美唄市東美唄
美唄市東美唄(平成18年10月28日・平成24年5月4日・平成26年6月7日探訪)
美唄市東美唄町一帯は炭鉱で栄えた地域である。
「地域」と書いたのは「集落」よりも規模が大きいためである。
三菱美唄炭鉱は明治27年 黒柳金次郎が鉱業権を取得したことに始まった。
明治44年11月 美唄鉱区係争事件が発生するが、黒柳が勝訴し鉱区は飯田延太郎に移る。
大正2年 飯田美唄炭鉱として開業。
大正4年 三菱合名会社が買収。買収に伴い、三菱美唄炭鉱となる。
昭和40年 美唄炭鉱株式会社と変更。
昭和48年 閉山。
炭鉱の開坑とともに住民も増え、学校が建てられた。
ここでは、学校が複数あることからそれぞれ各学校の沿革を別表に記す。
美唄市立旭小学校(美唄市東美唄町旭台)
大正9年12月 沼東尋常高等小学校旭台分教場として開校
昭和12年4月 旭尋常小学校として独立。
昭和16年4月 旭国民学校と変更。
昭和22年4月 旭小学校と変更。
昭和45年9月 閉校。(炭鉱の規模縮小に伴う住民転出のため閉校)
美唄市立沼東小学校(美唄市東美唄町我路の沢)
明治39年 現在の盤の沢町に簡易教育所として開校。
大正3年12月 現在の盤の沢町滝の上に校舎移転し、我路尋常小学校と変更。
大正4年9月 現在の我路町菊水に校舎移転する。
大正7年4月 沼東尋常小学校と名称変更する。同月に高等科を併置。
大正7年 現在地(我路の沢)に校舎移転する。
大正9年12月 旭台分教場(後の旭小学校)設置。
昭和16年4月 沼東国民学校と名称変更。
昭和22年4月 沼東小学校と名称変更。
昭和49年3月 閉校。
美唄市立沼東中学校(美唄市東美唄町番町)
昭和22年5月 開校。
昭和25年1月 美唄高等学校東分校(後の沼東高等学校)併置。
昭和27年11月 美唄高等学校東分校独立。
昭和48年3月 閉校。
美唄市立常盤小学校(美唄市東美唄町常盤台)
大正9年12月 常盤尋常小学校として開校。
昭和16年4月 常盤国民学校と名称変更。
昭和21年4月 高等科を併置。
昭和22年4月 常盤小学校と名称変更。
昭和47年11月 休校
昭和48年3月 閉校。
美唄市立常盤中学校(美唄市東美唄町常盤台)
昭和22年5月 開校。
昭和47年11月 休校。
昭和48年3月 閉校。
ここで、各学校の閉校当時の新聞記事を掲載する。
〝永久〟に消える…常盤小・中学校々舎
「大正9年12月開校以来53年の校史に輝いた常盤小学校。昭和22年5月開校、26年の校史を閉じた常盤中学校々舎はこのほど公売に附され、いま落札業者によって解体作業はすすめられている。父兄も児童~生徒の姿はまったくなく、常盤台から由緒ふかい学び舎は永久に静かに、ひっそりときえていく。美唄炭砿閉山のさびしさを今さらながらひしひしと湛えて…。」(『美唄新報』昭和48年6月5日)
半世紀の歴史に幕 美唄・旭小 声つまらせる校長 児童、立派に最後の校歌
「美唄炭砿の企業縮小に伴う市立旭小(東美唄町旭台、浜栄三郎校長)の閉校式が9月30日、同校体育館で行われた。涙で声をつまらせる浜校長と転校先の夕張などから〝里帰り〟して元気いっぱいに最後の校歌を斉唱する子供たち―そんな対照的な光景の中で同校半世紀の歴史を閉じた。
同校は大正9年、美唄町立沼東尋常高等小学校旭台分教場として美唄炭砿二坑(当時三菱美唄炭砿)の炭住街で創立、昭和12年から町立旭尋常小学校として独立した。これまでに2352人の卒業生を送り出し、放送教育や子供郵便局で表彰されたり、テレビ番組に出演(38年、NHK『魔法のじゅうたん』したこともある。
児童数は26年の20学級830人をピークに、36年ごろまでは600人前後を保っていたが、炭鉱斜陽化とともに激減、ことしは6学級146人に落ち込んでいた。そこへ美唄炭砿の企業縮小。旭台は清水台、二の沢とともに居住区が整理され、炭住は取りこわされることになったため廃校が決まった。
鉱員の三菱南大夕張砿への配転や〝山内移住〟、退職、転職などとともに児童もどんどん転校し、29日は3人の児童だけになったが、この日の閉校式には夕張南部小へ転校した40人をはじめ、市内の転校先(同じヤマの常盤、沼東両小学校や東明小)からも児童がかけつけ、全部で85人出席した。父母も夕張から来た15人を含め約40人が出席。
『ついこの間までは…会えてうれしい…45年9月30日は忘れられない日…現実の厳しさに…』浜校長は涙で何度も絶句。父母たちもハンカチで目がしらを押さえていたが、子供たちは閉校の寂しさよりも久しぶりに仲間と会えた喜びでいっぱい。市、市議会、市教委、空知教育局の関係者が次々に述べるあいさつを寒そうに聞いていたが『校歌斉唱』といわれてサッと立ち、久しぶりにメンバーのそろった鼓笛隊の演奏に合わせて『緑やにしき、白銀と…熊笹わけたツルハシの、歴史も遠いこの砿山(ヤマ)に、そびえる旭小学校』。あどけない表情で力いっぱい歌っていた。」(『北海道新聞南空知版』 昭和45年10月2日)
校歌胸に刻んで 沼東中 閉山に勝てず閉校式
「三菱美唄炭砿の閉山で生徒数が激減した沼東中学校の閉校式が25日、同校体育館で行われ、26年の歴史を閉じた。同校は22年5月1日市街地から約8キロ離れた山奥の東美唄町一角に開設された。生徒の9割が炭鉱家庭の子弟で、37年には1252人、25学級の大規模校にまでふくれ上がったが、炭鉱の合理化、縮小などで生徒数は年々減り、昨年春の三菱美唄砿の閉山でついに同年10月にはわずか46人となった。このため市教委は閉校を決め新学期から東明中などに吸収統合することにした。
11日には最後の卒業式が行われ21人の生徒が思い出の校舎を後にした。そして25日は閉校式。沢田市長はじめ市議会、市教委、PTA関係者が、在校生25人と阿部正晴校長以下9人の先生ともども校舎とのお別れ式をした。沢田市長は「学校はなくなるが、校歌はいつまでも忘れないだろう。それは魂の一つだから」と励ました。最後にみんなで「蛍の光」を合唱、万感胸の中に式を終えたが、この後PTA解散式が則安正治会長ら44人全員が出席して催された。
なお新学期から在校生25人は東明中に20人(2年6人、3年14人)美唄中に3人、残る2人は市外に転校する。
また市教委は市内転校生の通学定期券代を全額補助することにしている。」(『北海道新聞空知・夕張版』昭和48年3月27日)
炭鉱メモリアル森林公園。現存する立坑櫓は平成2年、三菱南大夕張炭鉱(株)が補修して寄贈したものである。
平成24年5月、探索仲間と清水台地区を訪れた。
清水台地区道中より、周辺の風景。
清水台地区へ行くと、建物(住宅)の基礎が至る所に残っている。
清水台地区の浴場跡。
春先でないと、探訪は難しい。
「鮮魚」と書かれた白いタイルが目を惹く。
商店街跡だろうか?
その傍に「清水台」と書かれた看板の破片を見つけた。
近くにはホーローでできたパレッドが落ちていた。惣菜屋だろうか?
さらに足を運ぶと、住宅(便槽?)の基礎が残されている。
住宅の屋根の一部が朽ちつつも残っていた。
大きな基礎が目を惹く。
麓からだいぶ登って行った場所にある。
焼却炉のようなものが残っていた。
玄関部分と大きな基礎が残っている。
一同「何の建物だったんでしょうかねぇ」と言いながら進む。
煙突の基礎が門の如く佇んでいる。
清水台を下り、案内板を見る。
往時の写真と、現存する炭鉱施設が表示されている。
ここから先は、平成26年6月に合同調査で訪れたときのものである。
沼東中学校体育館は、スキー場の休憩所として転用されている。
傍に、沼東中学校跡を示す石碑が建立されている。
番町の風景。
現在はスキー場となってしまったが、昭和31年頃より三菱美唄炭鉱で勤務していた知人に話を伺うと「往時は職員住宅が建ちならんでいた」とのことである。
さらに「番町の山を越えたところにも炭鉱が操業していた」と証言するが、名称等は不明である。
スキー場の近くにある資料館へ足を運ぶ。
部落別運動会リレーの優勝旗(常盤小学校)である。
これも、常盤小学校の優勝旗である。
これは沼東小学校の校旗である。
常盤台地区に残る馬頭観音像の台座。
常盤台地区にずっと残っていたが、雪により観音像が落ちてしまった。
知人に話を聞くと「馬頭さんは俺が働き始めた頃から既にあった」そうである。
平成18年10月に撮影した馬頭観音像。
常盤小学校周辺の風景。
「周辺の」と書いたが、実際は露天掘りで発生した残土により地形が大きく変わってしまった。
この後、旭小学校跡地も訪ねようとしたが、立入禁止のため引き返した。
続いて、沼東小学校へ足を運ぶ。
「円形校舎」と呼ばれているが、厳密には十四角形である。(注1)
近くには体育館が骨組み状態で残っている。
テレビ番組で幾度となく取り上げられ、注目を集めているが老朽化は進んでいる。
真新しい立入禁止の看板を見て、これ以上は進まなかった。
沼東小学校周辺(我路ノ沢)の風景。
炭砿とともに発展した東美唄町一体は、自然に還ってしまっていた。
(注1)
「一期分は8月に完成 十四角形のモダン校舎 沼東小の新築工事進む」『北海道新聞空知版南部』
「総工費1億円、全工期を33年度から3カ年以上3期間という計画で着工した市立沼東小の鉄筋コンクリート14角形3階建校舎の新築工事は、昨年10月から引き続いて現在第1棟校舎の約40パーセントという進行ぶり。完成までにはあと3年ほどかかるが、この山峡には一見不釣り合いともみえるモダンな校舎が完成の暁には市内はもとより近隣市町村を通じても〝名物〟の一つに数えられると関係者間で期待されている。」とある。北海道新聞「一期分は8月に完成 十四角形のモダン校舎 沼東小の新築工事進む」『北海道新聞空知版南部』昭和34年5月14日
参考・引用文献
美唄市史編さん委員会1970『美唄市史』美唄市役所
美唄市百年史編さん委員会1991『美唄市百年史』美唄市
北海道新聞1959「一期分は8月に完成 十四角形のモダン校舎 沼東小の新築工事進む」『北海道新聞空知版南部』5月14日
北海道新聞1970「半世紀の歴史に幕 美唄・旭小 声つまらせる校長 児童、立派に最後の校歌」『北海道新聞南空知版』10月2日
北海道新聞1973「校歌胸に刻んで 沼東中 閉山に勝てず閉校式」『北海道新聞空知・夕張版』3月27日
美唄新報社1973「〝永久〟に消える…常盤小・中学校々舎」『美唄新報』6月5日
証言者 S・T氏
美唄市東美唄町一帯は炭鉱で栄えた地域である。
「地域」と書いたのは「集落」よりも規模が大きいためである。
三菱美唄炭鉱は明治27年 黒柳金次郎が鉱業権を取得したことに始まった。
明治44年11月 美唄鉱区係争事件が発生するが、黒柳が勝訴し鉱区は飯田延太郎に移る。
大正2年 飯田美唄炭鉱として開業。
大正4年 三菱合名会社が買収。買収に伴い、三菱美唄炭鉱となる。
昭和40年 美唄炭鉱株式会社と変更。
昭和48年 閉山。
炭鉱の開坑とともに住民も増え、学校が建てられた。
ここでは、学校が複数あることからそれぞれ各学校の沿革を別表に記す。
美唄市立旭小学校(美唄市東美唄町旭台)
大正9年12月 沼東尋常高等小学校旭台分教場として開校
昭和12年4月 旭尋常小学校として独立。
昭和16年4月 旭国民学校と変更。
昭和22年4月 旭小学校と変更。
昭和45年9月 閉校。(炭鉱の規模縮小に伴う住民転出のため閉校)
美唄市立沼東小学校(美唄市東美唄町我路の沢)
明治39年 現在の盤の沢町に簡易教育所として開校。
大正3年12月 現在の盤の沢町滝の上に校舎移転し、我路尋常小学校と変更。
大正4年9月 現在の我路町菊水に校舎移転する。
大正7年4月 沼東尋常小学校と名称変更する。同月に高等科を併置。
大正7年 現在地(我路の沢)に校舎移転する。
大正9年12月 旭台分教場(後の旭小学校)設置。
昭和16年4月 沼東国民学校と名称変更。
昭和22年4月 沼東小学校と名称変更。
昭和49年3月 閉校。
美唄市立沼東中学校(美唄市東美唄町番町)
昭和22年5月 開校。
昭和25年1月 美唄高等学校東分校(後の沼東高等学校)併置。
昭和27年11月 美唄高等学校東分校独立。
昭和48年3月 閉校。
美唄市立常盤小学校(美唄市東美唄町常盤台)
大正9年12月 常盤尋常小学校として開校。
昭和16年4月 常盤国民学校と名称変更。
昭和21年4月 高等科を併置。
昭和22年4月 常盤小学校と名称変更。
昭和47年11月 休校
昭和48年3月 閉校。
美唄市立常盤中学校(美唄市東美唄町常盤台)
昭和22年5月 開校。
昭和47年11月 休校。
昭和48年3月 閉校。
ここで、各学校の閉校当時の新聞記事を掲載する。
〝永久〟に消える…常盤小・中学校々舎
「大正9年12月開校以来53年の校史に輝いた常盤小学校。昭和22年5月開校、26年の校史を閉じた常盤中学校々舎はこのほど公売に附され、いま落札業者によって解体作業はすすめられている。父兄も児童~生徒の姿はまったくなく、常盤台から由緒ふかい学び舎は永久に静かに、ひっそりときえていく。美唄炭砿閉山のさびしさを今さらながらひしひしと湛えて…。」(『美唄新報』昭和48年6月5日)
半世紀の歴史に幕 美唄・旭小 声つまらせる校長 児童、立派に最後の校歌
「美唄炭砿の企業縮小に伴う市立旭小(東美唄町旭台、浜栄三郎校長)の閉校式が9月30日、同校体育館で行われた。涙で声をつまらせる浜校長と転校先の夕張などから〝里帰り〟して元気いっぱいに最後の校歌を斉唱する子供たち―そんな対照的な光景の中で同校半世紀の歴史を閉じた。
同校は大正9年、美唄町立沼東尋常高等小学校旭台分教場として美唄炭砿二坑(当時三菱美唄炭砿)の炭住街で創立、昭和12年から町立旭尋常小学校として独立した。これまでに2352人の卒業生を送り出し、放送教育や子供郵便局で表彰されたり、テレビ番組に出演(38年、NHK『魔法のじゅうたん』したこともある。
児童数は26年の20学級830人をピークに、36年ごろまでは600人前後を保っていたが、炭鉱斜陽化とともに激減、ことしは6学級146人に落ち込んでいた。そこへ美唄炭砿の企業縮小。旭台は清水台、二の沢とともに居住区が整理され、炭住は取りこわされることになったため廃校が決まった。
鉱員の三菱南大夕張砿への配転や〝山内移住〟、退職、転職などとともに児童もどんどん転校し、29日は3人の児童だけになったが、この日の閉校式には夕張南部小へ転校した40人をはじめ、市内の転校先(同じヤマの常盤、沼東両小学校や東明小)からも児童がかけつけ、全部で85人出席した。父母も夕張から来た15人を含め約40人が出席。
『ついこの間までは…会えてうれしい…45年9月30日は忘れられない日…現実の厳しさに…』浜校長は涙で何度も絶句。父母たちもハンカチで目がしらを押さえていたが、子供たちは閉校の寂しさよりも久しぶりに仲間と会えた喜びでいっぱい。市、市議会、市教委、空知教育局の関係者が次々に述べるあいさつを寒そうに聞いていたが『校歌斉唱』といわれてサッと立ち、久しぶりにメンバーのそろった鼓笛隊の演奏に合わせて『緑やにしき、白銀と…熊笹わけたツルハシの、歴史も遠いこの砿山(ヤマ)に、そびえる旭小学校』。あどけない表情で力いっぱい歌っていた。」(『北海道新聞南空知版』 昭和45年10月2日)
校歌胸に刻んで 沼東中 閉山に勝てず閉校式
「三菱美唄炭砿の閉山で生徒数が激減した沼東中学校の閉校式が25日、同校体育館で行われ、26年の歴史を閉じた。同校は22年5月1日市街地から約8キロ離れた山奥の東美唄町一角に開設された。生徒の9割が炭鉱家庭の子弟で、37年には1252人、25学級の大規模校にまでふくれ上がったが、炭鉱の合理化、縮小などで生徒数は年々減り、昨年春の三菱美唄砿の閉山でついに同年10月にはわずか46人となった。このため市教委は閉校を決め新学期から東明中などに吸収統合することにした。
11日には最後の卒業式が行われ21人の生徒が思い出の校舎を後にした。そして25日は閉校式。沢田市長はじめ市議会、市教委、PTA関係者が、在校生25人と阿部正晴校長以下9人の先生ともども校舎とのお別れ式をした。沢田市長は「学校はなくなるが、校歌はいつまでも忘れないだろう。それは魂の一つだから」と励ました。最後にみんなで「蛍の光」を合唱、万感胸の中に式を終えたが、この後PTA解散式が則安正治会長ら44人全員が出席して催された。
なお新学期から在校生25人は東明中に20人(2年6人、3年14人)美唄中に3人、残る2人は市外に転校する。
また市教委は市内転校生の通学定期券代を全額補助することにしている。」(『北海道新聞空知・夕張版』昭和48年3月27日)
炭鉱メモリアル森林公園。現存する立坑櫓は平成2年、三菱南大夕張炭鉱(株)が補修して寄贈したものである。
平成24年5月、探索仲間と清水台地区を訪れた。
清水台地区道中より、周辺の風景。
清水台地区へ行くと、建物(住宅)の基礎が至る所に残っている。
清水台地区の浴場跡。
春先でないと、探訪は難しい。
「鮮魚」と書かれた白いタイルが目を惹く。
商店街跡だろうか?
その傍に「清水台」と書かれた看板の破片を見つけた。
近くにはホーローでできたパレッドが落ちていた。惣菜屋だろうか?
さらに足を運ぶと、住宅(便槽?)の基礎が残されている。
住宅の屋根の一部が朽ちつつも残っていた。
大きな基礎が目を惹く。
麓からだいぶ登って行った場所にある。
焼却炉のようなものが残っていた。
玄関部分と大きな基礎が残っている。
一同「何の建物だったんでしょうかねぇ」と言いながら進む。
煙突の基礎が門の如く佇んでいる。
清水台を下り、案内板を見る。
往時の写真と、現存する炭鉱施設が表示されている。
ここから先は、平成26年6月に合同調査で訪れたときのものである。
沼東中学校体育館は、スキー場の休憩所として転用されている。
傍に、沼東中学校跡を示す石碑が建立されている。
番町の風景。
現在はスキー場となってしまったが、昭和31年頃より三菱美唄炭鉱で勤務していた知人に話を伺うと「往時は職員住宅が建ちならんでいた」とのことである。
さらに「番町の山を越えたところにも炭鉱が操業していた」と証言するが、名称等は不明である。
スキー場の近くにある資料館へ足を運ぶ。
部落別運動会リレーの優勝旗(常盤小学校)である。
これも、常盤小学校の優勝旗である。
これは沼東小学校の校旗である。
常盤台地区に残る馬頭観音像の台座。
常盤台地区にずっと残っていたが、雪により観音像が落ちてしまった。
知人に話を聞くと「馬頭さんは俺が働き始めた頃から既にあった」そうである。
平成18年10月に撮影した馬頭観音像。
常盤小学校周辺の風景。
「周辺の」と書いたが、実際は露天掘りで発生した残土により地形が大きく変わってしまった。
この後、旭小学校跡地も訪ねようとしたが、立入禁止のため引き返した。
続いて、沼東小学校へ足を運ぶ。
「円形校舎」と呼ばれているが、厳密には十四角形である。(注1)
近くには体育館が骨組み状態で残っている。
テレビ番組で幾度となく取り上げられ、注目を集めているが老朽化は進んでいる。
真新しい立入禁止の看板を見て、これ以上は進まなかった。
沼東小学校周辺(我路ノ沢)の風景。
炭砿とともに発展した東美唄町一体は、自然に還ってしまっていた。
(注1)
「一期分は8月に完成 十四角形のモダン校舎 沼東小の新築工事進む」『北海道新聞空知版南部』
「総工費1億円、全工期を33年度から3カ年以上3期間という計画で着工した市立沼東小の鉄筋コンクリート14角形3階建校舎の新築工事は、昨年10月から引き続いて現在第1棟校舎の約40パーセントという進行ぶり。完成までにはあと3年ほどかかるが、この山峡には一見不釣り合いともみえるモダンな校舎が完成の暁には市内はもとより近隣市町村を通じても〝名物〟の一つに数えられると関係者間で期待されている。」とある。北海道新聞「一期分は8月に完成 十四角形のモダン校舎 沼東小の新築工事進む」『北海道新聞空知版南部』昭和34年5月14日
参考・引用文献
美唄市史編さん委員会1970『美唄市史』美唄市役所
美唄市百年史編さん委員会1991『美唄市百年史』美唄市
北海道新聞1959「一期分は8月に完成 十四角形のモダン校舎 沼東小の新築工事進む」『北海道新聞空知版南部』5月14日
北海道新聞1970「半世紀の歴史に幕 美唄・旭小 声つまらせる校長 児童、立派に最後の校歌」『北海道新聞南空知版』10月2日
北海道新聞1973「校歌胸に刻んで 沼東中 閉山に勝てず閉校式」『北海道新聞空知・夕張版』3月27日
美唄新報社1973「〝永久〟に消える…常盤小・中学校々舎」『美唄新報』6月5日
証言者 S・T氏