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遠別町正修

遠別町正修(平成25年6月8日探訪)

道道688号 名寄遠別線の最も奥にあった集落である。

手前の大成集落よりもさらに奥。行き交う車や人は全くいない、文字通り「誰もいない」集落である。


正修の入植は、大正6年3月28日 柳井作松氏、父友太郎氏が最初の入植者であった。

大正7年 雨竜郡より石川長三郎、高橋卯右エ門、渡部介四郎の三氏が入植した。

学校創立は大正11年、渡部介四郎氏の納屋10坪を借りて私設教育所として開校した。

開校当時の戸数は12戸であった。
教員は入植した渡部与平、柳井作松、石川徳美の三氏が交代で行なっていた。

大正15年4月1日 中央遠別尋常小学校所属教育所として正式な認可を得た。

昭和9年4月12日 聖修尋常小学校と改称、昭和10年4月1日 聖修青年学校を併置。

昭和16年 正修国民学校と改称し、昭和24年4月1日 正修小学校となった。

中学校は昭和38年4月1日付で併置となった。

昭和43年10月30日 集落解散により廃校となった。


正修は当初「聖修」と表記していた。
しかし昭和14年の字名改正により「村内を通し有識階級のもの多きところより「ヒジリ」を修むるが字句解し難く「聖修」を「正修」に改めたるに過ぎず」となり「正修」になった。


正修の集落は非常に厳しい環境下であった。

昭和8年当時、集落は15戸(106名)であった。戸数のピークは昭和17年の18戸を境に減少していく。

戸数減少の背景として、遠別町史第二巻では「昭和40年当初、国の食料余りから、生産調整に入り、まず主食の米作りに規制措置が布かれ、多くの住民はこの地から去った。」と書かれているが、実情は「正修校と部落の歩み」の「廃校に当って」に記されている。

その件を引用すると「戦後の復興が進み交通機関の発達につれて原野各部落の間は営農に、生活面に多きな格差を生じたことが当然の事として部落解散と学校の廃校をもたらしたものと思われる。人工衛星の利用される今日において今尚冬ともなれば交通は遮断され、一度重病人でも発生すると生命も保証されぬ現状では生存権すら保持できないのである…(中略)戸数3戸となった現在到底部落構成も不可能との判断に立ち秋には全戸下山するとの合議は10月31日を以て学校も廃校にすると9月町議会での確認となったのである。」と記されている。

それを裏付ける件として「正修ならでは」という項目があるが、特筆すべき事柄として冬の正修の実情が紹介されている。

「43年1月分俸給受領での忘れえぬ体験である。ブルによる除雪も年内は確保されたが正月を迎えると全く姿を見せず中旬の吹雪は完全に道を没していた。(中略)方々で寄り道し学校へ4Kの地点で下車したときは3時半、前面を見るにスキーの通った跡のみ以前のまゝであった。大成校迄は多少の足跡もあるが一歩それると腰迄没する中を元気であった妻も次第に疲労の色濃く荷物を軽くするも効なく大成最後の民家で小休止(中略)7時に残る4Kの更に深雪の道へ入るも全身疲労の身は遂に「四つんばい」を交え出し道さえ良ければ1時間の行程が30米進んでは「ワラ靴」の点検を追いつくのを待つやら(中略)ようやく学校の最後の坂に来た時は10時30分であった。之から先は一気にと最後の力をつけるべくすっかり凍った握り飯を食べて気力で学校へ辿りついたのはそれより1時間後であった(後略)。」

戸数の推移をまとめてみる。

大正11年 12戸      昭和22年 10戸
昭和16年 17戸      昭和23年  9戸
昭和17年 18戸      昭和33年  8戸
昭和18年 14戸      昭和35年  6戸
昭和19年 13戸      昭和42年  4戸
昭和20年 12戸      昭和43年  3戸

集落解散に至った経緯について町教委の 宇野 治氏はこう話す。

「正修の閉校記念誌がすべてを物語っている。遠別川の最上流部に位置し、標高も高いことから雪解けも遅く、原野の集落(久光・中央・共栄・東野・大成)との格差もあっただろうし、平坦な土地は僅かしかない…。」

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事前情報収集として、平成25年5月8日 遠別町郷土資料館(旧丸松小学校校舎)を訪ねた。

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郷土資料館の展示物の中に、正修小中学校の閉校記念誌があった。
許可を得て、撮影したものである。
上記のエピソードは、この冊子に記載されていたものを転載した。

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そして1ヵ月後の6月8日、町教委の宇野 治氏、中島裕司氏らと同行して探した。
離村から40年以上たち、自然と同化している。

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正修集落跡地を通り抜け、現 道道688号 名寄遠別線の工事現場まで来てしまった。
幌加内町蕗の台と繋がる予定だが、地盤が軟弱であるため土砂崩れが度々発生し、工事はなかなか捗っていないようだ。

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正修トンネル(蕗の台側)。内部は電気も無く真っ暗である。

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景色はいいが、完成したらどれだけの車両が通行するのだろうか。

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景色を楽しみつつ「学校跡はどこにあったのでしょうねぇ」と話し合う。

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よく見れば、所々に平坦な土地がある。
平坦な土地が、唯一の痕跡である。

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建物の基礎すら無い。本当に地名だけ残ってしまった廃村である。

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そうこうするうち、該当箇所を見つけた。
大成・正修の境目に位置する「念仏峠」を下って1キロくらい進んだ地点である。

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ヤブがひどいので、のり面をよじ登ることにした。

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のり面をよじ登った先には、旧道があった。
宇野氏も「間違いない、学校はこのあたりにあった」と言った。

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道路標識もそのまま残されている。

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そして、学校跡地を見つけた。

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傍に、不自然な「丸太」が朽ちつつ転がっていた。
宇野氏はこう言った。

「この朽ちた丸太が、正修小中学校跡地に建てた木碑だ…。倒れてしまったか…」

宇野氏は昭和59年 正修小中学校跡地に木碑を建てた方の一人である。

宇野氏はさらに言う。
「学校跡は平成初期に、道道名寄遠別線の道路工事で消えてしまった。校舎の奥に神社があった…。」

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学校跡地より、木碑があった場所を望む。
学校唯一の痕跡は、校舎脇の大木しかない。

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改めて、正修集落を望む。
卒業生総数 小学校90名 中学校5名のへき地等級 5級の学校だった。

今回の調査にあたり、遠別町教委の宇野 治氏、中島裕司氏、留萌建設部遠別出張所 桜井 朝輝氏、深川市 大西 慎一氏、「学舎の風景」piro氏、A.D.1600氏、ラオウ氏、呑んべえ@道北氏、「digstyle」猫爺氏に感謝申し上げます。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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