙行された。
しかし、今は朽ちゆく一方であった。

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2年前の平成23年10月20日、太陽小学校の内部を探訪した。

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床には合宿で来ていた中学校のポスターが落ちていた。

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校舎裏にはプールが残されていた。

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外へ出て、太陽小学校を後にするとホッパーが姿を現した。

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ホッパーを越えて進むと、炭鉱病院が朽ちながらも残されていた。
平成23年10月20日の時点でこの状態であった。

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約10年前の平成13年頃に撮った炭鉱病院。

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この頃はまだ、どうにか面影を残していたので内部探訪も出来た。
しかし、現在は老朽化が著しいので危険である。

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炭鉱病院の奥に太陽中学校があった。
学校跡地は平地となっているだけで、何も無かった。

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病院へ戻り、いよいよ炭鉱住宅方面へと進む。

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炭鉱住宅の前には、消防署の建物が朽ちながらも残されている。

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そして、眼前には鉄筋の炭鉱住宅が並んでいた。

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北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和44年10月4日付の記事に「鉄筋アパート完成 明るいムードそえる」とある。
建物は昭和43年の秋に建築が始まった。

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だが、僅か1年後に閉山となり住民はいなくなった。

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平成13年頃に撮った炭鉱住宅。

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この頃は屋根がめくれることも無かったが、投石でガラス窓が所々割られていた。

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炭鉱住宅を後にし、浴場へと足を運ぶ。

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浴場は往時の面影を残していた。

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発電所煙突と映写室の跡。
羽幌町の発展を担った集落は、自然に還っていた。

これから先は、既に公開した羽幌町羽幌砿(旭ヶ丘小学校)と併せて調査した時のものである。

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築別炭鉱の手前はゲートで閉じられている。
ここから先は徒歩で進む。

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太陽小学校は、積雪により遠望で留める。

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築別炭鉱のホッパーが見えた。

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さらに進むと、築別炭鉱病院が見えたが屋根は完全に抜け落ちている。

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内部の床面は非常に危ない。

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正面玄関へ廻る。
病院受付の面影は残っているが、朽ち果てる寸前である。

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築別炭鉱の鉄筋炭鉱住宅が見えてきた。

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鉄筋炭鉱住宅。
今回は、この奥にある築別浄水場まで歩くことにした。

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鉄筋炭鉱住宅を抜けた先の風景。
雪の下に、住宅の基礎が眠っている。

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築別スキー場跡。
「ジャンプ台」もあったが、この時は見つけることができなかった。

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浄水場手前の北清寮。

北清寮
平成14~15年 5月頃撮影の北清寮。


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平成14~15年 5月頃撮影の北清寮。
この頃も朽ちていたが、それでも屋根が辛うじて残っていた。

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平成14~15年 5月頃撮影の北清寮内部。
筆者はここで、床を踏み抜いてしまった。

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北清寮の向かいに、鉄棒が残されていた。

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鉄棒の傍に、屋根が残っている。
炭鉱住宅の屋根と思われる。

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築別浄水場が見えた。

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平成14~15年 5月頃撮影の築別浄水場。
浄水場に関しては、殆ど変化が見られない。

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浄水場を探訪して帰る途中の風景。
右は一緒に訪れた知人(かんじき)、左は筆者(長靴)である。

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帰り際、ふと見ると墓地が見えた。
今も3基のお墓がある。今もお参りに来られているのだろうか。
維持管理されていることを願いつつ、築別炭鉱を後にした。

羽幌町羽幌砿

羽幌町羽幌砿(平成23年10月20日・平成25年6月9日・平成27年3月26日探訪)

羽幌町羽幌砿は築別炭砿、上羽幌と並んで炭鉱街を築いていた。

羽幌砿の開拓は築別炭砿と同様、築別御料に属し、明治35年より開拓が始まった。

大正2年 築別川本流奥地の新区画(後の鉄橋から金子町付近まで)の測設が行なわれ、大正3年より20数戸が入植したが離農者が出て、大正9年頃は17戸になっていた。

本格的な開発は昭和に入ってからであった。

「築別炭砿」でも取り上げたように、昭和6年 神戸の鈴木商店から、ここの鉱区を譲渡された太陽産業株式会社は調査・開発を進めた。(詳細は「築別炭砿」の項を参照)

築別炭砿地区の開発が進められていったが、戦時中の資材・労働力不足により戦後、昭和25年頃までは低迷期が続いていた。

低迷期の中、昭和23年より羽幌砿区の開発が始まった。
この時、本坑である羽幌砿区と二坑を合併し、羽幌鉱業所が置かれた。
これにより築別・羽幌両鉱業所による生産が確立した。

羽幌砿区は三毛別川の両岸に集落が形成された。

このうち中心街は睦町から稲穂町で、役場支所・郵便局・駐在所・公民館・保育所・消防団・会館・映画館・診療所・社員クラブ・砿友クラブ・生協・大五百貨店が集中していた。
また、旭町(旭丘)には羽幌鉱業所・旭ヶ丘小中学校・羽幌綜合建設(株)があった。

学校は昭和26年2月1日 羽幌町立曙小学校分教場として開校し、この年の12月1日 羽幌町立旭ヶ丘小学校として独立した。

羽幌炭砿の本砿として従業員の子弟が急増し、昭和28年4月には6学級編成になった。
昭和33年1月16日 中学校が新設され、小中併置校となった。

だが、6年後の昭和39年5月24日 原因不明の火災により中学校が焼失してしまった。

この年の9月30日 旭ヶ丘中学校は曙中学校と統合し、新築された統合学校である北辰中学校に移転、分離した。

しかし、炭鉱の閉山により児童の流出が著しく、昭和45年5月時点で13学級463名の児童がいたが、昭和46年5月 3学級47名にまで激減していた。

旭ヶ丘小学校は昭和46年5月31日 閉校した。

一方、統合先の北辰中学校も閉山の影響を受け、昭和45年度当初 8学級272名の生徒数がいたが、昭和46年4月には3学級 34名にまで激減した。

昭和46年5月10日 羽幌砿にあった三毛別地区からの通学生徒がいなくなったため、この年に廃校となった羽幌太陽高等学校校舎(後の曙小学校校舎)に移転した。

移転後の昭和48年4月 2学級編成 各学年3,4名という小規模校へとなってしまう。

昭和50年3月31日 羽幌中学校との統合により閉校となった。

一方、集落も炭鉱閉山により無人集落となってしまった。

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羽幌町曙より、炭鉱で栄えた羽幌砿へ行く途中に北辰中学校校舎はある。

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校門が片方、現存していた。

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校舎は朽ちつつもどうにか、残されている。

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教室は既に取り払われていた。

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しかし、2階へ上がると往時の面影が残されていた。

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卒業生の残した書き込み。

これ以外にも、「あの頃にタイムスリップしました」「なつかしい。校舎がだんだん草におおわれてく!」「思い出を大切にしていきます」等の卒業生の書き込みがあった。

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北辰中学校を後にして、羽幌炭鉱の立坑櫓が見えた。

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立坑櫓から程近いところに旭ヶ丘小学校はあった。
学校はこの先、左手にあった。

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外壁だけとなった炭住が残る。

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旭ヶ丘小学校の跡地は、ここの炭住の裏手にあったようだ。
探訪当時、生憎見つけることが出来なかった。

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かつての建物の基礎が随所に残る。

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これは「健保会館」と呼ばれていた建物の門である。

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その健保会館前には、住宅の煙突が倒れていた。

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傍には浴槽も残っている。

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所々に便槽があるので、足元には注意が必要である。

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羽幌炭鉱立坑櫓の屋上より。
炭鉱街を築き上げた羽幌炭鉱は、開発前の原野に戻ってしまった。

尚、現在は羽幌町の観光案内の一つとして取り上げられ、主要な箇所に案内板が立てられている。

これから紹介するのは、平成27年3月26日に再訪したときのものである。
前回は旭ヶ丘小学校を見つけることができなかったが、今回は航空写真や地形図、そしてSNSを通して知り合った知人と再訪した。

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道道はゲートで閉じられているので、ゲートの先から歩いて探訪した。
早春の羽幌炭鉱堅坑櫓が見えてきた。

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ガソリンスタンドも雪に埋もれていたが、原形を保っている。

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旧道がはっきりと分かる。
知人はかんじきを装着したが、私はツボ足で進む。

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建物の基礎は見ることができないが、人々が暮らしていた痕跡は鮮明に見ることができる。

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前回の調査は、ここで引き返した。
ピンクの外壁の炭鉱住宅の裏が、旭ヶ丘小学校跡地である。

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炭鉱住宅の裏へ廻って見る。
足が冷たくなりつつあるが先に進み、斜面を登る。

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斜面を登ると、右手に基礎が見えた。

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正面を見れば、校舎の基礎や煙突が姿を現した。
旭ヶ丘小学校の校舎跡地である。

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奥には、インターネットの画像検索で見た基礎が残されている。

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間近で見ると、正面玄関ではなさそうだが校舎の一部であることに変わりはない。

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煙突がそのまま残されている。
校舎からは、羽幌炭鉱堅坑櫓を見ることができる。

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正面に見えたこれは校門なのだろうか?

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グラウンドは潅木が生い茂っていた。

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校舎跡地より炭鉱住宅街を見下ろす。

すっかり自然に還ってしまったが、人々が暮らしていた営みを必死に伝えているように思えた。
今回の調査に際し、快く協力してくださった知人に感謝申し上げます。

羽幌町上羽幌

羽幌町上羽幌(平成25年6月9日他探訪)

羽幌町上羽幌は、羽幌町築別炭砿、羽幌砿と並び炭鉱街を形成していた。

上羽幌は明治以来、御料地であったため羽幌御料と呼ばれていた。

明治29年から明治34~35年にかけて30戸近くの入植者がいたが、奥地のため離農するものが後を絶たなかった。

このような状況下であった為、なかなか学校設置認をしなかったが、住民の中には平小学校や、近親者を頼り羽幌小学校へ通わせるものもいた。

明治37年秋 小山与三松は私費で石井景光を教師に迎え自宅を提供し、地域の子弟10数名を集め初歩的な授業を始めた。

明治39年4月16日 苫前郡御料第一簡易教育所として認可され、開校した。

明治41年8月 苫前郡羽幌御料第一教育所と改称。

大正6年4月 羽幌御料尋常小学校と改称。存続期間も延長が認可された。

昭和4年4月 正式に羽幌御料尋常小学校と認可された。

昭和16年 羽幌御料国民学校と改称。

昭和22年4月 羽幌御料小学校と改称。
この年の7月、香川県をはじめ満洲・樺太からの引揚者が昭和26年にかけて入植したが、立地条件が悪かったため離農していった。

同じ昭和22年 羽幌鉱二坑(上羽幌地区)の炭鉱開発が始まり、昭和23年には本坑(羽幌砿区)を合併し、鉱業所を本坑である三毛別に置かれた。

集落は羽幌川の川下に農業集落が、川上に炭鉱集落が形成され、炭鉱集落に神楽台・旭町・柳町・くるみ町・緑町があった。

道道の両側に小中学校、商店、営林署、寺院、郵便局、生協、駐在所、消防署出張所が建ち並んでいた。

昭和25年 朝鮮戦争の勃発に伴い、石炭の需要が急増した。

当然、学校の規模も大きくなり昭和34年には12学級を数えた。

昭和26年12月 上羽幌中学校(2学級)を併置した。

昭和28年6月 羽幌町立上羽幌小学校と改称。

その後、炭鉱の発展と共に児童生徒数も増加の一途をたどり、多い時で小中学級あわせて18学級にもなった。

しかし、昭和45年11月 羽幌炭鉱の閉山に伴い、児童生徒数も激減した。

昭和46年10月 羽幌中央小学校に統合され、廃校となった。

現在は既存の農家が数戸住まわれている高度過疎集落である。

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平成23年10月20日撮影 上羽幌緑町上炭鉱住宅。
この時、久しぶりに上羽幌を訪れたが、炭鉱住宅が朽ち果てており驚いた。

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道路を挟み、上羽幌緑町下炭鉱住宅。外壁だけしか残っていない。

イメージ (70)
平成14年10月13日撮影 上羽幌緑町下炭鉱住宅。
この時は朽ちながらも屋根があり、往時の面影を残していた。

イメージ (71)
上羽幌緑町炭鉱住宅。上か下かは不明である。

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平成25年6月9日 上羽幌小学校跡地を久しぶりに訪れた。
やがて、崩れた校舎の一部が見えた。

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近くには煙突がある。

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学校の基礎が見えた。
一枚では収まりきらない。それだけ大きな校舎であった。

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春先に行けば全容が判るかもしれないが、草木が茂っていたため全容を撮ることはできなかった。

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別な角度より。草木が邪魔をして全体を撮ることはできない。

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落ちていた「スクールゾーン」の看板。
ここに子どもたちが通っていた、唯一の証である。

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学校より奥の風景。
人々の暮らした営みは、既に無くなっていた。

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学校より手前の風景。
学校は自然に帰り、集落は既存の農家しかいない、高度過疎集落になってしまった。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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